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10、オメガ狩り
しおりを挟む奇怪な老人は、ひと目見て価値が高いと判断できる、絵画たちに囲まれていた。
芸術には疎い者でも、一級とされる作品からは薫るような格調を感じ取れるものだ。壁に飾られた展示品は、そのどれもが「容易に手を触れてはならない」雰囲気を醸し出していた。油絵の具を使ったものや宗教画が多いところをみると、どうやらここは西洋画を集めたらしい美術館であることがわかる。
天国と地獄が描かれた作品群に紛れて、不自然なほど小柄で有り得ないほどシワが刻まれた老人は、違和感なく溶け込んでいた。金細工の施された椅子に、深く腰を下ろしている。
まるで絵のなかの地獄から、飛び出してきたかのようであった。
長く伸びたワシ鼻や尖った耳、奥深く窪んだ眼が、童話に登場する魔法使いを彷彿とさせる。ただの老人として見るには、干し柿のごとくシワクチャになった顔があまりに異様すぎた。
事実、この椅子に座った怪老は、齢1600を越えていた。
地獄からやってきた、という印象も、あながち的外れでもなかった。なぜならこの妖化屍は、地獄妖という肩書きも自称していたから。
六道妖のひとり、“百識”の骸頭。
オメガスレイヤーズを抹殺するため、妖化屍による組織を作り上げた首謀者は、名画たちに囲まれワイングラスを傾けていた。
「五天使のリーダー、地属性のオメガスレイヤーが関西担当というのは、間違いなかろうのう?」
グラスのなかの深紅の液体を、シワだらけの老人は一息に飲み干した。
幅10cmほどもある肘掛けにカッ、とグラスを置くと、天井からボチャボチャと追加の液が注がれる。給仕がいなくともいつでも喉を潤せるよう、骸頭が仕掛けておいたのだ。
「私がまだ『水辺の者』に在籍していた半年以上も前の話ですから・・・確証はございませんが」
骸頭が声を掛けたのは、部屋の入り口付近に立つ、和服姿の美女であった。
ハーフアップにした髪は明るめの茶色で、丸い瞳は欧米人のように青みがかっている。海外の血が混ざっているのか、本人に尋ねたことがあったが、生まれつき色素が薄いのだと答えていた。半端モノのヌシらしいのう、と嫌みがついつい口をつくのを、骸頭は止められなかったものだ。
かつては浅間翠蓮の名で、オメガスレイヤーのパートナーを務めた美乙女は、いまや妖化屍、“輔星”の翠蓮として六道妖に仕えていた。
正確にいえば、「六道妖に仕える」のではなく、「六道妖のひとりに仕える」というべきだろう。それ故に、骸頭としてはいまだこの女を信じ切ることができない。
とはいえ、エリート中のエリートであった翠蓮は、破妖師集団『水辺の者』の中枢近くにいたのだ。天敵オメガスレイヤーについての情報も、当然のように多く持っている。その証言が、貴重かつ有効であるのに疑問の余地はない。
「関西方面を一時的にでも治めるのは、並大抵ではあるまいよ。地のオメガスレイヤーは、しばらくはかの地を離れられぬと見てよかろうの?」
「深緑の地天使・オメガフェアリーとて、たった半年での制圧は不可能でございましょう」
「ヒョッヒョッ・・・ならばよい。地属性が来られぬとわかれば十分じゃ」
グビグビと喉を鳴らした骸頭は、再び空になったグラスを椅子の肘掛けに置く。
天井から注がれる一筋の赤色を見ながら、今日はやけに杯が進むと、怪老は思った。刻一刻と、理想の世界が近づいている。その実感が、枯れ枝のような身体を無意識のうちに興奮させているのだろう。
「ヌシら『水辺の者』の頂点に君臨する者が、光属性の能力を誇るオメガヴィーナス。そしてその次に地・水・火・風・空の属性を持つ『五天使』・・・じゃったな?」
「あくまで戦闘力においては、の話ですが」
「むろんじゃ。『水辺の者』の権力争いになぞ、興味はないわい」
『水辺の者』の最高権力が合議制で選ばれた『五大老』と呼ばれる者たちにあることは、以前から骸頭は翠蓮に教えられていた。
破妖師の血筋を受け継いだ、27の家系の者たち。通称『征門二十七家』。
彼らから選ばれ、組織されたのが『水辺の者』であった。運営の実質的なトップが『五大老』であり、オメガスレイヤーは戦力としての最高と位置づけられている。翠蓮がいなければ、“百識”の異名をとる骸頭とて、詳細な知識は得られなかったであろう。『水辺の者』を現実に動かしているのは、あくまで表には出てこない『五大老』たちだった。
だが骸頭には、オメガスレイヤー以外の者は見えていなかった。
背後にいる連中に、興味はない。『水辺の者』のトップだ、などと言っても連中は骸頭から見れば無力なのだ。六道妖クラスの妖化屍に脅威を与えるのは、究極の破妖師であるオメガスレイヤーしかいない。
オメガスレイヤーという武器さえ奪えば、猛獣である妖化屍にとって、人間を恐れる必要はないのだ。少々智恵が回ったところで、丸腰の人間はただの獲物に過ぎない。
「オメガスレイヤーさえ抹殺すれば、儂ら妖化屍の思うがままなのじゃ」
骸頭のその想いは、確信を通り越してもはや信仰に近い。
「火は虎狼が斃した。水も大きなダメージを負った。地が来られぬとなれば・・・残るは風と空のみ。妖化屍の時代を築くには、最大の好機到来じゃなぁ」
「仰せの通りでございます」
「翠蓮、ヌシはこのふたりのことを知っておるのか?」
整った容貌を持つ女妖化屍は、しばし口をつぐむ。
やはり元の仲間を売ることはできぬか?
骸頭が疑念を抱きかけた時、和服の美女は滑らかに語り出した。
「萌黄の風天使オメガカルラは、厄介な相手でございましょう。骸頭様も半年前の遭遇で、ご存じの通りです。ですが紫雲の空天使オメガペガサスは、まだまだ未熟で恐れるような者ではありません」
「ならば人妖・縛姫に任せたオメガスレイヤー狩り、成功すると期待してもよさそうじゃな」
薄桃色の唇を綻ばせるだけで、翠蓮は答えない。
だが、その仕草だけで、骸頭には『十分可能』という声が聞こえたかのようだった。
「ヒョホホッ!! 『五天使』をも葬ればッ・・・もはや儂ら妖化屍を誰も止めることはできぬッ!! 死者の時代がッ・・・我ら死者が、この地上を掌握する時代がやってくるのじゃあッ!!」
破妖師に怯え、闇に紛れてひっそりと暮らす日々が終わろうとしている。
そんな、奇跡のような瞬間を、骸頭は現実として迎えようとしていた。妖魔は影で生きるもの。1600年間、当然のように受け入れていたそんな宿命が、覆ろうとしている。
目障りな、オメガスレイヤーさえ葬れば。
「・・・それもこれも、半年前、ヌシが死んでくれたおかげじゃのう」
空のグラスに、注がれる液体。
赤い雫が垂れ落ちてくる頭上に、怪老は皺だらけの顔を上向けた。
釣られて視線を天井に向けた翠蓮が、思わず細眉をしかめる。
いつまで経ってもこの光景だけは、滅多に動揺を見せぬ元破妖師の女も、苦手なようであった。
輝くようなプラチナブロンドの髪に、麗しき美貌。
美しき乙女の生首が、骸頭の頭上には吊り上げられていた。
固く閉じられた瞳に、蝋のごとき白い肌。完璧といっていい造形の頭部は、その完璧さ故に神が作り給うた人形のようにも見える。
だが、この生首は紛れもなく、ひとの一部だった。人形ではなく、人間だった。それも女神のように尊ばれ畏怖された、25歳の淑女の。
白銀の光女神・オメガヴィーナス。変身する前の本名を、四乃宮天音。
妖化屍を屠るために存在した究極の破妖師は、半年前、六道妖の手により、その命を散らしたのであった。
「最強の存在である光属性のオメガスレイヤーを葬ったことで・・・儂ら妖化屍に流れが来たッ!! 感謝するぞぉ、オメガヴィーナスッ!! ヌシを始末して本当によかったわいッ!!」
カラカラと笑いながら、グラスに満ちた赤い血で、骸頭は喉を潤した。
頭部だけになったオメガヴィーナスの上には、透明な巨大水槽が設置されている。なかには裸に剥かれ、ギュウギュウに詰め込まれた男女の亡骸。
骸頭は始末した人間を、この巨大水槽に掻き集めていたのだ。その数は10や20では済まない。
遺体はどれも、腕や脚、あるいは首が切断されていた。丸い、紅色の断面から、鮮血がダラダラと流れ出ている。集まった大量の血は、水槽に溜まっていく。
さながらサラダ油でいっぱいのツナ缶のように。無数の死体の隙間を、混ざり合った血が埋めていた。ギラギラとヌメリ光っているのは、遺体の脂肪分も溶け出しているためだろうか。
その、滞留した大量の血が、10本の細いチューブに繋がれて、水槽から生首へと送り込まれている。
少しずつ、しかし着実に送られる血は、オメガヴィーナスの頭部に一旦輸血され、その後首の断面から、ポタポタと雫となって落下していた。
「四乃宮天音自身の血はとっくに枯れているはずなのに・・・この装置のおかげで、下賤の者どもの血も、光女神の体内で聖なるものへと化す、のでしたね」
「ヒョッヒョッヒョッ!! 貴重な資源は限りがあるからのう! 死んでからもこんな形で有効利用できるとは、さすがはオメガヴィーナスじゃて」
白銀の光女神を処刑した戦利品として、六道妖の面々はオメガヴィーナスの亡骸の一部をそれぞれ持ち帰っていた。
妖化屍にとって、なによりの勲章であるのは言うまでもない。むろん、所持するそれらをどのように使おうと、勝者の勝手だ。
「翠蓮よ、最強である光属性のオメガスレイヤーが亡き今、彼奴らを殲滅する絶好のチャンスじゃッ!! 修羅妖・虎狼を動かせッ! 忌々しいが、あやつを操れるのはヌシしかおらんッ!!」
「・・・虎狼さまを操るなど、この翠蓮めには到底及びませぬ」
「キヒッ、ほざくな女狐。ヌシが色仕掛けにて、あの難儀者を籠絡しようとしておるのは見透けておるぞッ!?」
「買い被りでございます、骸頭さま。虎狼さまの将器は、翠蓮ごときが収められるような小さきものではありませぬ。第一に」
ようやく骸頭は、椅子を通じて伝わる、細かな振動に気付いた。
遙か彼方より、向かってくる地響き。
それが馬の蹄が揺るがす音だと、わかった時には建物全体が震えていた。
「すでに虎狼さまは、オメガスレイヤー抹殺の意志を、固められておられます」
耳をつんざく轟音が、翠蓮が立つ出入り口の、すぐ後ろで炸裂した。
骸頭が見たのは、一瞬。美術館の廊下を駆け抜ける、鹿毛の巨馬とそれに跨がる弁髪の武人。
「ッ・・・虎狼ッ!!」
その瞬間、皺だらけの怪老は驚くべき事実を悟った。
建物が震えていたのは、物理的な理由だけではない。巨馬の疾駆が揺るがせていた、だけではない。
恐怖に怯えていたのだ。武人が持つ、あまりに膨大な戦意に。
誰が? ――絵が、だ。
壁に並べられた名画たち、感情も筋肉も持たぬはずのそれらが、姿を現した巨漢の殺気に戦慄している。
それが修羅妖・“無双”の虎狼。
「ゆくぞ。翠蓮」
馬上の巨人は、和服美女の細腰を片腕で抱きかかえた。骸頭には一瞥もくれず、大理石で磨かれた廊下を疾風となって駆けていく。
恐らくは、蹄の音が聞こえてから姿を消すまで、5秒とかからぬ刹那の出来事。
「・・・フンッ! 相も変わらず、御しにくい連中じゃて」
武の具現者と言われる虎狼は、ろくに骸頭の命令を聞くような男ではなかった。
それでも、わかる。確実に、わかっていることがある。
あの男は、オメガスレイヤーとの闘いを欲してやまない、と。闘争に、餓えているのだ。骸頭の指示など受けずとも、チャンスがあれば貪欲に究極破妖師の命を狙うに違いなかった。
「オメガスレイヤーが消えれば、妖化屍は自由に活動できる。死者をいくらでも、生み出すことができる」
妖化屍に殺された者たちは、死体でありながら、妖魔の命令に従う下僕と化す。この従順なアンデッドたちが、つまりはケガレ。妖化屍の配下となるゾンビたちだ。
「殺せば殺すほど、この世界は儂ら妖化屍が支配することになる。この地上を・・・死者が埋め尽くす、理想の世界にしてくれようぞッ!!」
オメガヴィーナスの血で満たされたグラスを高々と掲げて、骸頭はひとり、一足早い祝杯をあげた。
「生者どもよッ!! ヌシらの世界は、儂ら死者が乗っ取るぞッ!!」
目の前の壁に飾られた一枚の西洋画が、落ち窪んだ老人の眼に映り込んだ。
“百識”の異名を取る骸頭は知っている。この絵の作者と、題名を。
フランスで生まれたというその画家の、一連の代表作のひとつが目の前の作品であった。印象派を代表する、世界的にも高名な作品であるため、この美術館の目玉の展示物となっている。
画家の名前はクロード・モネ。作品名は「睡蓮」。
「・・・『スイレン』・・・あるいは鍵はヌシかも、のう」
くしくも同じ名前を持つ女妖化屍の顔を、骸頭は思い返していた。
四方堂亜梨沙は、地獄絵図のような過去を思い出していた。
どこかの教会だった。喧噪と怒号が周囲に渦巻いている。痛切な叫び声のひとつは、亜梨沙・・・というより、変身を遂げたオメガカルラ自身の口から迸ったものだ。
漆黒のスーツを纏った男が、化け物とまだ闘い続けている。後から思えば、オメガ粒子の恩恵を受けていない、ただの『水辺の者』のひとりに過ぎない男が、六道妖とよく渡り合えたものだ。だが当時のカルラに、そんな疑問を抱く余裕はなかった。とにかくこの、悪夢のような光景が、夢であることを願うばかりだった。
妖化屍のアジトにオメガカルラが乗り込んだとき、すでに最強の破妖師であるオメガヴィーナスは、惨殺されていた。
頭部も、両腕も切断され、臍までの胴体だけとなった死体。それが、『水辺の者』が取り返せた、オメガヴィーナスこと四乃宮天音の全てだった。残るパーツは、六道妖の手で分解されて持ち去られた。
遺体の損傷が激しすぎて、にわかには白銀の光女神と異名を取ったヒロインとはわからぬ惨状であった。『Ω』をかたどった胸の紋章も千切り取られていたため、よけいに判別するのが難しい。
漆黒のスーツの男が獣のように暴れるのとは対照的に、カルラはいつか、膝から崩れ落ちていた。
悲しみ、怒り、自責。そのどれもであり、どれでもないような感情。
ただ、底知れぬ黒い塊に心臓を呑まれた気がして、カルラは立っていられなかった。ブルブルと震えて、ひとりの少女を抱きかかえている。
その美しき乙女は、オメガヴィーナスに瓜二つであった。
だが、別人だ。セミロングの髪はプラチナブロンドではなく、ロザリオ型のオメガストーンもない。四乃宮天音にそっくりだが、オメガヴィーナスのコスチュームを着せられた偽物だった。
天音の妹、郁美。
四方堂亜梨沙はちゃんと覚えている。彼女とは、一日だけだが面識があることを。
オメガヴィーナスを選ぶため集められた、山奥の洋館。そこでふたりは会っていた。異様な空気のなかで、どちらからともなく話しかけ仲良くなった。名字に「四」の字が入っているという、珍しい共通項があったおかげで会話は盛り上がった。
同じ『征門二十七家』なのに、オメガスレイヤーのことをなにも知らない郁美のことが、亜梨沙にはかなり驚きで、少し羨ましかった。
「・・・アリサがッ・・・!! アリサがもう少し、早く来てたらッ!!」
オレンジ色の髪に巻き付かれ、首を吊られていた郁美もまた、すでに心臓は動いていなかった。
両腕に抱いた女子大生を、カルラは懸命に揺り動かした。どれだけ強く抱きしめても、郁美はピクリとも反応することはなかった。
「助け・・・られなかった・・・ッ!! ・・・アリサはッ・・・天音もッ・・・郁美もッ・・・!!」
心臓を呑み込んだ黒い塊が、じわじわと全身を溶かしていくのをカルラは実感した。
郁美を抱いたまま、叫んでいた。教会全体が震えるほど、絶叫した。
オメガカルラになっても、自分はなんの役にも立たないクズなのだ。冷たい郁美の身体が、虚ろになっていくカルラを凍えさせた。
ボタボタと、大粒の水滴が、物言わぬ郁美の美貌に降りかかる。
その雫が、己の瞳から溢れていることに、オメガカルラはしばしの間気付くことが出来なかった――。
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