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61、ダミー
しおりを挟むバブル時代の負の遺産が、首都にはいまだ点在している。建設はされたものの、高額な入居料を払う企業が現れず、結果空き家となったテナントビル。
買い取り手もないまま、その10階建てのビルは廃墟と化していた。使用者がいなかったため、内部にはなにもない。ただ床と壁があるだけの、ガランとした空間。
太陽はまだ沈み切っていないというのに、部屋も通路も堆積したような薄闇が支配していた。照明器具が一切ないためだ。窓から挿し込む光だけが、ぼんやりと室内を浮き上がらせている。
妖魔の類いが棲みつくには、好都合な物件であることは間違いない。
地獄妖・骸頭が示した地図上のポイント。四乃宮天音が選ばなかった、東のアジトがそこにあった。
「意外でしたわ。まさかあなたがここにいらっしゃるとは」
最上階の一室で、琴を爪弾くがごとき声が響く。
廃墟に立つのは着物姿の美女だった。一般の者が目撃すれば、ほとんどが幽霊と間違えたことだろう。全体的に色素が薄く、透けて見えるような錯覚すらする。ハーフアップにまとめた髪は茶色で、丸い瞳は青みがかっていた。すみれ色の和服からは、白磁のような素肌が覗く。
幽霊、と見えるのは、あながち間違いでもなかった。なぜなら彼女は、すでに死んでいるのだから。
妖化屍〝輔星”の翠蓮。
美と智を兼ね備えた元『水辺の者』は、部屋の片隅で固まったように直立していた。
「オレは天音のパートナーだ。それほどおかしな話でもないだろう」
漆黒のスーツ姿の男が、部屋の中心に立っている。
聖司具馬は、天音に宣告した通りに、もうひとつのアジトに突入していた。そこに囚われているであろう、四乃宮郁美か甲斐凛香を救うために。
外見上はいつもの司具馬と変わりはない。だが、今は敵として向かい合っていることに翠蓮は気付いていた。どこか飄々として、淡泊。それが元同僚に対する浅間翠蓮の人物評。これほど鋭い眼光の司具馬など、見たことがない。
「意外と申しましたのは、そのことではございません」
「他の者が来ると思っていたのか?」
「いえ。ケガレどもがひしめくなか、まさか聖さんがここまで辿り着けるとは」
廃墟ビルの内部。各フロアには平均して10体ほどのアンデッドたちが、待ち受けていたはずだった。
1階から9階まで。となれば、その総数は三桁に迫る計算となる。
「生きている人間からすれば、ケガレの筋力は猛獣を相手にするようなものでございましょう。いかに優秀な破妖師といえど、オメガスレイヤークラスでなければ容易に最上階まで上がってこれぬはず・・・」
「なるほど。時間稼ぎがお前の役目か」
胡桃のような青い瞳が、正鵠を射抜かれてピクリと動く。
「初めから、人質を渡すつもりなどなかったというわけだ。骸頭のヤツにしては素直すぎると思っていた。本当のアジトは別にある。天音が東にいこうが西にいこうが、救援部隊が両地点に向かおうが、ふたりを助けることは最初から不可能だった」
地図に示された10階建ての廃墟に、オメガヴィーナスの妹も、オメガフェニックスの正体である少女もいなかった。
いや、それどころか生きている人間の姿さえ見当たらない。
ビルの内部に潜んでいたのはゾンビの群ればかり。あとは、最上階にこの女妖魔が待ち受けていただけだ。
「・・・少し違っていますが、お見事です」
努めて冷静な声を、和服の妖化屍は搾り出した。
部屋の隅で、埃の塊が動く。
圧縮した空気の壁を、分厚くしたためだった。気体を固めるのが〝輔星”の翠蓮の特殊能力。司具馬には見えていないだろうが、両者の間には2m超の防御壁がある。
「安心しろ。お前を殺すつもりはない」
司具馬の言葉に、白い美女の顏がさらに色を失くした。
どうして空気壁の強化がわかったのか? 傍目から見れば、翠蓮の動きになんの変化もなかったはずだ。
「・・・よくぞ壁の存在に気付きま・・・」
「ただし、質問の返答次第だ。元同僚などという遠慮はオレにはない」
女妖魔が話す途中で、強引に男は断ち切った。
場合によっては、司具馬は躊躇いなく翠蓮を殺すつもりだった。そして恐らく、妖化屍相手にそれが可能なだけの実力を持っている。空気の壁などまるで意に介さぬほどの。
「・・・たまらんわぁ」
冷たい汗を浮かべた美貌から、京訛りが漏れ出てくる。
「イケズやなぁ。そんな力隠し持ってたなんて、知らへんかったわ。キミ、何者なん?」
「最初の質問だ。少し違うとは?」
翠蓮の疑問には答えず、淡々と司具馬は訊き返した。
無表情であるがゆえに、かえってその内包した怒りが伝わってくるようだった。元の調子を取り戻し、慌てて女妖化屍は答える。
「返すつもりがなかったのは、四乃宮郁美だけでございます。ご推察の通り、はじめからオメガヴィーナスの妹はこの地にはおりませぬ」
なぜ、甲斐凛香ことオメガフェニックスは返すつもりになったのか? とは、司具馬は訊かなかった。
恐らく、用済みになったのだ。
詳しいことは想像するしかない。しかし、紅蓮の炎天使は六道妖にとって利用価値がなくなった。少なくとも郁美よりは薄くなったのだろう。
この時点で、天音が向かった西のアジトに凛香がいるのかどうか、司具馬には知る由もない。だが、最悪の場合オメガフェニックスはすでに始末されている可能性もあった。六道妖の切り札である郁美と違い、凛香の扱いは戦闘を優位にするための道具程度かもしれない。
そこまでを、一瞬のうちに司具馬は脳裏で粛々と整理した。
「郁美さえ手の内にあれば、天音がまともに闘えないのはわかっていたわけか」
「その通りでございます。四乃宮郁美こそが六道妖の勝利のカギ。その所在を易々と教えるはずがありませぬ。地図で報せた地点はあくまでダミー。オメガヴィーナスを誘き出すための嘘ですわ」
「六道妖はなぜここにいない?」
「なにより重要なのはふたりの人質、特に四乃宮郁美を『水辺の者』に奪還されないこと。万一の事態に備え、六名の妖化屍は両者の周辺に配置されたのです。余ったこのダミーのアジトを、私が任されただけのこと」
なるほど、よく考えられている。胸の内で司具馬は唸る。
白銀の光女神の神速を考えれば、人質がいるからといってオメガヴィーナスの眼前に連れ出すわけにはいかなかった。一瞬にして取り返される可能性が高いからだ。あくまで、天音の手の届かぬ場所に捕えておきたい。だから郁美の監禁場所を偽り、隠した。
一方で甲斐凛香は、郁美ほどの価値はない。ぞんざいに扱える分、オメガヴィーナスとの戦闘に連れ出し、有効活用できる。仮にオメガフェニックスが息絶えていたとしても、その亡骸だけでも盾などに使えるだろう。六道妖ならば、その程度の悪逆非道は躊躇なく行える。
そして、この廃墟。郁美も凛香もいないこの場所でオメガヴィーナスと対峙するのは、あまりに危険な役割だった。六道妖といえど、怒りに我を忘れた光女神に、一瞬で消し炭にされてもおかしくはない。
だが相手がかつての仲間・翠蓮ならば・・・心優しきオメガヴィーナスは、命を奪いまではしないだろう。
骸頭はそこまで熟慮して、女妖魔を配置したに違いなかった。一方で、本当に翠蓮が『水辺の者』を裏切ったのか、確認する狙いもあるのかしれない。
やはり天音は、骸頭の誘いに乗ってはいけなかったのだ。西と東、どちらの地点を選んだにせよ、彼女の愛する妹を救出する方法はなかった。
あの時、もっと強く天音を押し留めるべきだった――渦巻く深い後悔のなかで、ある言葉が司具馬の胸を稲妻のように貫く。
「六名? いま六名といったか?」
「すでに、と申しますか。ようやく、と申しますか。六道妖は、全員が揃い踏みいたしました。つい数十分前のことですが」
「ではッ・・・!! 天妖が・・・あの〝覇王”絶斗が現れたというのかッ!?」
それまで感情を抑えつけていた男が咆哮した。
「ッ!? ・・・あなた・・・なぜ天妖のことを?」
「今すぐ天音の居場所を教えろォッ、翠蓮ッッ!!! 郁美が監禁されたアジトの場所もだァッ!!!」
廃墟の窓ガラスが割れる。一斉に。1階から10階まですべて。
気迫というものが、物理的な攻撃になることを翠蓮は初めて知った。腰が抜けそうになる。近距離で浴びた司具馬の裂帛は、妖化屍の心胆を震え上がらせるほどに鋭かった。
あるいはこの男、虎狼さまと比肩し得るほどの実力者なのか?
「そッ・・・それは・・・無理でございますッ!!」
「ここまでベラベラと喋っておきながら、六道妖の走狗を続けるのか!? これほど詳細に話すのは、ただオレへの畏怖が原因でもないだろうッ!」
「そういう問題ではありませぬッ! たとえ場所を知ったところで、この廃墟から出られるとお思いなのですかッ!?」
己が焦燥に駆られていた事実を、司具馬は悟る。そうだ、大事なことを忘れていた。六道妖が待ち受けているとばかり信じたために、この廃墟のビルにらしくない不用意さで入ってしまったのだ。
天音のことが絡むと、ついオレは本来の自分を失う。
時に微笑ましく思えるそんな自分が、この瀬戸際で限りなく腹立たしい。
「このビルにあなたを封じ込めているのは、あなた自身の仲間でありかつての私の同僚・・・『水辺の者』ではありませぬかッ!!」
『異境結界』。
妖化屍と破妖師を脱出不能にする結界が、廃墟ビル全体を包んでいた。
むろん、司具馬が張ったものでも、翠蓮が作ったものでもない。施術者は『五大老』から指示を受けたサポート部隊。結界内部の詳細など知らぬ彼らは、両者の間に決着がつくか、異変に気付くまでは結界を解くことはないだろう。
天音、逃げろッ!!
愛する恋人に懸命な想いを伝えるべく、司具馬はスマホの回線を繋げた。
コールを鳴らすのは、2回。
君の妹・郁美を救うことはできなかった。
天音。君は・・・逃げるんだ。
六道妖の悪辣な罠に嵌ったことを悟った司具馬は、ただただ願った。郁美の居場所がわからない以上、救出作戦は完全に失敗だ。
天音に危機が迫っていた。天妖。〝覇王”絶斗には・・・究極の破妖師であるオメガヴィーナスも勝てないかもしれない。
夕闇迫る空に、急速に暗雲がたれ込んでいた。
沈みゆく太陽が、光の残滓をビルの壁に挿し込む。
照らし出された光は、血のように真っ赤な色だった。
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