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1巻
1-2
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確かに私が悪い。彼の部屋に勝手に入り込んだのは事実だ。それが不可抗力によるものだとしても、事実は揺るがない。だから彼が怒るのは仕方ないこと。
でも、いつまでも謝り続けてはいられないのだ。帰る方法を見つけなくてはならない。
彼にとっても、私は早急に消えたほうが嬉しいだろう。
「夢みたいなことを言ってねえで、そろそろ部屋を出ていってくれ」
「ここを出て、どこへ行けばいいんですか?」
「巫女を名乗った君には、この部屋のちょうど真下にある一等客室を使う権利がある。巫女の荷物が置いてあるから好きに使え。さあ、俺の部屋からとっとと出ていってくれ」
彼の態度は、ストーカーと同じ空気を吸うのはもう勘弁だと言わんばかりだ。
気持ちがわかるだけに反論はできないものの、気分は最悪で、つい言葉が棘を含む。
「海神の巫女っていうののふりをしていること、バレたらあなたの国では死刑なんですよね? おかげさまで私、すごく大変な状況なんですけど、バレないようにするためのアドバイスとかってないんですか?」
「記憶喪失のふりをやめること」
「だから、私は本当にわからないんですってば!」
私の抗議をガリアストラは黙殺した。
「巫女っぽいことをしなきゃならねえ時には、『海の女神の慈悲と恵みがあなたをお守りくださいますように』って唱えておけ。海の女神の慈悲と恵み、ここらへんを状況に応じて使い分けろ」
「わあ、すごい実用的なアドバイスをありがとうございます。概要がさっぱりわからない」
「それと俺に対して敬語をやめろ。俺たちは義理とはいえ兄妹ってことになってるんだからな」
「……ガリアストラお兄ちゃん」
「やめてくれ、気分が悪い」
目眩を堪えるように目頭を押さえ、彼は首を横に振る。
「ガリアストラでいい。義妹の名はパウラ・ラストだ。ミズキ、君の実名は伏せておけよ」
彼が私の名乗った名前を覚えていた上に、口にしてみせたのは意外だった。
「――ふわぁ……っ⁉」
いつものように寝起きに伸びをしたら、ハンモックがひっくり返ってしまった。
「痛! 腰打った……!」
私はぷるぷる震えながら立ち上がり、昨日までのものと違う寝床を見やる。
低い天井に吊され、宙に浮かんで揺れるのは、どこから見てもハンモックだ。
横たわると身体がお尻から沈み込んで身動きがとれなくなり、寝相が悪いと編み目に絡まりそうになる。
今は波が静かだから御利益をあまり感じないとはいえ、海のただ中で嵐に遭った時には、ハンモックじゃないと寝るどころの話じゃなくなるのだろう。
窓の外に見えるのは青い海と白い帆、空を区切るいくつもの縄に帆柱。
張り巡らされた縄の間を猿のように身軽に飛び回る船員たち――この船は、帆船だ。
「おはよう、異世界……なんてね」
潮の匂いのする薄暗い部屋、縄で壁にくくりつけられた埃を被った大荷物。ここはガリアストラの部屋じゃない。彼の部屋の下の階にある客室だ。
階の最奥にあって一番広く、調度品はどことなく女性らしさがあった。壁際に積まれ、縛りつけられた大量の荷物の中には、女性用の服がたっぷり入っている。
見たところ女性の船員はいないみたいなのに、どうして女性のための物資があるのか不思議だった。
ガリアストラの顔を思い浮かべると、恋人だの愛人だのという単語が浮かんだ。深くは考えまい。
可愛い服というのは異世界でもそれほど変わらないようで、自分で選ぶのなら絶対に着ないデザインのものばかりある。
そのうちの一着、できるだけ地味なデザインの無地の白いワンピースに着替えた。季節は昼か秋か、この服装で快適に過ごせそうだ。
そして、着替え終えた頃、扉がノックされた。
「ガリアストラだ。起きているか? 朝食を持ってきたぜ」
「ありがとうございます」
扉が開き、私はひょいと差し出されたプレートを受け取った。
パンにスープに、レモンがまるごと一個。
レモンがあることにほっとした。海の上では新鮮な果物が生命線だと歴史が証明している。
「新鮮なレモンがあるってことは、最近港に寄ったばかりなんですね」
「君もよく知ってるだろう? ハビエルの故郷のクレン島で採れたレモンだ。いや、君が乗り込んだのはクレン島の次の島だったか。いや違うか。異世界だったか!」
ガリアストラは自らが口にした冗談に、腹を抱えて笑う。感じが悪いものの、頭のおかしいやつと思われるぐらいなら冗談だと思われたほうがましだ。私は開き直ることにした。
「信じてもらえなくてもいいですけど、そういうわけで元の世界に帰るために海の宝珠が欲しいですね。っていうか、あなたもここで食べるんですか?」
「俺の顔を見ながら食う飯はきっと美味いぜ?」
「むしろ味がわからなくなりそうですね。まあいいですが。何か用があるんでしょう?」
「軽く打ち合わせをしておこうと思ってな」
ガリアストラは肩を竦めてみせた。
あまり彼に興味があるそぶりをしたくない私は、すぐに目を逸らす。
ストーカーされることの気持ち悪さは知っている。だから彼が、私に強い嫌悪感を示すのは仕方がない。
それでも、その恐怖を味わったことがあるからこそ、ストーカーと間違われているのは嫌だった。
「……料理、美味しいですね。……冷蔵庫もないだろうに」
ペースト状のスープは、見た目はともかく、ミンチ状の肉とトマトの味が絶妙だった。
この船での明かりは、ランプやランタンだ。つまり、少なくとも船の中には電気がない。
ということは、冷蔵庫も、ガスコンロもないはずなのに。
「うちの船の飯は美味いと評判なんだ。素材がいいし、コックの腕がいい」
「へえ~、いいお婿さんになれそうですね」
「コックはアメツだぜ」
「ゲホッゴホッ」
家庭的な男性を想像していたら急にアメツさんの凶悪な顔面を想起させられ、咽せる。
「アメツは君に会いたがっているが、接触を重ねると君が身代わりだと露見する可能性が高まる。会いたくなけりゃ、できるだけ部屋から出ないようにしろよ」
「できるだけ? 出ても構わない、ってことですか?」
「ずっと部屋にいたら息が詰まるだろ? まあ、強制はしねえよ。出歩くのは、すすめねえがな」
ガリアストラは微笑みを浮かべていて、一見穏やかに話している。でも、瞳の奥にある感情は、冷えていた。私を信じている、というわけじゃない。
彼が私を強く束縛しないのは、最悪私がどうなってもいいと考えているからだと思う。
「じゃあ、できるだけ部屋にいるようにします」
「そうか。それがいいだろうな」
ガリアストラはもう一度微笑むと私の頭にポンと手を置いた。……私は思い切りのけぞる。
「なんで逃げるんだい?」
「どうして不思議そうな顔をしてるんですか? 勝手に触らないでください!」
「君にやる気を出してほしいから特別にサービスしてやったんだぜ?」
「ストーカー女だと思っている相手にそういう接触するの、やめたほうがいいですよ……⁉ 勘違いをエスカレートさせて暴走させること間違いなしですからね⁉」
実体験だ。本当にやめたほうがいい。
私がストーカーされることになったきっかけの行為は、ごく一般的な親切の範囲内でしかなかった。それに比べると、頭ポンなんて完全にアウトすぎる。
「だが、俺は頑張ってくれる君に何か報いたいんだがな。そうだ! 正体が露見せずにダバダ王国のセリシラ港まで辿り着けたら、君のために一晩空けてやる。そうしよう!」
「一晩空ける? どういう意味? ――そういう意味⁉」
いかがわしい提案をされたと気づくのに、数瞬を要した。その後、ぎょっとする。
「たくさん思い出を作ろうな、ミズキ」
ガリアストラはアルカイックスマイルを浮かべている。
男の中には、ひと欠片も好意を抱いていない女性を相手にできる人種がいるらしい。
けれど女は、好きでもない相手とは、たとえ美形でも無理、なタイプが多いんじゃないかな⁉
特に私とガリアストラの間にあるような、とんでもない誤解が残っている場合には。
「絶対にいりません! そして本気で気をつけて⁉ 勘違いする女が悪いと言っても、限度ってものがありますからね!」
「敬語はやめろと言っただろう? 俺と君の仲だしよ」
義理の兄妹のふりをしているだけの仲だ。妙な言い方をしないでほしい。
「昨日は驚いて、君に心ない言葉をかけてしまった気がするが、悪かったな」
「な、何ですか、いきなり……」
「君が驚かせるから悪いんだぜ? こうして見てみると、ミズキ、君は結構可愛いんだな」
ガリアストラが鋭い目尻を緩ませ、魅力的にはにかんでみせる。絶大な威力を持つその表情を前に、私は無表情であるよう努力した。
彼が本心から私の容姿を褒めているだなんて勘違いはしない。
……多分、ガリアストラはストーカーの恋心をコントロールしようとしているのだ。
どうあがいても逃げ場のない船の上で、なぜか彼の義理の妹のふりをすることになった。そんな私が逆上しないように、宥めるために、彼は嫌悪感を隠すことにしたんだろう。
そう思うと彼の態度を気味悪がるのも違う気がして、私は力なく溜め息を零す。
「それじゃ今日一日、頑張ろうな。ミズキ」
これから毎朝、そのきらきらしい顔面で応援してくれるのかな……
お互いのために早めにお引き取り願おうと、私は朝食をかきこんだ。
できるだけ部屋にいるようにすると、ガリアストラに宣言してから一週間。
部屋の設備的に、完全に引きこもるのは無理だった。今日も普通に外出のために部屋の扉を開ける。すると、そこにはアメツさんが仁王立ちしていた。
「……失礼しました」
「お待ちください、巫女様」
外からドアノブを掴まれ、半開きのまま扉がびくとも動かなくなる。
「ごめんなさい、今から二度寝の予定ができたので、ごめんなさい。お引き取りください」
「巫女様、やはりおれが先走ったばかりに、ご不快にさせてしまったのですね。誠に申し訳ございません」
「いえ、私に謝られても」
謝るならガリアストラに謝ってあげてほしい。
アメツさんは、いもしない義妹さんに会わせろって大騒ぎした軍団のトップだ。
未だにどうしてそんな誤解が生まれたのかがわからない。
わかるのは、海神の巫女という存在がこの世界の人にとって特別なのだろうということくらいだ。
「手短に用件をお伝えいたします」
そう言ってアメツさんは、扉の隙間に足をねじ込んだ。そのまま、その場に膝をつく。
「このたびは、ご迷惑をおかけしてしまい誠に申し訳ございません。お詫びに、こちらをお持ちしたのです。どうかお受け取りください」
「あの、立ってください」
止めても跪くのをやめない彼が差し出したのは、ハンドボール大の薄汚い布の塊だ。
とりあえずそれを受け取れば帰ってくれそうなので、手にしたものの、若干臭い。
これがお詫びの品ってどういうこと?
「襤褸に包んでのお渡しで申し訳ございません。ですが、余人に露見してはならぬと思い、そのような形で保存しておりました」
「何が入っているんですか?」
「開けてください」
言われるがまま包みを開くと、更に野球の球大の包みがあった。それを開くと、ゴルフボール大になる。汚い布のマトリョーシカかな。
「えっと、これは……」
「後もう一枚、開けてください。本来巫女様にお返しすべきものですので、こちらをお詫びとするのは恐縮ではあるのですが、おれはこれ以外に価値のあるものを所持していないのです」
最後のひと包みを開きコロリと出てきたものを見て、私は海だもんねと思った。
それは大粒の真珠らしい。
これなら確かに、お詫びの品になり得るだろう。
「本来巫女様がお持ちになるべきもの、女神の涙、願いの叶う神器――海の宝珠です、巫女様」
「えっ、海の宝珠⁉」
「――ご覧になればおわかりいただけると思いますが。まさか、見たことがないわけもありませんし」
アメツさんが疑いの目つきを向けてくる。
確かガリアストラが、海の女神によって巫女に選ばれると、この宝珠をもらえると言っていた。本物の巫女なら宝珠の見た目を知らないはずがないのだ。
「いや、これ自体は見たことあるんですよ、普通に。でも、これは……」
見たことがある、というのは本当だ。私の目には真珠にしか見えないから。
貝が自分の中に入ってきた異物をコーティングしてできる美しい玉。流れる乳に虹がかかったような美しい色彩に、心惹かれないとは言わない。
けれど、欲しければ安月給のOLでも買える程度の宝石のはずだ。
それがこの世界では海の宝珠と呼ばれているとは……
そして、どんな願いでも叶えてくれる海の女神の宝だなんてことある?
「巫女様、何か気になることがおありですか?」
「その……いや、つまりですね!」
心臓がバクバク音を立てていた。
うまく言わないと、巫女じゃないってバレてしまう。そうしたらきっと大変なことになる。
落ち着かないといけない。でも、落ち着けない。
だからその理由を、普通に言えばいいんだと気づいた。
「こんな品を渡されるとは想像もしてなくて……誰でも欲しがるものだし、まさか、本物だとは思えない」
「偽物の宝珠など、存在するのですか? この輝きを作り出すのは、非常に難しいと思います」
この世界には真珠が存在しないのか、あるいは真珠全てが海の宝珠と呼ばれるのかもしれない。
案外これもただの真珠で、海の宝珠と呼ばれているだけで願いを叶える力なんてないのかも。
そう考えると落ち着いてきたものの、がっかりもした。
私が元の世界に帰るための唯一の手がかりだと思ったのに。
海の宝珠は存在していてもらいたいし、願いを叶えてくれる神器であってほしいけど。
「無償で譲渡されるだなんて信じられません。アメツさんにはこれを使って叶えたい願いはないんですか?」
「おれも欲深い人間ですので、限りなく願いはあります。ですが俗な願望を満たすよりも、海の女神に寵愛された巫女様にお返しするのが筋というもの」
アメツさんは少し口元を緩めた。その顔はどうしても恐い。
でもそれは生まれながらの容貌であって、彼の申し出は聖人のように無欲なものだった。
「他の者に見られぬように早くしまってください。おれはこれを所持していることをガリアストラにも伝えませんでした。それほど細心の注意を払い所持するべきものです。おわかりでしょうが」
真剣に、警戒に満ちた顔つきで促され、ポケットにしまい込んだ。
「……どこぞで巫女様にお会いできたなら渡そうと、ずっと思っておりました。ですので、巫女様がこの船に乗船されると聞いた時にはやっと時が来たのだと。それなのにお会いできずに時が流れ、おれは我を失ってしまったのです。先日はお騒がせいたしまして誠に申し訳ございません」
「――私が乗船するって誰に聞いたんですか?」
誰かがアメツさんにそんな嘘を吹き込んだらしい。そのせいで、乗ってもいないガリアストラの義妹さんを血眼になって探していたというわけか。
「勿論、ガリアストラにです」
「え? ……ガリアストラに?」
「はい」
「えっ、と。ガリアストラは、アメツさんたちに私は船に乗っていないと言っていたはずですよね?」
「は? ――巫女様がおれたちのような粗暴な輩に会わずに済むよう、そう言えとガリアストラに命じておられたのですか? ですが、乗船時にあれだけ大荷物を船に運ばれていましたし、乗船される時もあなたはコートを頭から被ってはいらしたが、流石にあれで隠れていたというのは無理があるかと思います。これが、秋の信託によって巫女となられたあなた様に最後の自由を満喫していただくための旅だとは、聞き及んでおります。今後は邪魔だてなどいたしませんので、ご容赦ください」
あれ? ガリアストラとアメツさんの話が噛み合わない。
これ以上話すのは何だかまずい気がして、私は言葉を呑み込んだ。
アメツさんは立ち上がって身を引くと、折り目正しく頭を下げる。
「改めて巫女就任、おめでとうございます。その海の宝珠は巫女様に捧げます。どうか巫女様の正義のためにお使いください。女神の信徒として巫女様のご裁可に従います」
アメツさん、顔で誤解されるタイプなだけで、すごくいい人なのでは?
部屋を強襲したのだって、ガリアストラが言っていたほど単純な理由ではない可能性が出てきた。
「ガリアストラをあまり信用してはいけませんよ、巫女様。なぜあれほど頑なにあなたを隠そうとしていたのか、おれにはわかりません。勿論、粗野な海の男たちに会わせたくないという気持ちはわかりますが……どうもあなたは何かに引っかかっておられるご様子だ」
今まさにガリアストラに嘘をつかれていたかもしれないことに気づいた私は、自然と首肯していた。
アメツさんも私に頷き返すと、宣言していた通りすぐに去っていく。
ひとまず、少し明るいニュースもある。
「この海の宝珠を使えば、私はいつでも元の世界に帰れるかもしれないってこと?」
願えば、叶えられる魔法の玉。もしそれが本当なら、今すぐにでも帰ろうと思えば帰れる。
懸念があるとすれば、元の世界の場所も時間も寸分違わぬ状況のまま戻されたら困るってことくらいだ。そうなるとストーカーに追われている状態に戻ってしまう。
「でもこれ、私にってより、ガリアストラの義妹さんに対しての贈り物だし、勝手に使っちゃいけないよね」
ただ、願いを叶える宝珠を使う以外に元の世界に帰る方法なんて思いつかない。
「私、命がけでガリアストラの義妹さんのふりをしているわけで……だったら、ご褒美があってもいいんじゃないかな。ボーナスの内容については交渉すれば……よしっ」
少し大きめの真珠にしか見えない神器を握りしめて、決意した。
勝手に使ったりするつもりはない。ちゃんとガリアストラに説明しよう。
アメツさんからもらったものだと。義妹さん名義で受け取ったものだと。だけど、これが欲しいのだと。ちゃんと説明して、お願いして、譲ってもらう。
きっと誠心誠意話せばわかってもらえる。
異邦人である私にとって、元いた場所に帰るための、唯一の蜘蛛の糸なのだ。
でも、何もかも正直に説明する前に確認したいことができた。
「アメツさんはガリアストラの義妹さんが帆船に乗ったのを見たって言ってる。でもガリアストラはそもそも乗せてないって……どちらが本当のことを言ってるの?」
私は海の宝珠を握りしめたまま部屋を出た。
「――すみませーん! 皆さん! ちょっといいですか!」
甲板で仕事をしている船員たちに呼びかける。
「私がこの船に乗ったところ、見ていた人はいますか?」
後部から上甲板で働く人たちを見下ろし大声で訊ねると、彼らは一斉に顔を上げて言った。
「ゴルド島でのことなら、みんな見ていたと思いますぜ、巫女様!」
「フード付きのコートを目深に被っていらしたから、お顔は拝見していませんけど!」
「コート越しの体つきを見た限り、もっと凹凸があると思ったんだがなあ」
「おい、巫女様に無礼な口を利くな」
「げえっ、よりによってアメツさんに聞かれるとか、ついてねえ!」
笑いに包まれる甲板で、私だけは愛想笑いもできない。
船長室を仰ぐと、ガリアストラが手すりにもたれて私を見下ろしている。彼は、寸毫の動揺も見せずに楽しげに微笑み私に手を振ってみせた。
その余裕はどこからくるのか。
睨みつけても、彼の笑顔は揺るがない。
――この船には彼の義理の妹が隠されている。
それを私が知ったことなんて、彼にとっては些末事らしかった。
しばらくして、ガリアストラが船長室へ引っ込んだ。
私はいつでも使えるように海の宝珠を握り後を追う。文字通り、海の宝珠が私の命を救う生命線になりかねない。
というか、宝珠って願えばすぐに叶えてくれるものなのかな?
女神を呼び出す呪文を要求されたらどうしよう。
冷や汗を流しつつ部屋に入る私とは違い、中にいたガリアストラは落ち着いていた。
「緊張する必要はねえよ、ミズキ。俺は君に危害を加えるつもりはねえからな」
「……そう言うってことは、やっぱり私に何か隠していたんだね、あなたは」
「まあな。だが君は俺と一蓮托生の身の上だから、秘密を話しても構わないと思っているぜ。この一週間見たところ、君はそこまで馬鹿ではないようだし」
ガリアストラは目を細めて艶やかな笑みを浮かべた。
「君は優しい女だから、俺の嘘をきっと許してくれる。だろう?」
甘いマスクで微笑んでみせる。
私が彼に恋する女性であれば、即行で許しただろう。何を許すかもわからないまま。
でも、許すも何も、私はまだ何もわかっていないし、怒ってもいない。
「何を隠していたのか知らないし、隠している内容がわかるまでは、許すことなんてできないよ」
ガリアストラは机に放られていた黒い革手袋をはめながら目を丸くした。
「意外な反応だ」
「あなたに惚れている女の反応ができなくてごめんね」
「そうだな。君はまさか、本当に俺に惚れてねえのかよ? 俺に惚れてくれているからこそ、どんな状況だろうと俺を許してくれるだろうと安心していたんだが。困ったな」
全然困っているように見えない顔でまた微笑む。私がガリアストラへの恋心を抑え込んで、やせ我慢しているとでも思っていそうな余裕ぶりだ。
睨みつけると、彼は更に笑みを深めて私の横を通り過ぎ、部屋の鍵を閉めた。
今この瞬間でさえ、ガリアストラは私を自分に恋するストーカーだと信じているらしい。
「それじゃ、君をこのビビアーナ号の船長である俺しか知らねえ隠し部屋へご案内しよう」
アメツさんは、船に乗ったはずなのに姿の見えない巫女を探していた。
巫女の姿を求めて船長室を急襲したのだ。それまでに、それ以外の場所は全部調べたに違いない。
それでも見つからなかったのは、見つからない場所に隠されていたせいだ。
「あなたの義妹さん……乗っていたんですね。乗せたと誤解されたなんて嘘はすぐにバレるのに、どうしてそんな嘘をついたんですか?」
「君が巫女のふりをした者の末路に怯えて部屋に閉じこもっていれば、バレやしないはずだったさ」
「ずっと部屋にいるなんて無理だと思いますけど」
「まあ、だから――余計なふるまいをしたら、君を殺すつもりだった」
「なっ」
ガリアストラは部屋の奥、薄紫の紗の裏のハンモックの横にある、戸棚に触れて何かを操作した。
すると、カコンと音を立てて戸棚の底板が下に落ち、蝶番でぶら下がる。
「……そこが、隠し部屋の入り口」
「ああ。見つかったらまずい禁制品なんかを運ぶ必要があったら使おうと思って作らせた。この部屋があるのを知るのは他に、陸にいる設計士と大工が数人くらいだな」
急な階段が螺旋を描きながら下に向かっているらしいが、真っ暗闇で、明かりはない。
口の中が渇いて、視界がすぼまっていく。
何も言わないほうがいいのは本能的にわかっていた。でも、聞かずにはいられない。
「下の部屋で私を殺すつもりですか?」
「まさか。君にはセリシラ港に着くまでいてもらわねえと困る。君の姿が見えなくなれば、今度こそアメツが俺の部屋で暴れまくって、きっとこの部屋を見つけちまう」
「でも、さっき殺すつもりだったって――」
「アメツや船員たちの前で、あいつらが納得できる形で、だ。そうでなきゃ意味がねえ」
てっきり言い訳とか、弁解するかと思ったのに違った。
「海の上じゃ女神に寵愛された巫女は病気にならねえ……そんな俗信を利用して、君の病気をでっちあげ偽巫女であると公表する。俺は義妹が偽巫女だったと初めて知って悲しむ義兄を演じよう。君が何を言おうと、偽巫女の虚言であると仲間たちに納得させる自信が俺にはある。そうして騙された悲しみと怒りに駆られみんなで君を処刑し、あいつらはようやく納得してくれる」
ガリアストラは当人を目の前にして、平然と私の死を予言してのけた。
「巫女はもうこの船に乗ってねえってな」
ただ、義妹の不在を証明するためだけに――
「どうかしてる! 関係ない私を巻き込んでまで、どうして義妹さんを隠すの⁉」
「見りゃあわかる。ついて来い。もう一度言うが、君を殺すつもりは今はない」
「まるで、人を殺したことがあるみたいな言い方」
でも、いつまでも謝り続けてはいられないのだ。帰る方法を見つけなくてはならない。
彼にとっても、私は早急に消えたほうが嬉しいだろう。
「夢みたいなことを言ってねえで、そろそろ部屋を出ていってくれ」
「ここを出て、どこへ行けばいいんですか?」
「巫女を名乗った君には、この部屋のちょうど真下にある一等客室を使う権利がある。巫女の荷物が置いてあるから好きに使え。さあ、俺の部屋からとっとと出ていってくれ」
彼の態度は、ストーカーと同じ空気を吸うのはもう勘弁だと言わんばかりだ。
気持ちがわかるだけに反論はできないものの、気分は最悪で、つい言葉が棘を含む。
「海神の巫女っていうののふりをしていること、バレたらあなたの国では死刑なんですよね? おかげさまで私、すごく大変な状況なんですけど、バレないようにするためのアドバイスとかってないんですか?」
「記憶喪失のふりをやめること」
「だから、私は本当にわからないんですってば!」
私の抗議をガリアストラは黙殺した。
「巫女っぽいことをしなきゃならねえ時には、『海の女神の慈悲と恵みがあなたをお守りくださいますように』って唱えておけ。海の女神の慈悲と恵み、ここらへんを状況に応じて使い分けろ」
「わあ、すごい実用的なアドバイスをありがとうございます。概要がさっぱりわからない」
「それと俺に対して敬語をやめろ。俺たちは義理とはいえ兄妹ってことになってるんだからな」
「……ガリアストラお兄ちゃん」
「やめてくれ、気分が悪い」
目眩を堪えるように目頭を押さえ、彼は首を横に振る。
「ガリアストラでいい。義妹の名はパウラ・ラストだ。ミズキ、君の実名は伏せておけよ」
彼が私の名乗った名前を覚えていた上に、口にしてみせたのは意外だった。
「――ふわぁ……っ⁉」
いつものように寝起きに伸びをしたら、ハンモックがひっくり返ってしまった。
「痛! 腰打った……!」
私はぷるぷる震えながら立ち上がり、昨日までのものと違う寝床を見やる。
低い天井に吊され、宙に浮かんで揺れるのは、どこから見てもハンモックだ。
横たわると身体がお尻から沈み込んで身動きがとれなくなり、寝相が悪いと編み目に絡まりそうになる。
今は波が静かだから御利益をあまり感じないとはいえ、海のただ中で嵐に遭った時には、ハンモックじゃないと寝るどころの話じゃなくなるのだろう。
窓の外に見えるのは青い海と白い帆、空を区切るいくつもの縄に帆柱。
張り巡らされた縄の間を猿のように身軽に飛び回る船員たち――この船は、帆船だ。
「おはよう、異世界……なんてね」
潮の匂いのする薄暗い部屋、縄で壁にくくりつけられた埃を被った大荷物。ここはガリアストラの部屋じゃない。彼の部屋の下の階にある客室だ。
階の最奥にあって一番広く、調度品はどことなく女性らしさがあった。壁際に積まれ、縛りつけられた大量の荷物の中には、女性用の服がたっぷり入っている。
見たところ女性の船員はいないみたいなのに、どうして女性のための物資があるのか不思議だった。
ガリアストラの顔を思い浮かべると、恋人だの愛人だのという単語が浮かんだ。深くは考えまい。
可愛い服というのは異世界でもそれほど変わらないようで、自分で選ぶのなら絶対に着ないデザインのものばかりある。
そのうちの一着、できるだけ地味なデザインの無地の白いワンピースに着替えた。季節は昼か秋か、この服装で快適に過ごせそうだ。
そして、着替え終えた頃、扉がノックされた。
「ガリアストラだ。起きているか? 朝食を持ってきたぜ」
「ありがとうございます」
扉が開き、私はひょいと差し出されたプレートを受け取った。
パンにスープに、レモンがまるごと一個。
レモンがあることにほっとした。海の上では新鮮な果物が生命線だと歴史が証明している。
「新鮮なレモンがあるってことは、最近港に寄ったばかりなんですね」
「君もよく知ってるだろう? ハビエルの故郷のクレン島で採れたレモンだ。いや、君が乗り込んだのはクレン島の次の島だったか。いや違うか。異世界だったか!」
ガリアストラは自らが口にした冗談に、腹を抱えて笑う。感じが悪いものの、頭のおかしいやつと思われるぐらいなら冗談だと思われたほうがましだ。私は開き直ることにした。
「信じてもらえなくてもいいですけど、そういうわけで元の世界に帰るために海の宝珠が欲しいですね。っていうか、あなたもここで食べるんですか?」
「俺の顔を見ながら食う飯はきっと美味いぜ?」
「むしろ味がわからなくなりそうですね。まあいいですが。何か用があるんでしょう?」
「軽く打ち合わせをしておこうと思ってな」
ガリアストラは肩を竦めてみせた。
あまり彼に興味があるそぶりをしたくない私は、すぐに目を逸らす。
ストーカーされることの気持ち悪さは知っている。だから彼が、私に強い嫌悪感を示すのは仕方がない。
それでも、その恐怖を味わったことがあるからこそ、ストーカーと間違われているのは嫌だった。
「……料理、美味しいですね。……冷蔵庫もないだろうに」
ペースト状のスープは、見た目はともかく、ミンチ状の肉とトマトの味が絶妙だった。
この船での明かりは、ランプやランタンだ。つまり、少なくとも船の中には電気がない。
ということは、冷蔵庫も、ガスコンロもないはずなのに。
「うちの船の飯は美味いと評判なんだ。素材がいいし、コックの腕がいい」
「へえ~、いいお婿さんになれそうですね」
「コックはアメツだぜ」
「ゲホッゴホッ」
家庭的な男性を想像していたら急にアメツさんの凶悪な顔面を想起させられ、咽せる。
「アメツは君に会いたがっているが、接触を重ねると君が身代わりだと露見する可能性が高まる。会いたくなけりゃ、できるだけ部屋から出ないようにしろよ」
「できるだけ? 出ても構わない、ってことですか?」
「ずっと部屋にいたら息が詰まるだろ? まあ、強制はしねえよ。出歩くのは、すすめねえがな」
ガリアストラは微笑みを浮かべていて、一見穏やかに話している。でも、瞳の奥にある感情は、冷えていた。私を信じている、というわけじゃない。
彼が私を強く束縛しないのは、最悪私がどうなってもいいと考えているからだと思う。
「じゃあ、できるだけ部屋にいるようにします」
「そうか。それがいいだろうな」
ガリアストラはもう一度微笑むと私の頭にポンと手を置いた。……私は思い切りのけぞる。
「なんで逃げるんだい?」
「どうして不思議そうな顔をしてるんですか? 勝手に触らないでください!」
「君にやる気を出してほしいから特別にサービスしてやったんだぜ?」
「ストーカー女だと思っている相手にそういう接触するの、やめたほうがいいですよ……⁉ 勘違いをエスカレートさせて暴走させること間違いなしですからね⁉」
実体験だ。本当にやめたほうがいい。
私がストーカーされることになったきっかけの行為は、ごく一般的な親切の範囲内でしかなかった。それに比べると、頭ポンなんて完全にアウトすぎる。
「だが、俺は頑張ってくれる君に何か報いたいんだがな。そうだ! 正体が露見せずにダバダ王国のセリシラ港まで辿り着けたら、君のために一晩空けてやる。そうしよう!」
「一晩空ける? どういう意味? ――そういう意味⁉」
いかがわしい提案をされたと気づくのに、数瞬を要した。その後、ぎょっとする。
「たくさん思い出を作ろうな、ミズキ」
ガリアストラはアルカイックスマイルを浮かべている。
男の中には、ひと欠片も好意を抱いていない女性を相手にできる人種がいるらしい。
けれど女は、好きでもない相手とは、たとえ美形でも無理、なタイプが多いんじゃないかな⁉
特に私とガリアストラの間にあるような、とんでもない誤解が残っている場合には。
「絶対にいりません! そして本気で気をつけて⁉ 勘違いする女が悪いと言っても、限度ってものがありますからね!」
「敬語はやめろと言っただろう? 俺と君の仲だしよ」
義理の兄妹のふりをしているだけの仲だ。妙な言い方をしないでほしい。
「昨日は驚いて、君に心ない言葉をかけてしまった気がするが、悪かったな」
「な、何ですか、いきなり……」
「君が驚かせるから悪いんだぜ? こうして見てみると、ミズキ、君は結構可愛いんだな」
ガリアストラが鋭い目尻を緩ませ、魅力的にはにかんでみせる。絶大な威力を持つその表情を前に、私は無表情であるよう努力した。
彼が本心から私の容姿を褒めているだなんて勘違いはしない。
……多分、ガリアストラはストーカーの恋心をコントロールしようとしているのだ。
どうあがいても逃げ場のない船の上で、なぜか彼の義理の妹のふりをすることになった。そんな私が逆上しないように、宥めるために、彼は嫌悪感を隠すことにしたんだろう。
そう思うと彼の態度を気味悪がるのも違う気がして、私は力なく溜め息を零す。
「それじゃ今日一日、頑張ろうな。ミズキ」
これから毎朝、そのきらきらしい顔面で応援してくれるのかな……
お互いのために早めにお引き取り願おうと、私は朝食をかきこんだ。
できるだけ部屋にいるようにすると、ガリアストラに宣言してから一週間。
部屋の設備的に、完全に引きこもるのは無理だった。今日も普通に外出のために部屋の扉を開ける。すると、そこにはアメツさんが仁王立ちしていた。
「……失礼しました」
「お待ちください、巫女様」
外からドアノブを掴まれ、半開きのまま扉がびくとも動かなくなる。
「ごめんなさい、今から二度寝の予定ができたので、ごめんなさい。お引き取りください」
「巫女様、やはりおれが先走ったばかりに、ご不快にさせてしまったのですね。誠に申し訳ございません」
「いえ、私に謝られても」
謝るならガリアストラに謝ってあげてほしい。
アメツさんは、いもしない義妹さんに会わせろって大騒ぎした軍団のトップだ。
未だにどうしてそんな誤解が生まれたのかがわからない。
わかるのは、海神の巫女という存在がこの世界の人にとって特別なのだろうということくらいだ。
「手短に用件をお伝えいたします」
そう言ってアメツさんは、扉の隙間に足をねじ込んだ。そのまま、その場に膝をつく。
「このたびは、ご迷惑をおかけしてしまい誠に申し訳ございません。お詫びに、こちらをお持ちしたのです。どうかお受け取りください」
「あの、立ってください」
止めても跪くのをやめない彼が差し出したのは、ハンドボール大の薄汚い布の塊だ。
とりあえずそれを受け取れば帰ってくれそうなので、手にしたものの、若干臭い。
これがお詫びの品ってどういうこと?
「襤褸に包んでのお渡しで申し訳ございません。ですが、余人に露見してはならぬと思い、そのような形で保存しておりました」
「何が入っているんですか?」
「開けてください」
言われるがまま包みを開くと、更に野球の球大の包みがあった。それを開くと、ゴルフボール大になる。汚い布のマトリョーシカかな。
「えっと、これは……」
「後もう一枚、開けてください。本来巫女様にお返しすべきものですので、こちらをお詫びとするのは恐縮ではあるのですが、おれはこれ以外に価値のあるものを所持していないのです」
最後のひと包みを開きコロリと出てきたものを見て、私は海だもんねと思った。
それは大粒の真珠らしい。
これなら確かに、お詫びの品になり得るだろう。
「本来巫女様がお持ちになるべきもの、女神の涙、願いの叶う神器――海の宝珠です、巫女様」
「えっ、海の宝珠⁉」
「――ご覧になればおわかりいただけると思いますが。まさか、見たことがないわけもありませんし」
アメツさんが疑いの目つきを向けてくる。
確かガリアストラが、海の女神によって巫女に選ばれると、この宝珠をもらえると言っていた。本物の巫女なら宝珠の見た目を知らないはずがないのだ。
「いや、これ自体は見たことあるんですよ、普通に。でも、これは……」
見たことがある、というのは本当だ。私の目には真珠にしか見えないから。
貝が自分の中に入ってきた異物をコーティングしてできる美しい玉。流れる乳に虹がかかったような美しい色彩に、心惹かれないとは言わない。
けれど、欲しければ安月給のOLでも買える程度の宝石のはずだ。
それがこの世界では海の宝珠と呼ばれているとは……
そして、どんな願いでも叶えてくれる海の女神の宝だなんてことある?
「巫女様、何か気になることがおありですか?」
「その……いや、つまりですね!」
心臓がバクバク音を立てていた。
うまく言わないと、巫女じゃないってバレてしまう。そうしたらきっと大変なことになる。
落ち着かないといけない。でも、落ち着けない。
だからその理由を、普通に言えばいいんだと気づいた。
「こんな品を渡されるとは想像もしてなくて……誰でも欲しがるものだし、まさか、本物だとは思えない」
「偽物の宝珠など、存在するのですか? この輝きを作り出すのは、非常に難しいと思います」
この世界には真珠が存在しないのか、あるいは真珠全てが海の宝珠と呼ばれるのかもしれない。
案外これもただの真珠で、海の宝珠と呼ばれているだけで願いを叶える力なんてないのかも。
そう考えると落ち着いてきたものの、がっかりもした。
私が元の世界に帰るための唯一の手がかりだと思ったのに。
海の宝珠は存在していてもらいたいし、願いを叶えてくれる神器であってほしいけど。
「無償で譲渡されるだなんて信じられません。アメツさんにはこれを使って叶えたい願いはないんですか?」
「おれも欲深い人間ですので、限りなく願いはあります。ですが俗な願望を満たすよりも、海の女神に寵愛された巫女様にお返しするのが筋というもの」
アメツさんは少し口元を緩めた。その顔はどうしても恐い。
でもそれは生まれながらの容貌であって、彼の申し出は聖人のように無欲なものだった。
「他の者に見られぬように早くしまってください。おれはこれを所持していることをガリアストラにも伝えませんでした。それほど細心の注意を払い所持するべきものです。おわかりでしょうが」
真剣に、警戒に満ちた顔つきで促され、ポケットにしまい込んだ。
「……どこぞで巫女様にお会いできたなら渡そうと、ずっと思っておりました。ですので、巫女様がこの船に乗船されると聞いた時にはやっと時が来たのだと。それなのにお会いできずに時が流れ、おれは我を失ってしまったのです。先日はお騒がせいたしまして誠に申し訳ございません」
「――私が乗船するって誰に聞いたんですか?」
誰かがアメツさんにそんな嘘を吹き込んだらしい。そのせいで、乗ってもいないガリアストラの義妹さんを血眼になって探していたというわけか。
「勿論、ガリアストラにです」
「え? ……ガリアストラに?」
「はい」
「えっ、と。ガリアストラは、アメツさんたちに私は船に乗っていないと言っていたはずですよね?」
「は? ――巫女様がおれたちのような粗暴な輩に会わずに済むよう、そう言えとガリアストラに命じておられたのですか? ですが、乗船時にあれだけ大荷物を船に運ばれていましたし、乗船される時もあなたはコートを頭から被ってはいらしたが、流石にあれで隠れていたというのは無理があるかと思います。これが、秋の信託によって巫女となられたあなた様に最後の自由を満喫していただくための旅だとは、聞き及んでおります。今後は邪魔だてなどいたしませんので、ご容赦ください」
あれ? ガリアストラとアメツさんの話が噛み合わない。
これ以上話すのは何だかまずい気がして、私は言葉を呑み込んだ。
アメツさんは立ち上がって身を引くと、折り目正しく頭を下げる。
「改めて巫女就任、おめでとうございます。その海の宝珠は巫女様に捧げます。どうか巫女様の正義のためにお使いください。女神の信徒として巫女様のご裁可に従います」
アメツさん、顔で誤解されるタイプなだけで、すごくいい人なのでは?
部屋を強襲したのだって、ガリアストラが言っていたほど単純な理由ではない可能性が出てきた。
「ガリアストラをあまり信用してはいけませんよ、巫女様。なぜあれほど頑なにあなたを隠そうとしていたのか、おれにはわかりません。勿論、粗野な海の男たちに会わせたくないという気持ちはわかりますが……どうもあなたは何かに引っかかっておられるご様子だ」
今まさにガリアストラに嘘をつかれていたかもしれないことに気づいた私は、自然と首肯していた。
アメツさんも私に頷き返すと、宣言していた通りすぐに去っていく。
ひとまず、少し明るいニュースもある。
「この海の宝珠を使えば、私はいつでも元の世界に帰れるかもしれないってこと?」
願えば、叶えられる魔法の玉。もしそれが本当なら、今すぐにでも帰ろうと思えば帰れる。
懸念があるとすれば、元の世界の場所も時間も寸分違わぬ状況のまま戻されたら困るってことくらいだ。そうなるとストーカーに追われている状態に戻ってしまう。
「でもこれ、私にってより、ガリアストラの義妹さんに対しての贈り物だし、勝手に使っちゃいけないよね」
ただ、願いを叶える宝珠を使う以外に元の世界に帰る方法なんて思いつかない。
「私、命がけでガリアストラの義妹さんのふりをしているわけで……だったら、ご褒美があってもいいんじゃないかな。ボーナスの内容については交渉すれば……よしっ」
少し大きめの真珠にしか見えない神器を握りしめて、決意した。
勝手に使ったりするつもりはない。ちゃんとガリアストラに説明しよう。
アメツさんからもらったものだと。義妹さん名義で受け取ったものだと。だけど、これが欲しいのだと。ちゃんと説明して、お願いして、譲ってもらう。
きっと誠心誠意話せばわかってもらえる。
異邦人である私にとって、元いた場所に帰るための、唯一の蜘蛛の糸なのだ。
でも、何もかも正直に説明する前に確認したいことができた。
「アメツさんはガリアストラの義妹さんが帆船に乗ったのを見たって言ってる。でもガリアストラはそもそも乗せてないって……どちらが本当のことを言ってるの?」
私は海の宝珠を握りしめたまま部屋を出た。
「――すみませーん! 皆さん! ちょっといいですか!」
甲板で仕事をしている船員たちに呼びかける。
「私がこの船に乗ったところ、見ていた人はいますか?」
後部から上甲板で働く人たちを見下ろし大声で訊ねると、彼らは一斉に顔を上げて言った。
「ゴルド島でのことなら、みんな見ていたと思いますぜ、巫女様!」
「フード付きのコートを目深に被っていらしたから、お顔は拝見していませんけど!」
「コート越しの体つきを見た限り、もっと凹凸があると思ったんだがなあ」
「おい、巫女様に無礼な口を利くな」
「げえっ、よりによってアメツさんに聞かれるとか、ついてねえ!」
笑いに包まれる甲板で、私だけは愛想笑いもできない。
船長室を仰ぐと、ガリアストラが手すりにもたれて私を見下ろしている。彼は、寸毫の動揺も見せずに楽しげに微笑み私に手を振ってみせた。
その余裕はどこからくるのか。
睨みつけても、彼の笑顔は揺るがない。
――この船には彼の義理の妹が隠されている。
それを私が知ったことなんて、彼にとっては些末事らしかった。
しばらくして、ガリアストラが船長室へ引っ込んだ。
私はいつでも使えるように海の宝珠を握り後を追う。文字通り、海の宝珠が私の命を救う生命線になりかねない。
というか、宝珠って願えばすぐに叶えてくれるものなのかな?
女神を呼び出す呪文を要求されたらどうしよう。
冷や汗を流しつつ部屋に入る私とは違い、中にいたガリアストラは落ち着いていた。
「緊張する必要はねえよ、ミズキ。俺は君に危害を加えるつもりはねえからな」
「……そう言うってことは、やっぱり私に何か隠していたんだね、あなたは」
「まあな。だが君は俺と一蓮托生の身の上だから、秘密を話しても構わないと思っているぜ。この一週間見たところ、君はそこまで馬鹿ではないようだし」
ガリアストラは目を細めて艶やかな笑みを浮かべた。
「君は優しい女だから、俺の嘘をきっと許してくれる。だろう?」
甘いマスクで微笑んでみせる。
私が彼に恋する女性であれば、即行で許しただろう。何を許すかもわからないまま。
でも、許すも何も、私はまだ何もわかっていないし、怒ってもいない。
「何を隠していたのか知らないし、隠している内容がわかるまでは、許すことなんてできないよ」
ガリアストラは机に放られていた黒い革手袋をはめながら目を丸くした。
「意外な反応だ」
「あなたに惚れている女の反応ができなくてごめんね」
「そうだな。君はまさか、本当に俺に惚れてねえのかよ? 俺に惚れてくれているからこそ、どんな状況だろうと俺を許してくれるだろうと安心していたんだが。困ったな」
全然困っているように見えない顔でまた微笑む。私がガリアストラへの恋心を抑え込んで、やせ我慢しているとでも思っていそうな余裕ぶりだ。
睨みつけると、彼は更に笑みを深めて私の横を通り過ぎ、部屋の鍵を閉めた。
今この瞬間でさえ、ガリアストラは私を自分に恋するストーカーだと信じているらしい。
「それじゃ、君をこのビビアーナ号の船長である俺しか知らねえ隠し部屋へご案内しよう」
アメツさんは、船に乗ったはずなのに姿の見えない巫女を探していた。
巫女の姿を求めて船長室を急襲したのだ。それまでに、それ以外の場所は全部調べたに違いない。
それでも見つからなかったのは、見つからない場所に隠されていたせいだ。
「あなたの義妹さん……乗っていたんですね。乗せたと誤解されたなんて嘘はすぐにバレるのに、どうしてそんな嘘をついたんですか?」
「君が巫女のふりをした者の末路に怯えて部屋に閉じこもっていれば、バレやしないはずだったさ」
「ずっと部屋にいるなんて無理だと思いますけど」
「まあ、だから――余計なふるまいをしたら、君を殺すつもりだった」
「なっ」
ガリアストラは部屋の奥、薄紫の紗の裏のハンモックの横にある、戸棚に触れて何かを操作した。
すると、カコンと音を立てて戸棚の底板が下に落ち、蝶番でぶら下がる。
「……そこが、隠し部屋の入り口」
「ああ。見つかったらまずい禁制品なんかを運ぶ必要があったら使おうと思って作らせた。この部屋があるのを知るのは他に、陸にいる設計士と大工が数人くらいだな」
急な階段が螺旋を描きながら下に向かっているらしいが、真っ暗闇で、明かりはない。
口の中が渇いて、視界がすぼまっていく。
何も言わないほうがいいのは本能的にわかっていた。でも、聞かずにはいられない。
「下の部屋で私を殺すつもりですか?」
「まさか。君にはセリシラ港に着くまでいてもらわねえと困る。君の姿が見えなくなれば、今度こそアメツが俺の部屋で暴れまくって、きっとこの部屋を見つけちまう」
「でも、さっき殺すつもりだったって――」
「アメツや船員たちの前で、あいつらが納得できる形で、だ。そうでなきゃ意味がねえ」
てっきり言い訳とか、弁解するかと思ったのに違った。
「海の上じゃ女神に寵愛された巫女は病気にならねえ……そんな俗信を利用して、君の病気をでっちあげ偽巫女であると公表する。俺は義妹が偽巫女だったと初めて知って悲しむ義兄を演じよう。君が何を言おうと、偽巫女の虚言であると仲間たちに納得させる自信が俺にはある。そうして騙された悲しみと怒りに駆られみんなで君を処刑し、あいつらはようやく納得してくれる」
ガリアストラは当人を目の前にして、平然と私の死を予言してのけた。
「巫女はもうこの船に乗ってねえってな」
ただ、義妹の不在を証明するためだけに――
「どうかしてる! 関係ない私を巻き込んでまで、どうして義妹さんを隠すの⁉」
「見りゃあわかる。ついて来い。もう一度言うが、君を殺すつもりは今はない」
「まるで、人を殺したことがあるみたいな言い方」
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