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河西の離宮

病身の姫君③

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 侍女か女官かと思ったが、濃厚な花の香りと波打つような長い髪に差した大粒の真珠は昼にみたあの少女のものに違いない。そもそも目の前にある白い肌と華やかな顔立ちは一介の侍女の風情ではなく、着ている夜着も薄手で上等なものだ。
 まずい、と白狼は姫君の着物の襟をつかみ上げた。ここは脅して逃げようと勢いに任せて寝台に押し倒すが、ほぼ同時に姫君の方も白狼の着物に手をかける。
 「病弱」なはずの姫君の握力に戸惑う白狼は、間近に迫る少女の左頬にある涙黒子に目を奪われた。この黒子には見覚えがある。どこで、と思考が止まりかけたが、自身の襟に力が加えられ反射的に白狼も押し倒した姫君の着物の襟に力を込めた。

「何をなさいます、無礼者っ」

 怯まない姫君の口から声が漏れる。しかし誰かを呼ぶほどに大きな声ではなく、むしろ囁きに近いそれにまたしても白狼は戸惑った。そして唐突に気が付いた。
 はだけさせた姫君の胸もとが、平らだということに。
 そしてそれは相手も同じようだった。白狼の粗末な麻の着物の襟もとがはだけ、露わになった胸元を凝視している。そこにあるのは、分厚いさらし布で固く押しつぶされた胸によってできるわずかな谷間で。
 胸元を凝視していた二人の視線が、ほのかな灯りのなかゆっくりと交差する。そして、二人の口が同時に開いた――。

「お、おと……こ?」
「お、女……?」

 口からこぼれた言葉はお互い違えど、驚きと戸惑いの度合いはほぼ同じだったろう。二人とも自分の身なりに斟酌する余裕もないままに、ぽかんとしたまま相手の顔を見つめていた。
 先に我に返ったのは姫君の方だった。二、三瞬きをした後、はっとした表情を浮かべて白狼から手を離す。対する白狼も、ひっと息を詰まらせ姫君から身体を離した。
 どういうことか、全く理解が追い付かなかった。香のにおいや髪飾りなどから向かい合う相手は昼間に会った姫君に間違いないはずなのに、その相手が男――いや少年だった。なぜだ、とまとまらない思考のまま向かい合った相手を凝視すれば、相手も同じように混乱しきった表情で白狼の顔と胸元に交互に視線を巡らせている。
 かすかに揺れる燭台の灯りのなか、あわあわと動く黒い瞳とその脇にぽつりと浮かんだ黒子が白狼の記憶を揺さぶった。

「お、お前、まさか昼間のガキ……?」
「な、なんのことでしょう、どなたかとお間違えでは……」
「いや、見間違えじゃねえだろ……」

 胸元を隠すように身をよじる「姫君」ではあったが、どこかで見たと思ったその黒子は白狼を捕まえて盗んだ財布を突き付けてきたときにみた少年――銀月とかいったかのそれだったのだ。
 言われた方はまさしく図星だったらしく、薄明りの中でも分かるほどに表情を硬くする。しかし怒り出したり人を呼ばれたりするかと思えばそうではなく、ぷいっと横を向いてしまった。拗ねたような、ふてくされたような、そんな表情を「高貴」な人間がするとは信じられず、白狼は思わず銀月の顔を覗き込む。

「なんでそんな恰好してんだ……? お姫様は……?」

 率直に言って、相手もまるっきり同じことを聞きたいということは失念していた。口をついて出た疑問に、銀月は観念したのか諦めたのか深いため息を吐いて振り返る。
「お前こそ、これは一体どういうことだ。女がなぜ男のふりを……」

 開き直ったのか銀月の口調が変わった。心底理解できない風のその声に白狼は眉根を寄せる。質問自体におそらく他意はない。自分も同じことを聞いた。しかし無性に腹が立ち、うるせえと自分でも驚くほど低い声が出る。

「お偉いお貴族様には分からんだろうが色々あるんだよ」
「色々とは? 女ならば街でスリなどして暮らさずとも、嫁に行くなり家業を手伝うなりすれば……」

 出た、と白狼は吐き捨て、対面の薄く化粧が施された白い顔を思い切り睨みつける。高貴なご身分の考えそうなことだ。下々のことなんざ、なにも分かっちゃいない。

「家業もねえような下賤の家に生まれた子に、まともに生きる道なんてねぇんだよ。お貴族様には分からんだろうがな」
「なんだと……?」
「男ならまだ兵役だってつけるし力仕事も汚れ仕事もあるが、女なんかに生まれたら田舎じゃただの穴がある奴隷、子を産める奴隷だ。生きたきゃてめえの穴を使えなんて、言われたことあるか? ねえだろうよ」
「子を産める、奴隷?」

 吐き捨てたってなにも変わらない。しかし一度口をついて出た恨み言は止まらない。呪詛を唱えるように白狼は銀月に己の腹の毒をまき散らした。

「嫁に出されりゃまだマシなほうさ。でもな、貧しい農家に生まれた娘のほとんどは口減らしで埋められるか人買いに買われてくんだ。女衒から花街に売られりゃ借金返すために身を売らされる。身体壊そうがなにしようが死ぬまでな。客の子孕めば借金が返せず怪しい薬で堕胎されられる。それで死んだら運が悪かったって言われんだ。墓もなにもなく、いなかったことにされるんだよ。そんな死に方、俺はまっぴらだ」
「それで、男のふりをしているというわけか」
「こっちは生きるためにやってんだ。自分の食い扶持を自分で稼いでんだ。文句言われる筋合いは無えよ。それなのにてめえは男に生まれた身分のくせに、これ見よがしに女装なんぞしやがって。身代わり兼ねた悪趣味かよ!」

 ひそめていたはずの声も興奮が高まると次第に大きくなる。最後は悲鳴にも似た叫びになり、白狼は寝台に突っ伏した。

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