花嫁の弟の話

千日紅

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本編

ストーム 13

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 アンドリューの足はすでにふらふらだ。
 左右だけでなく前後に大きく振られ、ぜえぜえと息が切れている。
「な、なかなか、はぁっ、やるじゃないか…女のくせに……っ」
 アンバーは、崩れた前髪が、汗で額に張り付いたアンドリューをみて、雨に濡れた鶏を連想した。
 それから得心が入って、アンドリューの相変わらず斜めになった構えを修正するように、軽く剣を打ち合わせる。
「わっ…あっ…!」
 腕を突っ張らせてアンドリューは上半身をのけぞらせる。
「やっぱり、足腰が強いんだな。君、ちょっと頑張ればものになるかも知れないよ。私が教えてあげようか?」
「知るか……! ぼんくらの第二王子が、剣なんかできちゃまずいんだよ……」
「え? 聞こえないよ」
 即席のピストのすぐ近くまで、生徒達が壁になって押し寄せている。彼らは興奮しきって、叫んだり笑ったりしている。喧噪が過ぎて、会話はすぐ途切れてしまう。
「食らえ!」
 アンドリューは低くなった体勢から、彼としては渾身の一撃を繰り出す。
 踏み込みは十分だったが、如何せん、脇は開いているし、剣から肩までが真っ直ぐになっていない。腰のひねりが足りず、体重が剣に乗っていない。
 そこまで冷静に見て取って、アンバーはアンドリューの剣を受け、勢いを逃がしながらひねりをかける。
 アンドリューの手から剣が落ちる。
 アンバーは踏み込んだアンドリューの上体を横からすり抜け、盆の窪を剣の柄で打った。
 剣が床に跳ねる。
「おやすみ」
 アンドリューが振っていた剣の横に、彼自身が昏倒する。うつ伏せのアンドリューと剣は揃えたように真っ直ぐ並んでいた。
「そう、こうやって剣をまず真っ直ぐ構えるところからね」
 アンバーは片目を閉じる。戦いを見守っていた生徒達が鬨を作った。



 アンドリューは担架で運ばれ、場は一度落ち着く。
 男子も女子も関係なく、試合の感想を述べあう。アンバーとアンドリューの二人が、正々堂々と戦ったことについて、男子はアンバーの強さに感じ入り、女子はアンドリューが逃げ出さずに戦いきったことを褒めた。
「感情の共有」
 クリスが密やかに笑う。ニコは気づいて彼を見上げるが、クリスの顔が寄せられて、反射的に避ける。
「なっ、何を、するんですか…っ」
「だって逃げるんだもの。面白いなあ」
 面白いという言葉にあまりよい印象のないニコは、それを顔に出してしまう。
「言いなよ」
「……面白いって言われると、傷つくというか……わたしはおもちゃか動物か何かと同じなのかと……って、わ、笑わないで下さい!」
 体を折り曲げて笑うクリスを、ニコはどうしようもなくて、手を拳にしてふるふると肩を震えわせる。
「だって、面白いよ」
 体を起こしたクリスが、ニコの頭に手を置く。そのまま指を髪の間にくぐらせて、指通りを楽しむように耳の後ろをくすぐる。
「おもちゃより、動物より、他のどんなものよりも、ニコが一番面白い」
「……クリス先ぱ……」
 いつもとは違って、少しばかり着崩れた制服の胸元が艶めかしい。
 そう言えば、あんな無茶をして、古傷があるという足は痛みはしないのだろうか。
「ニコ」
 浮かぶ微笑は甘く、ささやく声は蜜のよう。すべてを投げ出してしまいたくなる。ニコは魅入られたように、クリスの肩に手を伸ばす。
 パンパンと手を叩く音がして、ニコははっと手を下ろした。
「そこまで。クリスはいい加減にして。ニコもそんな見え透いた手に乗っちゃだめよ! ああ、もう本当にやってられない」
「み、見え透いたって、え? え?」
 クリスはまた体を折り曲げて笑っている。
「……ティーナ様、クリス先輩って、結構笑い上戸なんですね」
 新しい発見を教師に伝える子どもみたいなニコに、ティーナまでもが吹き出した。



 女子寮の食堂には二百名を越える寮生が集まっている。
 ニコは、クリスとティーナに挟まれる形で立っていた。
 生徒達には、黒髪の人物が、左右に輝くストロベリーブロンドの双子を従えているように見えた。花弁に包まれて、露に濡れた黒真珠さながら、双子の華やかさとは対照的な魅力を、その人物は放っていた。
 男にしては華奢な体つき、女にしてはすらりと背が高く、髪が黒いせいで、白い首はなおほっそりとして見える。肩までの黒髪はところどころ茶色が混ざり、見るからに柔らかそうだ。
 生徒たちは、改めてこの人物が王妃の弟とされる人物であることを思い出す。ニコラス=リンツ。
 高等部の生徒たちは、四月からこの国にやってきた留学生もいる。彼らもふと自分の肩書きを思い出す。それから、その肩書きを忘れていたことに気づく。
 学び、遊び、騒ぐのに、身分も肩書きも必要はない。
「わたしのことは、ニコと呼んで下さい。今回は、わたしのために、こんなことになってごめんなさい」
 ニコが謝罪すると、生徒たちは顔を見回す。きょとんとした顔のヨハンや渋面のカールを見つけ、ニコは微笑んだ。
「でも、皆さんとても楽しそうですね。……王立学院でともに過ごす仲間たちがいるって、素晴らしいことだと思います。
 わたしは、自分の気持ちを姉に伝えることをしませんでした。それは、姉を傷つけるのが怖かったから。それ以上に、自分が傷つくことが怖かったからです。
 大事な人を悲しませるのはとても辛い。でも、それはきっと姉にとっても同じなのだと、やっとわかりました。わたしはここにいたい。きっと、ここから引き離されたら、とても悲しい。とても、後悔する。それは嫌だから、わたしはわたしにできることを、できるだけ、やってみたいと思うんです。
「だから、この男子寮と女子寮の対抗戦を無効にして欲しいのです。だって、相手に勝つことには意味がないから。誰かの意志を動かすには、自分の思いを全部話して、相手の話を聞いて、理解しなければいけないから。私達寮生は、この対抗戦を通じて、お互いを理解して、一緒に楽しんだ。理解すること、お互いを尊重し合うこと、それが一番大切でしょう」
 ニコが言い終わるのを待たずに、拍手がわき起こる。拍手は、食堂内のあらゆるところから起こった。万雷のごとき拍手。
 ニコが驚いて下がりかかるところをクリスが支える。
「さあ、親愛なる寮生の方々。あなたたちはみんな素晴らしい王立学院生よ。
 そこで、次なるゲームを、ともに協力してやってみましょう。勝ち負けなどなくね。魔法陣を作るゲームよ」
 ティーナの言う魔法陣とは、遙か東方から渡ってきたものだ。国王陛下の亡母も東方の国の出身だ。グランツェンラントは交易の要所となる町を幾つか有していて、文化交流が盛んである。魔法陣とはもとは東方の彼方の国で作られた曼荼羅であった。そこにアラビア数字が入れられ、方形となったもの、これが双子の知る魔法陣である。
 クリスが魔法陣を見つけたのは父の書斎である。グランツェンラントから持ち込んだと思わしき書物のひとつに書かれていた。
 幼い彼は、妹と二人きりで魔法陣を作って時間を潰した。
「ここに九つのマスがあるわ。一から九の数字を入れてみるの。こうやって」
 ティーナは黒板に書き込む。数字はバラバラに配置されている。
「魔法陣はきまりがある。この縦、横、斜めを足したときに、必ず同じ数字になるのよ」
 生徒達がざわめく。それぞれ計算してみて、答えを確かめる。「パズルだ」「数学じゃない」などと言い合っている。
「今から出す問題をみんなで解いて欲しいの。けれど覚悟して。この問題は難しいわよ」
 ティーナが大きく九つの数字を書いた。



 当てずっぽうで入れてみたり、法則を見いだそうとしてみたり、どんなやり方でもいい。最終的に和が同じになればいい。
 どれだけ時間がかかってもいい。すぐに答えにたどり着いても、辿りつかなくてもいい。
 どんな難しい問題も、誰かと一緒ならば、立ち向かうことができる。
 ニコの眼前では、男子女子が入り交じってわあわあと議論しながら問題に取り組んでいる。
 それは、まるでニコが村に暮らしていたときに、村の子ども達と混ざって遊んでいたときと同じ光景に見えた。
「よくできたね」
 クリスが微笑む。
「ニコ、いつでも女子寮に来ていいんだから」
 ティーナが唇を尖らせる。
 ニコはたまらなくなって大きく手を伸ばし、二人いっぺんに抱きしめた。
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