精霊地界物語

山梨ネコ

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4巻

4-1

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   第一章 新しいクエスト


「姉さん! 無事でしたか……!」

 冒険者ギルドに到着したエリーゼに、弟のリールが駆け寄ってくる。リールの顔を見たエリーゼは、ほっとして肩の力を抜いた。
 けれど、先程の出来事を思い出すだけで身体に震えが走る。
 ――傲慢ごうまんな貴族デザイートスの屋敷で飼われていた魔物が、突如変質した。その邪悪な魔物を始末したエリーゼの足下に謎の魔法陣が出現し、エリーゼは理からの逸脱レベルアップを果たしたのだ。
 それが何かはわからないが、魔物から受けた傷はまたたく間に治癒ちゆし、全ての細胞が生まれ変わった気がした。自分の身体を構成する一粒一粒の組織が激変するかのような感覚は、ほとんど快楽に近かった……
 ギルドマスターがエリーゼとリール、騎士見習いのディータを奥の部屋に案内した。四人でソファに座り、エリーゼが己の身に起きたことを説明すると、ギルドマスターがこんなことを言う。

「それは、お嬢ちゃん自身のイメージが具現化しただけじゃねぇか? お嬢ちゃんが魔法を使った後、魔法陣が現れたんだろ? それは何かに似ていなかったか?」
「……ステファンの精霊に力を貸し与えられて、精霊魔法を使った時の魔法陣に似てたかも」
「その記憶が強烈すぎて、お嬢ちゃんの魔法に対するイメージが、それで固まったんだ。よくあることだぞ。見てくれは派手なのに大して効果がない魔法を使うヤツがたまにいるが、大体使い手の師匠が偉大すぎたのが原因だろう」

 それは違う、とエリーゼは思った。ギルドマスターにあなどられたのが悔しかったから、そう思ったわけじゃない。
 エリーゼの魔法陣には、理からの逸脱レベルアップと書かれていた。エリーゼの肌が、細胞が――そしてたましいが、その現象を確かに体験している。

「……レベルアップって、わかります?」

 エリーゼがそう尋ねると、ギルドマスターはエリーゼをあわれむような顔をした。

「そうか、お嬢ちゃんは自分の兄貴が勇者になる瞬間を見たんだったな。あれは強烈だったろうし、お嬢ちゃんがあこがれるのも無理はない。だが、あれは勇者だからできたことだ。レベルアップっていうのは、精霊が特別な人間にしか許さない、魂の越境――つまり、人のことわりを超えた生き物になるってことだからな。とはいえ、勇者に選ばれなくとも、人間から別の生き物になった例はある。魔女だとか、半妖精だとか、竜人だとか。……まあ、興味があるならジルクリスタ学術学問同盟のアーハザンタス支部に文献があるから、見てみるといい。紹介状なら書いてやる」

 どうやら色々と誤解しているらしいギルドマスターに、エリーゼは戸惑う。

「あの、ギルドマスター?」
「お前の兄は勇者になったが、お前はその妹でしかないぞ。古代星ルーン語が使えるから賢者と呼ばれることはあるかもしれんが、存在そのものが賢者になることは万に一つもないだろう」
「ステファンは、存在そのものが――勇者になったの?」
「そういうことだな」

 じゃあ、と口にしかけて、エリーゼはその言葉を呑み込んだ。

(私はどんな存在になったの?)

 エリーゼはギルドカードを取り出し、自分にしか見えないように情報を展開する。


 名前……エリーゼ・アラルド・ハイワーズ
 性別……女
 年齢……15歳
 職業……冒険者 サフィリディア
 種族……人間
 所持金……白銀貨29枚 銀貨35枚 銅貨21枚
 恩恵ギフト……【気配察知】C 【逃げ足】D 【警告】B 【美貌に弱い】【胃弱】【勇者の妹】
 加護……松???の霊魂
 ▼精霊クエスト


恩恵ギフトに、勇者の妹っていうのが加わってる)

 だが、それはレベルアップする前からだ。勇者の妹と書かれているだけで、それが何なのかはわからない――はずだった。

(あ、れ――?)

 指で触れていると、さらなる情報が展開された。
【勇者の妹】という文字の下に、「勇者の妹 Lv.1」という文字が出現する。

(レベルが0から1になった……?)

 それがどういうことなのか、説明は書かれていない。だが展開された立体映像を指でなぞると、精霊クエストが表示された。
 その内容を確認して、エリーゼは目を見開く。


 ・レベルを上げよう!
  上位世界からの転生者である、あなたへのお願い。
  レベルを上げて。
  上げないと、キミも死んじゃうよ。


 しかも、キミ『も』ということは――

(私が死んだら、エシュテスリーカも死んじゃうの?)
《――エシュテスリーカどういうこと?――》

 虚空こくうに向かって古代魔ルト語で語りかけるエリーゼを見て、何か言おうとするディータを、ギルドマスターが手で制す。
 リールがソファから腰を浮かせるのと同時に、エリーゼの耳に電波状態の悪いラジオのような音声が、耳鳴りと共に届いた。

『――ゼ? ――る?』
《――聞こえないよもうすこし――》
『――ぼくたちの会話を妨害する精霊がいるんだよ』

 苛立いらだたしげに言ったのは、金髪の少年の姿をした精霊、エシュテスリーカだ。以前、トランプを奉納せよという精霊クエストを出してきた彼は、また新しいクエストをエリーゼに出した。
 恐らくはエリーゼがこの世界で生き残るために、必要なクエストなのだろう。

『ぼくより若い精霊のくせに、ぼくよりこの世のことわりをわかった気でいる。それで、おろかにもこうしてぼくの邪魔をしてるんだ。その行動が世界の存続を危うくするとも知らないで! ぼくの方が古くから存在しているんだから、より遠くの未来を見通すことができるのは、当たり前なのに――若い精霊ほど、おろかなところばかり人間に似る。エリーゼ、ぼくの声は届いてるかな?』
「……届いてる」

 エリーゼが普通の言葉でそうつぶやくと、リールが「なんですか?」と眉根を寄せた。だが、エリーゼはそれを黙殺もくさつする。生きるのに必要な情報を聞き漏らさないために。

「どうして」

 エシュテスリーカはそのエリーゼの疑問に、なめらかな口調でこう答えた。

『どうしてかは教えてあげない。だけど、キミの――を上げて存在値を高める――が』
(私の『レベル』を上げて存在値を高める『こと』が?)

 聞こえなかった部分を推測して補ったエリーゼに、エシュテスリーカはおごそかに告げる。

『――世界を救うために必要なんだ』

 ステファン一人じゃ世界を救えないの? と考え、救えないだろうなと思ってつい笑ってしまった。
 世界を救わなくては、生きることさえできないのだとしたら――

(私が生きるため。そのついででよければやってあげる)

 かつては勇者に選ばれて世界を救いたいと思っていたが、それを自分の使命と思うには、もう手遅れだった。


 屋敷に戻ってきたエリーゼは、血のついた服を着替えながら、迷宮のある方角を見た。
 前世を平和な日本で過ごしたエリーゼにとって、この世界は生きるだけでも大変だ。この国に根付いている宗教――精霊神教はエリーゼの中に流れる魔族の血を憎んでおり、彼らと敵対する悪魔信仰者たちはエリーゼの中に流れる勇者の血を憎んでいる。
 エリーゼは先日、その悪魔信仰者たちに襲われた。彼らをこの町に引き入れたのは、三商会――ビスタ、ソマリオラ、ディアストールのうちのどれかだろう。ビスタ商会の代表とはデザイートスの屋敷で知り合ったが、バグキャットごときにおびえる姿を見るに、彼が悪魔信仰者たちを手引きしたとは考えにくい。だから、エリーゼの敵はソマリオラ商会かディアストール商会のどちらかということになる。
 エリーゼの敵は他にもいる。異世界から転生し、前世の記憶を持つエリーゼは、精霊――この世界では神にも匹敵する存在に警戒されている。彼らはエリーゼに、精霊の呪いバッドステータスと呼ばれる厄介なものを与えた。
 さらにエリーゼは、この国の王子であるタイターリスに束縛され、国を出ることができない。
 前世では何者かに殺されたので、今回こそ自由に生きていきたいのに、様々なものにそれを邪魔されていた。
 どんな世界にも危険は潜んでいるものだと思うけれど、この世界のそれは、エリーゼの命を常におびやかす。
 今、エリーゼの目に映っている迷宮もその一つ。普通に街中に存在し、それを国に容認されていること自体が信じられないほど危うい代物しろものだ。

(――迷宮って何なんだろう)

 よくないものだというのは、きっと誰もが肌で感じている。迷宮のそばには冒険者向けの宿や商店が多く立ち並んでいるが、住居はほとんど存在しない。人を襲う生き物が次から次へと湧き続ける危険な洞穴。その近くに住みたいと思う人は、あまりいないだろう。
 それでも、人は迷宮の近くに王宮を建てる。貴族はその周りに屋敷を建てる。市民はそれを囲うように家を建て、街が作られる。誰しも迷宮は悪いものだとわかっているが、そこで採れる魔力のこもった石や財宝、魔物の皮などの素材には、あらがいがたい魅力があった。

(迷宮って――)

 何かを考えかけた時、地面が少しぐらつく。
 エリーゼが慌てて屋敷の外に出ると、揺れは収まった。
 屋敷の門の前でたむろしている人々が、通りの先を見ている。エリーゼがつられてそちらを見ると、通りの先から一頭の馬が全速力で駆けてきた。門前にいた人々は、慌てた様子で散っていく。
 馬は屋敷の前で立ち止まった。興奮して後ろ脚で立ち上がる馬から、一人の青年が振り落とされる。石畳の上に転がった青年――フィンは、起き上がるなり馬を罵倒ばとうし、馬に鼻水を噴きかけられた。それを見たエリーゼは、笑いを必死にこらえながら言う。

「……中に入るならどうぞ……?」
「笑うなら、いっそ爆笑してくれ……」

 フィンはいつもより数段いい身なりをしていた。そのせいで、余計に面白い。
 エリーゼは腹筋の震えをどうにか抑えて、フィンにこう尋ねた。

「どうしたの? いつもと様子が違うけど。馬に乗ってるのも初めて見た」
「馬に乗ってきたのは急いでたからだよ。ソマリオラ商会の件がもうすぐ片付く。その総仕上げにエリーゼも参加させてやりたくてさ!」

 ソマリオラ商会は、悪魔信仰者たちを手引きしたと疑われる三商会のうちの一つだ。フィンはエリーゼの依頼を受けて彼らを調べてくれていたのだが、こんなに早く片付くなんて、一体何をしたのだろう?
 フィンは悪戯いたずら小僧のように笑うと、エリーゼの手を取って門から引っぱり出す。それに気付いて玄関から出てきたリールが制するのも構わず、フィンはエリーゼを抱えて馬に飛び乗った。
 不安定な体勢になったエリーゼは、慌ててフィンにつかまる。

「フィン! どこに連れてくつもりか知らないけど、安全運転でお願いね!?」
「大丈夫さ、コツは掴んだ……もし落馬したとしても、お前のコトはかばってやるって!」

 全く信用できないその言葉に顔色を失くしながら、エリーゼは決めた。庇ってくれると言うのだから、万が一の時にはフィンを遠慮なくクッションにしようと。

「姉さん! ボクもすぐに追いかけますから!!」

 そう叫んだリールにエリーゼが手を振ろうとした瞬間、フィンが手綱たづなを強く引く。その拍子に馬が後ろ脚だけで立ったので、エリーゼは思わず悲鳴をあげたが、フィンは馬を全速力で駆けさせた。


 エリーゼが連れていかれたのは、商業区だった。危なっかしい様子で馬をあやつるフィンに、歩いている人々が慌てて道をゆずる。
 商業ギルドに程近い一軒の屋敷の前で、フィンは馬を止めた。その屋敷から、眼鏡をかけた若い女性と、彼女と同じ栗色の髪を持つ青年が出てくる。

「いらっしゃいませ、エリーゼ様」
「……誰?」

 涼しげな猫目が特徴的な女性は冷静そのものといった表情で挨拶あいさつしたが、青年の方はエリーゼを見ると驚いたように目を丸くしている。
 女性は清楚せいそなワンピースを着ているというのに、どこか勇ましい足どりで一歩進み出ると、きびきびとした動作で頭を下げた。

「私はハルア・ソマリオラ。こちらは私の兄で、マルノ・ソマリオラと申します」

 それを聞いた瞬間、エリーゼは身構えた。ソマリオラ商会は、エリーゼが特許を持つトランプの利権をかすめ取る商会のうちの一つであり、エリーゼの命をおびやかした悪魔信仰者たちを手引きした可能性もあるからだ。

「フィン……今すぐ結論を教えて。この街に悪魔信仰者を引き入れたのは、ソマリオラ? 私は今、敵を目の前にしてるの?」
「違うから落ちつけ」

 即座に返ってきたフィンの言葉に、エリーゼは嘆息した。するとハルアが微笑む。

「フィンとエリーゼ様のおかげで、兄マルノがソマリオラの代表に就任することがほぼ決定いたしました。そうよね、マルノ兄さん?」
「あ、はい。そうなんです……はい」

 妹に前へ押し出された兄マルノは、おどおどした様子でお辞儀じぎする。

「フィンと……私のおかげで?」

 身に覚えのない話だったのでエリーゼが聞き返すと、兄よりしっかりした妹のハルアが答えた。

「はい、エリーゼ様。私と兄は前代表ブレッド・ソマリオラの私生児であり、貧民街で暮らしていました」

 そのハルアの説明によって、彼女たちとフィンの関係はおおよそつかめた。フィンはバターレイで暮らす孤児たちを束ねているのだ。そのフィンがエリーゼに言う。

「前、お前に大金をもらったろ? その金のおかげで、マルノは前代表を押しのけて新代表の地位にのし上がれるってわけ」
「エリーゼ様、私共ソマリオラ商会はエリーゼ様のために、何かとお役に立てると思います。ですから、これから私共と一緒に商業ギルドに行ってはいただけませんか? ソマリオラ商会の新代表を決定する会議が開かれるのです」
「私がそこに行くと、何かあるの?」

 困惑しながらハルアに問うエリーゼに、フィンはなげいてみせた。

「つれないぜ、エリーゼ! こいつらはお前に感謝してるんだって! 自分たちがブレッド・ソマリオラにヤリ捨てられた女の子供だって気づく前から、お前のことが大好きなんだよ! だからこの記念すべき瞬間を、お前に見てもらいたいんだってさ!」
「ええと……ありがとう?」
「どういたしまして、エリーゼ様。幼少時より密かにおしたいしています」

 少し年上と思われる同性に、さらりと告白されて、エリーゼはぽかんと口を開けた。一方のハルアは表情一つ変えていない。
 彼女は固まるエリーゼをよそに、数度手を叩いた。すると屋敷の中から、メイドがわらわらと湧き出してくる。

「この先は準備をしながらご説明いたしましょう」

 告白の衝撃から覚めやらぬうちに、エリーゼはメイドたちの手によって屋敷の中へ押し込まれた。


 昔、フィンの孤児仲間に、翌日の天気を正確に予知できる子供がいた。【天気予報】だか【空の友達】だかわからないが、恐らくそういう恩恵ギフトの持ち主だったのだろう。
 正確な天気予報ができることは、スケジュールを立てるのに、とても役に立つ。だからエリーゼは、それを有効活用させてもらった。エリーゼのアドバイスによって、フィンたちも天気予報を利用して随分もうけたようだ。
 他にもエリーゼは、フィンたちに様々なアドバイスをした。そうしていく中で、フィンたちはこう考えるようになったらしい。自分たちが持っている能力には、価値があるのかもしれない。ならば、それらをどのように使えば利益を生み出すことができるのか――と。

「ソマリオラ家では代々、実力のある子供が当主に選ばれて参りました」

 エリーゼの着替えを手伝いながら、ハルアが言った。この兄妹は私生児であるにもかかわらず、大きな商売を成功させたので、兄のマルノが次期代表候補に選ばれたらしい。

「父は正妻との間に子がないので、それも幸いしました。他にも子はいますが、みな妾腹めかけばらです。父と呼ぶだけで吐き気がするあのおろか者には正妻も愛想を尽かしておりますし、私共が他の子供たちより商売に向いているのも事実です。――ですが決定打となったのは、やはりエリーゼ様からいただいたお金を元手にしたあきないが成功したことです。十五歳という若さで正貨をお持ちだなんて、同じ女としてあこがれてしまいますわ」

 ハルアは肌の露出がほとんどないドレスを着たエリーゼに、レースつきの帽子を被せた。顔はほぼそのレースでおおわれているので、恐らくエリーゼだとわかる人はいないだろう。
 赤いレースの手袋をめたエリーゼの手を取ると、ハルアは騎士のようにその場にひざまずいた。

「エリーゼ様は覚えていらっしゃらないかもしれませんが、私よりも小さかったエリーゼ様に、算術を教わった時の衝撃は今も忘れられません」
「教えても、ほとんどの子ができなかったけどね」
「はい、私もできませんでした。けれど、中には呑み込みの早い子もいました。そういった子はそれで得た利益を一人占めせず、私たちできない子にも分けてくれました。そのできない子供たちの中から、また別の才能を持つ子が現れ、そのたびに私たちはおこぼれに預かることができたのです。それだけではありません。次に才能を見出され、新しい世界に飛び出していけるのは、自分かもしれないと――フィンのもとにつどえば、私たちは夢を見ることができました」
「それって、私とは関係ないんじゃない?」

 エリーゼは困った笑みを浮かべて手を引いたが、ハルアはその手をしっかりとつかんだまま放さない。エリーゼは小さく溜息をいた。

「それに私、自分が欲しいものをフィンに用意してもらうためにやってただけだし」
「存じております」

 はっきりと言い切るハルア。その反応が意外だったので、エリーゼは目を見開いた。
 するとハルアは歌うように言う。

「エリーゼ様に私たちを救うつもりなどなかったとしても、私たちが救われた事実は変わりません」

 反応に困るエリーゼを見て、ハルアはいっそ淫靡いんびにも見える笑みを浮かべてささやいた。

「エリーゼ様――私がエリーゼ様に感謝しているということは、すなわち、ソマリオラ商会はエリーゼ様のものだということです。おわかりですか?」


 着替えを終えて部屋を出たエリーゼは、扉の外で待っていたリールを見て思わず歓声をあげた。
 後を追ってきたリールも、いつの間にか着替えさせられ、髪を黒く染められていたのだ。
 前世では見慣れていたはずの黒髪が、エリーゼの目にひどく新鮮に映る。リールは染めた頭に緑色の帽子を被り、顔をレースで隠していた。さらに薔薇ばらかたどった大きな花飾りで顔の半分がおおわれている。刺繍ししゅう入りのベストとジャケットを完璧に着こなす姿からは、その顔が見えなくても美少年であることがうかがえる。
 その横にはフィンと、そして騎士見習いのディータもいた。

「エリーゼ様が出資者であることが露見してしまうと、エリーゼ様の周辺がうるさくなるかと思いましたので、こうした衣裳を用意させていただきました。ご迷惑をおかけする可能性があるとわかっていても、兄がソマリオラ商会の代表の座につく姿を、エリーゼ様に見ていただきたかったのです」

 ハルアの声に熱がこもる。エリーゼは彼女の気持ちを想像してみた。
 この世界では、ほとんどの仕事は世襲せしゅう制であり、父親から長男に受け継がれる。次男ならば跡継ぎに選ばれる可能性はあるが、三男が家業を継ぐことはほぼなく、私生児ともなれば望みはないと言える。だから大抵はディータのように家を出て、他の職を探すのだ。
 その上、ハルアたちは孤児だった。明日食べるのにも苦労する身の上から、一商会の代表にまで上りつめた――きっと今日という日には、並々ならぬ思い入れがあることだろう。

「本日のエリーゼ様は、名前を伏せて私たちの事業に投資してくださった、貴族の麗人れいじんということにしています。ですから、どうかご出席くださいませ――エリーゼ様にこの場に立ち会っていただくことが、私の長年の夢だったのです」

 エリーゼはひざまずいて懇願こんがんするハルアから、兄のマルノへと視線を移した。

「ハルアはこう言っているけど、あなたは?」

 実際に代表につくのはマルノなのだ。マルノは動揺して一歩後ずさったが、やがてゆっくりとその場に膝をついた。

「……ハルアの言葉が、俺の全てです」
「ハルアは私にソマリオラ商会をくれると言う」

 そのエリーゼの言葉に、ディータが息を呑む音が、やけに大きく響いた。

「俺も、ハルアと同じ気持ちです」

 マルノは一切の躊躇ちゅうちょなくそう言い、ハルアを見やった。ハルアはエリーゼに一礼すると、準備を整えるために動き出す。マルノもその後に続いた。
 彼らの忙しそうな後ろ姿を見送るエリーゼの頭に、ふと疑問が湧いてくる。

「……バターレイって、どうしてこんなに優秀な人材が集まってるの? これは偶然?」
「まさか」

 フィンがエリーゼの疑問にあっさりと答えた。

「親に捨てられた子供なんて、精霊に愛されてでもいねーと生きてらんねーよ。精霊に愛されてなかったら――恩恵ギフトを持ってなかったら死んでる。オレらなんて、とっくにな」

 フィンの言葉に、エリーゼは目を見開いた。フィンはエリーゼの帽子についたレースをき分け、その顔を覗き込みながら苦笑する。

「意外だろうな、お前からすりゃ……お前にとって精霊の恩恵ギフトは邪魔なんだから」

 言外に自分は違うと主張するフィンに、エリーゼは息を呑む。

「精霊に愛されてりゃ、滅多に病気にならないし、怪我もすぐ治る。腹が減っても弱らない。――オレはつい最近まで歯磨きもろくにしてなかったけど、虫歯一つねーんだぜ?」

 にっと笑ってみせたフィンの歯は、確かに頑丈そうで、綺麗に生えそろっていた。

「――確かに、私もあんまり病気したことない。でも、どうして誰もそのことに気づかないんだろう? もし気づいてたら、商人とかが放っておかないよね? 目ぼしい孤児を引き抜いてこき使いたがるはずなのに」
「エリーゼはこの国から出たコトがないからわからないだろうケド、他の国じゃ、正道教せいどうきょうってのが幅を利かせてる。コイツが腹の立つ宗教でさ……生まれがいやしいのはたましいが卑しいからだって言うんだ。そんなんだから、神様がオレたちを孤児にしたんだって。もし精霊の恩恵ギフトを得ているのに生まれが卑しいヤツがいるとしたら、それは精霊の期待を裏切る大罪人だって、そう言う」

 フィンが唇を噛みしめ、血が溢れ出る。この国で生まれ育ったはずのフィンだが、かつて国外に出て理不尽な屈辱くつじょくを味わったことがあるのかもしれない。
 口から血が垂れていることに気づくと、フィンは慌てて指でぬぐった。

「つまり、だ。お前が大嫌いな精霊神教会も、オレたちからすりゃ、その……ありがたいんだ。あの教会の教区でなら、大聖堂に入るのも許されるしな。だから――ハルアたちを怒らないでやってくれ。アイツらは、お前と精霊神教の確執を知らないんだよ」
「……何が言いたいの? フィン」
「アイツら、精霊神教の教徒なんだよ。お前にやめろって言われたら、ハルアはすぐやめそうだけどな」

 半眼はんがんでフィンを見やりながら、エリーゼはつぶやいた。

「……そのことを事前に聞いてたら、会議に出るかどうかもう少し考えた」
「だから言わなかったんだ」

 エリーゼが歯をき出しにして威嚇いかくすると、フィンがそれを隠すように、エリーゼの帽子のレースを下ろす。

「ハルアはお前のコト、ホントに好きなんだって。だから出てやれよ、な?」
「……私の意思一つで、精霊神教会から信徒を奪えるの?」
「コワイって、エリーゼ」
「アスピルから信者を一人奪い取る――成功したら気分よさそう」

 俄然がぜん気合の入ったエリーゼが、ドレス姿で準備運動をする。それを見たフィンは笑った。

「精霊神教を潰すなら、責任もって正道教せいどうきょうの対抗宗教を作ってくれよ」
「それは無茶ぶりすぎるでしょ」

 精霊神教に対して好感を抱いているようなことを言っておきながら、潰れた時を笑顔で想像するフィン。それを見て彼に対する不信感が薄れたエリーゼは、その冗談に笑った。
 そう、冗談だと思った。あまりに壮大な話だったから。


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