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河西の離宮
邂逅の背面②
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驚いた白狼に、ほんの少し言いにくそうに銀月は続ける。
「まあそれで、お前が持っていた陳の財布の中に八角が入っていたのを見て、毒はシキミにしようと思いついた。何の毒ということにしようか、うまいものを見つけられずに悩んでいたので丁度よくてな」
「……は? てめえ今度こそちょっと待て。あれ、シキミじゃなくて八角だったのかよ!」
「当然だ。翠明も言っていただろう。あんな禁制品、おいそれと出回るものか」
「てことは、定食屋でみんなぶっ倒れてたのは……」
「それは知らん。少なくともお前が売った八角のせいではない」
「死んだとか抜かしてたじゃねえか……」
「それは周に言ってくれ。私の話に乗っかって口走っていたのはあいつだぞ」
しれっと言い放つ銀月に、白狼はゆっくりと腹の息を吐いた。ほっとしたのか、それとも自分を落ち着かせるためか、自分でもよくわからない。
腹は立っていた。しかし本当にこんなに初めからすっかり騙されたのだと分かると、もはや逆にすがすがしい気持ちにすらなってくるなっている。もちろん白狼の側に怒り散らし暴れる体力がないこともあるが。
「まあ、そんなわけで毒がシキミであると噂を流し、向こうの出方を待っていたというわけだ。そうしたらお前が見た通り、御史台が動いた。敵が焦ってくれたのは良かったが、正直あんなに早く動き出すとは思わずこちらが後手に回った感は否めん」
「陳はなんで捕まったんだ」
「犯人役としてあらかじめ目を付けられていたんだろうな。ここしばらく陳の羽振りが良かったというし、それももともと罠だったのかもしれん」
「あのおっさん、馬鹿そうだったもんな……」
「すぐさま動いた監察御史の景の線から探れるかと思ったが、お前が捕まったことでもっと怪しい連中が釣れた。江と、その場にいたもう一人」
ああ、と白狼は頷いた。嗅いだことのない妙なにおいなのに、故郷の厠を思い出させる不思議なやつだ。
「厠っつーかなんていうか、とにかく妙な香だったな。もう一度嗅いだらすぐわかるぜ」
「なるほど。質は良く無さそうだがそれはおそらく麝香が混じっている香なのだろう。麝香が混ざっているものを使えるとなると、それなりに金を持っている者か」
「あれが? 高価な香なのか?」
「そうだ。一介の役人が付けるとは思えん。ということは、その場にいたのは景ではなく別の、もっと高位の者ということだ。金春の自供とも一致する」
ただし、と銀月は首を振った。
「そこまでだ。江が口を封じられ金春も江からしか指示を受けていない。お前はその場にいたやつの顔を見ていない。つまり敵は尻尾を切り落として逃げたというわけだ」
斬られ損かよ、と白狼は肩を竦める。
「しかし香のにおいという手がかりもある。今回の騒動でこちらが警戒していることも釘を刺せただろう。しばらくは大人しくしていてくれるかもしれんな」
でも敵とやらを捕まえるには至らなかった。こんなに綺麗に騙されて、捕まって、しかも斬られた代償としてはあまりにも安い。白狼はそのことが悔しく唇を歪めた。
「俺がもう少しうまく立ち回ってたら、少なくとももっと早く江っておっさん捕まえられたかもしれないのに」
顔を伏せ、握りこぶしで布団を殴る。ぼすっという間抜けな音しかしなかったが、それでも白狼は何度か布団に拳を振り下ろした。
「お前のせいではない」
「もう少し注意してたらあんなところで江に捕まんなかったし、もう少し江から話を引き出すことだってできたかもしれねえし。俺が愚図だったんだ」
「違う。私の責任だ」
あまりにきっぱりと言い切る銀月に白狼は顔を上げた。うっすらと滲む視界の中、銀月が白狼をまっすぐ見つめているのが分かった。
「正直に言おう。私たちはお前を利用しようとしていた」
「……んなの、分かってるけど」
「いや分かっていない。私たちはお前を餌にするつもりだった。場合によってはお前をシキミを持ち込んだ犯人にでっち上げて、敵方を釣り上げることも考えていた。だから私はお前を離宮に招き入れたし、周はお前だけに景を追わせた」
白狼を見つめる銀月の目が揺らいだ。
「あの夕餉の時だってそうだ。陳の妻が膳部の女官ということは昼には分かっていた。おそらく何か仕掛けてくるだろうと、夕餉の時に部屋の外に後宮警備の兵を呼ばせたのは私だ。いざとなったらお前共々捕らえるつもりでな」
「あのとき外にいたのは江の兵じゃなかったのかよ」
「私の身分は皇帝の姫。後宮からしがらみの少ない護衛兵くらい連れてきているぞ。その兵に二人まとめて捕らえさせ、敵方に見せしめにする計画でもあったのだ。それがお前」
白狼は首を傾げた。銀月の肩からふっと力が抜け、表情が苦いものに変わる。
「私の羹を匙ごと食ったな。何であんなことを」
「ああ、だってあれは」
江のいう事を鵜吞みにして、翠明が銀月に毒を盛ろうとしていると思ったから。
咄嗟とはいえ、随分命知らずなことをしたと思っていた所だった。たまたま普通の八角でしかなかったからよかったものの、本当に毒であれば今頃どうなっていたことか。
白狼はいやあ、と頭を掻いた。
「お前、生れてから自分の生き死にを自分で決められないって言ってただろ」
「それが?」
「なんか、さ。俺もそれ、分かるし。生き方決められるようになる前に、毒なんかで死に方だけ勝手に決められたら、嫌だろうなって」
「それで? もしあれが毒ならお前だって」
「そりゃ死ぬのはごめんだけどさ。俺は、ほら、自分で選んだ結果だから」
他人に勝手に殺されるのはごめんだが、自分で選んだ結果なら死に様は自分のものだ。終わるまでの生き方も含め、誰かに譲るなんて許さない。白狼が考えているのはたったそれだけのことだ。
銀月の口から長く、細いため息が漏れた。伏せた頬にかかるまつげの影が心なしかかすかに揺れていた。
「どした?」
「……なんでもない。お前の無鉄砲さに呆れただけだ」
「なんだと、命の恩人だとでも言いやがれ」
「結局はただの勘違いだろう」
よし、と銀月は膝を叩いて立ち上がった。憂いの表情を浮かべていた顔はすっきりとして晴れやかなものになっている。花の様に可憐な姫君ではなく、志を新たにする少年のそれで見つめる銀月は白狼の肩にその手を置いた。
「切れた蜥蜴の尻尾とはいえ、掴んだ手がかりとしては上出来だ。私を狙って動きを見せ始めた今が好機になるやもしれん。帝都に帰る。お前も、ついてこい」
目を見てしっかりと話す銀月に白狼は小さく頷、かなかった。危うく流されそうになって白狼は目を二、三回瞬かせた。
「ちょっと待て、やっぱそれ俺もいくの? つい今さっき、俺の事使い捨てるつもりみたいなこと言ってたじゃねえか」
そう聞けば、銀月は当たり前と言わんばかりに頷いた。
「そなたの秘密を私が知り、私の秘密をそなたが知ったのだから当然だろう。今後お前は私直々に雇ってやるからしっかり働け。姉に仕送りしたいのだろう」
「生きてたらな、って待て。本気かよ。しかも帝都って、帝都のどこだよ!」
「後宮に決まってるだろう」
「後宮って……」
狼狽える白狼に、銀月が口元を隠しながらほほほと笑った。妖艶な微笑みを浮かべるその顔は、どこからどう見ても貴族のお姫様である。白狼の胸にしなだれかかる銀月から漂うものが、高潔な志のそれからたおやかな色香に変わった。
「皇帝に仕える美女千人が住まう、麗しの花園ですわ」
「花園……ねえ」
その花園に、姫君のなりをした皇子が潜んでいるとは誰が知っているだろう。しかも今度は男のなりをした自分まで。ぶるっと白狼の背筋に冷たいものが走る。
「ところでお前さ、そんな美女だらけのとこにいて、大丈夫なわけ? 男だろ?」
言外に忍ばせた意味を察したのかどうか、銀月はふふっと小さく笑った。
「美しく咲き誇る花々には、たいていトゲや毒があるものだ。その根元には毒蛇の群れも、な」
白狼の薄い胸に頬を寄せたまま、銀月は真顔でほほほと笑ったのだった。
「まあそれで、お前が持っていた陳の財布の中に八角が入っていたのを見て、毒はシキミにしようと思いついた。何の毒ということにしようか、うまいものを見つけられずに悩んでいたので丁度よくてな」
「……は? てめえ今度こそちょっと待て。あれ、シキミじゃなくて八角だったのかよ!」
「当然だ。翠明も言っていただろう。あんな禁制品、おいそれと出回るものか」
「てことは、定食屋でみんなぶっ倒れてたのは……」
「それは知らん。少なくともお前が売った八角のせいではない」
「死んだとか抜かしてたじゃねえか……」
「それは周に言ってくれ。私の話に乗っかって口走っていたのはあいつだぞ」
しれっと言い放つ銀月に、白狼はゆっくりと腹の息を吐いた。ほっとしたのか、それとも自分を落ち着かせるためか、自分でもよくわからない。
腹は立っていた。しかし本当にこんなに初めからすっかり騙されたのだと分かると、もはや逆にすがすがしい気持ちにすらなってくるなっている。もちろん白狼の側に怒り散らし暴れる体力がないこともあるが。
「まあ、そんなわけで毒がシキミであると噂を流し、向こうの出方を待っていたというわけだ。そうしたらお前が見た通り、御史台が動いた。敵が焦ってくれたのは良かったが、正直あんなに早く動き出すとは思わずこちらが後手に回った感は否めん」
「陳はなんで捕まったんだ」
「犯人役としてあらかじめ目を付けられていたんだろうな。ここしばらく陳の羽振りが良かったというし、それももともと罠だったのかもしれん」
「あのおっさん、馬鹿そうだったもんな……」
「すぐさま動いた監察御史の景の線から探れるかと思ったが、お前が捕まったことでもっと怪しい連中が釣れた。江と、その場にいたもう一人」
ああ、と白狼は頷いた。嗅いだことのない妙なにおいなのに、故郷の厠を思い出させる不思議なやつだ。
「厠っつーかなんていうか、とにかく妙な香だったな。もう一度嗅いだらすぐわかるぜ」
「なるほど。質は良く無さそうだがそれはおそらく麝香が混じっている香なのだろう。麝香が混ざっているものを使えるとなると、それなりに金を持っている者か」
「あれが? 高価な香なのか?」
「そうだ。一介の役人が付けるとは思えん。ということは、その場にいたのは景ではなく別の、もっと高位の者ということだ。金春の自供とも一致する」
ただし、と銀月は首を振った。
「そこまでだ。江が口を封じられ金春も江からしか指示を受けていない。お前はその場にいたやつの顔を見ていない。つまり敵は尻尾を切り落として逃げたというわけだ」
斬られ損かよ、と白狼は肩を竦める。
「しかし香のにおいという手がかりもある。今回の騒動でこちらが警戒していることも釘を刺せただろう。しばらくは大人しくしていてくれるかもしれんな」
でも敵とやらを捕まえるには至らなかった。こんなに綺麗に騙されて、捕まって、しかも斬られた代償としてはあまりにも安い。白狼はそのことが悔しく唇を歪めた。
「俺がもう少しうまく立ち回ってたら、少なくとももっと早く江っておっさん捕まえられたかもしれないのに」
顔を伏せ、握りこぶしで布団を殴る。ぼすっという間抜けな音しかしなかったが、それでも白狼は何度か布団に拳を振り下ろした。
「お前のせいではない」
「もう少し注意してたらあんなところで江に捕まんなかったし、もう少し江から話を引き出すことだってできたかもしれねえし。俺が愚図だったんだ」
「違う。私の責任だ」
あまりにきっぱりと言い切る銀月に白狼は顔を上げた。うっすらと滲む視界の中、銀月が白狼をまっすぐ見つめているのが分かった。
「正直に言おう。私たちはお前を利用しようとしていた」
「……んなの、分かってるけど」
「いや分かっていない。私たちはお前を餌にするつもりだった。場合によってはお前をシキミを持ち込んだ犯人にでっち上げて、敵方を釣り上げることも考えていた。だから私はお前を離宮に招き入れたし、周はお前だけに景を追わせた」
白狼を見つめる銀月の目が揺らいだ。
「あの夕餉の時だってそうだ。陳の妻が膳部の女官ということは昼には分かっていた。おそらく何か仕掛けてくるだろうと、夕餉の時に部屋の外に後宮警備の兵を呼ばせたのは私だ。いざとなったらお前共々捕らえるつもりでな」
「あのとき外にいたのは江の兵じゃなかったのかよ」
「私の身分は皇帝の姫。後宮からしがらみの少ない護衛兵くらい連れてきているぞ。その兵に二人まとめて捕らえさせ、敵方に見せしめにする計画でもあったのだ。それがお前」
白狼は首を傾げた。銀月の肩からふっと力が抜け、表情が苦いものに変わる。
「私の羹を匙ごと食ったな。何であんなことを」
「ああ、だってあれは」
江のいう事を鵜吞みにして、翠明が銀月に毒を盛ろうとしていると思ったから。
咄嗟とはいえ、随分命知らずなことをしたと思っていた所だった。たまたま普通の八角でしかなかったからよかったものの、本当に毒であれば今頃どうなっていたことか。
白狼はいやあ、と頭を掻いた。
「お前、生れてから自分の生き死にを自分で決められないって言ってただろ」
「それが?」
「なんか、さ。俺もそれ、分かるし。生き方決められるようになる前に、毒なんかで死に方だけ勝手に決められたら、嫌だろうなって」
「それで? もしあれが毒ならお前だって」
「そりゃ死ぬのはごめんだけどさ。俺は、ほら、自分で選んだ結果だから」
他人に勝手に殺されるのはごめんだが、自分で選んだ結果なら死に様は自分のものだ。終わるまでの生き方も含め、誰かに譲るなんて許さない。白狼が考えているのはたったそれだけのことだ。
銀月の口から長く、細いため息が漏れた。伏せた頬にかかるまつげの影が心なしかかすかに揺れていた。
「どした?」
「……なんでもない。お前の無鉄砲さに呆れただけだ」
「なんだと、命の恩人だとでも言いやがれ」
「結局はただの勘違いだろう」
よし、と銀月は膝を叩いて立ち上がった。憂いの表情を浮かべていた顔はすっきりとして晴れやかなものになっている。花の様に可憐な姫君ではなく、志を新たにする少年のそれで見つめる銀月は白狼の肩にその手を置いた。
「切れた蜥蜴の尻尾とはいえ、掴んだ手がかりとしては上出来だ。私を狙って動きを見せ始めた今が好機になるやもしれん。帝都に帰る。お前も、ついてこい」
目を見てしっかりと話す銀月に白狼は小さく頷、かなかった。危うく流されそうになって白狼は目を二、三回瞬かせた。
「ちょっと待て、やっぱそれ俺もいくの? つい今さっき、俺の事使い捨てるつもりみたいなこと言ってたじゃねえか」
そう聞けば、銀月は当たり前と言わんばかりに頷いた。
「そなたの秘密を私が知り、私の秘密をそなたが知ったのだから当然だろう。今後お前は私直々に雇ってやるからしっかり働け。姉に仕送りしたいのだろう」
「生きてたらな、って待て。本気かよ。しかも帝都って、帝都のどこだよ!」
「後宮に決まってるだろう」
「後宮って……」
狼狽える白狼に、銀月が口元を隠しながらほほほと笑った。妖艶な微笑みを浮かべるその顔は、どこからどう見ても貴族のお姫様である。白狼の胸にしなだれかかる銀月から漂うものが、高潔な志のそれからたおやかな色香に変わった。
「皇帝に仕える美女千人が住まう、麗しの花園ですわ」
「花園……ねえ」
その花園に、姫君のなりをした皇子が潜んでいるとは誰が知っているだろう。しかも今度は男のなりをした自分まで。ぶるっと白狼の背筋に冷たいものが走る。
「ところでお前さ、そんな美女だらけのとこにいて、大丈夫なわけ? 男だろ?」
言外に忍ばせた意味を察したのかどうか、銀月はふふっと小さく笑った。
「美しく咲き誇る花々には、たいていトゲや毒があるものだ。その根元には毒蛇の群れも、な」
白狼の薄い胸に頬を寄せたまま、銀月は真顔でほほほと笑ったのだった。
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