11 / 97
河西の離宮
病身の姫君③
しおりを挟む
侍女か女官かと思ったが、濃厚な花の香りと波打つような長い髪に差した大粒の真珠は昼にみたあの少女のものに違いない。そもそも目の前にある白い肌と華やかな顔立ちは一介の侍女の風情ではなく、着ている夜着も薄手で上等なものだ。
まずい、と白狼は姫君の着物の襟をつかみ上げた。ここは脅して逃げようと勢いに任せて寝台に押し倒すが、ほぼ同時に姫君の方も白狼の着物に手をかける。
「病弱」なはずの姫君の握力に戸惑う白狼は、間近に迫る少女の左頬にある涙黒子に目を奪われた。この黒子には見覚えがある。どこで、と思考が止まりかけたが、自身の襟に力が加えられ反射的に白狼も押し倒した姫君の着物の襟に力を込めた。
「何をなさいます、無礼者っ」
怯まない姫君の口から声が漏れる。しかし誰かを呼ぶほどに大きな声ではなく、むしろ囁きに近いそれにまたしても白狼は戸惑った。そして唐突に気が付いた。
はだけさせた姫君の胸もとが、平らだということに。
そしてそれは相手も同じようだった。白狼の粗末な麻の着物の襟もとがはだけ、露わになった胸元を凝視している。そこにあるのは、分厚いさらし布で固く押しつぶされた胸によってできるわずかな谷間で。
胸元を凝視していた二人の視線が、ほのかな灯りのなかゆっくりと交差する。そして、二人の口が同時に開いた――。
「お、おと……こ?」
「お、女……?」
口からこぼれた言葉はお互い違えど、驚きと戸惑いの度合いはほぼ同じだったろう。二人とも自分の身なりに斟酌する余裕もないままに、ぽかんとしたまま相手の顔を見つめていた。
先に我に返ったのは姫君の方だった。二、三瞬きをした後、はっとした表情を浮かべて白狼から手を離す。対する白狼も、ひっと息を詰まらせ姫君から身体を離した。
どういうことか、全く理解が追い付かなかった。香のにおいや髪飾りなどから向かい合う相手は昼間に会った姫君に間違いないはずなのに、その相手が男――いや少年だった。なぜだ、とまとまらない思考のまま向かい合った相手を凝視すれば、相手も同じように混乱しきった表情で白狼の顔と胸元に交互に視線を巡らせている。
かすかに揺れる燭台の灯りのなか、あわあわと動く黒い瞳とその脇にぽつりと浮かんだ黒子が白狼の記憶を揺さぶった。
「お、お前、まさか昼間のガキ……?」
「な、なんのことでしょう、どなたかとお間違えでは……」
「いや、見間違えじゃねえだろ……」
胸元を隠すように身をよじる「姫君」ではあったが、どこかで見たと思ったその黒子は白狼を捕まえて盗んだ財布を突き付けてきたときにみた少年――銀月とかいったかのそれだったのだ。
言われた方はまさしく図星だったらしく、薄明りの中でも分かるほどに表情を硬くする。しかし怒り出したり人を呼ばれたりするかと思えばそうではなく、ぷいっと横を向いてしまった。拗ねたような、ふてくされたような、そんな表情を「高貴」な人間がするとは信じられず、白狼は思わず銀月の顔を覗き込む。
「なんでそんな恰好してんだ……? お姫様は……?」
率直に言って、相手もまるっきり同じことを聞きたいということは失念していた。口をついて出た疑問に、銀月は観念したのか諦めたのか深いため息を吐いて振り返る。
「お前こそ、これは一体どういうことだ。女がなぜ男のふりを……」
開き直ったのか銀月の口調が変わった。心底理解できない風のその声に白狼は眉根を寄せる。質問自体におそらく他意はない。自分も同じことを聞いた。しかし無性に腹が立ち、うるせえと自分でも驚くほど低い声が出る。
「お偉いお貴族様には分からんだろうが色々あるんだよ」
「色々とは? 女ならば街でスリなどして暮らさずとも、嫁に行くなり家業を手伝うなりすれば……」
出た、と白狼は吐き捨て、対面の薄く化粧が施された白い顔を思い切り睨みつける。高貴なご身分の考えそうなことだ。下々のことなんざ、なにも分かっちゃいない。
「家業もねえような下賤の家に生まれた子に、まともに生きる道なんてねぇんだよ。お貴族様には分からんだろうがな」
「なんだと……?」
「男ならまだ兵役だってつけるし力仕事も汚れ仕事もあるが、女なんかに生まれたら田舎じゃただの穴がある奴隷、子を産める奴隷だ。生きたきゃてめえの穴を使えなんて、言われたことあるか? ねえだろうよ」
「子を産める、奴隷?」
吐き捨てたってなにも変わらない。しかし一度口をついて出た恨み言は止まらない。呪詛を唱えるように白狼は銀月に己の腹の毒をまき散らした。
「嫁に出されりゃまだマシなほうさ。でもな、貧しい農家に生まれた娘のほとんどは口減らしで埋められるか人買いに買われてくんだ。女衒から花街に売られりゃ借金返すために身を売らされる。身体壊そうがなにしようが死ぬまでな。客の子孕めば借金が返せず怪しい薬で堕胎されられる。それで死んだら運が悪かったって言われんだ。墓もなにもなく、いなかったことにされるんだよ。そんな死に方、俺はまっぴらだ」
「それで、男のふりをしているというわけか」
「こっちは生きるためにやってんだ。自分の食い扶持を自分で稼いでんだ。文句言われる筋合いは無えよ。それなのにてめえは男に生まれた身分のくせに、これ見よがしに女装なんぞしやがって。身代わり兼ねた悪趣味かよ!」
ひそめていたはずの声も興奮が高まると次第に大きくなる。最後は悲鳴にも似た叫びになり、白狼は寝台に突っ伏した。
まずい、と白狼は姫君の着物の襟をつかみ上げた。ここは脅して逃げようと勢いに任せて寝台に押し倒すが、ほぼ同時に姫君の方も白狼の着物に手をかける。
「病弱」なはずの姫君の握力に戸惑う白狼は、間近に迫る少女の左頬にある涙黒子に目を奪われた。この黒子には見覚えがある。どこで、と思考が止まりかけたが、自身の襟に力が加えられ反射的に白狼も押し倒した姫君の着物の襟に力を込めた。
「何をなさいます、無礼者っ」
怯まない姫君の口から声が漏れる。しかし誰かを呼ぶほどに大きな声ではなく、むしろ囁きに近いそれにまたしても白狼は戸惑った。そして唐突に気が付いた。
はだけさせた姫君の胸もとが、平らだということに。
そしてそれは相手も同じようだった。白狼の粗末な麻の着物の襟もとがはだけ、露わになった胸元を凝視している。そこにあるのは、分厚いさらし布で固く押しつぶされた胸によってできるわずかな谷間で。
胸元を凝視していた二人の視線が、ほのかな灯りのなかゆっくりと交差する。そして、二人の口が同時に開いた――。
「お、おと……こ?」
「お、女……?」
口からこぼれた言葉はお互い違えど、驚きと戸惑いの度合いはほぼ同じだったろう。二人とも自分の身なりに斟酌する余裕もないままに、ぽかんとしたまま相手の顔を見つめていた。
先に我に返ったのは姫君の方だった。二、三瞬きをした後、はっとした表情を浮かべて白狼から手を離す。対する白狼も、ひっと息を詰まらせ姫君から身体を離した。
どういうことか、全く理解が追い付かなかった。香のにおいや髪飾りなどから向かい合う相手は昼間に会った姫君に間違いないはずなのに、その相手が男――いや少年だった。なぜだ、とまとまらない思考のまま向かい合った相手を凝視すれば、相手も同じように混乱しきった表情で白狼の顔と胸元に交互に視線を巡らせている。
かすかに揺れる燭台の灯りのなか、あわあわと動く黒い瞳とその脇にぽつりと浮かんだ黒子が白狼の記憶を揺さぶった。
「お、お前、まさか昼間のガキ……?」
「な、なんのことでしょう、どなたかとお間違えでは……」
「いや、見間違えじゃねえだろ……」
胸元を隠すように身をよじる「姫君」ではあったが、どこかで見たと思ったその黒子は白狼を捕まえて盗んだ財布を突き付けてきたときにみた少年――銀月とかいったかのそれだったのだ。
言われた方はまさしく図星だったらしく、薄明りの中でも分かるほどに表情を硬くする。しかし怒り出したり人を呼ばれたりするかと思えばそうではなく、ぷいっと横を向いてしまった。拗ねたような、ふてくされたような、そんな表情を「高貴」な人間がするとは信じられず、白狼は思わず銀月の顔を覗き込む。
「なんでそんな恰好してんだ……? お姫様は……?」
率直に言って、相手もまるっきり同じことを聞きたいということは失念していた。口をついて出た疑問に、銀月は観念したのか諦めたのか深いため息を吐いて振り返る。
「お前こそ、これは一体どういうことだ。女がなぜ男のふりを……」
開き直ったのか銀月の口調が変わった。心底理解できない風のその声に白狼は眉根を寄せる。質問自体におそらく他意はない。自分も同じことを聞いた。しかし無性に腹が立ち、うるせえと自分でも驚くほど低い声が出る。
「お偉いお貴族様には分からんだろうが色々あるんだよ」
「色々とは? 女ならば街でスリなどして暮らさずとも、嫁に行くなり家業を手伝うなりすれば……」
出た、と白狼は吐き捨て、対面の薄く化粧が施された白い顔を思い切り睨みつける。高貴なご身分の考えそうなことだ。下々のことなんざ、なにも分かっちゃいない。
「家業もねえような下賤の家に生まれた子に、まともに生きる道なんてねぇんだよ。お貴族様には分からんだろうがな」
「なんだと……?」
「男ならまだ兵役だってつけるし力仕事も汚れ仕事もあるが、女なんかに生まれたら田舎じゃただの穴がある奴隷、子を産める奴隷だ。生きたきゃてめえの穴を使えなんて、言われたことあるか? ねえだろうよ」
「子を産める、奴隷?」
吐き捨てたってなにも変わらない。しかし一度口をついて出た恨み言は止まらない。呪詛を唱えるように白狼は銀月に己の腹の毒をまき散らした。
「嫁に出されりゃまだマシなほうさ。でもな、貧しい農家に生まれた娘のほとんどは口減らしで埋められるか人買いに買われてくんだ。女衒から花街に売られりゃ借金返すために身を売らされる。身体壊そうがなにしようが死ぬまでな。客の子孕めば借金が返せず怪しい薬で堕胎されられる。それで死んだら運が悪かったって言われんだ。墓もなにもなく、いなかったことにされるんだよ。そんな死に方、俺はまっぴらだ」
「それで、男のふりをしているというわけか」
「こっちは生きるためにやってんだ。自分の食い扶持を自分で稼いでんだ。文句言われる筋合いは無えよ。それなのにてめえは男に生まれた身分のくせに、これ見よがしに女装なんぞしやがって。身代わり兼ねた悪趣味かよ!」
ひそめていたはずの声も興奮が高まると次第に大きくなる。最後は悲鳴にも似た叫びになり、白狼は寝台に突っ伏した。
0
お気に入りに追加
108
あなたにおすすめの小説
皇帝は虐げられた身代わり妃の瞳に溺れる
えくれあ
恋愛
丞相の娘として生まれながら、蔡 重華は生まれ持った髪の色によりそれを認められず使用人のような扱いを受けて育った。
一方、母違いの妹である蔡 鈴麗は父親の愛情を一身に受け、何不自由なく育った。そんな鈴麗は、破格の待遇での皇帝への輿入れが決まる。
しかし、わがまま放題で育った鈴麗は輿入れ当日、後先を考えることなく逃げ出してしまった。困った父は、こんな時だけ重華を娘扱いし、鈴麗が見つかるまで身代わりを務めるように命じる。
皇帝である李 晧月は、後宮の妃嬪たちに全く興味を示さないことで有名だ。きっと重華にも興味は示さず、身代わりだと気づかれることなくやり過ごせると思っていたのだが……
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
若奥様は緑の手 ~ お世話した花壇が聖域化してました。嫁入り先でめいっぱい役立てます!
古森真朝
恋愛
意地悪な遠縁のおばの邸で暮らすユーフェミアは、ある日いきなり『明後日に輿入れが決まったから荷物をまとめろ』と言い渡される。いろいろ思うところはありつつ、これは邸から出て自立するチャンス!と大急ぎで支度して出立することに。嫁入り道具兼手土産として、唯一の財産でもある裏庭の花壇(四畳サイズ)を『持参』したのだが――実はこのプチ庭園、長年手塩にかけた彼女の魔力によって、神域霊域レベルのレア植物生息地となっていた。
そうとは知らないまま、輿入れ初日にボロボロになって帰ってきた結婚相手・クライヴを救ったのを皮切りに、彼の実家エヴァンス邸、勤め先である王城、さらにお世話になっている賢者様が司る大神殿と、次々に起こる事件を『あ、それならありますよ!』とプチ庭園でしれっと解決していくユーフェミア。果たして嫁ぎ先で平穏を手に入れられるのか。そして根っから世話好きで、何くれとなく構ってくれるクライヴVS自立したい甘えベタの若奥様の勝負の行方は?
*カクヨム様で先行掲載しております
廃妃の再婚
束原ミヤコ
恋愛
伯爵家の令嬢としてうまれたフィアナは、母を亡くしてからというもの
父にも第二夫人にも、そして腹違いの妹にも邪険に扱われていた。
ある日フィアナは、川で倒れている青年を助ける。
それから四年後、フィアナの元に国王から結婚の申し込みがくる。
身分差を気にしながらも断ることができず、フィアナは王妃となった。
あの時助けた青年は、国王になっていたのである。
「君を永遠に愛する」と約束をした国王カトル・エスタニアは
結婚してすぐに辺境にて部族の反乱が起こり、平定戦に向かう。
帰還したカトルは、族長の娘であり『精霊の愛し子』と呼ばれている美しい女性イルサナを連れていた。
カトルはイルサナを寵愛しはじめる。
王城にて居場所を失ったフィアナは、聖騎士ユリシアスに下賜されることになる。
ユリシアスは先の戦いで怪我を負い、顔の半分を包帯で覆っている寡黙な男だった。
引け目を感じながらフィアナはユリシアスと過ごすことになる。
ユリシアスと過ごすうち、フィアナは彼と惹かれ合っていく。
だがユリシアスは何かを隠しているようだ。
それはカトルの抱える、真実だった──。
君は妾の子だから、次男がちょうどいい
月山 歩
恋愛
侯爵家のマリアは婚約中だが、彼は王都に住み、彼女は片田舎で遠いため会ったことはなかった。でもある時、マリアは妾の子であると知られる。そんな娘は大事な子息とは結婚させられないと、病気療養中の次男との婚約に一方的に変えさせられる。そして次の日には、迎えの馬車がやって来た。
僕は君を思うと吐き気がする
月山 歩
恋愛
貧乏侯爵家だった私は、お金持ちの夫が亡くなると、次はその弟をあてがわれた。私は、母の生活の支援もしてもらいたいから、拒否できない。今度こそ、新しい夫に愛されてみたいけど、彼は、私を思うと吐き気がするそうです。再び白い結婚が始まった。
【完結】妖精姫と忘れられた恋~好きな人が結婚するみたいなので解放してあげようと思います~
塩羽間つづり
恋愛
お気に入り登録やエールいつもありがとうございます!
2.23完結しました!
ファルメリア王国の姫、メルティア・P・ファルメリアは、幼いころから恋をしていた。
相手は幼馴染ジーク・フォン・ランスト。
ローズの称号を賜る名門一族の次男だった。
幼いころの約束を信じ、いつかジークと結ばれると思っていたメルティアだが、ジークが結婚すると知り、メルティアの生活は一変する。
好きになってもらえるように慣れないお化粧をしたり、着飾ったりしてみたけれど反応はいまいち。
そしてだんだんと、メルティアは恋の邪魔をしているのは自分なのではないかと思いあたる。
それに気づいてから、メルティアはジークの幸せのためにジーク離れをはじめるのだが、思っていたようにはいかなくて……?
妖精が見えるお姫様と近衛騎士のすれ違う恋のお話
切なめ恋愛ファンタジー

【完結】元妃は多くを望まない
つくも茄子
恋愛
シャーロット・カールストン侯爵令嬢は、元上級妃。
このたび、めでたく(?)国王陛下の信頼厚い側近に下賜された。
花嫁は下賜された翌日に一人の侍女を伴って郵便局に赴いたのだ。理由はお世話になった人達にある書類を郵送するために。
その足で実家に出戻ったシャーロット。
実はこの下賜、王命でのものだった。
それもシャーロットを公の場で断罪したうえでの下賜。
断罪理由は「寵妃の悪質な嫌がらせ」だった。
シャーロットには全く覚えのないモノ。当然、これは冤罪。
私は、あなたたちに「誠意」を求めます。
誠意ある対応。
彼女が求めるのは微々たるもの。
果たしてその結果は如何に!?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる