ファントムガール ~白銀の守護女神~

草宗

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「第七話 七菜江死闘 ~重爆の肉弾~」

4章

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 激闘が続く体育館に訪れた、ひとときの休息。
 真昼の矢のような直射日光を浴びながら、Tシャツとデニムに鋼の肉体を包んだ男が、キョロキョロと辺りを見回しながら歩いている。
 決勝が始まる前の休憩時間は、関係者や学校の応援団などでざわついていた。どこか浮ついた感すらある空気が、男がすれ違うたびに一瞬硬直する。
 
 凄まじい肉体だった。
 見事な逆三角形を描いた上半身は、人間はこれほどまでに筋肉を保持できるのか、と嘆息するほど膨れ上がっている。単に質量があるだけでなく、露出された腕をみれば、いかに引き締まっているかは筋肉に縁がない者でもすぐにわかることだ。紺色のデニムは鍛えられた太股によってパンパンに張っており、厚い生地の上からでも、大腿四頭筋の動きがハッキリ見て取れた。
 
 こんな肉体の持ち主は、この近辺では工藤吼介を除いて他にはいないであろう。
 その吼介が、額に汗しながら早足で、体育館の周囲を、何かを探しながら歩いている。表情こそ落ちついているものの、発散する雰囲気に混じる切迫感が周囲の者を圧倒し、彼の前に、モーゼの十戒のごとく人波を割けて道を作っていた。
 
 ひとけの途絶えた体育館の裏側で、ようやく工藤吼介は探し物を見つけ出した。
 木陰になった体育館の壁のところに、ひとりの少女が体操座りをしてうずくまっている。
 曲げた膝の部分に、顔を埋めた少女の表情は見えない。ただ、時折吹く風が、やわらかなショートカットを優しく揺らす。
 
 何も言わずに吼介は、少女の右隣に腰を下ろした。
 真夏の太陽によって焼かれた肌に、うっすらと滲む汗を、木陰の涼しい風が乾かしていく。無言のままで、小さな少女と鎧武者は、ふたりだけの時間を流れていく。
 
 ポン、という軽い音。
 グローブのような左の掌をショートカットに乗せ、男は少女を優しく撫でた。
 
 「泣くな」
 
 しばしの間の後、リスのような声が答える。
 
 「泣いてなんか、ないですよ」
 
 膝に顔を沈めたまま、藤木七菜江は言葉を繋ぐ。
 
 「別に香先輩と吼介先輩が付き合っても自由なんですから。あたしには関係ないことだし、香先輩はあたしと違って美人だから、吼介先輩も嬉しいんじゃ・・・」
 
 「言えるかよ」
 
 グッと頭を抱えた左手が、身体ごと少女を逆三角形の肉体に引き寄せる。
 七菜江の小さな身体は、最強の肉体の胸に抱かれる形となった。
 
 「あんな形でお前への想いを、言えるわけないだろ」
 
 「・・・」
 
 「お前にオレの気持ちを伝えるのは、こんなところでじゃあ、ない。こんな中途半端なところで、オレの気持ちを伝えたくは、ない」
 
 ゆっくりと少女が顔をあげる。
 涙はなかった。ただ、眼が少し赤くなっているだけ。
 純粋な瞳を男臭い顔に向けていた少女の愛らしい顔が、吸い込まれるように分厚い胸板に埋まっていく。
 疲れきった少女は、安住の地に安らぎを求めるように、深く深く、頑強な肉体に溶け込んでいく。
 
 “そう言えば、まだあたしの告白の返事、もらってないんだよね”
 
 死を覚悟した数週間前の激闘の前、吼介にした七菜江の告白は、いつのまにか、ふたりの間でなにもなかったかのように消されてしまっていた。
 吼介は何も言わないし、七菜江も返事を求めはしなかった。求めるのが恐かったし、今はまだ求めない方がいいことはわかっていた。
 七菜江は悟っていた。
 いくら柴崎香が吼介に迫ろうと、そんなことでは焦らない。
 あたしがホントに気にしているのは・・・あのひと。
 逆立ちしたってあたしでは敵わない、あの美しく、気高く、尊敬するあのひと。
 あのひとが遠くに旅立ったというのに、先輩が応援しに来てくれたから、あたしはこんなにも張りきってしまっているのだ。
 あのひとへの想いが、先輩にまだ残っていることを知っているから、あたしの胸はこんなにも苦しいのだ。
 
 “でも、いい・・・いいんだ。今はこれでいいの”
 
 厚い胸板から伝わる熱が、じっくりと少女の肢体に染み込んでいき、張りついた疲れを消し去っていくようだった。
 できれば・・・もっと強く抱き締めて欲しい。
 仄かな願望が純粋な少女に湧きあがった、その時だった。
 密かに彼女を狙う魔の手が、絶妙なタイミングで再び少女に襲いかかる。
 
 「あーら、こんなところにいたの?」
 
 小馬鹿にした調子を含んだ柴崎香の声が、ふたりだけの甘い世界を破壊する。
 すっと吼介から身を離した七菜江は、子猫のように俯いて発達した身体を小さくする。レギュラーを香から奪ったという罪悪感が、部の先輩に対する苦手意識を七菜江に与えているようだった。そんな後輩に、憎悪と侮蔑をこめた視線を、容赦なく香は降り注ぐ。
 
 「悪いが取り込み中だ。消えろ」
 
 「あら、工藤くん。さっきとは随分違って冷たい対応じゃない」
 
 「人前で恥掻かないようにしてやったのは、一応気をつかったつもりなんだがな。ここでは本音をいえるぜ」
 
 「ふふ、そう恐い顔しないでよ。消えてもいいけど、その前にあなたに伝えておきたいことがあってね」
 
 近付いた香が、そっと吼介の耳元にくっきりとした美貌を寄せる。
 囁く声は、七菜江には届いてこなかった。だが、ピクリと動いた男の濃い眉を、少女は見逃しはしなかった。
 
 「じゃあ確かに伝えたわよ。後はあなたの好きにすればいいわ。ここでナナとじゃれあっててもいいし・・・ナナを捨てて“あのひと”に会いにいってもいいし」
 
 嘲りを含んだ一瞥を、俯いたままの七菜江に見せて、長いウェーブを巻いた美女は立ち去る。
 その姿が完全に見えなくなった時、固まっていた七菜江が不安げな様子でおずおずと隣の男に顔を向ける。
 
 「・・・ねぇ、なんて言ったの?」
 
 少女の質問には答えず、緊張した口調で吼介は言った。
 
 「悪い、七菜江。ちょっと用事が出来た」
 
 さっと曇る愛らしい少女の顔を振り切るように、格闘獣は立ち上がっていた。怒りはないが、その雰囲気には彼本来の闘気が蘇っている。遠くを見詰める視線が鋭い。その視界に、もはや自分は入っていない気がして、七菜江の心に空虚な風が吹き抜ける。
 
 「あッ・・・」
 
 哀しげに細い眉毛を垂らす少女を置き去りにして、最強の肉体は駆け出していた。思わず差し伸べた右手を、健気な少女は淋しく見詰める。引きとめようとした右手は、何も掴むことができずに、ただ虚ろな空間をさまよっている。その向こうで、逆三角形の背中が振り返ることなく走り去っていく。
 伸ばした右手は、やがてゆっくりと地面に落ちた。
 四つん這いの格好になった美少女は、垂れるショートヘアで表情を隠したまま、ひとりいつまでもその場にうな垂れ、切り裂かれた胸の痛みに飲み込まれていった――
 

 
 「なるほど、ここなら確かに誰もきそうにないな」
 
 茶色の本棚と、そこにびっしり詰まった黴臭そうな本に囲まれて、工藤吼介はひとり呟く。
 体育館の事務室の隣には、この地域に関連した資料を集めた図書室がある。誰にでも閲覧可能な、「地域住民のための施設」であるが、過去のスポーツ大会の結果を載せた資料などに興味あるものは少なく、10坪ほどの広さの部屋は常に閑散としていた。まして、メインフロアの方から怒涛のような歓声があがったところをみると、つい2,3分前に女子の決勝が始まったらしい。聖愛学院対東亜大附属という、女子ハンド界きっての好カードが実現している時に、こんなところにやってくる物好きは、余程の理由でもない限り、いないだろう。
 
 部屋の中には、吼介以外にもうひとり、物好きがいた。
 薔薇のような女だった。
 腰にかかるまでの長い髪がまず目につく。次に、名のある芸術家が作成したと思わせる、端正で美麗なマスクに惹きつけられる。両耳の赤いピアスのせいでもなかろうが、妖艶の風を激しく吹き散らす美女。時に瞳に翳る冷酷な光は、嫌悪感を抱かせぬでもなかったが、それでもこの女に吐息を吹きかけられれば、どんな男でもベッドへ連れ込みたくなる衝動を抑えられはしまい。毒の香水を振り撒いた色香の化身が、いかにも安っぽい資料室の中央に立っている図は、やや違和感を覚えさせずにはおれない。
 聖愛学院生物科教師・片倉響子。
 いかに自分の勤務する学校が出場しているからといって、身についた高慢を隠しもしないこの女教師が、電車で一時間近くもかかる地方体育館に姿を現すなど、誰が想像しえただろうか。
 
 美女と野獣。
 その言葉を具現化したふたりが、喧騒から離れた個室内に、異空間を創りあげて対峙している。
 
 「このあいだの話の答、そろそろ聞かせてもらおうかしら?」
 
 落ちついた、オトナのトーン。
 桃色の吐息を纏わりつかせて放たれた響子の問い掛けに、数秒の沈黙を経て吼介は応える。
 
 「無理だな」
 
 「無理?」
 
 「今は答えることができない」
 
 「それは迷っているということかしら?」
 
 「自分が自分でなくなるとわかっていて、迷わないやつはいないだろ」
 
 「逆に言えば、ノーというわけでもないということね」
 
 響子の言葉に、筋肉の鎧に包まれた男は黙り込む。
 
 「感情的にはノーでも、理論的にはイエスというところかしらね」
 
 「理論的にもイエスというほどじゃないさ。お前がやろうとしていることは、人間の観点からすれば、とんでもない危険な考えだと思うぜ。危険どころか、抹殺すべき考えだ。普通なら、お前は間違っているというべきだろうな」
 
 「でしょうね。けど、あなたがここに来てるってことは」
 
 「間違っているとは思うが・・・一理はあると理解している」
 
 深紅のルージュを歪ませて、美女は艶やかに微笑む。
 
 「それで迷っているってわけ?」
 
 「まさか。オレはお前みたいにデカイことなんか、考えてない。ぶっちゃけ、お前の考えが正しいか間違いかなんて、興味ない。オレが考えられるのは、せいぜい身近のことだけだ」
 
 「それは、あのコたちのこと?」
 
 「あいつらが幸せになるにはどうすればいいか、それがわからない。そこを迷っている」
 
 「あなたの本性は、結論を出しているように見えるけど」
 
 妖艶な笑みに、十分な勝算を確信した光を宿らせて、響子は言う。
 
 「その本性を理性で抑えるのが、“人間”ってやつだろ? 悪いが、今答をだせっていうのなら、ノーだ」
 
 くるりと振り返った吼介の足は、ドアに向かって歩き出す。その逆三角形の背中に、美女は声を投げ掛けた。
 
 「じっくり考えればいいわ。いつまでも待っているから。ただ・・・」
 
 ドアノブにかけたゴツイ手を、吼介は止める。
 
 「くれぐれも、今日これから起こることに、邪魔しないでもらおうかしら。理解力のあるあなたなら、わかってくれると思うけど」
 
 “チッ”
 舌打ちの音だけを残して、巨大な背中は資料室をでていく。
 ひとりになった部屋の中で、悪魔に創られた絶世の美女は、ゆっくりと取り出したメンソール系の煙草に火をつける。
 紫煙立ち昇るなか、遠くをみつめた片倉響子は、今後に想いを駆け巡らせ、搭載された天才の頭脳をフル回転させるのだった。
 
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