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本編

一日のはじまり

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 雪白の肌、黒檀の瞳、赤い唇。
 鏡よ、鏡。
 世界で一番――あの人に愛されるのはどなた?



 ルルの一日は、手鏡を覗くことから始まる。ルルは毎朝、一縷の望みを込めて、手鏡に映る自分を見る。
 曇った鏡には、黄色い髪の毛を垂らした娘が映っている。ひまわりみたいな鮮やかな色の髪の毛と、真っ白い肌。唇は小さく、血の色そのままに赤い。
 目は大きくて、何だかまん丸で、真っ暗い。
 ルルは手鏡を伏せる。毎日同じように希望を持って、毎日同じように絶望する。
 ルルはしばらく手鏡を伏せた鏡台に向かって頭を垂れていたが、すっくと立ち上がる。
 さあ、今日も一日を始めなければならない。



「おはよう、ゼペットさん! おはよう、インゲさん!」
 ルルは廊下をすれ違う使用人達に挨拶をしながら先を急ぐ。黄色い髪は頭の高いところで纏め、足さばきのいい山吹色のワンピースの上に白いエプロンを着けている。
「おはようございます、ルル様」
 彼女は、使用人達がルルのことをひまわり姫と噂していることを知らない。その愛称に、親愛と、幾ばくかの憐憫が含まれていることも。
「ねえ、ハンスさん。お兄様は帰ってらっしゃる?」
「朝方のお帰りでしたが、お部屋でお休みだと思いますよ」
「まあ、それはいけないわ! 今日はご用事が無いのなら、ゆっくりした方がいいのではないかしら」
 ハンスは主人の信頼厚い執事だ。ルルは正確な年齢は知らないが、ハンスの顔には深い年輪が刻まれている。
 清潔に整えた髪も、蓄えた髭も白いものが混じっている。
「ご主人様は、ルル様にはいつも通り起こしていただきたいと仰っておられましたよ」
 ルルはハンスの言葉にしばし顎に手を当てる。
 ルルは十六歳だ。世間では嫁に行ってもおかしくない年だが、グランツェンラントでは子女の初婚年齢は上がりつつある。二十歳くらいまでは猶予があると言って良かった。
 それにしても、彼女は服装の幼さも相まって、まるで花の精か何かのようだ。
 ハンスの顔に浮かぶ感嘆に、考え込むルルは気づかない。
 ルルの爽やかなレモン色の前髪の下、目ははっとするほど大きい。瞳の黒は紫と茶色を丹念に混ぜた色、睫の色は、髪の色よりうんと濃かった。そのせいで、目が印象的に見えるのだ。
 細く小さな鼻は、すっと摘まみ上げたように美しい隆起を描いている。唇は紅もささないのに赤い。全体的に少女めいた造作の中で、椿の花びらのような赤が、やけに鮮やかだ。
「じゃあ、起こしてさしあげる!」
 ルルはハンスに手を振って、走り出そうとして足を止めた。ハンスを振り返ると、ぺろりと舌を出して、これ見よがしに大股で歩き出す。
 いつも気持ちのままに走り出すルルを注意するハンスに向けて、ルルは十分な愛想を振りまいた。
 彼女を見ていると、自然と頬が緩んでしまう。ハンスは孫娘と言っていい年頃のルルの天真爛漫な姿に胸を熱くする。
「……ルル様も、大きくなられて」
 ハンスは呟くと、自分の胸元から懐中時計を取り出した。気を引き締める。朝の仕事は山ほどある。



 重厚な作りの扉は重いが、手入れが良いから動きはスムーズだ。
 ルルの頼りない力でも、ドアノブを回せばドアは開く。いつものように鍵はかかっていない。
 窓という窓は厚いカーテンが覆っていて、室内は薄暗い。
 ルルは勝手知ったる主寝室を、幾分足音を忍ばせて進む。右手には書斎への扉、左手にはバスルームへの扉。
 そして正面には、天蓋のついたベッド。
 ルルはそろりそろりとベッドに歩み寄ると、そこに眠る人物に声をかけた。
「お兄様、朝よ」
 ベッドの上の蓑虫、もといシーツの塊はぴくりともしない。
「お兄様」
 今度は、やや声を大きくしてみた。しかし反応はない。
「ヨナスお兄様! 起きて!」
 ついでに、シーツの塊をほぐそうと手を突っ込んでみる。指に絡む絹の感触がいくらでも続き、指はシーツに飲み込まれたよう。
「ヨナス! 起きて!」
 声も寝室のもの言わぬ調度や、足下に敷いた絨毯に吸い込まれるよう。ルルは白い頬を今や桜色に染めて、シーツの塊と格闘していた。
 その指が、シーツとは違う、温かいものに触れる。ルルは顰めていた眉を解く。
 やっとシーツの中身に手が届いた、ルルが安堵する間もなく、今度はルルがシーツに飲み込まれた。
「きゃっ……! ちょ、ちょっと……!」
 室内の暗さに拮抗して、青みを帯びた黄色い頭がシーツの海に消える。
「ヨナスお兄様!」
 ルルをベッドに引きずり込んだのは、この館の主。
「お酒くさい! 最悪!」
 ルルの間近に、寝ぼけた、それでも古い国々の神々のように整った男性的な顔がある。
 金色の豊かな髪が、今は銅色に見える。海のように青い瞳だけは変わらない。
「……ルル……眠い……」
 太い腕が、ルルの身体に巻き付いてくる。
「お、お兄様、服着てないってば!」
「んー……ルル……今日もかわいいよ……」
 高い鼻梁をルルの首筋に押しつけるようにして、ワンピースの襟元に呟かれて、ルルは悲鳴を上げた。
「お兄様! 起きて!」



 ルル・シュベルトベルク。十六歳。
 彼女が、ヨナス・フォン・シュベルトベルクに初めて会ったのは、十年以上前のことになる。
 その日は冷たい雨が降っていた。
 ルルは、古びた娼館の、娼婦達が使う薄汚れた食堂の壁を拭いていた。「女将さん」は、ルルが鈍臭いと言って、さんざん馬用の鞭でルルの太ももを叩いた。それから、罰だと言って、食堂の壁をきれいにするようにと言い置いて出て行った。
 壁にはワインが飛んで染みになっていた。娼婦同士の客の取り合い、彼女たちは神の息子の血を浴びせ合い、長い髪をむしり合った。
「さんざんだよ」と「女将さん」は言った。「あんたみたいなガキを引き取ってから、何にもいいことないよ」と。
 ルルのやせこけた手に、雑巾は余る。絞りきれない水滴が、後から後からささくれた床に滴った。
 ワインの染みは、消えるどころか、雑巾の含んだ水気であたりに広がって、余計壁は汚くなった。
 ルルは乾いて血の滲んだ唇を噛みしめた。今度は、食事が抜きになるかもしれない。
 骨の浮いたあばらの下、ちっぽけな胃がぐうぐう鳴った。
 食堂の扉が開いたとき、ルルは雑巾を放り出して、床に這いつくばった。
 けれど、そこにいたのは、「女将さん」では無かった。
 灰色だった世界が、彼を中心に色づいていく。
 長身を黒い軍装に包む。マントには雨粒がダイヤモンドのように散らばっていた。
 豊かな金色の髪を後ろに流している。サーカスのチラシに描いてあった猛獣みたいだ、とルルは思った。
 そして、彼の秀でた額、窪んだ眉下の目は、真っ青だった。
 ルルの知らない、遠い国の空や、海の色だ。物語の中にだけある、美しい青。
 この娼館で、ルルが楽しいと思えることは一つしか無かった。それは、娼婦達が気まぐれでルルに与えた絵本を読むこと。貴重な版画の絵本は、娼婦の客の一人が土産として与えたものだったが、娼婦は字が読めなかったし、美しい絵よりも、価値のある宝飾品を欲しがった。
 誰もいらなくなった絵本はルルの宝物になった。
 ルルは読めない字を指でなぞり、絵を目に、心に焼き付ける。
 いつも物語の最期には、「王子様」がやってきて「お姫様」を目覚めさせる。
 王子様は、金色の髪に青い目をしていた。
「ルルかい?」
 ヨナスは這いつくばるルルにも、食堂内の荒れ果てようにも動揺した様子が無かった。
 堂々と大きな一歩で彼女の元に寄ると、大きな手でルルを抱え上げた。
 ルルの視界から汚れた床が消える。そして、彼女の視界いっぱいに、青が広がる。
 確かにこの瞬間、ルルの世界は変わったのだ。
「女将さん」はヨナスから金貨の入った革袋を受け取って、太り肉を揺らして小躍りしている。
 ヨナスはルルの細い枯れ枝のような手足を、自分のマントで覆った。
「……おうじさま……?」
 ルルの掠れた声を聞いて、ヨナスは痛ましげに眉を寄せた。
 ルルはもう一度、「おうじさま」と細く呼んだ。幼いながらルルは、ここで自分が死ぬのなら、どんなにか幸せだろうと思って、垢じみた顔に精一杯の笑みを浮かべた。
 ヨナスは、ルルの――頬は腫れて、額には痣があり、唇の端は切れ、髪は箒のようにばさばさで、そこだけ、生まれたままの赤ん坊のように濡れた黒い瞳をじっと見つめた。それから、ぱっと破顔した。ルルが唖然とするほど、太く、逞しく、頼りがいのある笑顔を見せた。
「そうだよ、ルル。俺は君の王子様だ。俺が君を、ここから連れ去ってやる」



 屋敷に連れてこられたルルに、ヨナスはひとつの仕事を与えた。その仕事も無くなれば、ルルの命の火はすぐにも消え去りそうなほど弱っていた。
 ヨナスに朝を告げること。
 ルルの世界をヨナスが目覚めさせたように。


 ハンスは主寝室の賑やかな声に耳を澄ましてから、朝食の指示を出す。 幼い頃の栄養失調がたたり、ルルの身長はあまり伸びないまま止まった。それでも近頃は、十分に娘らしく、膨らむべきところは膨らんで、引っ込むべきところは引っ込んでいる。
 しかし、ハンスも含め、屋敷中の者たちは、ルルにある問題があることを知っていた。

 寝室のベッドの上では、猛獣が小鳥とじゃれ合っている。
 小鳥は本気で逃げようとしているが、猛獣はまるで気にしない。
 ヨナスはルルの華奢な身体を抱きしめて、抱き枕代わりにして二度寝を決め込もうとしている。
「ルル……世界で一番、きれいな……ルル……」
 ルルの堪忍袋の緒が切れる。
「ヨナス! 起きなさい!」
 ルルの振り上げた手が、ヨナスの頬に振り下ろされる。



 鏡よ、鏡、この世で、一番みにくいのは、だぁれ?
 それは私、雪白姫。



 ぱっちーんと大きな音が廊下に響き渡る。これも毎朝のことなので、召使い達は驚かない。
 グランツェンラント国王、世にも名高き白蛇公の剣、勇猛果敢なる一の騎士、ヨナス・フォン・シュベルトベルクの頬を引っぱたけるのは、この世に彼女しかいないのだった。

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