花びらの君に散るらしく

千日紅

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光はいつも闇から生まれる

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 猫が笑う。巨大な獣は、細い瞳孔をちりちりと震わせながら、あくびのように口を開ける。
 美しく並んだ門歯は、リトの頭ほどの大きさがあった。その両脇にある犬歯は、ずるりっと伸びきっていた。猫が口を開けても、犬歯の先端が隠れているほどの長さに発達した犬歯は、内側から仄かに明滅して、血溝が浮かび上がっていた。
 それから先にあるはずの臼歯は、三角にとがって、針山のように幾重にも生えて、ぞろぞろと波打っている。
 赤紫色の舌が、べろりと犬歯のあたりから鼻の上まで舐め上げる。
 リトは、敵の攻撃を待つほど、お人好しではない。
 弾みを付けて巨大な獣の眼前に飛び上がると、腰の剣を抜くと、猫の舌の根元を断ち切った。
「ンガァアーー!」
 血を噴き上げながら、猫の舌の根元が勢いよく丸まる。リトが分断した舌の先の方は、巨大な蛭のようにうねりながら猫の足下に落ちる。
 それでもまだリトは剣を振るうことをやめなかった。泡を吹く巨大な獣の額を蹴り、背中に飛び乗ると、また高く跳躍した。
 降り様に、蛇を彷彿とさせる尾を切り落とし、後ろ足の腱を断つ。すると、猫はよたついて尻餅をついた。
「ギャッ……ギッ……」
 座り込んだ猫は、血泡を吹きながら、リトを探す。前足だけを動かし、いざってリトを振り返る。
 リトはもう、まるで剣そのものになったような心地だった。それを自分でおかしいと思うことすら出来ない。異形の身体の中が透けて見える。骨と骨の間、肉と肉の分かれ目、どこを外せば壊れるのかが、手に取るように理解できた。
 だから、リトは、猫の顔がこちらを向いたとき、ためらいもせずにその両眼を刺し貫いた。
 巨大が大きく震える。もう叫びはなかった。
 大きく開いた口の奥、丸まった舌が詰まっているのが見えた。犬歯がリトの頭上に振り翳される。
 リトは一歩、後方に下がってから、剣を逆手に持ち変えた。そして渾身の力で、猫の額に剣を突き立てた。



「アジーン王子……遊びはおしまいです」
 リトは猫の額に脚を立てて、剣を引き抜いた。噴き出す血をものともせず、リトは剣を一振りする。剣は血糊を落とし、彼女は腰に剣を戻す。
「騎士はそうやって王族殺しの時に血に狂う習性があるそうだよ」
「私の主を……ユーリを返してください」
 リトの短い髪は、彼女の剣気を浴びて、黄昏時の空のように闇に浮かび上がっていた。爛々と闇にも青い眼が輝いて、肉の薄い頬に青白い光を落とす。
 アジーンは伏せ目がちにひとつ頷くと、玉座に戻った。妻は彼の傍らに立ち、弟はその場から動かなかった。
「君は、それをユーリに言わないのかい? 目の前にいるじゃないか、君の主は」
 アジーンは顎をしゃくって、リトの目線を促す。リトは顎を固く歯を噛みしめて、アジーンを睨み付けたままだ。
「それともやはり、ここにいるのは君のユーリじゃないからかな。
 ……ユーリは、いずれ闇そのものになる。ユーリは消える。僕の欲望、悪心、闇、僕に足りないものに、ユーリがなってくれるんだ。そうだろ、ユーリ」
 リトは、全身の血が抜かれたような感覚に襲われた。戦いに酩酊していた頭が一気に冷えた。
 ユーリは、漆黒の髪の一筋さえ動かさず、ただ立っていた。漆黒の双眸も、盲いているかのように、水面に落ちた一滴ほどの揺らぎも映らなかった。
 リトは更に顎に力を込めた。奥歯が軋む、砕ける寸前まで。
「……二人してだんまり? やだなあ。主従揃って仲がいいね。もっと僕と遊んでよ」
 リトは背筋がぞわりとして、わずかに目線を落とし、後方を伺った。アジーンが恐ろしかったわけではない。これはもっと直接的な脅威だ。
「ほら、アルカももっと遊んでって」
 瞬間、リトは身体を倒す。彼女の頭があった場所を、黒い塊が飛び貫いて、水のように弾ける。
 ーー猫だ。
 リトは身体をねじって、彼女が倒したはずの、四つ足の異形を振り返った。
「ニャァ」
 本来の大きさどおりの猫が、横たわる巨躯から生まれ来る。ぷつりぷつりと葡萄の粒が取れるように、茶毛の猫が生まれる。
 もぞもぞと手足をそれぞれついて、背中をうんと伸ばして、鳴き声を上げる。それはまさに、生まれたばかりのかわいらしい子猫だった。
 子猫たちはころころと鞠のように一匹また一匹と生まれ、すぐに手足がすんなりと伸びて軽やかに立ち上がる。
「ナーァオ」
 猫たちは巨大な親猫を苗床にして育ったせい、茶色や、白、茶色と白の斑の猫は、彼ら全体が親猫そのままのだまし絵のように見えた。大きな猫の毛並みが輝くように小さな宝石が埋まっている。金色に輝く目。
 しなやかな肢体を悠然とくねらせる、躍動感に満ちた獣の、凜として酷薄な目。それがリトを捉えると、一斉に飛びかかってきた。



 その数は数十か。リトの小さな身体、足りない膂力、それを補うための敏捷性。猫はリトの得意とするところで、彼女に勝る。
 四方八方から爪が襲ってくる。リトはすんでの所で攻撃を躱すのだが、猫たちは容赦しない。
 リトの足下に絡みつき、リトの顔を狙い、彼女の動きを鈍くさせる。
 そうして置いて、彼女の隙を付いて噛みつこうとする。
「くっ……!」
 決してリトの剣は大ぶりではない。むしろほかの騎士に比べれば、刃も薄く重さも長さも足りない。その分小回りが効くのだ。
 それでもこの猫を切るのには足りない。
「あうっ!」
 一匹の猫が、がっぷりとリトの腕に牙を食い込ませる。剣を持った利き手に噛みつかれては、切り落とすこともできない。もたついたところに、他の猫たちが一斉に噛みついてくる。
 戦いへの昂揚も一気に失せたところだった。痛みは、彼女の心までも挫こうとする。
 脚に、腕に、肩に、猫たちは軽々とリトの身体に飛び乗って、彼女の肉に牙を深く食い込ませると、ほっそりとした身体からは想像できない頑固さで顎を振った。牙の食い込んだ肉が骨から浮く。激痛だった。
「あぁああーーっ!」
 猫たちは、一度食い込ませた牙を抜かない。肉を噛みしめた顎にはぎゅうぎゅと力を込めて、ただひたすら、獲物のネズミのように顎を振った。
 ーーぶちっ。ぶち、ぶちぶち……。
 リトの背筋が震える。肉がちぎれる音が鈍く、耳ではなく、身体を伝わってくる。
 リトがあまりの苦痛に閉じていた目を開けば、リトの全身はびっしりと猫に覆われていた。猫たちは、リトに群がる毛虫たちのように、それぞれぴったりと隙間なく身体を寄せ合っている。そして、幾十もの牙が、リトの肉を引きちぎる。
「ああぁっ……! あ、ぅ……」
 獲物をいたぶる猫の本性なのか、リトは猫たちがリトに苦痛を長引かせているようにすら感じられた。
 痛いーー痛みに、自分を、取り落としそうになる。
 リトは拳に力を込めた。まだ、慣れた剣の柄の感触がある。まだだ、まだ。
「痛いかい、騎士リト」
 アジーンの声は、まるで惻隠の情がこもっているように、静かであった。彼の声は、弟に比べると幾分高く、澄んだ響きがあった。軽妙で穏やかな話し口は、周りにいるものを喜ばせた。この兄弟は、そんな、人に好かれるところもよく似ていた。
「痛みとは何だろう。傷ついて得るものが痛みなら、誰もそれを欲しがらない。誰だって傷つきたくないから。みんなが欲しがらないそれを、僕は欲しい。誰もいらないなら、僕がもらったっていいじゃないか。
 この世界は昔、傷つくことに疲れていた。そして訪れた時代。平和で争いのない、傷つくことのない世界。痛みのない世界。
 素晴らしいかい、騎士リト。痛みのない世界。
 ユーリは世界の異分子だ。排除されるべきだった。でも約定はユーリを置き去りにした。ユーリがいなければ、リト、今の君の痛みもない。こんなに苦しむことはなかった。ひょっとしたら、僕も」
 アジーンはそこで言葉を切った。
 リトの全身を襲う激痛も増すばかり。
 顔を除いて、猫にすっかりと覆われている。蓑虫のようにされてリトは動けない。
 牙が深く食い込んで、リトの全身は不随意に震える。
 猫達はリトの痛みに揺すられると、嬉しそうに尻尾を立てた。
「諦めよう、リト。君の主はどうだい? ユーリだって、もう諦めたみたいだよ」
 毛皮にすっぽり覆われたリトの目だけが、アジーンを睨み付ける。
「うぅ……っ」
 首筋の太い血管を牙が引っかけて引っ張る。瞼裏が真っ赤に染まり、声も出なくなる。
 肉が千切れ、血が溢れ出す、骨が軋む。
 ーー痛い。痛い、痛い痛い。
 ーー痛くてーー誰かーー。
 ーー助けて。
 ーー剣を。



 助けはない。
 神はいない。
 世界。
 ひとりぼっちの。



 リト、お前だけが俺の騎士。



 天啓。いや、最初からいつもそこにあったものだ。リトは手を伸ばし、やっと触れる。
 ユーリの目が銀色なのか闇色なのか、彼の髪がさんざめく陽光を写し取ったごとく輝くか虫の鳴く星の夜のごとく闇に満ちているのか、それぞれはユーリではない。欲望も、闇も、ひとつひとつはユーリではない、繋がって初めて「ユーリ」になる。
 リトも同じように、リトではない多くのものから成り立った「リト」。リトはユーリと繋がる。騎士として、共に痛みを背負う。
 ユーリが背負うものが大きいなら、一緒に生きればいい。
 きっと、あなたは笑ってくれる。
 触れたものを掴む。それはずっとリトの手にあった剣の柄だった。



 リト、俺の剣。



 リトが苦悶に耐えて握り続けていた剣の刀身が、燃え上がる。
 鋼の刃は紅蓮の炎となって、一瞬のうちに剣に接していた猫が燃えた。
 炎は温度を上げる。赤から橙へ、橙は冷め、やがて青白く色を変えた。
 毛玉の中から突き出た青白い炎が、毛玉の内側の剣の持ち主の身体を這っていく。炎が舐める端から、じゅっ、じゅっと悲鳴とも取れる短い音とともに、猫は蒸発して消えていく。
 リトの全身を染めた彼女の血も、同じように燃え上がる。
 青白い光の塊になったリトは、剣の刀身を、柄を持ったのとは別の掌に乗せた。
 リトを包んでいた光が、刀身に収束していく。
 純白の光そのものとなった刀身。リトは猫の襲撃を受ける前の彼女の姿を取り戻していた。傷はどこにもない。ぼろぼろになった上衣から、傷んだ鎖帷子が剥き出しになっていた。
 リトは微笑んで、騎士の礼を取った。
 ぴんと伸びた背に気負いはない。リトはリトだった。
 リトは騎士だ。主の剣、主を守り、主のために戦う。
「アジーン王子。世界は……痛みを知っているから……素晴らしいんです」
 さしものアジーンも、目の前の光景が俄には受け入れにくかったようで、答えには一瞬の間があった。
「……君は、世界の素晴らしさを知っていて、僕には知ることは出来ないと、そう言いたいのかい」
「傷つくのは、わかり合えないから。痛みがあれば、違うことがわかる。そこから始まるんです。痛みを感じて、初めて世界が始まるんです。人間は愚かだから、痛みがないと気づかない。傷つくまで、わからないんです。……だから、本当は、痛みがあったってなくったって、世界は素晴らしいはず」
 リトは痛みを導きとした。リトにとって、ユーリに傷つけられたことは祝福だった。ユーリ、リトの主。わかりたい。理解したい。それはリトがユーリを好きだから。理解し、ありのままにあなたを助け、時に勇気づけ、ともに笑い、泣き、いつしか、どちらかがこの世界からいなくなったとしても変わらない。この剣が、主の胸を貫いたとしても。
 それは愛に似ている。リトがユーリに捧げる、リトのすべて。
 リトの顔は、剣が放つ白い光に照らされていた。光は柔らかく、暖かく、あたりを照らした。誰にも理解されない差異、アジーンの抱える世界との違和感。
「アジーン王子。
 あなたは痛みが欲しいのではないんです。傷つきたい……誰かと同じように、傷つきながら誰かとわかり合いたい。誰かにわかって欲しい、……愛して欲しい。
 あなたの今の心、それを、きっと孤独と言うんです」
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