ファントムガール ~白銀の守護女神~

草宗

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「第十一話 東京決死線 ~凶魔の右手~」

11章

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 淡いオレンジの光が、畳の敷き詰められた道場を柔らかに浸していく。
 仄かに篭もる、人々の熱気と汗の臭気。静まり返った室内に漂う残滓が、先程までこの場所に多くの人間たちが集まっていたことを教える。初秋の鮮やかな夕陽は、稽古の余熱が残る和風の空間を染めるのに、よくマッチしていた。温かで、柔らかで、それでいてどこか寂しい夕暮れの光。遠い空で、巣へと帰っていくカラスの鳴く声が聞こえる。

 古流武道の一派・想気流柔術の修練場。
 現師範である西条剛史の居住宅の一角に建てられた道場では、決められた曜日にお弟子さんたちへの稽古が行なわれている。一般部の練習がない今日は、少年部のみの開催であった。夕方、小学校帰りの子供たちが続々と集まってきた道場では、つい先程1時間半の稽古が終わったばかりだ。

 迎えの保護者に無事子供たちを返し終え、ホッと一息ついたのも束の間、西条エリはひとり再び道場へと戻っていた。
 父である剛史が所用で外出しているときなど、エリや妹のユリが代わりに指導することは珍しいことではない。少なくともふたりの実力をよく知る道場生から、不満の声が挙がることはなかった。むしろ丁寧で優しい双子姉妹の指導は、がさつな面もある剛史よりも好評なくらいであった。
 今日はユリも稽古に間に合わないため、エリはただひとりだけでの指導となった。
 同じ白鳳女子高校に通うユリだが、文化祭の出し物について、クラスでの作業が遅れているため抜け出せない状態らしい。自分ひとりだけとなると、責任の重さも感じないわけにはいかなかったが、こうした経験は初めてのことではない。20人ほど集まった小学生以下の子供たちを相手に、エリはそつなく予定したメニューを終えたのであった。

「さて・・・ここから、頑張らないと・・・」

 指導者としての役目は終わったが、武術家としてのエリの稽古はこれからが本番だった。

「今のままじゃ・・・ユリの役に立てないから・・・」

 オレンジの光に包まれた空間で、ひとり幼さの残るスレンダーな少女は、力みの抜けた、自然でそれでいて隙のないフォームで構えて立つ。
 白の道着に黒袴。長身細身の15歳の少女に、想気流柔術の道着は驚くほど馴染んでいた。丸い輪郭に納まったくりくりとした漆黒の瞳と薄紅の唇。襟足まで届くセミロングの髪。お人形のような童顔に愛らしさは満ちたまま、凛とした気配が濃厚に立ち昇ってくる。

 ファントムガールになるという願いを、エリはまだ諦めたわけではなかった。
 今のエリは、自分の許可がなければ全力を出すことができない妹のユリ=ファントムガール・ユリアをサポートする立場でしかない。それは重要でありながら、己の代わりに双子の妹を死地に送らねばならぬ、歯がゆく悔しい役目であった。本来ならば死を賭けて闘うのは自分でありたかった。ファントムガールにさえなれれば、ユリを二度と危険な目に遭わせずに済むのに・・・だが、守護天使のリーダーである五十嵐里美は、唯一残された最後の『エデン』を、決してエリに渡そうとはしなかった。
 西条家の双子姉妹を、ともに過酷な使命に巻き込みたくなかったのは、里美の深慮。
 そして、変身可能にエリがなれば、己の代わりにその身を犠牲にすることがわかっている、ユリの願い。
 天才と呼ばれるユリに近い柔術の実力を持っていても、エリが守護天使となることを頑なに拒否されているのは、そのふたりの意志が一致しているためであった。
 ふたりの優しさは、エリにも痛いほど伝わってくる。が、しかし・・・

"ふたりが、私をファントムガールにしたくないのは・・・結局・・・私が弱いから。・・・だから、傷つくことがないように・・・闘いから遠ざけようとする。・・・強くなれば、きっと・・・きっと、安心して私を仲間に認めてくれる"

 ユリとの間に存在する実力差を、エリ自身が誰よりも理解していた。
 紙一重。だが、紙の向こうとこちらには、確かな「隔たり」がある。
 その境界を越えるために、ユリがいないこんなときこそ、稽古に励む必要があった。柔術の練習はふたり一組が基本。互いの身体を実験台にすることで、技の精度を磨いていく。そうして愛らしい双子姉妹は、日夜修練に努めてきた。とはいえ、パートナーがいなくとも、腕を高める稽古はできる。

 畳が摩擦するかすかな音。
 流れるように動いた華奢な肢体が、一切の無駄なく前進する。両手が流麗かつ複雑に舞ったかと思うや、一呼吸で一気に美少女は回転していた。
 パッと見、そのリズミカルなムーブは踊っているかのように映る。しかし、しばらく凝視していれば、見物人の眼にもきっと見えてくるだろう。
 エリに柔術の技を掛けられている、空想の敵の肉体が。
 シャドーボクシングならぬ、シャドー柔術。目に見えないパートナーを相手に、エリは稽古を始めたのであった。

 ただ、その意味合いはイマジネーションで生み出した敵と闘いの予行練習をする、というのとは少し違っていた。
 空想の敵と闘う、というのであれば、相手がどう動いてくるかを想像し、それに合わせた攻守の動きを脳裏に描きながら動く、ということになるだろう。それは実戦的でありながら、リアルに近づけるには、なかなか難しい作業であった。想像する敵は、どうしても己にとって都合よく動きがちになるからだ。
 今、エリがしている鍛錬は、もっと簡単で単純なものだった。
 エリが頭に描いた敵は、単一な攻撃を繰り返すばかりであった。例えば、右のストレートなら、それのみ。突き出された右パンチを、エリは決められた動きで受け、関節を取り、極める。その同じ動作を何十回と繰り返す。それを攻撃パターンを変えて、ひたすら続けていく。
 要するに、エリがしている練習は、技の動きを身体に染み込ませるための稽古であった。

 基本的な練習だ、と思われるかもしれない。実際に技の流れを身体で覚えていくのは、想気流柔術においてはイロハのイであり、稽古の根幹である。少年部も一般部も、練習はここから始まり稽古時間の多くを費やす。柔術を極めた少女の特訓としては、あまりに地味に映っても仕方のないところだろう。
 だが、技の流れを肉体で覚えることこそが、想気流において最大の重要事案である以上、エリの秘密稽古が地味で単調なものになるのも当然のことであった。
 柔術において大切なこと、それは関節を極める、それ自体よりむしろ、極めるまでの過程にあると言っていい。
 考えてもみればいい。的確に関節を極めるのは、コツさえ掴めばできるようになる。しかし、実戦=例えばケンカなどで関節技を極められるものかどうか? 必死で逃げる、あるいは攻撃してくる相手に、思うように技を仕掛けるのは並大抵の難しさではない。武道の技はその「最終形」に眼が行きがちだが、本質は「どう最終形に持っていったか」の流れにこそあるのだ。

 攻撃してくる相手に対し、どのように対処し、次にどう動いていったか・・・もっとも効果的で合理的な動きを繋ぎ合わせ、一連の流れとしてまとめたものこそが「技」なのだ。右ストレートを打ってきた敵を、確実かつ効率的に倒せる「動きの道順」を想気流柔術は知っている。あとはいかにその道順を、動きの流れを、より正確に、より素早く実践できるか。全身の筋肉と細胞に教え込ませた者のみが、技の成功を実現させるのだ。
 非力な肢体と内気な性格。どう見ても武道家としては不向きな双子姉妹が達人たる所以は、遺伝もあろうがなにより幼少からの訓練によるところが大きい。一般の道場生より十倍強いエリユリ姉妹は、百倍以上、技の流れをその身に染み込ませてきたのだ。努力の日々が、流した汗がそのまま強さに直結する、それが柔術。途方もない時間を修行に費やしてきたからこそ、屈強な男数人がかりでも敵わぬ、双子の柔術姉妹は誕生した。

 同じ時間を稽古に費やしたのに、妹のユリが自分より強い理由・・・それが天から与えられた才能の差であることは、エリも薄々感づいていた。
 だが、それを認めることは逃げること。ユリが私より強いのは、きっと隠れてやった努力の差なのだ・・・敢えて言い聞かせることで、可憐な少女はチャンスを見つけては密かな特訓を続けているのであった。
 道着の下、白い素肌にじっとりと汗が浮かび始める。素早く、淀みない動きを一息の休止すら置かずに続けるエリの稽古は、同じ時間における運動量が一般人とは段違いであった。孤独で、しかし濃密な修行・・・エリの充実した時間は、ここで唐突な終わりを迎えることになる。

「小娘のくせに、なかなかいい動きじゃねえか」

 背後から突然沸いた声に、西条エリは風切る速度で振り返った。

 ゾクリ

 足元から這い上がる冷たい感覚を、エリは生涯忘れることはないだろう。
 男。ひと目で凶暴性が伝わってくる男が、畳の上に土足で立っている。
 紫のジャケットとスラックス、ギラギラと輝く金のネックレス。角刈りの頭に、革製の靴。そのファッションからも危険な香りは漂ってくるが、男の顔は戦慄を覚えさせるには十分なものであった。
 縦横無尽に生傷が顔に刻まれている。
 傷に引きつられて、三白眼の左眼と唇の左側が下にズレ下がってしまっていた。15歳の少女には刺激の強すぎる顔。だが、エリの鼓動を緊迫感とともに急激に高めているのは、それらの外見以外にあった。

 いつの間に、こんな近くまで迫っていたのか?――
 ユリほどではないにせよ、気配、それも危険度の高いものを察知するのは、想気流を会得するエリには決して苦手なことではない。それがここまでの接近を迂闊にも許してしまうなんて・・・

「道場に・・・なにか、御用でしょうか?」

 内気な少女が口を開く。あどけなさすら残す美少女が、明らかなヤクザ者に向かって言うには、堂々とした口ぶり。むしろクラスメイトや守護天使の正体である少女たちと話す折よりも、その態度は毅然としている。

「想気流柔術ってのは、ココで間違いねえな?」

「そうです・・・あの・・・まずは靴を脱いでください」

 畳に落ちた土を視界の隅に認めながら、エリの丸い瞳が凛と疵顔の男を見詰める。
 水仙のように華奢な少女の注意を嘲笑うように、男は靴を履いたまま、グリグリと畳を踏み躙った。擦り切れたイ草がささくれ立つ。

「靴を・・・脱いでください」

「西条ユリってのは、お前か?」

「・・・ひとに名前を尋ねるときは・・・まずは・・・」

「城誠だ。毛も生えてねえようなガキのくせに、生意気な口利くじゃねえか、あァ? もう一度訊くから、きちんと答えな」

 腐った魚のような眼で、スカーフェイスのジョーが童顔の美少女を睨みつける。逃げることなくエリの純真な瞳は、凶獣の眼光を真っ向から受け止めていた。

「お前が西条ユリ・・・ファントムガール・ユリアの正体だな?」

「ッッ!!・・・・・・そうです」

 ジョーの狙いを全て理解したうえで、エリは力強く頷いた。
 強い衝撃が、エリの全身を叩きつける。
 ファントムガール抹殺を目指す刺客・スカーフェイスのジョー第一の攻撃は、打撃などではなかった。
 殺意。
 全開放された圧倒的殺気が、人形のような美少女のスレンダーな肢体に浴びせられる。かつて経験したことのない、巨大な悪意。白い頬が、柔術の道着が、ドス黒い負の波動にビリビリと震える。

 次の瞬間には、腕も脚も首も太い重厚なジョーの肉体が、押し潰すような迫力でロリータフェイスの少女に突っ込んでいた。
 渾身の力を込めた、右のストレートパンチ。
 明確な殺意を受けた人間は恐怖する。恐怖は肉体を硬直させ、自由を奪う。本来なら。
 生粋の武道少女・西条エリは違った。
 肢体を捻りながら前進した美少女の頬を、凶獣の拳がすり抜ける。唸る空気の音。避けられた、と悟った瞬間、ジョーの拳は白い指に絡め取られていた。
 交錯する勢いを利用して、エリは岩のような拳をそのまま内側に折り込むように曲げていた。
 関節が曲がらない方向に曲げるのを逆関節といい、曲がる方向に可動範囲以上に曲げるのを順関節という。手首を手の平側に容赦なく曲げた、エリの順関節技。激痛にジョーの身体が思わず飛び上がった時には、その右肘までもが一気に想気流柔術の餌食となっていた。
 手首、肘、肩。電流のように這い上がる激痛に、自ら畳を蹴ったジョーの肉体はエリの顔の高さまで宙を舞っていた。
 グシャリと肉の潰れる音を響かせて、疵に埋め尽くされた顔面から、分厚い肉体が垂直にエリの足元の床に激突する。畳の上とはいえ、脳震盪は免れない衝撃―――

 スカーフェイスがその動きを止めていたのは、時間にしてわずか2秒のことだった。
 首を支点に逆立ちした状態から両脚を振る。反動で一気に立ち上がったTレックスのごとき肉厚の身体は、己を無様に地に叩きつけた張本人を見るべく素早く振り返る。
 古い疵跡から滴り流れた鮮血が、凶獣の顔面を朱色に染めていた。
 ペロリ・・・赤い舌が、己の血を舐め取る。数え切れぬ人間を楽しみながら始末してきた、殺人快楽者・スカーフェイスのジョー。愛くるしいまでのロリータフェイスの少女に床を舐めさせられたその屈辱は・・・想像するだに恐ろしい。その胸に猛る業火は天を焦がし、怒りは全身を紅潮させる――はずだった。

 憤怒に焼かれているはずの疵面は、歪んだ顔をさらに歪めてニヤリと笑った。

 ボト・・・ボトト・・・ポタ・・・・・・

 対峙する西条エリは、真っ直ぐに立ったまま無駄なく構えている。
 鮮血で赤く染まったジョーとは対照的に、元々白いエリの童顔は血の気が引いて青くすらある。おびただしい汗が、愛らしい顔を濡れ光らせている。
 突然に現れた襲撃者。ファントムガール・ユリアの正体を知っていること、顔面から投げ落とされても平気なタフネス、城誠と名乗るこの男が、久慈仁紀の手の者で『エデン』と融合した新たな敵であることは、ほぼ疑いようがない。しかもその殺気は、エリも闘った経験のあるかつての敵・サーペントこと葛原修司や、シェルこと兵頭英悟などと比べても、まるでレベルの違う・・・段違いの本物の殺気。いままでのミュータントを遥かに凌ぐ危険な敵の予感に、エリは十分な警戒をしていた。していたはずだった。
 ―――なのに。

「きゃあああああああッッ―――ッッ?!!!」

 鈴のような少女の声が、甲高い絶叫となって夕暮れに染まる道場を揺るがせる。
 ガクガクと数歩、後ずさるエリ。崩れそうになる肢体を必死に支える膝。その少し上、黒袴に包まれた太腿の部分。
 刃渡り30cmの短刀、ドスが、少女闘士の右脚を貫いていた。
 華奢な身にあって、わずかにムッチリと肉付きのいい太腿。真上から突き刺さった刃は、腿裏から突き抜け、エリの右足を串刺しにしてしまっている。刀身を濡らす鮮血。畳に点描されていく深紅。厚い筋肉を抉りぬかれた壮絶な激痛に、凶悪な暗殺者が目の前にいることも忘れてエリは叫んだ。

「ギャハハハ! お前が使う柔術ってのは学習済みだぜェェッ!! 投げ一発と右足一本、悪くねえ交換条件だなア!」
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