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邪な意図は闇を汚し愛を知らず
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歩き慣れた城内の廊下は、大きな生き物の内臓の内側であるように、壁自体、床自体がうごめいていた。リトが歩を進めると、足の下でぶよぶよと床が沈む。
淀んだ空気は饐えていた。廊下の角に、何かが入り込む。かさかさと音を立て、逃げゆく虫。いや、あれはかつて人であったもの。
虫よりも遙かに大きい顔が上横左と、獣よりも遙かに矮小な背、虫の足と人の足が混じり合う、蠍に似た姿は、虫と人と、人であっても一人ではなく、そのあたりの、すれ違いざまに会釈し合ったり、井戸の端であれこれと喧しくおしゃべりをする、数人をまとめて団子のように飲み込んで、ものの数も数えられぬ子供がこねた泥のようにぐちゃぐちゃと混ぜ合わせ、そのうち飽きて放り出したような、目も当てられぬ不気味さを持っていた。
リトは昂然たる面持ちで、王の間を目指す。その後をナツがついて行く。そのナツの足取りが、彼女とはまるで正反対にもたもたと遅く、重くなっていく。それも当然であった。このように闇が深ければ、ひとはひとの形を保つことも難しい。
「……息をするのも苦しいくらいだな」
ゼイゼイと息を荒げたナツは小柄な体を、ぬらぬらと得体の知れぬもので濡れた廊下の壁に凭れかけて、つぶらな黒い目をぎゅっと閉じて不快感をやり過ごす。
「銀月さまの加護が生きているから、何とか保っているが……。騎士リト、お前はわかるか? ここに満ちた闇の重さが」
「ええ、どんどん濃くなっている。きっと、ユーリがいるから」
リトは短い髪の項を撫でた。ちりちりと首筋の産毛が焼かれるみたような感覚がある。
「お前は恐ろしくないのか」
ナツからすれば、リトのさまは畏怖さえ誘った。質量を持ったように重い空気は、進むごとに体力と精気を奪う。彼女はむしろ水を得た魚のように、軽やかに闇の真中を進む。目の当たりにした土人形の最後も、まなかいに凝らせた彼女の背中は、真っ黒く伸びる廊下に燐光を放っているように、ナツには見えた。
異形達は襲いかかってこない。リトに恐れをなして、闇に這う者どもは奥へ奥へと逃げていくのだ。
「ナツ……。いいえ、私も恐ろしいの。何があるかわからない」
恐怖は生き抜く上で重要だ。己の恐怖に敏感に、それによって、相手の脅威を正確に感じることが求められる。
「怖ければ……逃げてもいいのかしれない。だから、ナツがここで引き返してもいいと思う。それで、ナツが死ぬよりよっぽどいい」
「お前は行くのか」
「……もしね、ユーリが泣いていたら、自分の目が見えないことが悲しい、苦しいと言って、いつも泣いてばかりいたら、私はきっとユーリに嫌気がさしてたんじゃないかしら」
悲嘆に暮れるユリの母から、潮が引くように人が去って行ったように。
「誰かの苦しみや悲しみを、そばにいて、痛みを感じることはとても怖いの。自分が不安になって、立ちゆかなくなってしまう。だから、ユーリは、私の分まで痛みを背負って、私がそばにいることを許してくれた。
ユーリはきっと、私が逃げることも許してくれる……。私は自分が怖い。痛みに怯える心が、それを理由に、ユーリの苦しみをなかったことにしようとする自分が。怯えることすら、ユーリの苦しみのせいにしようとする自分が。
だから、行くのよ。ユーリに会いに行くの」
「……一度闇に染まった身は……いや、いい。お前の決意を、覆すことは誰にもできまい。
お前の決断が、一国を滅ぼそうとも」
リトは、ナツの短い間隔で瞬くつぶらな黒い瞳を見据えてから、闇を従えた女王のごとき気高さで、頭を下げた。
「ありがとう。あなたのおかげで」
「言うな。俺は自分が……情けない。……銀月さまは無事だ。俺はここで、銀月さまの加護を頼りに、お前の帰還を待つとしよう。ハルをどうか」
そこまで言うと、ナツはずるずると床に崩れ落ちた。
座り込んだナツに、リトは慈悲めいた微笑を投げ、踵を返した。
主の信頼を裏切らず、常に主の傍らにあり、主を守る。
主が敵に立ち向かうとき、必ずや、その敵を倒す剣となる。
主が傷つき倒れるとも、痛みに苦しむとも、決して離れず、主の傷を我が傷のごとく、痛み苦しみを我が痛み苦しみとして、主を慰める。
騎士としての誓いが、今はユーリとの唯一のよすがなのだ。
誓いはリトの胸にあり、思いはユーリに向かう。二人の間には、目には見えない、積み重ねてきた時が織りなす思い出があって、そのひとつひとつが、リトの一歩一歩と共に蘇る。
あの子、なんてきれいなんだろう。王子様なの? じゃあ、私なんかとは仲良くしてくれない。
目が見えないの。かわいそうに。助けてあげたい。私でも王子様の役に立てれば、きっと。
私がいるって言って欲しい。
私を好きになって欲しい。
始まりは簡単で、きっとそれは変わらない。
自分とは違う誰かとの出会い。
違いとの出会い。
それが、どんな違いであっても、その差異が、あなたが私ではないことを教えてくれる。
あなたが、私ではないからこそ、私はあなたに寄り添うことができる。
私は私を抱きしめることはできず、あなたはあなたを抱きしめることはできないが、私はあなたを、あなたは私を、愛することができる。
どんな違いも、祝福となって、私にあなたを愛するということを与えてくれる。
王の間。
リトの足はその大きな扉の前で止まった。扉の向こうに、大嵐があるような、足下の床が引きずり込まれそうな、それでいて、リトを握そうとする腕が、今にも迫ってきているような、体の内側から、ざらざらと舐められるような、けれど、リトは、その中にほんの一筋、慕わしい香りをかぎ取った。
扉は、彼女が手をかざすと、自ずからぎしぎしと鳴りながらゆっくりと開いていった。
闇の真底である。炭そのものの光の存在を許さぬ闇のただ中に、リトは一歩を踏み出した。
ぼぅと仄赤い光が灯る。リトは目をこらす。光の中には玉座があった。玉座にはひとりの青年が座っていた。
座った足を高く膝で組んで、肘を乗せて、組んだ手の甲に顎を乗せている。珍しい品物を持ち寄った商人に身を乗り出すに似た、むしろ熱意すら感じる青年が、やけに権高く感じられるのは、リトの不安のせいなのか。
「アジーン様」
リトが膝をつくと、青年は金髪碧眼の弟とよく似た面差しの頬を緩めた。
「よく来たな、リト。いや、僕は待ちくたびれたと言ってもいい」
許しがなくとも頭を上げたリトは、だがしかし、彼女の主は、国でも王でもなく、ユーリだけと決めた。だから、ほかの何者にも、従うつもりはない。膝をついたのは、ユーリの兄への礼という気持ちであった。
「ユーリを……私の主はどこですか」
「僕の弟はやれないよ」
噛みしめた歯の間から絞り出すように聴いたリトとは対照的に、アジーンは鷹揚に応えた。
もとより温厚誠実で彼が次期国王となるのも万人が待ち望んでた傑物であったアジーンは、ここに来ても以前の彼のままである。それがリトの背筋を冷やす。
「どうしてですか」
アジーンは夢見るように微笑んだ。
「僕の弟は、闇を秘めて生まれてきた、希有な盲目の王子。ユーリがいなければ、僕の悪心は闇を呼ばない」
ふふっと漏らした吐息が、リトの頬を甘ったるく撫でる。
「悪心、と仰る」
「ああ、そうだよ、僕の欲望は、悪心は、闇を呼ぶところまで強くならない。だから、ユーリに助けてもらわないといけない」
リトの思考はしばし止まる。アジーンは自分の悪心を認めたが、その元となる欲望の強さを否定している。王族として生来の強さが備わっていない、こんなことがあるのだろうか。
「教えてあげるよ、僕の弟の騎士。リーヌ、おいで」
玉座から手招いた闇の中から、青ざめた顔の彼の妻が現れる。
リーヌは、手に短剣を携えていた。
リトは剣の柄に手をかける。
リトの警戒に、アジーンは一層にこやかに、近くに呼び寄せた妻に、自分の右手を翳した。
「さあ」
リーヌは、油の切れた歯車で動くようにぎこちなく、のろのろと上げた短剣を、アジーンの右手の人差し指と中指の間に、ゆっくりと振り下ろした。
「何をするんです!」
思わずリトの腰が浮いた。アジーンは一瞥して彼女を押しとどめると、リーヌを励ますように声をかけた。
「もっと力を入れなければ、刃が止まってしまうよ」
ひくっと、リーヌの喉が震える。彼女の目に涙が盛り上がる。しかし、彼女は夫に言われたとおり、刃に渾身の力を込める。
ぎっと短剣と骨が当たって、リーヌの手が短剣を放した。
「何を……アジーン様……!?」
アジーンの手は、掌の半ばまでぱっくりと蟹の鋏のように割れている。だらだらと血を流す傷口を、アジーンは眉一筋の動きもなく、観察していた。
「やっぱり、痛くないんだよなあ」
アジーンが独り言のように呟く。
呆然と眼を瞠るリトの前で、アジーンの傷が塞がり始める。あれが闇の為せる業だということはわかる。けれど、あれほどの傷を、まるでアジーンは感じていない。
感じていない。
「アジーン様……感覚が……」
アジーンは不出来な生徒が問題を解いた時の教師みたような顔をした。
「僕には痛覚がない。痛みがないんだよ、リト。君、とっても痛そうな顔をしているね。僕の弟も、君がいない時に、そんな顔をすることが多かった。ねえ、痛いってどんな感じだい? 僕も努力したんだよ。古今東西の文献を当たって、結局何の手立てもなかった。この世界について詳しくはなったけどね。
どうだいリト? 痛いって、苦しいんだろう? 嫌なんだろう? あんまり痛いと死にたくなるんだろう? それで、死にたくないって、思うんだろう? そんな時、生きてるって感じ、するんだろう?
僕はそれが羨ましくてね。どうせなら、世界中に痛みを与える側になってみようと思ったんだ。なかなかの名案だと思わないか。
どうだいリト? 最愛の主があんな姿になって、奪われて、ああ、そうだ。君はユーリに犯されたんだね! どうだった? 絶望したかい?それにつけても君たちは、いつもお互いを傷つけ合って、その傷をなめ合って、痛みを繰り返して、全く仲良しだな。大きな傷も負ったはずだ。痛かったかい? 怖くなったかい?
どうだいリト? 痛いかい? まるで心が傷を負って血を流してるみたいかい?
それって、生きてるって感じかい?」
アジーンはリトに親しみを込めて語りかけた。
リトは自分の膝が震え出すのを感じた。リーヌが両手で顔を覆う。その手を伝って、涙がはらはらと落ちる。
「アジーン様、あなた……狂ってる」
アジーンは歯を剥き出しにして、自分の右手からまだぶら下がった親指を食い千切った。
「違うね、狂っているのは、狂わされているのは、この世界だ」
淀んだ空気は饐えていた。廊下の角に、何かが入り込む。かさかさと音を立て、逃げゆく虫。いや、あれはかつて人であったもの。
虫よりも遙かに大きい顔が上横左と、獣よりも遙かに矮小な背、虫の足と人の足が混じり合う、蠍に似た姿は、虫と人と、人であっても一人ではなく、そのあたりの、すれ違いざまに会釈し合ったり、井戸の端であれこれと喧しくおしゃべりをする、数人をまとめて団子のように飲み込んで、ものの数も数えられぬ子供がこねた泥のようにぐちゃぐちゃと混ぜ合わせ、そのうち飽きて放り出したような、目も当てられぬ不気味さを持っていた。
リトは昂然たる面持ちで、王の間を目指す。その後をナツがついて行く。そのナツの足取りが、彼女とはまるで正反対にもたもたと遅く、重くなっていく。それも当然であった。このように闇が深ければ、ひとはひとの形を保つことも難しい。
「……息をするのも苦しいくらいだな」
ゼイゼイと息を荒げたナツは小柄な体を、ぬらぬらと得体の知れぬもので濡れた廊下の壁に凭れかけて、つぶらな黒い目をぎゅっと閉じて不快感をやり過ごす。
「銀月さまの加護が生きているから、何とか保っているが……。騎士リト、お前はわかるか? ここに満ちた闇の重さが」
「ええ、どんどん濃くなっている。きっと、ユーリがいるから」
リトは短い髪の項を撫でた。ちりちりと首筋の産毛が焼かれるみたような感覚がある。
「お前は恐ろしくないのか」
ナツからすれば、リトのさまは畏怖さえ誘った。質量を持ったように重い空気は、進むごとに体力と精気を奪う。彼女はむしろ水を得た魚のように、軽やかに闇の真中を進む。目の当たりにした土人形の最後も、まなかいに凝らせた彼女の背中は、真っ黒く伸びる廊下に燐光を放っているように、ナツには見えた。
異形達は襲いかかってこない。リトに恐れをなして、闇に這う者どもは奥へ奥へと逃げていくのだ。
「ナツ……。いいえ、私も恐ろしいの。何があるかわからない」
恐怖は生き抜く上で重要だ。己の恐怖に敏感に、それによって、相手の脅威を正確に感じることが求められる。
「怖ければ……逃げてもいいのかしれない。だから、ナツがここで引き返してもいいと思う。それで、ナツが死ぬよりよっぽどいい」
「お前は行くのか」
「……もしね、ユーリが泣いていたら、自分の目が見えないことが悲しい、苦しいと言って、いつも泣いてばかりいたら、私はきっとユーリに嫌気がさしてたんじゃないかしら」
悲嘆に暮れるユリの母から、潮が引くように人が去って行ったように。
「誰かの苦しみや悲しみを、そばにいて、痛みを感じることはとても怖いの。自分が不安になって、立ちゆかなくなってしまう。だから、ユーリは、私の分まで痛みを背負って、私がそばにいることを許してくれた。
ユーリはきっと、私が逃げることも許してくれる……。私は自分が怖い。痛みに怯える心が、それを理由に、ユーリの苦しみをなかったことにしようとする自分が。怯えることすら、ユーリの苦しみのせいにしようとする自分が。
だから、行くのよ。ユーリに会いに行くの」
「……一度闇に染まった身は……いや、いい。お前の決意を、覆すことは誰にもできまい。
お前の決断が、一国を滅ぼそうとも」
リトは、ナツの短い間隔で瞬くつぶらな黒い瞳を見据えてから、闇を従えた女王のごとき気高さで、頭を下げた。
「ありがとう。あなたのおかげで」
「言うな。俺は自分が……情けない。……銀月さまは無事だ。俺はここで、銀月さまの加護を頼りに、お前の帰還を待つとしよう。ハルをどうか」
そこまで言うと、ナツはずるずると床に崩れ落ちた。
座り込んだナツに、リトは慈悲めいた微笑を投げ、踵を返した。
主の信頼を裏切らず、常に主の傍らにあり、主を守る。
主が敵に立ち向かうとき、必ずや、その敵を倒す剣となる。
主が傷つき倒れるとも、痛みに苦しむとも、決して離れず、主の傷を我が傷のごとく、痛み苦しみを我が痛み苦しみとして、主を慰める。
騎士としての誓いが、今はユーリとの唯一のよすがなのだ。
誓いはリトの胸にあり、思いはユーリに向かう。二人の間には、目には見えない、積み重ねてきた時が織りなす思い出があって、そのひとつひとつが、リトの一歩一歩と共に蘇る。
あの子、なんてきれいなんだろう。王子様なの? じゃあ、私なんかとは仲良くしてくれない。
目が見えないの。かわいそうに。助けてあげたい。私でも王子様の役に立てれば、きっと。
私がいるって言って欲しい。
私を好きになって欲しい。
始まりは簡単で、きっとそれは変わらない。
自分とは違う誰かとの出会い。
違いとの出会い。
それが、どんな違いであっても、その差異が、あなたが私ではないことを教えてくれる。
あなたが、私ではないからこそ、私はあなたに寄り添うことができる。
私は私を抱きしめることはできず、あなたはあなたを抱きしめることはできないが、私はあなたを、あなたは私を、愛することができる。
どんな違いも、祝福となって、私にあなたを愛するということを与えてくれる。
王の間。
リトの足はその大きな扉の前で止まった。扉の向こうに、大嵐があるような、足下の床が引きずり込まれそうな、それでいて、リトを握そうとする腕が、今にも迫ってきているような、体の内側から、ざらざらと舐められるような、けれど、リトは、その中にほんの一筋、慕わしい香りをかぎ取った。
扉は、彼女が手をかざすと、自ずからぎしぎしと鳴りながらゆっくりと開いていった。
闇の真底である。炭そのものの光の存在を許さぬ闇のただ中に、リトは一歩を踏み出した。
ぼぅと仄赤い光が灯る。リトは目をこらす。光の中には玉座があった。玉座にはひとりの青年が座っていた。
座った足を高く膝で組んで、肘を乗せて、組んだ手の甲に顎を乗せている。珍しい品物を持ち寄った商人に身を乗り出すに似た、むしろ熱意すら感じる青年が、やけに権高く感じられるのは、リトの不安のせいなのか。
「アジーン様」
リトが膝をつくと、青年は金髪碧眼の弟とよく似た面差しの頬を緩めた。
「よく来たな、リト。いや、僕は待ちくたびれたと言ってもいい」
許しがなくとも頭を上げたリトは、だがしかし、彼女の主は、国でも王でもなく、ユーリだけと決めた。だから、ほかの何者にも、従うつもりはない。膝をついたのは、ユーリの兄への礼という気持ちであった。
「ユーリを……私の主はどこですか」
「僕の弟はやれないよ」
噛みしめた歯の間から絞り出すように聴いたリトとは対照的に、アジーンは鷹揚に応えた。
もとより温厚誠実で彼が次期国王となるのも万人が待ち望んでた傑物であったアジーンは、ここに来ても以前の彼のままである。それがリトの背筋を冷やす。
「どうしてですか」
アジーンは夢見るように微笑んだ。
「僕の弟は、闇を秘めて生まれてきた、希有な盲目の王子。ユーリがいなければ、僕の悪心は闇を呼ばない」
ふふっと漏らした吐息が、リトの頬を甘ったるく撫でる。
「悪心、と仰る」
「ああ、そうだよ、僕の欲望は、悪心は、闇を呼ぶところまで強くならない。だから、ユーリに助けてもらわないといけない」
リトの思考はしばし止まる。アジーンは自分の悪心を認めたが、その元となる欲望の強さを否定している。王族として生来の強さが備わっていない、こんなことがあるのだろうか。
「教えてあげるよ、僕の弟の騎士。リーヌ、おいで」
玉座から手招いた闇の中から、青ざめた顔の彼の妻が現れる。
リーヌは、手に短剣を携えていた。
リトは剣の柄に手をかける。
リトの警戒に、アジーンは一層にこやかに、近くに呼び寄せた妻に、自分の右手を翳した。
「さあ」
リーヌは、油の切れた歯車で動くようにぎこちなく、のろのろと上げた短剣を、アジーンの右手の人差し指と中指の間に、ゆっくりと振り下ろした。
「何をするんです!」
思わずリトの腰が浮いた。アジーンは一瞥して彼女を押しとどめると、リーヌを励ますように声をかけた。
「もっと力を入れなければ、刃が止まってしまうよ」
ひくっと、リーヌの喉が震える。彼女の目に涙が盛り上がる。しかし、彼女は夫に言われたとおり、刃に渾身の力を込める。
ぎっと短剣と骨が当たって、リーヌの手が短剣を放した。
「何を……アジーン様……!?」
アジーンの手は、掌の半ばまでぱっくりと蟹の鋏のように割れている。だらだらと血を流す傷口を、アジーンは眉一筋の動きもなく、観察していた。
「やっぱり、痛くないんだよなあ」
アジーンが独り言のように呟く。
呆然と眼を瞠るリトの前で、アジーンの傷が塞がり始める。あれが闇の為せる業だということはわかる。けれど、あれほどの傷を、まるでアジーンは感じていない。
感じていない。
「アジーン様……感覚が……」
アジーンは不出来な生徒が問題を解いた時の教師みたような顔をした。
「僕には痛覚がない。痛みがないんだよ、リト。君、とっても痛そうな顔をしているね。僕の弟も、君がいない時に、そんな顔をすることが多かった。ねえ、痛いってどんな感じだい? 僕も努力したんだよ。古今東西の文献を当たって、結局何の手立てもなかった。この世界について詳しくはなったけどね。
どうだいリト? 痛いって、苦しいんだろう? 嫌なんだろう? あんまり痛いと死にたくなるんだろう? それで、死にたくないって、思うんだろう? そんな時、生きてるって感じ、するんだろう?
僕はそれが羨ましくてね。どうせなら、世界中に痛みを与える側になってみようと思ったんだ。なかなかの名案だと思わないか。
どうだいリト? 最愛の主があんな姿になって、奪われて、ああ、そうだ。君はユーリに犯されたんだね! どうだった? 絶望したかい?それにつけても君たちは、いつもお互いを傷つけ合って、その傷をなめ合って、痛みを繰り返して、全く仲良しだな。大きな傷も負ったはずだ。痛かったかい? 怖くなったかい?
どうだいリト? 痛いかい? まるで心が傷を負って血を流してるみたいかい?
それって、生きてるって感じかい?」
アジーンはリトに親しみを込めて語りかけた。
リトは自分の膝が震え出すのを感じた。リーヌが両手で顔を覆う。その手を伝って、涙がはらはらと落ちる。
「アジーン様、あなた……狂ってる」
アジーンは歯を剥き出しにして、自分の右手からまだぶら下がった親指を食い千切った。
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