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河西の離宮
スリの白狼③
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場末の安宿で一晩を明かし、明るくなると同時に白狼は街に繰り出した。一つの街を拠点にするのはそろそろ潮時かもしれない。路銀を稼ぐためにもとりあえずは今日の商売相手を探さなければいけなかった。
しかし昨夜の若店主の形相を思い出すと、今日はなんとなく街中でうろつきたい気分にはなれなかった。仕方なく白狼は普段使わない茶屋に入り、窓際の席から大通りを物色することにした。
昨夜のあれは一体なんだったのか。注文した茶を待ちながらぼうっと考えても答えは出ない。でもあの瞬間、白狼と目が合ったはずの若店主は何かを言うために口を開いた。危ないと感じて身を隠したが、その後は特に警吏が自分を探しているでもなく、街は一見いつもの様子を取り戻しているように感じる。
単なる食あたりだったのかもしれない。若店主が調理中に何か間違って腐ったものでも入れたのかも、と白狼は楽観的にとらえようとしてみるがどうにも何かがひっかかったままで気分が悪かった。
泡を吹いて倒れる客が続出するほどの食中毒をだしたとすると、店はもう営業できなくなるかもしれない。
「ったく、あの鶏粥は気に入ってたんだけどな」
理由はどうあれ捕縛された若店主が帰ってきたところで、白狼はもう二度とあの店に行くつもりはなかった。危うい匂いがするところには近づかない。盗みを生業にしている白狼の心に誓っていることの一つである。
茶屋は老夫婦が営んでいるらしく、婆が白狼の前の卓に茶を置きにきた。子どものような成りをしている白狼を少し訝しげに見下ろしていたが、視線に気づいて銭を置くと何も言わずに店の奥に消える。
体の大きさや顔つきなどで侮られることは慣れっこだが、できればもう少し大きくなりたかった。せめてそこらへんを歩く農夫やそのおかみさんくらいの背になれば、違う生き方もできたかもしれない。同世代の少女より小柄な身長をいまさらながら恨みつつ、白狼は茶をすすった。
「今日はめぼしい客がいねえなぁ……」
一人こぼす白狼だったがそれは当たり前のことで、ここは朝市のようにごった返した通りではない。窓の外を歩いている人の流れは少なく、これではいい商売が見込めない。
仕方ねえと、場所を変えるために立ち上がった時だった。
通りを歩く二人組が目に留まったのだ。
一人は壮年の男。体格が良く着ているものも地味な色合いながら上等な生地の胡服である。のしのしと歩いているようで若干後ろを気にしているか、という不思議な歩き方だった。
もう一人はその後ろを歩く少年だ。壮年の男の子どもか奉公人の小僧か、長い髪を首の後ろで一束にまとめ粗末な麻の服を着ている。しかしこれは偽装だ、と白狼の直感が告げていた。理由はその歩き方である。
するすると流れるように足をさばき、頭の高さがほとんど変わらない歩き方なぞ、おいそれとここいらの商人や町人ができる技ではない。熟練の軽業師か、それとも。
――相当身分の高いお貴族様のお忍びか。
そう考えると壮年の男が後ろの少年を気にしながら歩いているのも合点がいった。男は護衛、少年は貴族のお坊ちゃんとアタリを付ける。
大金の匂いに白狼の唇が吊り上がった。財布はきっと前を歩く男が持っているだろう。護衛だけあって随分と大柄だが、きっとその分おそらく動きは鈍い。小回りが効くこちらが俊敏さで負けるはずはないと踏んだ。
しかも二人組がいい。人間、一人の時はそれなりに警戒心をもって動いているものだが、二人や三人になると油断する。ましてやこっちは小僧と見紛われる程度の体躯であるものの、街中に屯する薄汚い孤児とは違い身なりもそれなりに整え疑われにくくしてある。
人ごみに簡単に紛れられる大通りに出るならこっちのものだ。
そこまで考え今日の商売相手をこの二人、いやあの少年に決め機会をうかがうため、白狼はこっそり後を付けることにしたのだった。
しかしだ。
結果は大失敗だった。
人の数が一気に増える大通りに入り、いつものようによろけたふりをして壮年の男の懐から財布を抜いたところまでは良かった。ただその瞬間に後ろを歩いていた少年に手首をひねり上げられてしまったのだ。
「何をしている」
「……ちっ!」
ひねり上げられた手首を背に回される前に、白狼は素早くみをひるがえして腕を振り払った。その拍子に握った財布を落としてしまったけれどもうこうなったら仕方ない。衆目が集まりきる前に後ろを振り返ることなく、白狼は即座に人波に紛れ込んだ。
途中で何人かにぶつかってしまったが、さすがに今は財布を抜いている余裕はない。息継ぎもままならぬまま大通りを走り抜け、細い路地を数本抜ける。足の速さには自信があったし、あんな大柄な男を撒くのはたやすいことだと「油断」した。
見た目などなにもあてにならないということを、白狼自身が忘れていたのである。
ぐるりと路地裏を回り切り、土地勘があって助かったと街外れで膝に手をついた。が、安心したのは間違いだったとすぐに気づいた。頭上に大きな影がかぶさったと思ったとたんに、白狼の身体は宙に持ち上げられてしまったのだ。
ぐつっと喉に襟が食い込み、自分が襟首を持ち上げられているのだと知る。無我夢中で手足をばたつかせたがそれらはすべて空を切る。
「おとなしくしろ。暴れればそれだけ苦しくなるぞ」
息が詰まり朦朧としていく白狼の耳に、都言葉の凛とした少年の声が響いた――。
しかし昨夜の若店主の形相を思い出すと、今日はなんとなく街中でうろつきたい気分にはなれなかった。仕方なく白狼は普段使わない茶屋に入り、窓際の席から大通りを物色することにした。
昨夜のあれは一体なんだったのか。注文した茶を待ちながらぼうっと考えても答えは出ない。でもあの瞬間、白狼と目が合ったはずの若店主は何かを言うために口を開いた。危ないと感じて身を隠したが、その後は特に警吏が自分を探しているでもなく、街は一見いつもの様子を取り戻しているように感じる。
単なる食あたりだったのかもしれない。若店主が調理中に何か間違って腐ったものでも入れたのかも、と白狼は楽観的にとらえようとしてみるがどうにも何かがひっかかったままで気分が悪かった。
泡を吹いて倒れる客が続出するほどの食中毒をだしたとすると、店はもう営業できなくなるかもしれない。
「ったく、あの鶏粥は気に入ってたんだけどな」
理由はどうあれ捕縛された若店主が帰ってきたところで、白狼はもう二度とあの店に行くつもりはなかった。危うい匂いがするところには近づかない。盗みを生業にしている白狼の心に誓っていることの一つである。
茶屋は老夫婦が営んでいるらしく、婆が白狼の前の卓に茶を置きにきた。子どものような成りをしている白狼を少し訝しげに見下ろしていたが、視線に気づいて銭を置くと何も言わずに店の奥に消える。
体の大きさや顔つきなどで侮られることは慣れっこだが、できればもう少し大きくなりたかった。せめてそこらへんを歩く農夫やそのおかみさんくらいの背になれば、違う生き方もできたかもしれない。同世代の少女より小柄な身長をいまさらながら恨みつつ、白狼は茶をすすった。
「今日はめぼしい客がいねえなぁ……」
一人こぼす白狼だったがそれは当たり前のことで、ここは朝市のようにごった返した通りではない。窓の外を歩いている人の流れは少なく、これではいい商売が見込めない。
仕方ねえと、場所を変えるために立ち上がった時だった。
通りを歩く二人組が目に留まったのだ。
一人は壮年の男。体格が良く着ているものも地味な色合いながら上等な生地の胡服である。のしのしと歩いているようで若干後ろを気にしているか、という不思議な歩き方だった。
もう一人はその後ろを歩く少年だ。壮年の男の子どもか奉公人の小僧か、長い髪を首の後ろで一束にまとめ粗末な麻の服を着ている。しかしこれは偽装だ、と白狼の直感が告げていた。理由はその歩き方である。
するすると流れるように足をさばき、頭の高さがほとんど変わらない歩き方なぞ、おいそれとここいらの商人や町人ができる技ではない。熟練の軽業師か、それとも。
――相当身分の高いお貴族様のお忍びか。
そう考えると壮年の男が後ろの少年を気にしながら歩いているのも合点がいった。男は護衛、少年は貴族のお坊ちゃんとアタリを付ける。
大金の匂いに白狼の唇が吊り上がった。財布はきっと前を歩く男が持っているだろう。護衛だけあって随分と大柄だが、きっとその分おそらく動きは鈍い。小回りが効くこちらが俊敏さで負けるはずはないと踏んだ。
しかも二人組がいい。人間、一人の時はそれなりに警戒心をもって動いているものだが、二人や三人になると油断する。ましてやこっちは小僧と見紛われる程度の体躯であるものの、街中に屯する薄汚い孤児とは違い身なりもそれなりに整え疑われにくくしてある。
人ごみに簡単に紛れられる大通りに出るならこっちのものだ。
そこまで考え今日の商売相手をこの二人、いやあの少年に決め機会をうかがうため、白狼はこっそり後を付けることにしたのだった。
しかしだ。
結果は大失敗だった。
人の数が一気に増える大通りに入り、いつものようによろけたふりをして壮年の男の懐から財布を抜いたところまでは良かった。ただその瞬間に後ろを歩いていた少年に手首をひねり上げられてしまったのだ。
「何をしている」
「……ちっ!」
ひねり上げられた手首を背に回される前に、白狼は素早くみをひるがえして腕を振り払った。その拍子に握った財布を落としてしまったけれどもうこうなったら仕方ない。衆目が集まりきる前に後ろを振り返ることなく、白狼は即座に人波に紛れ込んだ。
途中で何人かにぶつかってしまったが、さすがに今は財布を抜いている余裕はない。息継ぎもままならぬまま大通りを走り抜け、細い路地を数本抜ける。足の速さには自信があったし、あんな大柄な男を撒くのはたやすいことだと「油断」した。
見た目などなにもあてにならないということを、白狼自身が忘れていたのである。
ぐるりと路地裏を回り切り、土地勘があって助かったと街外れで膝に手をついた。が、安心したのは間違いだったとすぐに気づいた。頭上に大きな影がかぶさったと思ったとたんに、白狼の身体は宙に持ち上げられてしまったのだ。
ぐつっと喉に襟が食い込み、自分が襟首を持ち上げられているのだと知る。無我夢中で手足をばたつかせたがそれらはすべて空を切る。
「おとなしくしろ。暴れればそれだけ苦しくなるぞ」
息が詰まり朦朧としていく白狼の耳に、都言葉の凛とした少年の声が響いた――。
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