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「第十二話 東京黙示録 ~疵面の凶獣~」
28章
しおりを挟む「これを、どう捉える?」
海堂一美の静かな問い掛けは、真向かいで佇む痩身の若者に向けられていた。
漆黒のシャツにスラックス、ジャケットで揃えた久慈仁紀の姿は、闇の押し迫った渋谷の一角に溶け込んでしまいそうだった。悪鬼の首魁たる魔青年は、白い面貌をじっと下に向けたまま動かない。
「ハッ! んな奴ぁ、ハナッから使い物にならねえってわかってんだ。消えたところでなにも変わりゃしねえ」
コンビニから拝借した角瓶に直接口をつけ、スカーフェイスのジョーが琥珀色の液体をゴボゴボと咽喉に流し込む。数時間前に女神と称される存在を屠った快感からか、ケロイド状の疵が覆う顔面は、喜色とも呼ぶべき歪みを絶えず刻んでいる。
3人の禍々しき男たちと、豹の毛皮を羽織った一人のコギャル。そこだけ空気が凍てついたような四人衆の真ん中で転がっているのは、顔面を紅に染めた、肥満体型の中年男であった。
ドス黒い血が、口腔いっぱいに溢れて垂れ落ちている。
潰れた鼻は顔の中央に陥没していた。上の歯が全て抜けてしまっている。虚空を見詰める細目には、もはやなんらの光も灯ってはいない。
流され続けていたシブヤ109のテレビ画像が、突如として途絶えた。手放したテレビ局のアジトを奪還されるには、予定よりかなり早い時間帯であった。109の撮影ポイントに集合した悪魔たちを待っていたのが、クトルと呼ばれた男の、破壊された姿であった。
「ねェ~、田所ちゃん、死んじゃったのォ~?」
爪に塗ったブルーのマニキュアの出来を気にしながら、『闇豹』が呟く。雨上がりの秋の渋谷は、夜ともなれば肌寒さが沁みる。豹柄のタンクトップの上に羽織った毛皮は、冬本番に着るようなものであった。
押し黙っていた久慈が、薄い唇を初めて開く。
「息はある。だがもう使えん」
「ふぅ~ん」
「ならばここで始末するか? 政府に回収されれば面倒になるかもしれん」
「必要ない。喋ることなどできん。海堂、貴様が殺したいというのなら無理には止めんが」
サングラスの男は顔色ひとつ変えないまま、首をわずかに横に振った。
「極上の獲物を愉しんだ後だ。余韻に浸らせてもらおう」
「海堂さんは抵抗する奴を力づくでバラすのが好みなんだよォ。壊れたオッサンなんぞに興味あるかよッ!」
空になった角瓶を投げ捨てるや、ジョーはファスナーを降ろして己の図太いイチモツを引き出した。
湯気を立てた黄金の液体が、ジョボジョボと禿げ頭のエビス顔に降りかかる。
アンモニア臭が周囲に漂い、端整な久慈のマスクが露骨に歪む。跳ね返りを気にした神崎ちゆりは、素知らぬ顔で数歩を退いた。
「ふ~~、気持ちいいぜェ~。なあ、小僧よォ~。てめえの持ち駒は随分貧弱じゃねえか、あァ?! こんなクズ揃えたところで邪魔くせえだけだろうがァッ!」
「クトルを潰したのは、並の人間ではあるまい」
「はァ?」
「工藤吼介。奴からの、宣戦布告だ」
記憶のなかから蘇る筋肉獣の姿に、思わずジョーは歪んだ唇を吊り上げた。
あいつか。あの、藤木七菜江の横にいた男。
あの男の仕業というなら、メタボ中年じゃ歯が立たないのも道理だ。オレにしたところで、負けることは有り得ないにしても、それなりの手傷は覚悟する必要のある男。
もしあいつを血の海に沈めたら・・・ファントムガールとはまた違った興奮が得られるのは間違いないであろう。
首都東京に本格的な襲撃を仕掛けて以来、丸一日が過ぎようとしている。
誤算はあった。始末できたはずの、五十嵐里美を取り逃がした。御庭番衆の現頭領という、厄介な相手も現れた。工藤吼介が参戦を果たそうとしているのも、もしかしたら大きなマイナス材料と言えるのかもしれない。事実、クトルという戦力が格闘獣に潰された。
だが、それ以上に事態は久慈の思惑通りに進んでいる。上首尾といっていい、現況であった。
ファントムガール・サクラを処刑した。続けてアリスを葬った。
ナナは瀕死に陥り、一度は裏切りを見せた片倉響子も手札に戻した。品川水族館には多数の『エデン』が飼われている。残るファントムガールの戦力は、サトミとユリアを数えるのみだ。
詰めさえ誤らねば、全ての決着はつく。
ファントムガールの殲滅は、もはや時間の問題であった。あとは油断こそが最大の敵。唯一最大といっていい願いである復讐が、いよいよ完結間際となって、久慈の脳裏は鋭利さと合理性を増して回転していた。
「藤木七菜江を車で連れ去ったのは、あの野郎だったってわけかい。そりゃあ面白ェ」
「死に損ないのファントムガール・ナナに、サクラを復活させる力などないだろう。もはや奴らはこの付近には潜伏していまい」
「工藤と藤木七菜江が一緒か。どうするつもりだ、久慈?」
自分なりの答えは持ちつつ、海堂は敢えて決定の裁量を雇い主に委ねているようだった。暗殺を生業とするプロだからこそ、己が越えてはならないラインを理解しているのだろう。
「『エデン』を持たぬ男に、なにができるわけでもない」
「工藤吼介はお前を倒したと聞くが?」
「オレは肋骨を折られ、奴は左脚を貫かれた。それだけのことだ」
「・・・工藤という男、本当に『エデン』を寄生させていないのか?」
「・・・何が、言いたい?」
久慈の周囲の闇が、ゾワリと増殖したかのようだった。
何らの動きの変化も見せず、明らかに黒衣の魔王は変わっていた。臨戦態勢へと。それ以上、この話題に触れるのなら首を刎ねる。明確な意志が充血した眼光から迸る。
懐に忍ばせた匕首に手を伸ばすジョーを雰囲気のみで制し、海堂一美は落ち着いた声で言い放った。
「勘違いをするな、久慈。工藤吼介は危険だ。だからこそ純粋に、力の源泉を知っておく必要がある」
「・・・奴が『エデン』と融合していないのは確実だ」
「それだけ知っておけば十分」
すっとサングラスを指で直した海堂が、緊迫した空気をリセットする。
張り詰めた空間が緩んでいくのが、眼に見えるようだった。
一触即発の危機を越えた海堂は、何事もなかったように、己が今後やるべき作戦の具体内容を口にしていた。
「では、防衛省を襲撃し、現れたファントムガール・サトミを処刑する、のだな?」
数秒の沈黙の後、久慈仁紀は薄い唇を開く。
「御庭番に救われた五十嵐里美は、防衛省の近く、あるいは関連する施設に身を隠しているはずだ。必ず、でてくる。いかに戦闘を避けたくとも、逃げることはできん。正義の女神とは、実に哀れな存在よ」
「オレたちが何人で襲撃しようと、立ち向かってくる、か」
「『闇豹』、貴様はこの渋谷で、クトルに代わってサクラの死骸を見張れ。ユリアのこともある。闘い方はわかっているな?」
「まず先にわざとウサギちゃんを生き返らすんでしょォ~。わかってるってば。ヘロヘロになったトコを~、ふたりまとめてブチ殺すっと♪」
「海堂よ、防衛省の襲撃は、貴様とスカーフェイスに任せる」
五十嵐里美=ファントムガール・サトミの抹殺に執着を燃やしてきた男のものとは思えぬ台詞を、久慈は吐いた。
「はッ! 小僧にしちゃあ、いい判断だァ~。守護天使どもの始末は、オレらに任せときゃいいんだよォ~」
「ここに来るまで、まさか貴様が五十嵐里美を仕留め損なっているとは思いもしなかったのでな。責任を取ってもらおう」
「・・・お前は何をするつもりだ、久慈?」
海堂一美の問い掛けに、凍えるような眼をした男は、表情ひとつ変えずに答えた。
「品川水族館に引き返す。『エデン』が集めてあることを知られた以上、奴らは必ず攻めてくる」
「万一に備え、『エデン』持ちを10名、守兵として就かせているのではなかったか?」
唇の両端を吊り上がらせ、黒衣の闇王はニヤリと笑いを刻んでみせた。
「恐らく、政府の主要戦力が傾けられよう。この一網打尽の好機、逃す手はあるまい。品川と防衛省、ふたつの地点で、ファントムガールと我らに歯向かう勢力は根絶やしにするのだ」
ニューヨークのエンパイアステートビルを彷彿とさせる、高層ビルであった。
北側に設置された大時計は、夜の8時を示している。首都が襲撃を受け、住民のほとんどが避難していったあとでも、針は変わらず時を刻み続けてきた。ビル内部のオフィスにも、今では従業員は誰ひとりとしていない。
JR山手線代々木駅前にそびえたつ特徴的な建物。NTTドコモ代々木ビル。
通称ドコモタワーと呼ばれる、この都内でも3番目に高いビルは、周囲に目立つ建造物が無いなかで、その細長いシルエットが遠目からでも確認できるほど際立っていた。
工藤吼介が潜伏場所としてこの高層ビルを選んだのは、マスメディアの情報も途絶えたなかで、周囲の状況を一望できるからだった。
ひと気の途絶えたビル内は、貸切状態のようなものであった。コンビニやドラッグストアから拝借した食料や医療品が片隅に積まれている。生きていくだけなら、都会には物質が恵まれすぎるほど豊富にあった。だが、この場に隠れ続けたところで状況が好転しない事実は、嫌になるほど悟っている。
滅ぼさねばならない。悪魔どもを。
侵略が着々と進んでいる現実を、その眼に焼き付けられた。人類は、世界は、悪魔たちに屈するのかもしれない。途方もない事態が、現実になろうとしている。
いや、人類がどうとか、世界がどうとか、そんなことはどうでもいい。オレには、そんなデカイ話はわからない。
少女がふたり、殺された。吼介の、よく知る少女が。
桜宮桃子はチャーミングな美少女だった。華やかな外見から想像できないほどの、優しい心の持ち主だった。
霧澤夕子には随分キツイ言葉も浴びた。だがその裏にある情の深さが、わかりやすいほど伝わってきた。
美しい、少女たちだった。生き様が。他人のために、我が身を犠牲にする少女たちだった。
誰もが抵抗できない悪魔どもに立ち向かい、儚い命を散らせていった。
死ぬ必要は、なかった。
死なせてはならない、少女たちだった。
闘う者がいないから、己の身を捧げたのだ。美しき、生命を。誰かが代わりに闘えばよかったのに。
オレが、代わりに闘うべきだったのに。
窓ガラス越しにビルの眼下を見下ろす。いつの間にか、弓張り月が天空に昇っていた。夕方までの雨雲は霞みとなって消えかかっている。
新宿御苑の緑が、左の視界に広がっていた。月明かりに照らされた森林は、黒い茂みとなって雨上がりの風にさざめいている。
そして正面には、代々木の隣駅である原宿の、ファッショナブルな街並みが広がっている――はずであった。
今、吼介の視界を占めるのは、その区画だけ切り取られたように瓦解した、破壊の跡地。
代々木駅から原宿駅までにかけて広がる明治神宮の森。昨夜、この地で繰り広げられた巨大な戦闘のあおりを受けて、原宿から表参道にかけての地域は多くの尊い命とともに崩壊していた。
夜目にも見える、鮮血の飛沫が。思わず眼を覆う、無惨な光景。
この血の大部分を流した、巨大な青き守護天使は、今吼介と同じ部屋のなかにいた。
「吼介先輩・・・」
振り返る筋肉獣の視線の先に、毛布にくるまったショートカットの少女が立っていた。
滅多に動じることのない男の眼が、驚きを隠しきれずに開かれる。
「無理するな。お前の身体はまだ・・・」
「みんな、死んでしまったんですね」
流れ込む月の光が、見上げる少女の白い頬を優しく撫でる。
青い光の海のなかで、藤木七菜江は輝くように愛らしかった。
全裸の上に直接纏った毛布が、ふるふると揺れている。猫を思わす澄んだ瞳に、透明な雫がみるみるうちに溢れでてきた。
「あたしのせいです」
「お前は、よく闘ったよ。十分すぎるくらいに」
「モモはあたしを助けようとして殺された。夕子はあたしの身代わりになって殺された。渋谷のひとたちも、みんなが、本当にたくさんのひとたちが・・・」
ボロボロとこぼれ落ちる涙が、白桃の頬をつたう。赤子のように、可憐な少女の顔はぐしゃぐしゃになった。
とめどなく溢れる涙と鼻水で濡れそぼった顔が、忍びこむ月明かりを照り返す。
「もォ・・・ヤダ・・・・・・よォ・・・」
突然、少女の膝がガクリと折れる。全ての糸が切れてしまったように。
崩れる七菜江がフロアの床に倒れる前に、駆け寄った逆三角形の男は小さな少女を支えていた。
泣いた。
力の限り、七菜江は泣いた。声にならない叫びをあげて。広くて固い男の胸に、グショグショの顔を埋めて。
泣きじゃくる少女を胸に、吼介に掛ける言葉は見つからなかった。ただ、抱き締める。強く。優しく。
この世界にお前ひとりしかいないと言わんばかりに、男は壊れそうな天使を黙って抱き続けた。
「・・・モモ・・・コ・・・がァッ~~ッッ・・・・・・夕子ォッ・・・・・・がァッ~~ッ・・・」
「死んでなんかいないよ。ファントムガールは生き返る・・・そうだろ?」
「・・・あたしィッ・・・あたしッ、もうゥ~~ッッ・・・」
このまま溶けてなくなってしまいそうな少女のショートカットに、厚い男の掌が乗る。
いつものような、乱暴な撫で方ではなかった。
愛おしさを限りにして、優しく、優しく、吼介は七菜江の柔らかな髪を撫でた。
「七菜江」
腰を落とした吼介が、少女と視線の高さを同じにする。
潤んだ猫顔少女の瞳は美しく、真剣な格闘獣の眼は優しかった。
見詰め合うふたりの間に、言葉が消える。
「お前のことが、好きだ」
男の告白を、ただ小刻みに顔を揺らしながら七菜江は聞いた。
「お前が、オレにとっての全てだ。お前を守ることが、オレの生きる全てだ」
小刻みな顔の動きが少しずつ大きくなる。やがてブンブンとショートカットを揺らして、七菜江はイヤイヤをするように強くかぶりを振った。
「里美さんがッ・・・先輩には、里美さんがッッ!!」
「姉貴は関係ない。お前はオレの、全てなんだ」
男の両掌が、かぶりを振る少女の顔をそっと抑える。
再び見詰め合ったとき、七菜江の心に男の想いは雪崩れ込んできた。
ああ
ああ
このひとは。
あたしのことが、好きなんだ。
かけがえのない友をふたり失って、崩れそうなあたしを
必死で、なりふり構わず、繋ぎとめようとしている。
ダメになるあたしを
必死で、支えてくれている。
頬をつたう涙を、吼介の舌が優しく舐めとった。
鼻水も、涎も構わずに、ペロペロと愛しい少女の濡れた顔を、格闘の獣が舐め上げる。
桃色の唇が、ペロリと舐められる。
その瞬間、ふたりの唇は重ねられていた。
淡い月光が、高層ビルの最上階の部屋に満ちる。
青白き光の海のなか、若い一対の男女のシルエットが、幻想的なダンスを踊る。
やがて、ふたつの影は、ひとつに重なった。
胸の上でアイドルフェイスの美少女は、スヤスヤと寝息をたてていた。
互いに一糸纏わぬふたりの身体を、毛布一枚が包んでいる。不安定な筋肉の身体の上だというのに、藤木七菜江が見せる寝顔には、ようやく安らぎの色がかすかに浮かんでいた。
涙の跡で薄汚れた童顔が、このうえなく愛おしい。
じっと愛する者の寝顔を見詰めながら、腰に回していた手で、吼介は全身をそっと撫でた。
『エデン』のもつ回復力によって、七菜江が受けた拷問の痕はほとんど癒えかかっていた。驚異的としか言いようのない、速さであった。
それでも吼介にはわかる。七菜江が、ファントムガール・ナナが、これまでの激闘で受けてきた、ダメージの過酷さを。
「ボロボロだな。お前の身体は」
辛く、厳しい闘いの日々を、本当によく頑張ってきたんだな、お前は。
「もう、闘わなくてもいいんだ。七菜江」
反対の手を伸ばし掴んだのは、吼介自身の携帯電話であった。
巨大生物の襲撃騒動で、首都圏の携帯電話はほとんど繋がらなくなっている。だが、特殊な回線を利用しているこの番号なら、必ず繋がる確信が吼介にはあった。
秘密裏に教えられたこの番号を、ついに使う日がやって来るとは。
発信のボタンを押す。しばしの間のあと、呼び出し音が鳴り始める。
やはり特殊回線は繋がっていた。問題は、相手が出るかどうか。
5回、10回・・・コールが続く。やはりダメか? 戒厳下のこの状況で、コンタクトを図るのが所詮無謀なのかもしれない。
諦めかけたその時、ガチャリという音色が響いた。
『・・・はい』
女の声が出る。電話を掛けたこちらが何者であるかは、当然伝わっているはずだ。
「・・・無事だったか?」
『・・・ええ』
「大事な話がある。少しだけ、会えるか?」
しばしの沈黙の後、琴のような女の声は『ええ』という簡潔な応えを返した。
「ではこちらから、お前の元に向かう。待っていてくれ、里美」
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