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「第十一話 東京決死線 ~凶魔の右手~」
30章
しおりを挟むかすかな潮の香りが鼻孔を突く。
厚い雲が覆った空からは、月光も星の瞬きも降っては来ない。湿り気を帯びた空気が深い闇
と混ざって、やけに重くまとわりつく。陰鬱な、夜だった。波の音が届くたびに、街灯りを映した
光が海の狭間で揺れ動いている。太平洋から吹き付けてくる風が、時折赤髪のツインテール
を強くなびかせて過ぎていく。
霧澤夕子は、東京湾の沿岸に立っていた。
修学旅行、初日の夜。バスに揺られて首都の情景に溶け込んだその日が、もしかすると少し
特別な日になるかもしれない。夜風になびく少女の胸に、そんな予感が仄かに灯る。
彼女が所属している聖愛学院の理数科は、東京駅に着いてから皇居、東京タワー、そしてさ
らに南下してレインボーブリッジに至るという、通称“いかにもコース”と呼ばれるルートで修学
旅行の道程を踏んでいた。以前にも東京に来たことのある夕子にとって、どの名所もかつて見
たことあるものばかり。ただでさえ「見世物」として定着したものを観賞することに深い意義を見
出せない理系少女には、東京見物はいささか退屈なものであることは否定できないところだっ
た。
まして、旅をともにするのが理数科のクラスメイトたち、というのが夕子の心をさらに重苦しい
ものにしていた。
クラスのなかで自分が孤立していることは、夕子自身がよく理解していることであった。
肉体の半分が機械でできた彼女には、己の知識と技術でサイボーグの体を作り変えるという
大目標がある。そのために多くの時間を研究に費やす夕子は、理数科のクラスメイトたちとは
ほとんど接点を持たなかった。サイボーグという秘密を隠すため、敢えて他者との接触を避け
たという側面もある。いずれにせよ、必要以上に言葉を交わさず、むしろ必要な時以外の会話
を認めないような夕子の姿勢は、周囲の生徒からは冷淡なものとして受け取られるのは仕方
のないことであった。
さらに言えば、エリート揃いとされる聖愛学院理数科のなかにおいても、夕子の学力は群を
抜いて高かった。今すぐに受験しても、日本のどの大学にでも行ける、というのがポツリと洩ら
した担任教師の夕子評。特に数学と物理、化学については、教師たちが束になっても勝てない
とすら噂されている。理数科の生徒たちにとっては、学力の高さこそ“力”の全て。近寄り難い
雰囲気と飛び抜けた“力”を誇る夕子の存在は、嫌うというよりも畏怖すべき対象であった。
見えない壁をつくり、あからさまに距離を置いたクラスメイトたちの視線が教えてくる。夕子を
畏れ、慄いていることを。
孤立などとっくに慣れた天才少女であったが、開放的な気分に浸るべき修学旅行においても
脅えの視線を向けられるのは、決して愉快なことではなかった。
“・・・まあ、いいけど。ひとりなのは、今に始まったことじゃないし”
移動するバスのなか、カードゲームで盛り上がる周囲にひとり背を向けて、赤髪の少女は流
れていく東京の車窓にその身を置く。淡々とした、ちょっと退屈な修学旅行。旅の前半は夕子
がこの地に来る前から予想していた通りのものであった。
劇的な変化が訪れたのは、その後。
自由行動を許された、お台場フジテレビ近くでのこと。地元の不良学生か、あるいは他地域
からの修学旅行生か。ガンをつけた、つけないを発端としたトラブルに巻き込まれたクラスメイ
トを救ったのは、偶然通りがかったツインテールの美少女であった。「クール」「変わり者」とい
った代名詞を密かに与えていたクラスメイトたちからすれば、それはあまりに意外すぎる行為。
だが、5対3という人数、そして女子ひとりを含んだ聖愛学院生の顔にいくつかの殴られた跡を
見ては、己が特殊であると自認する夕子も黙って見過ごすわけにはいかなかった。
サイボーグ、そして『エデン』の力をほんの少し開放した夕子にとって、5人のヤンキー程度な
ど相手ではない。
“一般人”に特殊な自分が手を出す後ろめたさに、そそくさと場を去ろうとする夕子を引き止
めたのは、窮地を救われたクラスメイトたちの賞賛と感謝であった。
ひとりであった夕子の旅に、尊敬の眼差しを向ける同行者3人は不意に現れた。
噂はすぐに広まる。不良に臆せず立ち向かった赤髪少女の勇気と、びっくりするほどの強さ
と。
修学旅行の初日、霧澤夕子は聖愛学院理数科生の、正義のヒロインに生まれ変わった。
“まったく単純なもんね。ちょっと不良をこらしめただけで、こんなに対応が変わるとは思わなか
ったわ”
お台場から宿泊ホテルのある品川に向かうバスのなかは、夕子の武勇伝を讃える声で占め
尽された。今までほとんど喋ったこともないような級友たちが、続々と赤髪少女に笑顔と尊敬の
言葉を向ける。なんだかよくわからないが、数人からは握手も求められた。旅の後半、ヒロイン
となった夕子に車窓を眺める暇はなかった。
東京にいる間の夕子は研究を進めることができない。となれば当然、話しかけてくるクラスメ
イトを避ける必要もまるでない。
高くそびえていた見えない壁を乗り越え、少し懐に足を踏み入れてみると、冷淡と称される天
才少女の意外で味わい深い人間味は次々に明らかになっていった。
なにげない会話に混ざるツッコミは的確で素早いし。
要は確率よ、と言い切る麻雀はやたら滅法強いし。
大浴場では意外なまでの均整の取れたプロポーションを披露するし。
数学の難問片手に現れる男子生徒たちを、わかりやすく丁寧に教えていくし。
挙句、それら男子のひとりに「霧澤ってけっこうカワイイよな」と告白されて、耳たぶまで真っ
赤にして動揺しまくるし。
昨日までは孤独であったのが嘘のように、赤髪ツインテールの少女の周りには、級友たちの
笑顔が花咲いている。
「夕子がこんなに面白いひとだったなんて、思わなかったよ」
コロコロと笑いながら、数時間前まで「霧澤さん」と呼んでいた少女が言う。
「私は昔からこんなふうだけど」
「そうなの? でもちょっと前から比べると、だいぶ感じが柔らかくなったような気がするけどな」
なにげない級友の一言に、守護天使としての宿命を同じように背負った少女たちの顔が、一
斉に夕子の脳裏にフラッシュバックする。
そうか。変わったのは周りじゃない、私の方だったのね―――
修学旅行、第一日目。その日は、必要以上に纏っていた冷淡の衣を脱ぎ去ったとして、天才
少女の心に生涯記憶される日となるかもしれなかった。
「あんたさえ、現れてなければね」
波打つ夜の海を眺めていたツインテールの少女が、くるりと背中を振り返る。
「ハッピーな一日として終わるかと思ってたんだけど。素直に幸せになれないところが私らしい
わ」
「美しい守護天使さまにハッピーエンドなどありませんよ、ファントムガール・アリスくん?」
夕子の視線の先で、禿頭の小太り中年は作ったような微笑をたたえていた。
美少女写真のコレクターでもある、聖愛学院の国語教師・田所。
魔人メフェレスを補佐するひとり、タコのキメラ・ミュータント=クトルの正体でもある中年男
は、手の中に握った携帯電話を夕子に見せびらかすようにしながら話を続ける。
「またまた五十嵐里美くんから電話がかかってきているようですねェ。よほどの急用でしょう
か? ただ残念、我が校の校則ではケータイの持ち込みは禁止であることは、成績トップの夕
子くんなら当然ご存知でしょう」
「正直、教師の立場をここまであからさまに利用してくるとは思わなかったわ。手段を選べない
ほどそちらさんは追い詰められてるってことかしら」
バキリとふたつに折った夕子のケータイを、禿頭がセーラー服姿の足元に投げ返す。確認す
るまでもなく、里美から届いていたはずの受信は途絶え、液晶画面にはもうなにも映ってはい
ない。
唐突にホテルの部屋を訪れた中年国語教師は、持ち物検査と称して、半ば強引に夕子の携
帯電話を取り上げた。他生徒が見守るなかとあっては、度を越えた抵抗はできない。生徒と教
師という立場の差を利用され、大切な通信ツールを奪われた夕子は、さらに呼び出しを受けて
この港にまで連れてこられたのであった。
人影のない、夜の港湾。互いに正体を秘する光と闇の使者にとって、都合のいい決闘場とい
えた。
「追い詰められているのは、果たしてどちらでしょうかねえ?」
「断っておくけど、ケータイを渡したのもここまで付いてきたのも、あんたが教師だからじゃな
い。あんたになら、勝てると思っているからよ」
その気になれば相手が教師といえど、夕子には田所の指示に反抗することもできた。寧ろ、
このあからさまな罠に徹底抗戦するのが当然だったかもしれぬ。
だが、夕子は賭けにでた。恐らく、今回の敵はこの不快な変態教師ただひとり。その確率が
70%以上はあると判断したうえで、敢えて敵の策に乗ることを選択したのだ。
今回、修学旅行に参加すると決めて以来、ファントムガールの戦力が分散するこの隙を敵が
狙ってくる事態は、夕子も当然あり得ると予測していた。ただし片倉響子が一味を抜けた今、ミ
ュータントの中心戦力はメフェレス、マヴェル、クトルの3名しかいない。久慈の手元に大量に
あるという新たな『エデン』を使ったとしても、ファントムガールに相応しい人材がなかなかいな
いのと同様、強力なミュータントとなる素材もそうやすやすとは見つからないだろう。となれば、
自ずと襲撃方法も限定されてくるというものだ。
もし襲ってくるならば、大別してふたつのパターン。
全戦力を集めて、まずはひとりを集中的に狙ってくるか。
あるいは戦力を分散させ、散らばったファントムガールを一気に殲滅にかかるか。
クトル=田所が現れた以上、夕子が標的のひとりに選ばれたのは確実であった。問題は敵
がクトル一匹のみか、あるいはメフェレスやマヴェルといった連中も加わっているのか? とい
う点。
確証はないが、教師という立場を利用してケータイを取り上げるという、ある意味セコイやり
方が、夕子には久慈や「闇豹」のイメージとは離れている印象を受けた。奴らは紛れもなく吐き
気を催すほどの悪党だが、戦闘を仕掛ける際にこのようなまわりくどい手は使わない。ある程
度自信があるが故、正面から堂々と現れる。また、多くの他生徒が見守る前で必要以上に夕
子との関係を際立たせる行為も、正体を厳守すべき『エデン』の寄生者としては愚かと言わざ
るを得ない。警戒心の強い久慈やちゆりには、まず考えられない行動だった。
となれば、やはり目の前にいるえびす顔のメタボ中年が、夕子=ファントムガール・アリスの
対戦相手と捉えてまず間違いはないであろう。
敵がクトルならば、ツイている。
以前の闘いでアリスはトドメこそ刺せなかったものの、クトル相手に勝利を収めている。投げ
や関節技を主体とする武道戦士ユリアは軟体生物のクトルを天敵としているが、アリスからす
ればタコのキメラ・ミュータントは決して闘いにくい相手ではなかった。最大の必殺技である超
高熱弾ヒート・キャノンも電磁剣を始めとする電撃技の数々も、タコと融合した怪物には十二分
に有効。いや、それどころかクトルにとってはアリスの攻撃はもっとも苦手とする部類に入ると
言えるだろう。
闘いには相性がある。
ユリアの天敵がクトルならば、そのクトルの天敵は今対峙している霧澤夕子、つまりファント
ムガール・アリスなのかもしれなかった。
そしてその相性の良さを、夕子自身がよくわかっている。
「どうせ久慈あたりに指示されて来たんでしょうけど・・・ミスマッチだったわね。私にあんたを当
てたのは、作戦として失敗している」
「さすがは天才の誉れ高い夕子くん。見事正解ですよ、前半はね。後半については惜しいので
すが、残念ながらハズレですねえ」
「私に勝てるとでも言いたいの?」
「いえいえ、滅相も無い。この私の能力が夕子・・・アリスくんの能力と相性が悪いというのは仰
る通りです。私が頑張ってみたところで、アリスくんには勝てないでしょうねえ。ただ違うのは」
首都のネオンを跳ね返していた静かな水面が、突如として盛り上がる。
流れる轟音と水飛沫。夜闇色の東京湾を引き裂いて、巨大な半透明の生物が、濡れ光るそ
の不気味な姿を暗黒の空に露わにする。
キノコの傘にも似た巨大な頭部と、その下に無数に生え茂った触手。グニャグニャと蠢く不規
則な動きは、この新たなミュータントの知能の低さを教えるようだ。異形ともいうべきその姿は、
しかし夕子ならずとも一度は誰でも図鑑などで見た覚えがあるに違いない。
紛れもない、この時期海に大量発生するクラゲのミュータント。
「ファントムガール・アリスくん、あなたの相手は私ではありません。この『ヒドラ』が、東京湾を
美しきサイボーグ少女の墓場にして差し上げましょう」
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