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40、浅間翠蓮
しおりを挟むその地上三階建ての雑居ビルには、入居者は誰もいないようだった。
以前にはテナントも入っていたようだが、今ではどの部屋の入り口にも「貸店舗」や「空き室アリ」の紙が貼られている。長い間、人の往来が絶えているせいか、ビル全体が薄汚れて見えた。
塵や埃と同じように、陰鬱な雰囲気というのも溜まるものなのかもしれない。
単に照明のせいではない、暗さがビルを覆っていた。ひとを寄せ付けない「重たさ」が、佇まいから漂っている。
四乃宮天音と浅間翠蓮。ふたりの美女は、カビ臭いビルの地下一階に脚を踏み入れていた。
ともに輝くような美貌と華やかなオーラを持つふたりには、あまりにそぐわぬ場所であった。暗く、薄汚い。地味を通り越して、空虚に近い部屋。50坪ほどの広い一室は、無機質なコンクリートの壁で囲まれており、調度品の類いはなにひとつなかった。申し訳程度に取り付けられた裸電球が、寒々と光を灯しているのみだ。
「『異境結界』、張り終えました。といっても、この廃墟の様子では、誰も近づきそうにないですけれども」
「とはいえ万一にも、一般人を巻き込むわけにはいかないわ。ご苦労様でした、翠蓮さん。あとはあなたも身を隠して。ここでは、いつ六道妖が襲ってくるとも限らないもの」
六道妖のアジト、として翠蓮に連れてこられた廃墟には、目指す宿敵の姿はなかった。
同じ頃、遠く離れたキャバクラで、地獄妖と人妖とが揃っていることなど当然天音が知る由もない。だが、全くの空振りでもないことは、肌の感覚が教えていた。
妖魔が放つ死臭というか。残留した瘴気というか。確かにここに妖化屍がいたことが、天音には感覚でわかった。勘としか呼べない、脆弱な認識ではあるが。
この無機質な地下室が、敵アジトである可能性は高い。ならば、いつ六道妖が現れてもおかしくはない。
「大丈夫ですよ。『異境結界』に侵入した者があれば、術者にはすぐにわかりますから。少なくとも周囲50m四方に妖魔の類いは存在しておりません」
司具馬の代理を務める臨時サポーター役は、穏やかな笑みを天音に向ける。
父親が『水辺の者』のトップである『五大老』のひとりだとは、思えぬほどに翠蓮は人当りが良かった。立場上、天音も『五大老』とは何度か面識があるが・・・タイプとしては苦手な部類に入る面々であった。
「あなたの能力を疑うわけじゃないけど、ここは敵地の真っただ中よ。罠でも仕掛けられていたら、あなたの身に危険が・・・」
「天音さまは随分と心配性なのですね。最強の名とは不釣り合いなほどに、お優しいと申しますか真面目と申しますか」
クスクスと、リスのように翠蓮は笑った。
恐るべき妖化屍が潜んでいるかもしれぬ状況にあっては、大胆を越えて変人扱いされかねぬ精神であった。だが、その笑みは決して天音をバカにしているわけではなく、むしろ心底より賞賛しているのがわかる。
だからこそ、釣られて天音も唇を綻ばせた。
「郁美にもよく言われるの。天音は真面目すぎだって」
「お姉さまのことが心配なのでしょう。真面目であることは素敵なことですけれど、時には危うさに繋がることもございますから」
今朝、初めて顔合わせをしたばかりの美女が、互いを見詰める。
24歳と23歳。163㎝と165㎝。茶色の髪型はセミロングとハーフアップ。瞳はどちらも魅力的だが、天音がやや吊り上がって凛と光を放つのに対し、翠蓮は胡桃のように丸く青みがかっている。
タイトな長袖Tシャツにスキニーなデニムを合わせたラフな格好は、天音が動きやすさを重視したためであったが、スーツ姿の翠蓮も軽快さに支障はない。
似ているようで似ていない。タイプが異なるのに共通点があるふたり。
立場も生い立ちも違うのに、いみじくも互いを長年の親友のように感じたのは、重責を担うという点で分かり合えたのかもしれなかった。
「真面目すぎるのも、あまり良くないのかしら?」
「・・・純血・純真・純潔。天音さまには、改めて説明するまでもない言葉ですが」
天音の問いに答えず、翠蓮は唐突に話題を変えた。
「オメガヴィーナスに限らず、究極の破妖師オメガスレイヤーとなるための3つの条件と言われています。オメガ粒子との相性がよい者には、この3つが不可欠であるとお父様より教えて頂きました」
「ええ。私もそのように聞いているわ。知ったのは、オメガヴィーナスとなってからだけど」
「純血とは即ち血統のこと。いにしえより破妖師の血を受け継いだ『征門二十七家』の者でなければ、オメガ粒子の受け皿は務まりません。そしてその貴重な血を大量に失えば、オメガ粒子との繋がりも弱まるのは自明の理でございます」
「そうね。失血が命に関わるのは当然のことだけど、超人的な生命力を誇るオメガスレイヤーにとっても同様ね」
「もうひとつのジュンケツ。純潔とは、貞操を意味します。オメガ粒子を初めて受け入れる際には処女であることが絶対条件であり、オメガスレイヤーの力を得てからも、性的に肉体を穢されればその能力は大きく弱まるとされています」
「・・・ええ。辱めを受けるということは、『征門二十七家』以外の血が混ざるということ。オメガ粒子はそれを不純なる血として判断するわ。実際にその・・・ええと・・・」
「凌辱者の精子を着床されなくても、つまり性交渉に及ばなくても、姦淫による刺激を受けるだけでオメガスレイヤーの力を損なうようですね。オメガ粒子が過敏に反応するのでしょう。むろん、単に愛撫を浴びるのと、子宮内に精濁を注ぎ込まれるのとでは、ダメージはまるで違ってくるのでございましょうが」
頬を真っ赤に染めた天音に代わって、翠蓮は口にしづらい単語もすらすらと並べた。
オメガ粒子が嫌悪するのは、あくまで『征門二十七家』以外の血であるので、オメガスレイヤーとなる女性は一生涯処女である必要はなかった。『征門二十七家』同士の性交なら問題はないのだ。身近ないい例が、天音と司具馬であろう。
でなければ、優秀なオメガスレイヤーの血筋が途絶えてしまうことになる。
遥か古代より、『征門二十七家』はそうして互いが交わることで血統を現世にまで伝えてきたのだ。
「そして残るもうひとつの条件、純真とは・・・清らかで純粋な心のことを意味しております。正しきものを、正しいと捉えられる心の持ち主でなければ、オメガスレイヤーは務まりません。邪悪に屈してしまったり、歪んだ精神となった者には、オメガ粒子は背を向けるとされているのです」
「ええ。オメガスレイヤーとしてあり続けるためには、私たちは常に正しき道を歩むよう、心掛けねばならないわね」
「真面目であるということも、純真に繋がる大事な要素でございましょう。・・・思えば、私には純真さが欠けていたのかもしれません」
「え?」
翠蓮の言葉自体より、その青い瞳に挿した暗い翳が、天音は気になった。
「4年半前のあの日・・・オメガヴィーナスを選んだあの洋館に、私も参加していたのです。つまりオメガ粒子に認めてもらえなかった落選者、ということですね」
「・・・そうなの。知らなかったわ」
単純な慰めをかけるのが躊躇われ、一瞬天音は言葉に窮した。
「でも・・・だからといって、翠蓮さんがオメガスレイヤーの素質に欠けているとは、言えないんじゃないかな。オメガ粒子には相性があるし」
「いえいえ。勘違いなさらないでください。私は、オメガヴィーナスになれなかったことを悔やんでいるのではなく、まして天音さまを恨んでいるわけでもございません」
大袈裟なほどに、ケラケラと翠蓮は笑った。
「ただただ感心しているだけですわ。よくぞ見抜けるものだなあ、と。この私に・・・純真などは無縁のものでございますから」
「・・・どういう意味かしら?」
「うふふ・・・そのままの意味ですわ」
笑顔を貼りつけたまま、翠蓮の右手がすっと天音へと伸びた。
白い指先が青い風船を掴んでいる。子供たちが遊ぶような、ごくありふれた風船。
何なの?
秀麗な天音の眉が、わずかに曇った。
嫌な予感がした。微笑みは変わらなくとも、愛らしいはずの翠蓮の容貌に挿したかすかな翳。自己を卑下するような発言。
だが、人当りのいい雰囲気と場違いなアイテムの登場に、ついつい天音は気を許した。割合でいえば、警戒が10%、和みが90%。
丸い瞳の美女が悪戯っぽく笑いながら風船を振るのを見ても、それが武器だとは気付けなかった。
ドキャアアアアッッ!!
「ぐッ!!?」
形のいい天音の美乳に、青い風船がめり込んでいた。まるで砲弾を至近距離から撃たれたが如く。
疾風と化して、美乙女が吹き飛ぶ。地面と水平に飛び、灰色の壁に激突する。
地上3階、地下1階のビルがグラグラと揺れた。
「あら、失礼。妖魔はいないと申しましたが・・・『私以外に』と付け加えるのを、忘れていましたわ」
「ゴフッ・・・あ”ッ・・・がッ・・・!?」
胸の中央を押さえ、よろよろと脚をフラつかせる。タイトなTシャツによってくっきりと浮かんだボディラインは、明らかに胸部が窪んでいた。半開きの潤んだ唇から、ボタボタと紅い雫が垂れる。
類い稀な天音の美貌が、軽いパニックに呆けている。苦痛と、そしてなにより、今起きている事態が呑み込めなくて――。
「なるほど。確かに天音さまは純真にございますね。それも飛び切りの。いまだ私に裏切られたことが、理解できませんか?」
壁から剥がれた天音の眼前に、すでに翠蓮は立っていた。笑みを貼り付けたまま。尋常なスピードではなかった。少なくとも、人間の身体能力では不可能な動き。
爪先を突き立てた蹴りが、天音の腹部を襲う。咄嗟にガードするセミロングの美乙女。
防御より速く、翠蓮の一撃は天音の鳩尾に着弾していた。
ドボオオオ”ォォッ!!
「ぐう”ッ――ッ!! ぐぶッ・・・!! う”ゥ”ッ・・・!!」
前屈みになった天音の肢体が、50㎝は宙に浮いた。
朱色の混ざった唾液の塊が、飛沫となって吐き出される。オメガ粒子の恩恵を受けていなければ、間違いなく今の一撃で腹部に穴が開いていただろう。
「ふふふ・・・どうやら私の方が、パワーもスピードも天音さまを凌駕しているようですね」
「かはっ・・・!! ぁ”ッ・・・! はぁッ、はぁッ・・・!」
「オメガヴィーナスは無敵かもしれませんが、変身前の10分の1以下に力を抑えられたあなたなら勝てるということですわ」
縛っていた風船の口を翠蓮がほどく。
自ら咥えて、空気を吹きいれていく。天音が受けたダメージでは、確かに鋼鉄の塊並みの重さと強度があったのに、普通の風船と変わらず膨れ上がる。
瞬く間に、青い風船は直径1mほどの大きさに肥大した。
地面に置くや、硬質な音が響いてコンクリの床が『ベゴオオッ』と凹んだ。
「ッッ!!? これはッ・・・!!」
「私の特殊能力・・・そろそろ理解なさりましたか?」
「浅間翠蓮ッ・・・あなたは一体・・・!?」
「そのような忌々しき名はとうに捨ててございます。妖化屍・翠蓮・・・またの名を〝輔星(ほせい)”の翠蓮が私の正しき呼び名ですわ」
直径1mの巨大風船を、軽々と笑顔の妖魔が振る。
風船ならば当たり前・・・ではあるが、天音の側面を叩いた瞬間、空気の入った風船は鉛の詰まった鉄球と化した。
ゴキャアアアッッ!!
重い衝突の音色を残して、ラフなスタイルの美乙女が吹っ飛ぶ。一陣の風となって、真横に。
地下全体を揺るがす轟音。
激しく壁に打ち付けられた天音の肢体は、表面のコンクリを砕いてその内部にまで埋まっていく。
ガラガラと崩れ落ちる壁。砕けた破片が、粉塵とともに飛び散る。
巨大球に弾き飛ばされた四乃宮天音は、その全身を灰色の壁のなかに完全に埋没させていた。
「ふふ・・・うふふ・・・呆気ないものですわね。最強の究極破妖師といっても、本来の力を出す前に襲ってしまえば・・・」
ボンッッ!!
爆発に似た音とともに、金の閃光が天音の埋まった壁から迸る。
一直線に、翠蓮へと向かって照射される。閃光ではなかった。金色に輝く、乙女の肢体。
妖化屍ならではのスピードで、巨大風船を盾代わりに構えた。黄金の乙女と翠蓮の間に出現した、厚さ1mの鋼鉄の障壁――。
パアァァッ・・・ンンッ!!
輝く乙女=オメガヴィーナスの突き出した右拳は、鋼鉄の硬度を誇る風船を一撃で破裂させていた。
紺青のマントが翻る。変身した天音の勢いは止まらなかった。右腕を突き出した姿勢のまま、風船の奥の妖化屍へと突き進む。
ジュッ!! と音を残して、光る女神が通り過ぎる。
距離を取るのはふたり同時だった。態勢を立て直すのも、ほぼ同時。
黄金の輝きが収まっていく天音と、スーツ姿のまま妖魔へと変わった翠蓮は、真正面から対峙した。
「嫌やわぁ。危うく首を、もがれるところやったわぁ」
呟く翠蓮の声には、京訛りが色濃く表れていた。
その頬は仄かに焦げ、うっすらと血が滲んでいる。
「妖化屍に魂を売ったのか。それとも、元々妖化屍だった者が浅間家に潜り込んだのか。わからないけれど」
仁王立ちした天音が、グイと口元の鮮血を拭う。
セミロングの髪はプラチナブロンドに輝いていた。白銀のスーツに鮮やかな紺青のフレアミニ。そこから伸びた健康的な脚は、膝下まで白銀のブーツに包まれている。
背中に纏った青のマントが、彼女のヒロイン性を強調するかのようだった。胸中央で黄金に輝く『Ω』のマークが、翠蓮にはやけに眩しく映って見える。
致命的な一打を受けたと思われた四乃宮天音は、一瞬にしてオメガヴィーナスへと変身を遂げていた。
首元に光る金のロザリオ。その内部に秘められたオメガ粒子が、今は全身に行き渡っている。
「あなたが斃すべき敵であることはよくわかったわ。浅間翠蓮、いえ、〝輔星”の翠蓮。妖化屍を名乗る以上は・・・オメガヴィーナスは全力であなたを葬らなくちゃいけない」
凛と輝く天音の瞳は、白銀の女神となって一層魅力を増したようだった。
強く、正しく、美しい。
一瞬、わずかに一瞬、オメガヴィーナスの瞳は切なげに揺れた。
「残念では、あるけれど」
「残念なのは、私も同様にございますわ。天音さま」
相変わらず微笑を絶やさぬまま、翠蓮は答えた。
「あなたに恨みがないというのは、嘘ではございません。ですが『水辺の者』という組織、そして浅間という家に対しては百代後まで祟らずにはおれませぬ」
表情は柔らかな笑みを刻んでいるだけに、翠蓮の台詞は天音の胸に突き刺さった。
「・・・一体あなたに・・・なにがあったというの?」
「詳しくは申しません。ただ・・・私が妖化屍になっている、ということがどういう意味か、わかりませんか?」
突然、重大な事実に気付き、白銀の女神は瞳を見開いた。
バカな。しかし、オメガスレイヤーではない翠蓮が、これほどの超常能力を持つには妖化屍であるとしか考えられない。そして、妖化屍であるということは・・・
「私は殺されたのです。浅間家に。恨みを抱くのに、これほど適正な理由もないでしょう?」
足元の大地が崩れるような錯覚に、天音は捉われた。
変身前に受けたダメージのせいではない。確かに効いてはいたが、翠蓮の告白による衝撃が、無敵の光女神を根底から揺さぶっている。
「そんなッ・・・!? まさか、あなたがオメガヴィーナスに選ばれなかったため、にッ・・・!?」
「繰り返し申し上げます。天音さま個人に、私が恨みを抱く理由はございません。ですが・・・本日あなたをここに誘き出したのは、どうしてもオメガヴィーナスを葬りたいという、ある方のたっての希望にございます」
地下室の入り口が、重い響きを鳴らして開かれた。
電球ひとつが照らすなか、現れた巨躯を、オメガヴィーナスは忘れるはずもなかった。
「ッッ!! ・・・〝無双”の虎狼ッ・・・!!」
「・・・待ちわびたぞ。我が・・・999体目の獲物よ」
後頭部でまとめた弁髪に、鎧のごとき厚い筋肉。右手に握られたのは、身の丈を遥か越す長大な戟。
六道妖のひとり、修羅妖であり、天音の両親を殺害した仇。
武の極みともいうべき妖化屍・虎狼は、4年と半の月日を経て、再びオメガヴィーナスの前に現れた。
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