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河西の離宮

病身の姫君④

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 終わった、と白狼は敷布を握る指に力を籠める。
 盗みに失敗して捕まった挙句、捕まった先でも脱走、強盗未遂をやらかした。この銀月の本当の身分などは知る由もないが、姫君の身代わりをしている位だ。おそらくは相当に高貴な人間なのだろう。
 その寝所に押し入って殴りつけて、となればもはや死罪どころかこの場で手打ちになってもおかしくない。声を聞きつけた周などが駆けつけるのも時間の問題だろう。
 しかし銀月は誰かを呼ぶ声を上げることはなかった。白狼が伏せた隣に腰を掛けると、ほんの少しだけ逡巡する気配の後呟くように口を開いた。

「これは身代わりでも、趣味でもない。生きるための、手段だ」
「生きるため……?」
「そうだ」

 顔を上げた白狼がきょとんとして銀月を見上げると、その顔はわずかに寂しげな微笑みを浮かべているようだった。いや、微笑みではない。苦笑いだ。銀月の表情に釣られて白狼の眉も八の字に下がる。

「なんでだよ。あんた、お貴族様だろ。しかも男ならなんの問題も……」
「問題ばかりだ。私は男として生まれる前から命を狙われているからな……生れ出てからも自身の生きざまを自ら決めることもできない。お前のいう生きにくさ、分からないでもない……か」
「貴族の坊ちゃんが? いやちょっと待て。身代わりでもないって、あんたまさか……?」

 言葉を濁して尋ねれば、言外の意図を汲み取った銀月が頷く。

承乾宮じょうかんきゅう瑛賢妃えいけんぴの一の姫、銀華ぎんかとして生きている。今上陛下の病弱な姫君と言えば聞いたことがあるか。それが私だ」
「今上陛下の、姫……」
「身分が高くないが寵愛を得ていた我が母が、己の命の危機に瀕して打った大博打のおかげで私は今こうやって生きている。力がないまま宮廷で私が男であると知られれば、今上と国を欺いた咎で私の命どころか母の一族も土地の者の命もすべて奪われるだろう」
「あんたの母ちゃん、死んだのか?」
「そうだ、私を生き伸びさせるために」

 自嘲気味に呟く銀月は、その肌の白さも相まって儚く消えてしまいそうに見えた。生き様を自分で決めることができないというその姿に、白狼の腹の奥に渦巻いていた黒い感情がすうっと霧散していく。
 事情はまだよく呑み込めていないものの、性別を偽る理由に妙な親近感がわいた白狼はゆっくり身体を起こした。そして銀月の隣にちょこんと腰を下ろす。
 何気なくそっか、と呟くと隣の銀月が頷いた気配が肩越しに伝わる。ふと横を見れば、銀月の肩は小柄な白狼のそれと高さが変わらない。これで男というのであれば、白狼よりも、いやもっと幼い子どもなのか。そうっと横目で伺えば、確かに肌にはまだ髭の気配もなく喉のあたりも滑らかだった。
 僅かに憐憫の情が湧いた時だった。ばあん、と大きな音を立てて部屋を隔てていた衝立が倒れた。
 現れたのは憤怒の表情を浮かべた周である。熟睡から覚めて捕らえた小僧が姿を消していて泡を食ったのだろう。青筋を浮かべた周は銀月の隣に座る白狼を見つけるやいなや突進してきた。態勢を整える前に白狼はあっという間に組み伏せられる。

「この小僧! 逃げ出した挙句恐れ多くも姫の御寝所を狙うとは!」
「くっそ、おっさん! 痛えよ! 離せこら!」

 ばたばた暴れる白狼に腰の剣を突き付けた周は、寝台の銀月に気が付くとさらに血が上ったのか耳まで真っ赤になって、このコソ泥めと怒鳴りつけた。

「姫に何をしようと企んだ!」
「何もしてねえよ! お宝いただいて逃げようと思ったけどなんも盗ってねえし! お姫さまが男だとかなんて知らねえし!」

 口走ってから白狼は口をつぐんだ。これ、言ってはいけないことではないのか。咄嗟に銀月を見やれば、やれやれといった風に肩を竦めている。白狼の背に冷たいものが走り、必死に言い訳を考えている間に周は赤鬼のごとく逆上し剣を振り上げた。

「おのれ貴様、その秘密を知ったからには生かして宮から出すわけにはいかなくなった。己の卑しい性根を恨め」
「待て待て待て、犯人捜しはどうなるんだよ! 待てよ、ちゃんと仕事するって! おいお姫さま! なんとか言えよ!」
「待て、白狼は女だ」
「うるせえ! 強調するところ違うだろ!」
「問答無用。たとえ女子供とて容赦はしない」
「待て!」

 銀月の鋭い声が飛び、周の剣が白狼の目の前で止まった。

「ここで流血騒ぎを起こすな」
「しかし」
「分かっておる。秘密を知ったからには宮から出すわけにはいかない」

 銀月は白狼の目の前の刃に手を添え、すっと避けさせた。そして人差し指を唇につけ、何か考えるそぶりを見せる。
 ほんの数秒考えた後に銀月は床に膝をついた。そして組み伏せられたままの白狼に顔を寄せる。頭のてっぺんから舐めるように見つめられると、そういえば自分が丈の短い麻の下着姿だったことを思い出し白狼は動ける範囲で身を縮めた。
 うん、と頭上で銀月の声がした。

「先程の動きもそれなりだったな。その体術はどこで学んだ?」
「どこって、ガキの頃からやってる喧嘩だけだよ」
「それだけであれほどの腕に?」
「俺はこんななりで普通より小せえから、効率よくやらねえと逆にやられちまうからな」
「なるほど」

 銀月は得心したのか周に白狼を放つように言った。渋る周だったが主の命令には逆らえない。剣は収めず警戒したまま、護衛は白狼の身体から手を離した。

「白狼の体裁きとスリの腕はなかなか。であれば、この離宮での仕事に役立ってもらったほうが良い」
「しかし……」
「しかも年の若い女だ。奴らの目を欺くためには必要な駒になるかもしれん」

 主の言い分に異を唱える周だったが、女という一言に対してぎょっとしたように目を丸くした。

「ほんとですか? こんな小僧が?」
「うるせえ! 小僧小僧言うな。俺はもう十九だ」
「じゅ、十九?」

 勢いで年齢を言えば今度は銀月も目を丸くする。ちっと白狼は舌打ちをした。だから言いたくなかったのだ。しかし銀月も周もそれ以上年齢については触れず、白狼に向かって問いただした。

「お前は私の秘密を知った。その上で問おう。私の手足となって仕事をする気があるならば命は助ける。拒めば首を刎ねる。どちらを選ぶ?」

 二択のふりをした一択の問いである。綺麗な顔をして存外えげつない。白狼はうなだれたまま手を上げた。

「そんなの、仕事するってほうに決まってるじゃねえか……」

 ふふっと銀月が笑った。

「それでよい。上手く運べばお前の姉にもちゃんと仕送りができる程度に給金も払おう」
「……ほんとか?」
「約束する。ただし、お前を自由にするわけにはいかないが」

 念押しするように銀月が問う。しかしここまで知り、そしてそんな条件を提示されれば白狼に否はなかった。捕まって死を覚悟したそうそうこんな話がこぼれてくるなんて、逆にありがたいくらいである。これでしばらく食いっぱぐれはない。

「いいよ、俺だってこんな話知っちまった以上はこれまで通りに街に戻れるとは思ってねぇ。仕事はきっちりこなす」
「いいだろう」
「大丈夫ですかねぇ……」

 話は決まったとばかりに膝を打てば、周はまだまだ心配そうに白狼をねめまわしていた。拘束を解かれたまま丈の短い下着姿で胡坐をかく白狼は、どこからどう見ても少年という出で立ちである。当の白狼も恥じらいだったり清楚さだったりする、うら若い乙女がもつようなものは山の向こうに捨ててきた。

「このなりで、女と言われても……」
「うるっせえよ。なりはほっとけ!」
「まあ、いくら本当は女だと言ってもこのがさつさだ。侍女や女官にするのは無理がある。当初の予定通り、新人宦官小間使いということで雇用の手続きを」

 鶴の一声ならぬ主の命令で、周はしぶしぶながらも「御意」と答えたのだった。
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