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1巻
1-1
しおりを挟む営業事務、新見瑞希――そう印字された社員証を首から提げたまま帰宅したせいで、ストーカーに名前と勤務先が露見した。今更遅いけれど震える手で社員証を服の中に隠し、私は走りすぎて痙攣する太腿の筋肉をさする。
「神様仏様、誰でもいいので、どうか助けてください……っ、お願いします――ゲホッ」
逃げ込んだ夜の林の中、ぽつねんとした小さな祠に身体を押し入れ、荒い息で祈る。
それにしても埃っぽい。音を立てたくないのに咳き込んでしまった。
少しでも音を潜めようと口を押さえると身体が激しく揺れて、何かにぶつかる。
コオンと高い音がした。
壊してしまったかと慌てて拾い上げたそれは、十五センチぐらいのいびつな形をした木の塊だ。目をこらすと、顔の形がわかった。一瞬、仏像かと思ったけれど胸に凹凸がある。
「女神様――?」
呟くのと同時に、林全体を揺すぶるような突風が吹く。私は、目を強く瞑って身構えた。
目を開ける前から、何かが恐ろしく変化したことがわかる。
なぜなら、近くに海はないはずなのに、急に濃密な潮の香りが鼻をついたからだった――
ψ ψ ψ
その香りを嗅いだ時、目眩のような、眠気のような、くらりとする感覚がした。
直後、すぐ近く――ほとんど耳元で見知らぬ男の声がする。
「ようこそ、俺の船の俺の部屋の俺の戸棚の中へ――こんなところで寝てるなよ」
目を開けると、あまりに明るくて、視界が白く染まっていた。
悲鳴をあげようとするのと同時に、その白い世界からぬっと出てきた手に口を塞がれる。
「少し静かにしてくれるか?」
自分が小さな祠に身体をねじ込んでいたことは覚えてる。でも、これほど狭かった?
十分に身動きが取れない。男の腕を振り払おうともがいても、彼の手はびくともしなかった。
何かにぶつかり、それがガラガラと崩れる音がする。
またものを壊してしまったかもしれないと思い、身体がこわばった。
その反応で私が落ち着いたと思ったのか、男が口から手を離す。
「やめて! お願い! やめて‼」
「寝ぼけるな。落ち着いて俺の顔を見てみろ」
男はうんざりした口調だ。言葉の意味がわからず、私は未だに眩んだままの目を瞬く。
「俺は男で君は女。だから君が女として危機感を覚えるのも無理はない。と、本来は言えるが、どう見ても君より俺のほうが美人だろうが。襲われると考えるなんて調子に乗りすぎじゃねえか?」
顎を掴まれ、無理やり男の顔を見せられた。
ぼんやりとした視界が焦点を結び、男の輪郭がくっきりしてくる。そして、私は息を呑んだ。
「絶世の美男子だろう?」
目の前にいたのは、長く艶やかな黒髪が似合う美人。けれど女性的なところはなく、男くさい笑みを浮かべている、まごうことなき美丈夫だ。粗野な感じは少しもない。
優雅な柳眉に高い鼻梁、薄い唇には、上品な印象が拭いがたく存在していた。
ファーで縁取られたロングコートの上からは革の肩帯を斜めにかけ、すらりと長い鍔のない剣を提げている。
カトラス――そんな耳慣れない名称が、頭に浮かんだ。銃刀法違反という言葉も。
野生の肉食獣と遭遇してしまった時みたいに、ゆっくりと男の顔を見やると、こちらを覗き込む輝く青い瞳と目があった。
それはまるで波打ち際に立つ者を水底に誘う深い海のようで、見ていると不安になる。
確かに彼は、傲慢な口上も許されるだろうほどに、途方もなく美しい男だった。
今、その口元には歪んだ笑みが浮かび、目には軽蔑も露わだ。
「俺のことが好きだからって密航するのはよくねえよなあ?」
「密航? え、好き⁉ な、なんのことだか……あなたが誰だかもわからないし」
「とぼけるな。面倒くせえ」
彼は気怠げに黒い前髪をかきあげる。息を呑むほどの色気に、思わず目を逸らした。
「忘れたってのなら教えてやる。俺の名前はガリアストラ。神官と貴族を両親に持つ女王陛下の覚えもめでたい海の実業家だ。そこらの海賊程度、簡単にいなせる腕もある。顔だけじゃねえ本物の海の男だ。ほら、思い出しただろう?」
思い出すも何も、そもそも知らない。でも彼はきっと有名人なのだろう。
「ほら、告白してみろよ。俺が好きなんだろ? 俺をどう思っているのか聞かせてくれよ、なあ」
彼は嘲笑を浮かべて促す。
悪意に満ちたからかいだ。相手の心をずるりと引き出して、ズタズタに引き裂いてやろうと舌なめずりする獣の残忍さが滲んでいる。
もしも私が本当に彼を好きだったなら、確実に深く傷ついていたと思う。
「あいにくですけど、私はあなたに少しの好意も持っていませんし、今そうであってよかったと思っているところです。それより、ここはどこですか?」
「俺の船――ビビアーナ号の、俺の部屋。さっきも言ったと思うが」
彼は笑みを消して淡々と答えた。
「待って、どこですか?」
「俺の私室兼船長室だ。まったく涙ぐましい努力だ。俺に近づくためにあいつらを出し抜き、船長室にまで忍び込んで……いつから俺をつけ回していたんだか。ったく、気分悪いな」
そこまで聞いて、彼が酷く不機嫌な理由を、私はようやく理解し始めた。
「あなたの、部屋? そもそも、船? 船長室?」
「酒に酔っててここに入り込んだ理由を覚えてないってのは、聞かねえぞ。見張りを置いているからな。弾みで入れるほど、ビビアーナ号の警備は緩くねえんだよ」
彼は断固とした口調で言う。
私は薄暗い部屋に光を取り入れている窓を見た。力の入らない身体になんとか活を入れて起き上がり、ふらふらと窓辺に寄っていく。
歪んで曇った窓ガラスの向こう側には、どこまでも続く紺碧の海原が広がっていた。
「海……そんな」
身体がぐらりと揺れる。目眩もあるが、地面が、今私のいる場所が、揺れているからだ。
ここは木造の船の一室――そして海のただ中だった。
そのことを認識し、恐る恐る男を振り返る。
「あなたが私を、連れてきたんじゃ――」
「君を? 何のために? うぬぼれないでくれ。君に欠片の興味もない」
仏頂面でぴしゃりと言われて、私の顔に血が上る。
「別にその、私自身に興味はなくても、会社とか、お金とかいう理由もあるでしょうし」
「なるほど? 確かに君は金持ちっぽいな。だが俺は金にも困っていない。事業も順調だし、欲しいと口にすれば俺に大金を貢ぐ女はいくらでもいる」
ただ事実を指摘する時のような口調で彼は言う。確かにそうだろう、と思わせる説得力が彼にはあった。
「でも私、こんな船に乗った覚えはありません。あなた以外の人の仕業では?」
「俺の仲間はそんな意味のわからねえことしねえよ。どうやってここまで侵入した? 最近、船の出入りには特に注意していたはずなんだぞ。それを、三日間も潜伏していたとは。どんな手妻を使ったんだ?」
「三日間?」
「一番最近、停泊した港から出航して三日だ。流石に一ヶ月前に停泊した島から乗船していたとは言わねえよな? ずっと俺の部屋の戸棚に隠れて、こそこそ俺たちを監視してたとか……」
「そんなことしてません!」
「そうであってもらいたいぜ。気色悪いからな」
彼は怒っていた。私が彼を好きなあまり、部屋に忍び込んだと考えているから。
「なあ、君。証明できるか? 君が君自身の意思でここにいたわけじゃねえと」
「……どうやって?」
「知るかよ! 証明できねえなら俺は俺の部屋に突如として現れた君に不快感を示したままでも構わねえよなあ? 君が俺のストーカーじゃねえ保証はどこにもねえんだし」
「私が⁉ ストーカーだなんて酷い!」
「酷いのは君だろう」
二の句が継げなかった。
彼の言う通り、ここが彼の部屋だというのなら、そこに許可も得ず侵入していた私が悪い。
でも、忍び込んだ覚えはないのだ。――ただ、私を追いかけ回していた男の顔は知っている。
そしてそれは、ガリアストラと名乗るこの男ではなかった。私を誘拐する理由がこの人にはない。
「一体君はいつから船に乗っていたんだ? ――事と次第によっちゃ大変なことになる」
「大変なことって?」
「君がそれを知っていたらアウトだな。だから、それでいい。必死になって知らないふりをしていろよ。ところで、君が自らの意思で俺の部屋に侵入したんじゃねえなら、そろそろ謝罪なんかをもらえる頃合いだと思ってもいいかよ?」
ガリアストラは心底嫌そうに、けれど冷静に謝罪を促した。
冷や水を浴びせられたような気持ちになる。彼にとって、確かに私は犯人側だ。
私を付け狙っていたあの男が連れてきたの?
もしも、ストーカー扱いされるつらさを私に味わわせようと思ったのなら、効果は抜群だ。
「……ごめん、なさい。そんなつもりは、なかったんですけど」
「君の主張では、君はここに連れてこられただけの被害者なんだからそうだよな」
全く信じていない口ぶりだった。それを責められるはずもない。
私だって、もし私の部屋に隠れていた男が、自分は知らない間にここに連れてこられたんだと主張しても、絶対に信じない。
「それじゃ、君は元いた港に強制送還だ。アルンかい?」
アルン――聞き覚えのない地名だった。
彼の名前を聞いた時から、嫌な予感はしていたのだけれど、一縷の望みをかけて尋ねる。
「あの、ここって日本の領海ですよね?」
「ニホンってどこだよ? ここはダバダ王国とパルテニオ共和国の接続水域だが?」
「……ダバダ? パルテニオ?」
「次は記憶喪失のふりかい? そこまでして俺の同情を引きたいか⁉」
「ほんとにわからなくて」
じわりと目に涙が浮かぶ。本当に、本当に本当に、わからないのだ。
私は額を押さえて、祠に隠れた後のことを思い出そうとしてみる。
けれどいつ気絶して、ここまでどうやって運ばれたのか、見当もつかなかった。
私の感覚では、祠の中で目を瞑り、目を開けたらこの船にいたというふうなのだ。
「泣いてくれるなよ。鬱陶しいからな」
彼が嫌そうに顔を歪めた時、一つしかない扉がノックされた。
「――来客だ。姿を見られないように部屋の奥に隠れていろ」
ガリアストラにしっしと手で追い払われる。
チケットを購入した覚えもない船の上だ。見つからないで済むなら、そのほうがきっといい。
幸い彼に、私をどこかに突き出そうという気はないらしかった。彼の言葉に従い部屋の奥へ行く。ハンモックに積まれた布団や毛布の陰に隠れられそうだ。
光の差し込まない暗がりに座り込むと、涙が溢れる。意味がわからない。
会社からの帰宅途中、ストーカーから逃げまどっていたのは終業後、つまり夜だ。窓の外の明るさからして数時間は経過している。
そして、元いた場所からかなり離れた場所にいるのは間違いない。だって、家の傍には川しかなかった。
つまり、誰かが私をここへ連れてきたのだ。――この過程で、その人物が私の身体に触れたのかもしれないと考えると、怖くて気持ち悪くなる。思い出したように震えが起こった。この気持ち悪さをガリアストラという男も感じているのだろう。立場的には奇妙だけれど、気の毒に思った。
「――だから、無理だって言ってんだろ」
ふいにガリアストラが、扉の向こう側にいる人へ不機嫌に言った。何か要求されているらしい。
外にいる人が扉をガタガタと大きく揺さぶる。
「まずは一旦、扉を開けやがれ! ガリアストラ!」
「君が冷静になったらな! 頭を冷やしてから出直してこい、アメツ!」
外にいる人とガリアストラが怒鳴り合う。
漁師とか、海の男性は気性が荒いイメージがあるから、彼らにとっては普通の会話なのかもしれないけれど、怖い。……そういえば、ガリアストラは漁師という感じじゃなかった。
先程、彼はなんて言っていたっけ?
「……女王陛下の覚えもめでたい、実業家?」
徹頭徹尾わけがわからないまま洟をすする。
外と内とのやりとりは更にヒートアップしていった。
「ガリアストラァ! 出てこい!」
外の人はどうしても中に入りたいようだ。扉を壊しそうな勢いで叩き始めた。
ガリアストラが弱ったように首をかきつつ、私の隠れているほうを振り返る。
「……君に俺の義妹のふりをしてもらうか」
「え?」
「実はな、俺は今、とある問題を抱えているんだよ」
状況の割にガリアストラはのんびりとした口調だ。扉を一枚隔てた向こうは、物々しい気配が漂っているのに。
「あの、問題って何ですか?」
「もしかしたら港からここに来るまでの三日間の潜伏中に、君も聞き及んでいるかもしれないが」
「聞こえているのか、ガリアストラ! ミコを出せ! 出せないのなら理由を説明しろ!」
外には複数の人がいて、「ミコ」を出すよう要求していた。
「あの、何もわからないので詳しく教えてください」
扉には内から横木が渡されているものの、外からの衝撃で今にも蝶番が外れそうになっている。
「聞いての通り、あいつらは俺の義理の妹のミコに会いたくて会いたくてたまらないんだ。今すぐこの船から叩き落とされたくなかったら、俺の義理の妹のふりをしろ。――そういや君の名前は?」
「……瑞希です。新見瑞希。あなたの義妹さんのふりをすればいいんですか?」
「そうだ。やってくれるな、ミズキ?」
ほとんど命令に近いそれに、私は頷いた。さほどつらい内容じゃない。
「外の船員たちは、俺がゴルド島で義妹を船に乗せたと勘違いしていて、会わせろって煩いんだ」
ガリアストラの妹さんなら相当な美人に違いないから、会いたくなるのも無理はないかも……いやでも、義理なら似ていないんじゃない?
「私が義妹さんのふりをして会えば、外の人たち落ち着くんですか?」
そう聞くと、ガリアストラは形のいい眉を顰めた。
「ああ。だが、取り返しがつかねえぞ? いいのか?」
一体何の確認を取られているのかわからない。
ただ彼の義理の妹だという「ミコ」という女性のふりをするだけだ。
彼女が何歳なのかは知らないけれど、話をもちかけてきたのはガリアストラなのだ、義妹を名乗って無理がない程度には年齢差がないか、外の人たちは義妹の顔や年齢を知らないのだろう。
私の容姿が彼らの期待と違っている可能性は大いにあるものの……
「それじゃ、海の女神のミコのふり――頑張れよ? ミズキ」
海の女神の、ミコ? もしかしてミコって義妹さんの名前じゃない?
神様に仕える巫女さんって意味だった⁉
……だからって別に何か問題があるわけでもないよね?
「今開けるから待ってろ! ドアを叩くな! 巫女が怯えてるんだっつの!」
連打の音がやむと、ガリアストラはすぐに扉を開けた。
そこに居並んでいた物騒で凶悪な男たちの顔ぶれを見て、心臓が縮み上がる。
「ガリアストラ、そちらの方が巫女様か……ご壮健そうでいらっしゃる」
「そりゃあ海の上の海神の巫女だぜ? 五体満足、元気に決まってんだろう」
「だが、頬に涙の痕跡があるように見えるが」
「アメツ、君たちが脅かすからだよ」
ガリアストラはしれっと言った。
「おれたちはただ巫女様にご迷惑をおかけしただけだった、ってことか」
先頭にいた特に顔の恐い人――アメツと呼ばれた男が得心した様子で肩を落とす。
彼の身長はおそらく二メートルを超えている。全身を筋肉に鎧われた厳つい男で、眉毛のない三白眼に血の気のない顔をしていた。
道ですれ違いそうになったら、かなり手前から迂回したくなるタイプの男だ。
「疑いは晴れたかい?」
「無論だ。悪かったな、ガリアストラ。巫女様へは後日改めて謝罪をさせていただきたい」
「キャプテンがアルン港で適当な女を見繕って巫女のふりをさせてるだけじゃねーの?」
長身の男のすぐ後ろに隠れていた小麦色の髪と瞳をした青年が、ひょっこり出てきて言う。
港で見繕われたわけではないものの、状況として私の境遇を言い当てていた。
しかし、その場にいた人は彼の発言に感銘を受けた様子がない。
アメツという男が溜め息をついて首を横に振る。
「ハビエル、滅多なことを言うなよ。資格もないのに巫女のふりをした者は死刑だ。そんなリスクを負う者が早々見つかるはずもない」
耳を疑うような単語が飛び出てきた。私はなんとか反応を堪える。
「キャプテンが甘い声で迫れば何でも言うこと聞くよーな女、いくらでも見つかると思うけど?」
ハビエルと呼ばれた青年は嫌な目つきで私を見た。十代後半の男の子なのに、かなり荒んだ目だ。
ガリアストラとの関係を揶揄するみたいな眼差し。この子も私をストーカーまがいじゃないかと疑っているらしい。
周囲の人にこう思われるくらい、ガリアストラの周辺では女性が引き起こす騒動が多発していたのだろう。
疑われていることはこの際置いておいて、同情してしまった。
私はただの一回で、すっかり神経がすり減っているのに……
「何か証拠があるのか、ハビエル? そうでなければ巫女様に対する侮辱だぞ。おまえ、先日の港でも船から降りなかっただろう? あの時に巫女様の部屋を監視していたはずだ。その時、何か証拠を掴んだのか」
「違うよアメツ。そうじゃないけど……でも!」
「おまえの監視をすり抜けてこの方が船に忍び込んだというのは、無理がありすぎるぞ」
「だけどッ……!」
「おれはおまえの能力を理解しているし、信頼しているからな」
「ッ、そうかよっ!」
アメツさんに褒められて、ハビエルくんは舌打ちしつつ頬を染めた。そして私がそれを見ていたと気づくと、こちらを睨みつけてそっぽを向く。
アメツさんは改めて私に向き直った。
「巫女様、御前を騒がせてしまい大変申し訳ございません」
「僕は認めてねーからな!」
物腰丁寧なアメツさんと、ガンをつけてくるハビエルくん。
二人を先頭に、部屋に押し入ろうとしていた人々は水が引くように去っていった。
最後の一人が扉を閉めてくれてその場が密室に戻ると、かくんと膝が折れる。足に力が入らない。
「……巫女のふりをしたら死刑って、何……⁉」
「事が露見すれば死刑になるのを承知の上で、俺のためにここまでしてくれるとはな。君を見直したよ。ただのストーカーじゃねえとな。きちんと港まで送り届けてやる。しかし、俺は本当に罪な男だぜ」
「死刑だなんて知らなかったんですけど⁉ どうして説明してくれなかったんですか!」
「ハア? 知らねえわけがねえだろ。常識だぜ」
ガリアストラは怪訝そうに眉を顰めた。
「ああ、なるほど。君は記憶を失っているって設定だもんな? 忍び込んだわけでもねえ。気づいたらここにいた被害者で、俺に責められる謂われはないと言いてえんだったな。だから巫女のふりをしてはならないという三歳の子どもでも知っている常識ですら、知らねえふりをする」
日本語圏でいつそんな常識が生まれたのだろう?
ぞっとした。
自分が気づかぬうちに死刑に値する罪を犯していたことよりも……彼の唇の形が、聞こえる日本語を発する時の形と、食い違っていることに――
「――まあ、君には助けられたんで、君のそのごっこ遊びに付き合ってやろう」
殺到していた船員を追い返せたガリアストラは上機嫌だった。私が知らないと口にした、この世界の常識について、笑顔で説明を始める。
「海の女神に認められた者は巫女を名乗る資格を得る。だが、その資格もねえのに巫女のふりをした者は、死刑。――世界中どこでも共通認識だと思っていたが、君はどこの国から来た設定なんだい?」
私の言葉を全く信じていない彼のその質問に、正直に答えることはそれほど抵抗がなかった。
「……異世界です」
「なるほど。異世界じゃあ知らねえよなあ」
彼はわざとらしく抑揚をつけて言う。一ミリも信じていないのが窺える口調だ。
「私がどこから来たかは、この際どうでもいいです。それより、あの、私、これからどうしたらいいんですか? 無事に船から降りられるんですよね?」
「勿論、君は俺に協力してくれたんだからな。その礼を持たせて適当な港で降ろしてやる。巫女のふりをしてもらう以上、一度ダバダのセリシラ港で降りてもらうことになるがな」
「ダバダ王国、ってさっき言っていましたよね。その国の港?」
「そうだが……芸が細かいな」
私が記憶喪失のふりをしていると思っているあなたにとってはそう見えるんでしょうね。
よほどそう口に出してやろうかと思ったけれど、皮肉を言っても仕方ない。
常識的に考えて、勝手に部屋に入る異性は記憶喪失者ではなくストーカーだ。万に一つの可能性で不幸な記憶喪失者でも、それと同時に異世界からの訪問者である可能性はほとんどない。
私がその億分の一の可能性の体現者だってこの場で信じてもらうのは、どう考えても難しかった。
「ダバダ王国の、セリシラ港で降りた後……私はどうすればいいんですか?」
「家までの路銀をやるよ。それでさよならだ。構わねえだろう?」
「……そうなりますよね」
別にガリアストラと一緒にいたいわけではないものの、その後の生活に不安を感じずにはいられない。元の世界に帰る方法なんて、全く思いつかないのだ。
そもそも、こちらへ来た理由がわからない。
ストーカーに追われて、あわや見つかる――そう思った瞬間に、この世界にいた。
「――そういえばこちらへ来る直前、女神様の像に祈ったかも……」
「今度は海の女神に見初められた巫女のふりをするのかい?」
ガリアストラは私の独り言を聞きとがめると、つまらなそうに打ち棄てた。
「君が巫女として女神に与えられた海の宝珠に願ったから、俺の部屋に運ばれてきちまったと? 次から次へと口から出任せか。神をも恐れねえとは、御見逸れしました。共犯者としては頼もしいね」
「私、そんなこと言っていませんけど。海の宝珠って何ですか?」
「君の知らないふりに付き合うの、いい加減面倒くさくなってきたな」
「……海の宝珠について話を聞かせてください。今、海の宝珠に願うと言いましたよね?」
「ああ? 女神に見初められた女は、海の宝珠を与えられ海神の巫女となる。海の宝珠には願いを叶える力がある――と説明してやりゃあ満足なのか?」
「願いを叶える力?」
「まるで初耳といわんばかりだ。演技がうまいのは、俺にとっちゃ助かるよ。セリシラ港までの残る一ヶ月の旅路でも、その演技力を十分に発揮してくれると期待しているぜ」
「海の宝珠ってどうしたら手に入れられますか?」
ガリアストラの言葉は半ば無視して、質問を続ける。
願いを叶える力を持つ宝珠だなんて本当にあるか眉唾ものだけれど、一番信じられないのが今ここにいる私の存在だ。どんな不思議なことが起きたっておかしくない。
女神像に祈ったらこちらへ来た、ような気がする。
助けてほしいと願ったから、叶えてもらったような気がする。
だからもう一度願ったら――今この時に心の中で願っても叶わないものの、適切な手段で願ったなら、元の世界に帰れるかもしれない。
彼は私の無視にむっと鼻の頭に皺を寄せつつ、それでも律儀に答えた。
「神話では、海の宝珠は女神の涙と言われている。それが正しいなら、泣いてもらえりゃ手に入るだろ。もっとも、現実的な話をすれば、女神に信仰を認められた女が巫女として認められる時、海の宝珠を証として賜る。流れ着いた宝珠を浜で拾ったっていうラッキーな話も聞くがな。闇のマーケットに流れている海の宝珠は、大抵が偶然、海辺とかで拾われたものだ」
「売っているところがあるんですね」
「馬鹿高い値段でな。なんだよ君、海の宝珠が欲しいのか? 俺を惚れさせられますようになんて願っても無駄だぜ? 知っての通り、他者を不幸にする願いは叶わない」
もうガリアストラの言葉はほとんど無視した。
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