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後宮の失踪者
夜、宦官は帝姫に伴われる③
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もちろん思い立ってすぐ行動、というわけにはいかない。さすがの銀月も噂を聞いた直後に動きを見せれば目ざとい翠明が見逃すはずはないと踏み、お忍びの決行日は囲碁を打った夜から数えて五日目の月が細い夜となった。
その夜は白狼との対局を速めに切り上げて早々に床につくと言った姫君を寝かしつけ、翠明はとても満足げであった。ここのところ毎晩白狼と夜更かしをしていることを、さぞ暇をしているだろうからと黙認しているとはいえ気にかけていたのだ。
「白狼のあのなりですし、姫様もよく弁えていらっしゃるとはいえ、やはり連日というのはねぇ……」
翠明は一人ごちて銀月の部屋を後にした。
年嵩の侍女頭が去っていく後姿を、白狼は中庭に面した姫君の寝室の縁の下から見送った。
「やはりって、なんだよ全く。ガキのお守りに付き合わされてるのはこっちだっつーの」
自分だって毎回負け越すのに囲碁などに付き合わされるのは甚だ迷惑である。白狼は翠明の背中にべえっと舌を出すと、縁の下からいざり出た。対局が終わって銀月の前から辞した後、自分の寝台に人が寝ている風の細工をして時が来るまでここで隠れていたのだ。
既に服もいつもの宦官服ではなく、動きやすさ重視の暗い色味の胡服に着替えている。
「おい、銀月。支度できたか?」
寝室に向かってそっと声をかければ、応と返事があった。音をたてないように扉を薄く開け、中に体を滑り込ませると確かに寝台を背に銀月が立っている。彼も動きやすさを求めた細身の胡服だ。
「なかなかこれはいいな。袖も裾ももたつかん」
「だろ? 街歩きするときゃこれが一番」
正確には街歩きではなく夜の後宮のお忍び探索ではあるが、銀月は満足そうに笑った。おまねに靴は柔らかい鹿皮製で足音対策もとってある。
「よし、いくぞ」
銀月がそう言うと、ふたつの黒い影は寝室の窓からそうっと抜け出て宮の裏側へと回った。
「見張りとか、居ないかな」
「いるに決まっている。だからなるべく塀の影から出るなよ?」
「はいよ」
夜目の利く白狼が先導して塀を上り辺りを伺う。闇に近いが細い月と各宮から漏れる小さな灯りのおかげで、影が濃くなっているところと薄いところの区別はついた。
よし、いくぞと白狼が身を乗り出そうとすると、突然向かいの宮の塀の影から何か飛び出してきた。ぎょっとして身を縮める白狼を背後から銀月がつつく。目では飛び出してきたものを追いながら、白狼は後ろに向かって待てとささやいた。
物影から出てきたこれまた黒い影は、塀を背にゆっくりと足音をさせないように歩いている。物の怪ではない。人目をはばかるように二足歩行ができるということは、間違いなく人間だ。しかも背の高さから考えれば男だろうか。
しかしここは帝都の宮城、男子禁制のはずの後宮である。背の高い女か、それとも宦官か。黒い影から目を離さないまま、白狼は背後を振り返らずに銀月に告げた。
「誰かいる」
「なんだと?」
「かなり背が高い。この宮の裏って、だれか住んでる?」
「確か今は使われていないはずだが……」
「あ……」
「どうした」
「塀の中、入ってった」
ええ、と暗がりの中銀月が訝し気に首をひねった。
「確かに人か? 物の怪の類ではなく?」
「あたりを気にして抜き足差し足して人んちに忍び込む物の怪なんて聞いたことねえや」
白狼は改めて塀の上に身を乗り出し辺りを伺う。闇に目が慣れて、さっきよりずいぶんと物の見分けがつくようになってきた。見張りの兵もこんな後宮の奥まではあまり来ないようで、手持ちのたいまつの灯りなども遠くに点々と見えるだけだ。
「どうする? 女官の失踪と関係があるかどうかは分からねえけど、見に行くか?」
塀の上から声をかければ、銀月の白い顔が頷いたのが分かった。よしっと白狼は手を伸ばし、銀月を塀の上に引き上げる。
「しかし、夜半に使われていない宮に忍び込むとは……」
塀の上から向かいの宮を睨む銀月が、誰に言うでもなく呟いた。その声音は訝しむようでもあり、憤っているようにも聞こえる。
「俺、こういうの知ってるぞ。こういうところでやるのは大抵、いわゆる闇取引だ」
禁制品となっているものの売買や、若い女や子どもの売買など、普通の商品ではないが裏で需要のある品物は闇取引される。危ない橋は極力避けてきた白狼は手を出したことはないが、同業者のうちにはそういう伝手があるやつも何人かいた。
「宮城内で? 命知らずな」
「逆に見つかりにくいんじゃねえの? 後宮の中なら限られた人間しかいねえし、折よく今は夜間外出禁止令が出てる。後宮の人間っていっても、妃嬪以外は手続きすりゃ外に出たりもできるし、何か持ち込んだり、持ち出したりってことはできなくねえぜ?」
「持ち出しも持ち込みも厳重に管理されているはずなんだが……しかも令を破れば罰則があるぞ」
「罰則を加味したとしても、それほど美味い話なのかもしれねえな。で、どうする? 乗り込むか?」
面白半分に問えば、銀月はそうだなと頷いた。
「今回の目的は宮女の失踪を調べることだが、こっちは不正などの手がかりになるかもしれん。こっそりだぞ」
「要するに、お前退屈してんだろ?」
「悪いか?」
「いや、悪かねぇ」
白狼はにやりと笑って塀を飛び降りた。
その夜は白狼との対局を速めに切り上げて早々に床につくと言った姫君を寝かしつけ、翠明はとても満足げであった。ここのところ毎晩白狼と夜更かしをしていることを、さぞ暇をしているだろうからと黙認しているとはいえ気にかけていたのだ。
「白狼のあのなりですし、姫様もよく弁えていらっしゃるとはいえ、やはり連日というのはねぇ……」
翠明は一人ごちて銀月の部屋を後にした。
年嵩の侍女頭が去っていく後姿を、白狼は中庭に面した姫君の寝室の縁の下から見送った。
「やはりって、なんだよ全く。ガキのお守りに付き合わされてるのはこっちだっつーの」
自分だって毎回負け越すのに囲碁などに付き合わされるのは甚だ迷惑である。白狼は翠明の背中にべえっと舌を出すと、縁の下からいざり出た。対局が終わって銀月の前から辞した後、自分の寝台に人が寝ている風の細工をして時が来るまでここで隠れていたのだ。
既に服もいつもの宦官服ではなく、動きやすさ重視の暗い色味の胡服に着替えている。
「おい、銀月。支度できたか?」
寝室に向かってそっと声をかければ、応と返事があった。音をたてないように扉を薄く開け、中に体を滑り込ませると確かに寝台を背に銀月が立っている。彼も動きやすさを求めた細身の胡服だ。
「なかなかこれはいいな。袖も裾ももたつかん」
「だろ? 街歩きするときゃこれが一番」
正確には街歩きではなく夜の後宮のお忍び探索ではあるが、銀月は満足そうに笑った。おまねに靴は柔らかい鹿皮製で足音対策もとってある。
「よし、いくぞ」
銀月がそう言うと、ふたつの黒い影は寝室の窓からそうっと抜け出て宮の裏側へと回った。
「見張りとか、居ないかな」
「いるに決まっている。だからなるべく塀の影から出るなよ?」
「はいよ」
夜目の利く白狼が先導して塀を上り辺りを伺う。闇に近いが細い月と各宮から漏れる小さな灯りのおかげで、影が濃くなっているところと薄いところの区別はついた。
よし、いくぞと白狼が身を乗り出そうとすると、突然向かいの宮の塀の影から何か飛び出してきた。ぎょっとして身を縮める白狼を背後から銀月がつつく。目では飛び出してきたものを追いながら、白狼は後ろに向かって待てとささやいた。
物影から出てきたこれまた黒い影は、塀を背にゆっくりと足音をさせないように歩いている。物の怪ではない。人目をはばかるように二足歩行ができるということは、間違いなく人間だ。しかも背の高さから考えれば男だろうか。
しかしここは帝都の宮城、男子禁制のはずの後宮である。背の高い女か、それとも宦官か。黒い影から目を離さないまま、白狼は背後を振り返らずに銀月に告げた。
「誰かいる」
「なんだと?」
「かなり背が高い。この宮の裏って、だれか住んでる?」
「確か今は使われていないはずだが……」
「あ……」
「どうした」
「塀の中、入ってった」
ええ、と暗がりの中銀月が訝し気に首をひねった。
「確かに人か? 物の怪の類ではなく?」
「あたりを気にして抜き足差し足して人んちに忍び込む物の怪なんて聞いたことねえや」
白狼は改めて塀の上に身を乗り出し辺りを伺う。闇に目が慣れて、さっきよりずいぶんと物の見分けがつくようになってきた。見張りの兵もこんな後宮の奥まではあまり来ないようで、手持ちのたいまつの灯りなども遠くに点々と見えるだけだ。
「どうする? 女官の失踪と関係があるかどうかは分からねえけど、見に行くか?」
塀の上から声をかければ、銀月の白い顔が頷いたのが分かった。よしっと白狼は手を伸ばし、銀月を塀の上に引き上げる。
「しかし、夜半に使われていない宮に忍び込むとは……」
塀の上から向かいの宮を睨む銀月が、誰に言うでもなく呟いた。その声音は訝しむようでもあり、憤っているようにも聞こえる。
「俺、こういうの知ってるぞ。こういうところでやるのは大抵、いわゆる闇取引だ」
禁制品となっているものの売買や、若い女や子どもの売買など、普通の商品ではないが裏で需要のある品物は闇取引される。危ない橋は極力避けてきた白狼は手を出したことはないが、同業者のうちにはそういう伝手があるやつも何人かいた。
「宮城内で? 命知らずな」
「逆に見つかりにくいんじゃねえの? 後宮の中なら限られた人間しかいねえし、折よく今は夜間外出禁止令が出てる。後宮の人間っていっても、妃嬪以外は手続きすりゃ外に出たりもできるし、何か持ち込んだり、持ち出したりってことはできなくねえぜ?」
「持ち出しも持ち込みも厳重に管理されているはずなんだが……しかも令を破れば罰則があるぞ」
「罰則を加味したとしても、それほど美味い話なのかもしれねえな。で、どうする? 乗り込むか?」
面白半分に問えば、銀月はそうだなと頷いた。
「今回の目的は宮女の失踪を調べることだが、こっちは不正などの手がかりになるかもしれん。こっそりだぞ」
「要するに、お前退屈してんだろ?」
「悪いか?」
「いや、悪かねぇ」
白狼はにやりと笑って塀を飛び降りた。
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