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河西の離宮
食事の行方④
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姫君の居室近くだからと油断したからこうなった。
白狼はちくちくと肌を刺すごわついた麻袋の中で己の甘さに歯噛みしていた。
周に言われ景とかいう役人の後を尾行していたつもりであったが、長生殿に入った廊下の隅で強く頭を殴られた――ところで記憶が途切れ気が付いたらこれである。
麻袋の網目から光は漏れて見えるが視界にはそれだけしか入らないし、手足は袋の外から縛られて床か何かに転がされているのだろう。ちょっと身をよじってみたが満足に動ける気配もなかった。
「ついてねぇな……」
袋の中で一人ごちれば、どすっと背中に衝撃が走る。あばらの骨の隙間を抉るような痛みは、爪先で蹴りでも入れられたのだろう。ぐっと白狼は呻いた。
「鼠め。気が付いたらしいな」
ぼそりと呟く声は誰のものか。白狼は痛みに顔をしかめながら聞き耳を立てた。
「素性も分からぬ輩を側に置くなど、酔狂な」
「年増の女狐が差配しております故、あの者の差し金でしょう。我々を欺くためとはいえ、姫の身辺をより危うくするなど全く弁えぬことで」
「まあよい。それならそれで動きようがあるというもの。では、手筈通りに」
「承知しました」
微かな衣擦れの音のすぐあと、身体を包んだ袋ごと白狼は持ち上げられた。ぱっと目の前が明るくなったのは、麻袋の口が開けられたからか。逆光を背にした男が立っているのが見える。
顔を出させられたのとほぼ同時に、白狼の鼻は空中を漂う香のかおりを捕らえていた。つんと鼻を突くそれは厠の臭いに近いがちょっと違う。なんだ、と首を傾げようとするがすぐに頭ごと抱きしめられた。その瞬間にむわっとした焦げた油のにおいに包まれる。
袋の上から縛り上げられているため男の抱擁による腹の圧力から逃れられず、白狼はたまらず首を振ってもがいた。
「おお悪い、手荒なことをしてすまなかった」
抱擁が解かれると同時に柔和な顔が現れる。しかしこれがまた陳に劣らずでっぷりとした男だった。何を食ったらこうも脂肪がつくのだろう。街中ではこんな大きな腹をしている者はほぼいないか、居ても相当に裕福な商人だけだ。
そこでぴんときた。商人という言葉から連想が飛んだのだろう。目の前の男の顔に、どうにも見覚えがあるような気がしていたのは間違いではなかったらしい。
陳と一緒に朝市をうろついていた男である。食材を見繕っていたほうの。
しかし、柔和そうな顔をしてすまなかったという割には袋から出してももらえず、仕方なく白狼は見える範囲に覗く自分の衣服を見て着衣の乱れがないことを確認した。剥かれていなければ今はそれでいい。目線だけ動かして辺りを伺うが、狭い部屋であるとだけしかわからない。四方を衝立で囲まれており、隙を見て逃げ出そうにも難しそうだった。
「まあまあ、そんなに警戒しないでおくれ」
手負いの猫が毛を逆立てているようにでも見えたのか、男は白狼の頭を何度か撫でた。どうやら本当にただの小僧とでも思っているようだ。白狼はやや気を落ち着けて、男を見上げた。
「憐れな小僧に何か御用でしょうか」
「急にこんな目に合わせて、気を悪くしていると思うが落ち着いて聞いてほしい。君にこんな真似をしてここまで連れてきてもらったのには訳があるのだよ」
「訳、おっしゃいますと?」
「そうだ。どういった経緯で雇われたかは知らないが、小間使いで姫の近くにいける君にしかできない大切な仕事を頼みたいのだ」
承諾してくれたら縄を外してあげよう、という男を白狼は強く睨みつける。経験上、そういった交換条件を持ってくる奴は信用できない。対等に交渉しようというやつは、自分の手札を見せるものだからだ。
人の好さそうな風体をしているが、人の外見に中身は伴わないということは白狼自身が身をもって良く知っていた。人間、どんなに優し気に見せようとも腹の中ではとんでもないことを考えているものであるし、愚鈍に見せてどんな特技を持ち合わせているかなど分からないのである。
しかし男は落ち着いて聞いてほしいと前置きをして、両の眉を下げた情けない顔で続けた。
「頼む、姫のお側で姫を守ってくれないか。恐ろしいことに今、この離宮では姫の命を狙う計画が進行しているのだ」
「……先程、陳様が捕縛された件で?」
「おお、それを知っているのか。それは話が早い」
「姫様の御命を狙っていたのは、陳様ではないのですか?」
これはいい機会だ。白狼は腹の底でほくそ笑んだ。目の前にいる男は陳に近いやつである。なにか話を引き出せるかもしれない。
「姫様の膳に毒が盛られていたと聞きました。陳様が持ち込んだ毒と」
声を潜めて告げれば、男は肉付きの好い顎を震わせるように首を横に振る。犯人は陳ではなく黒幕がいるという銀月たちの読みは当たっているということか。
もっと情報が引き出せないかと白狼は小さく頷いて、男の次の言葉を促した。
「一昨日のことだが毒見の女官が一人死んだのは知っているかい? 姫の膳に毒が盛られていたのは確かで、その女官は泡を吹いて倒れたらしい」
「はい、昨日説明を受けました」
「事件を聞きつけた御史台の方々は、食事を作った膳部の者を疑っているようだがそれは違う」
はて、と白狼は首を傾げかけ、つぎの言葉に絶句した。
「姫様の食事に毒を盛って御命を狙った真の犯人はあの、姫の側近である女官と宦官なのだ」
白狼はちくちくと肌を刺すごわついた麻袋の中で己の甘さに歯噛みしていた。
周に言われ景とかいう役人の後を尾行していたつもりであったが、長生殿に入った廊下の隅で強く頭を殴られた――ところで記憶が途切れ気が付いたらこれである。
麻袋の網目から光は漏れて見えるが視界にはそれだけしか入らないし、手足は袋の外から縛られて床か何かに転がされているのだろう。ちょっと身をよじってみたが満足に動ける気配もなかった。
「ついてねぇな……」
袋の中で一人ごちれば、どすっと背中に衝撃が走る。あばらの骨の隙間を抉るような痛みは、爪先で蹴りでも入れられたのだろう。ぐっと白狼は呻いた。
「鼠め。気が付いたらしいな」
ぼそりと呟く声は誰のものか。白狼は痛みに顔をしかめながら聞き耳を立てた。
「素性も分からぬ輩を側に置くなど、酔狂な」
「年増の女狐が差配しております故、あの者の差し金でしょう。我々を欺くためとはいえ、姫の身辺をより危うくするなど全く弁えぬことで」
「まあよい。それならそれで動きようがあるというもの。では、手筈通りに」
「承知しました」
微かな衣擦れの音のすぐあと、身体を包んだ袋ごと白狼は持ち上げられた。ぱっと目の前が明るくなったのは、麻袋の口が開けられたからか。逆光を背にした男が立っているのが見える。
顔を出させられたのとほぼ同時に、白狼の鼻は空中を漂う香のかおりを捕らえていた。つんと鼻を突くそれは厠の臭いに近いがちょっと違う。なんだ、と首を傾げようとするがすぐに頭ごと抱きしめられた。その瞬間にむわっとした焦げた油のにおいに包まれる。
袋の上から縛り上げられているため男の抱擁による腹の圧力から逃れられず、白狼はたまらず首を振ってもがいた。
「おお悪い、手荒なことをしてすまなかった」
抱擁が解かれると同時に柔和な顔が現れる。しかしこれがまた陳に劣らずでっぷりとした男だった。何を食ったらこうも脂肪がつくのだろう。街中ではこんな大きな腹をしている者はほぼいないか、居ても相当に裕福な商人だけだ。
そこでぴんときた。商人という言葉から連想が飛んだのだろう。目の前の男の顔に、どうにも見覚えがあるような気がしていたのは間違いではなかったらしい。
陳と一緒に朝市をうろついていた男である。食材を見繕っていたほうの。
しかし、柔和そうな顔をしてすまなかったという割には袋から出してももらえず、仕方なく白狼は見える範囲に覗く自分の衣服を見て着衣の乱れがないことを確認した。剥かれていなければ今はそれでいい。目線だけ動かして辺りを伺うが、狭い部屋であるとだけしかわからない。四方を衝立で囲まれており、隙を見て逃げ出そうにも難しそうだった。
「まあまあ、そんなに警戒しないでおくれ」
手負いの猫が毛を逆立てているようにでも見えたのか、男は白狼の頭を何度か撫でた。どうやら本当にただの小僧とでも思っているようだ。白狼はやや気を落ち着けて、男を見上げた。
「憐れな小僧に何か御用でしょうか」
「急にこんな目に合わせて、気を悪くしていると思うが落ち着いて聞いてほしい。君にこんな真似をしてここまで連れてきてもらったのには訳があるのだよ」
「訳、おっしゃいますと?」
「そうだ。どういった経緯で雇われたかは知らないが、小間使いで姫の近くにいける君にしかできない大切な仕事を頼みたいのだ」
承諾してくれたら縄を外してあげよう、という男を白狼は強く睨みつける。経験上、そういった交換条件を持ってくる奴は信用できない。対等に交渉しようというやつは、自分の手札を見せるものだからだ。
人の好さそうな風体をしているが、人の外見に中身は伴わないということは白狼自身が身をもって良く知っていた。人間、どんなに優し気に見せようとも腹の中ではとんでもないことを考えているものであるし、愚鈍に見せてどんな特技を持ち合わせているかなど分からないのである。
しかし男は落ち着いて聞いてほしいと前置きをして、両の眉を下げた情けない顔で続けた。
「頼む、姫のお側で姫を守ってくれないか。恐ろしいことに今、この離宮では姫の命を狙う計画が進行しているのだ」
「……先程、陳様が捕縛された件で?」
「おお、それを知っているのか。それは話が早い」
「姫様の御命を狙っていたのは、陳様ではないのですか?」
これはいい機会だ。白狼は腹の底でほくそ笑んだ。目の前にいる男は陳に近いやつである。なにか話を引き出せるかもしれない。
「姫様の膳に毒が盛られていたと聞きました。陳様が持ち込んだ毒と」
声を潜めて告げれば、男は肉付きの好い顎を震わせるように首を横に振る。犯人は陳ではなく黒幕がいるという銀月たちの読みは当たっているということか。
もっと情報が引き出せないかと白狼は小さく頷いて、男の次の言葉を促した。
「一昨日のことだが毒見の女官が一人死んだのは知っているかい? 姫の膳に毒が盛られていたのは確かで、その女官は泡を吹いて倒れたらしい」
「はい、昨日説明を受けました」
「事件を聞きつけた御史台の方々は、食事を作った膳部の者を疑っているようだがそれは違う」
はて、と白狼は首を傾げかけ、つぎの言葉に絶句した。
「姫様の食事に毒を盛って御命を狙った真の犯人はあの、姫の側近である女官と宦官なのだ」
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