花びらの君に散るらしく

千日紅

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主は騎士を従えて王は何を従える

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「僕が初めて僕の弟に会ったのは、僕が三つになったときだ。母上が、僕に、ユーリは目が見えないから、お前がよくしてやりなさいと言ったのを、今でもよく覚えている。
 僕はまだ普通の子どもだった。転んでは泣き、落っこちては泣きしていたよ。けれどね、次第に僕の感覚は世界から遠ざかっていった。わかるかい? 昨日痛かったはずのことが、今日は痛くない。僕は痛みの記憶を頼りに、加減して生きることにした。だってそうだろう? どこまですれば、皮膚が破れるのか、骨が折れるのか、それもわからないんだ。痛みがないって、そういうことさ。
 ユーリは俺を追って成長した。かわいい弟さ。そのうち、僕は、ユーリがそばにいるときは、傷が早く治ることに気づいた」
 アジーンは言葉を切って、思わせぶりにリトに流し目をくれた。
「……ユーリの中の、闇ですか」
「そう! やはり君はユーリのこととなると優秀だね。僕たちはとても近かった兄弟だからだね。血が近い。王族は王族同士で婚姻関係になり、子孫を作る。結果、とても、とても血が濃くなる。だから、ユーリの闇は僕にも影響した。
 僕は割れた壺の破片を集めるように、文献を漁った。そして知った。この世界は平和というぬるま湯に満たされている。どこにも本当の痛みはないんだ。僕と同じ。いやどちらが本当なんだろう? 僕に痛みがないのか、世界に痛みがないのか。どちらがまがい物なのか。
 いや、きっとどちらでも一緒なんだ。
 僕と同じ、生きているか生きていないかもわからない世界。だから僕は、世界を試すことにした」
 アジーンの食いちぎった親指が、しゃべる彼の口からこぼれ落ち、彼の足元に落ちた。アジーンはひょいと屈んで親指を摘まみ上げると、自分の傷口にくっつけた。
「ほら、この通り」
 アジーンは血に濡れた手を握る。開いた掌のしわに、指の曲がるしわに、赤い線が走り、また交差している手を見て、リトは顔を背けた。
 リーヌのすすり泣きが聞こえる。
「……試すとは」
 アジーンはリトには応えず、後ろの何もない空間を振り仰いだ。
「ユーリ」
 リトは瞠目した。闇の中から、白い指先が現れる。紗の幕をくぐるように、漆黒の青年が現れる。闇と同じ色の髪、深淵のごとき瞳。すらりとした長身と、青年らしい堂々とした体躯。兄が人の王ならば、彼はまさに闇の王だった。かつての姿とはまるで異なる、闇に染まった麗姿。リトの唯一の慕わしい主、ユーリ、その人だった。

 ユーリ。

 彼はリトには目もくれなかった。もちろん、彼女の心の叫びなど、彼には主と騎士の絆があるのだから、お見通しに違いない。それでも、ユーリはまるでリトがそこにいることに気づかないようであった。もしくは、気づいたとしても、取るに足らない、路傍の小石か雑草と同じように、取り立てて、彼が注目する必要もないと判断したようだった。
 ユーリは、自分を呼ばわった兄の肩に手をかけると、親愛の口づけを彼の額に落とし、兄も彼の頬に口づけを返した。
 玉座のアジーンを祝福するかのよう。
 リトはそれを声もなく見つめるしかない。
「ユーリ……僕の弟が、そのための力だ」
 カタカタと音がする。リトは遅れて気づいた。自分の歯が打ち合わさって鳴っているのだ。歯の根が合わないくらい、リトは震えている。
 怯えている。ユーリに、彼女の主に。
 あの頼りなかったユーリ、彼女の庇護に甘んじていた彼は、どこにもいなかった。



「アジーン、その娘をどうする気だ」
 変わらないユーリの声だったが、リトの胸は凍える。
 よく面差しの似た兄弟である。ただ、一方は黒く塗り潰されている。
「猫のおもちゃにでもくれてやろうかな。一応騎士だからね。もうあのおもちゃにも飽きた頃だろうし。リーヌ、おいで」
 アジーンは再びリーヌを呼ぶと、彼女の手を取って立ち上がった。生来の威厳に溢れる若き王、愛らしい妻、そして王に従う、王の弟。
 圧倒された。リトは額づいて許しを請おうとする己の怯懦を心中で痛罵した。
 王ではない。あれは牙を剥き出しにした狼。
 リトの主を顎にかけた狼。
 しかし、気圧されて喉は縮み上がっている。
 震えるリトに、アジーンはむしろ労るような笑みを向けた。
 その時、ユーリがリトを見た。刹那の交錯であったが、ユーリの眼差しは火矢のごとく、リトの芯を貫いた。どくんと心臓が大きく拍動する
 リトの体の奥の熾火がごうと高く炎を噴き上げる。
 ユーリは白い指先を上げ、宙に輪を描く。すでにユーリの白い顔には何の豊穣も浮かんではいなかった。
 形のよい唇が動く。何度もリトの名を呼んだ唇だった。
「……リト、俺の騎士。
 お前に、死をくれてやろう。……お前の主が」
 リト、俺を嫌いにならないで、そう言ったのと同じ声がリトに告げた。
 輪が閉じる。輪はそれ自体が黒い業火の円となる。その炎をくぐって、獣が躍り出た。
 リトは飛びすさる。そして現れた巨大な異形を見上げた。



 四つ足の獣は喉を仰け反らせて鳴く。びりびりと空気が震えるような大きな鳴き声だが、リトも知っている生き物に似ていた。
「……猫!?」
 しなやかな肢体は猫のもの、けれど大きさは比でもない。その右脚ひとつが、リトひとり分の大きさもある。明るい茶色の毛並みに、白い毛が胸に見える。その白いあたりに、転々と赤いシミが飛び散っている。
 あれはーー血だ。誰かの。
 異形と化した猫の後ろ爪に、ぼろきれが絡まっている。いや、それはぼろぼろの布きれが、申し訳程度にくるむ、人間の体だった。
 不思議なくらい長い体だった。気づいたリトの全身に鳥肌が立つ。あの体は、骨が折れている。四肢の骨がいくつも途中でおられ、皮の伸びる限りに四肢が引き延ばされている。胴体に比べ、手足ばかりが、操り人形のように長い。
 胴体に繋がる顔を見て、リトは叫んだ。
「ハル……!!」
 胴体に繋がる首が、リトの叫びにぶるぶると震えたかと思うと、ぐるりと回った。ねじのようにくるくると回った首の皮膚がねじ切れて、頸骨が剥き出しになる。それでやっと首は止まった。
「やあ、騎士リト。ご機嫌はいかがですか? おや、どうしました、顔が真っ青ですよ」
 ハルは、もとから細い眼を更に細める。
 その巌のような、無骨な暖かみのある顔に、伸びきった手足。
「どうして……!? ハルは、あなたたちの仲間でしょ!」
 相変わらず親愛を込めたほほえみを浮かべたアジーンと、仮面のような白い顔のユーリ、リーヌだけが、リトの疑問に、自分の涙を拭った。
「リト……こんなに闇が深ければ……仕方ないの。命あるものはみな、闇に引きずられてしまう。アルカも……私の猫も……ハルも……」
 リトの脳裏に、蛇身のユリの断末魔が蘇る。
「アルカ……私のかわいい猫……、アジーン様が助けてくれた、私の猫、アルカ……」
「リーヌ」
 アジーンはリーヌを引き寄せて、ふんわりと抱きしめた。リーヌはアジーンの胸に顔を伏せた。
 アルカと呼ばれた四つ足の異形が、後ろ足を払うと、もつれていたハルの身体が放り出される。
「はははっ! うんざりだ! 賢者なんてうんざりだ! 何の変化も進歩もない、同じことの繰り返し! 壊れろ! 割れろ! 砕けろ! 消えろ!」
 ぶちゅっと音を立てて、ハルの頭がアルカの脚に踏まれて潰れる。
「ハル……」
 おぞましいとしかリトには思えなかった。ハルがユリに、ユリの母にしたことも、リトに仕組んだことも、決して許されることではない。けれど、だからといってこのように蹂躙される存在に成りはてることが、果たしてふさわしいのだろうか。
 猫が長々と雄叫びを上げる。
 朝を告げる鶏の長く鳴くように、金属を擦り合わせるような甲高く、耳に障る鳴き声が、果てのない闇の空間に響き渡る。
 猫の真円に膨らんだ瞳孔が、リトを捉える。猫の瞳孔は、闇の中にぽかりと浮いたリトを見て、縦に細長く伸びた。
「アルカ、それが、新しいおもちゃだよ」
 アジーンはさらりと妻の愛猫に言った。それを合図にして、リトと猫の異形との戦いが火蓋を切った。
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