精霊地界物語

山梨ネコ

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3巻

3-3

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(……加護って何なんだろう)

 エリーゼは別のことに思考を巡らせた。それはいつも胸に浮かぶ疑問だった。

(私があの子の来世なら、あの子の魂は今は私の中に入っていて、私を加護するものじゃないはずなのに)

 何度見ても飽きることのない『松』という文字だけを展開させて、エリーゼはまじまじと眺めた。

「き……はむ? ……キハム……? あれ……なんか違う気が……」
「エリーゼちゃん?」

 きょとんとしているタイターリスに気づいて、エリーゼはギルドカードを袋の中にしまった。

「タイターリスと交渉して、後宮の危ない地位から下ろしてもらうのが目的だったんだけど、無理そうだから諦めるよ」
「ああ。それが賢明だと思うよ」
「粘ったってどうせ無駄だもん。タイターリスが権力にものを言わせたら、私に逆らうすべなんてないし。本気で逆らうつもりなら、国外脱出も視野に入れなきゃね」
「ごめん。謝るから国外脱出はやめてくれ」
「謝られても困るよ。私はこれ以上危ない目に遭いたくないっていうのに」
「俺が守るよ」

 タイターリスの言葉に、エリーゼはぶっすりとして言う。

「結局、聖女の足止めすらできなかったくせに」
「本当にごめんな、エリーゼちゃん」

 エリーゼは苛立いらだち紛れに失礼なことを言ったが、タイターリスは怒りもせず真摯しんしに謝った。

「大聖堂での出来事についての調査書を読んだよ。俺が役に立たなかったせいで、たくさん辛い思いをしたんだな」

 本当にごめん、と悲痛な顔でタイターリスは言った。
 大聖堂でエリーゼたちが死にかけていた時、彼は気絶していたという――聖女シルフローネに殴られて。目を覚ましたのは、全てが終わった後だったそうだ。
 タイターリスの指が、躊躇ためらいもなくエリーゼに向かって伸びてきた。その指の背でエリーゼの髪を撫でる仕草は優美だった。
 そのまま髪を絡め取ろうとしたタイターリスの手を、エリーゼが払いのけた時、扉が叩かれた。
 扉の向こうから聞こえたのは、少女の高い声だった。若干震えた声で、振り絞るように用件を告げる。

「ご歓談中のところ、大変失礼いたします。ハーカラント様に、近衛騎士団第二近衛騎士隊副隊長フルーバ様が、使者としていらしております。控えの間でお待ちです」
「陛下が呼んでるってことだな。自分より身分が上の人に呼ばれたら、断れないのが王宮ってところなわけよ、エリーゼちゃん」

 首を傾げたエリーゼに、タイターリスは軽く言って立ち上がった。

「タイターリスを呼び出せるほど偉い人は、王様しかいないってことか」
「そゆこと。それ以外のやつが匿名とくめいで俺を呼び立てるとか、無理だから」
「えっらそ~」
「偉そうじゃなくて偉いんだよ、ここでは」

 タイターリスは苦笑しながら言う。

「これからエリーゼちゃんの周りでも、貴族連中がうるさくなると思う。既に俺の正妃候補になってるから縁談を申し込まれたりはしないだろうけど、エリーゼちゃんの歓心を得るために、あの手この手を使ってくるはずだ。惚れさせようとするやつもいるだろうし、強引な手を使ってくるやつもいるだろう。困った時には俺を呼んでいいからな」
「自分じゃ対処しきれないと思ったらすぐ呼ぶから、タイターリスもすぐ来てね」
「おう。エリーゼちゃんが後宮にいる時は、なるべく王子離宮にいるようにするよ。予定はレーンに伝えておいてくれ」
「さっきから何度か出てくる名前だけど、レーンって女官長さんのこと?」

 意外なことを聞かれたというように目を見開くと、タイターリスは頷いた。

「エリーゼちゃんは後宮のことや王宮のしきたりについて、少し勉強した方がいいな」
「王宮にも後宮にも全然興味ないから、私が困るようなことがあったら全部タイターリスがなんとかしてよ」

 エリーゼが言い放った言葉に、タイターリスは目を丸くした。
 だが、やがてへらりと破顔する。

「……なるほどな。確かに、無理やりここに縛りつけてんのは俺なんだし、俺がどうにかするべきだな。他の子なら最終的には唯々諾々いいだくだくと従ってくれるもんだけど、エリーゼちゃんの場合は本気で出国を考えそうだし」

 そうなったら困るのは俺だよなあ、とつぶやくタイターリスを、エリーゼはめつけた。

「これだから貴族っていうのは嫌なんだよね。当たり前のように従うとか従わないとか」
「あのー、エリーゼちゃん。自分の身分忘れてる?」
「うっわ、私も貴族だった」

 タイターリスは、笑いながら部屋を後にした。その背を見送ると、エリーゼは軽く溜息ためいきく。
 そして華美な部屋を眺め回し、椅子に深く腰かけた。

「……お兄様とは違って、心が広いなあ、タイターリスは」

 そう独りごちて、エリーゼは手元を見下ろした。左手に持っている自分のギルドカードと、右手に持っているタイターリスのギルドカードを見比べる。そのままぼうっとしていたが、やがてハッと目を見開いた。

「えっ、なんで私がタイターリスのカード持ってんの?」

 エリーゼ以外誰もいない部屋に、その声が大きく響く。無意味に部屋を見回し、タイターリスの姿がないのを改めて確認すると、エリーゼは頭を抱えた。

「……こんな大事なもの、置いていかないでよ」

 ギルドカードを紛失した場合、再発行するには白銀貨一枚が必要だ。つまり日本円にして、およそ二百五十万円かかることになる。駆け出しの冒険者には手も足も出ない金額だった。

「まあ、タイターリスなら払えるだろうけど」

 エリーゼは深く腰掛けていた椅子から立ち上がり、扉へ向かった。
 そしてエディリンスだった時から仕えてくれている侍女に一言かけてから出かけようと、控えの間にいるだろう彼女の名前を呼ぶ。

「シーザ、私これから殿下を探しに――」

 行ってくるから、という言葉は口から出てこなかった。扉を開いた瞬間、食器棚が崩れるような音が聞こえてきたからだ。硝子ガラスが割れる音が、けたたましく響く。エリーゼは急いで音のもとへ向かった。
 音の発生源は控えの間だったようで、そこにはシーザ以外の侍女たちが勢ぞろいしていた。音の原因らしいものは見当たらない。しかし、侍女たちの足下に何かの破片が落ちている。

「今の音、どうしたんですか?」
「お耳汚し、大変申し訳ございません。何も問題ありませんわ」

 やんわりと言ったのは、ひと際背が高く、侍女たちの中では一番年嵩としかさの女性だった。紫紺しこんの流れるような長髪が印象的だ。赤いべにが引かれた唇から出る優しげな声で、彼女はエリーゼを促した。

「どうぞお部屋にお戻りになり、殿下をお待ちになってください。今日のエリーゼ様のご予定は、全て殿下がお取りになっていらっしゃるのですよ」

 長い袖からほんの少し指を覗かせ、エリーゼの肩を軽く押す仕草は優美だった。無理やり押されているとは感じないのに、エリーゼはあっという間に部屋に戻される。

「わたくしはフィーリと申します。殿下に愛されておいでですのね。エリーゼ様の侍女として、誇らしいですわ」
「いえ、あの。私、このまま後宮にいるつもりは――」
「殿下とのお約束を、すっぽかすおつもりなのですか?」

 フィーリは悲しげに眉尻を下げた。自分に罪悪感を抱かせようとするその巧みな表情を見て、エリーゼは平静さを取り戻す。

(綺麗な人だけど……私の恩恵ギフトは反応しないな)

 彼女に悪いことをしているのかもしれない。そう思わせられるのに、フィーリの言葉に全面的に従おうとは思えない。フィーリが美貌ならば、【美貌に弱い】という恩恵ギフトにより、エリーゼは逆らえなくなるはずだった。

「ごめんなさい」

 そのエリーゼの言葉に、周りの侍女たちは一瞬眉をひそめた。フィーリの表情だけは、先程と変わっていない。後宮のしきたりから逸脱しているエリーゼに対する困惑と、エリーゼのことを思って口にした言葉を受け入れてもらえない悲しみが、雄弁に表現されていた。

「部屋には戻らない。殿下がギルドカードを忘れていったの。お届けしたいから、行ってくる」
「まあ」

 エリーゼが敬語をやめ、ギルドカードを掲げて言うと、フィーリは紺色の目を見開いた。

「それでは、わたくしがお持ちします」
「いや、それは」

 エリーゼはフィーリの手が届かないよう、カードを抱え込んだ。すると、フィーリは悲しげに目を伏せる。
 しかし、エリーゼはカードを届けることを口実にして、後宮を歩き回ると決めていた。道をできるだけ覚えて、せめて脱出路くらいは確保しておかなくてはならない。誰かに襲われた時、袋小路に追い込まれてしまったら洒落しゃれにならないからだ。
 平時である今は後宮の警備が手薄で、絶好の探索の機会だった。しかも、タイターリスを探すという最高の口実がある。
 タイターリスのギルドカードには、精霊にもらった反逆の狼煙タイターリス・ヘデンという名前が記されている。本名をハーカラントという彼が、その別名をどれだけたくさんの人間に明かしているのか、エリーゼにはわからない。しかし、わからないからこそ、もし問い詰められてもタイターリスに直接カードを届けたかったと言い訳することができる。だから、絶対にフィーリに渡すわけにはいかない。

「私は行くから」
「エリーゼ様がご不在の時に殿下が戻っていらしたら、どうするのです?」

 フィーリはやんわりと言った。しかしどこかねっとり絡みつくように自分を取り囲む彼女たちの姿に、エリーゼは面喰らった。これが前世だったら、エリーゼは彼女たちの言葉に唯々諾々いいだくだくと従っていただろう。「松???」という女の子は意志の強い友達に、流されるのが好きだったのだ。
 けれど、この世界に生まれてみると、引っぱってくれる人などどこにもいなかった。そしてエリーゼは一人で歩き、自分で決めることを覚えた。だから自分たちの意志を押しつけてくる侍女たちの姿は新鮮だった。

「……シーザはどこ?」

 迷った末に、エリーゼは思い出したように言った。シーザなら、エリーゼをこれほど強くは引き留めない。

「あの子なら私のやり方に慣れてるから、頼みたいことがあるんだけど」

 そう口にすると、侍女たちの視線がフィーリに集まった。フィーリははかなげに微笑み、目を細める。

「あの方に、どのような頼みごとを?」

 エリーゼはこの後宮での自分の発言力のなさに落胆し、溜息ためいききたくなった。
 王子の正妃候補とやらになっても、エリーゼには何の力もない。侍女にすらあなどられるほど弱いエリーゼにできることは、駄々をこねることだけだった。

「シーザを呼んで来て。シーザに会いたい。早くして」
「……少しお時間をくださいな」

 フィーリは相変わらず優しげな笑みを浮かべたまま、片手を上げた。

「ねえ、皆さん。シーザさんをお連れして」
「フィーリ様……ですけど」
「エリーゼ様がお待ちだわ。あなたたち二人がお迎えに行ってさしあげて」

 フィーリは口答えをした侍女と、小麦色のふわふわした長髪の侍女を指し示す。口答えをした侍女の方は多少不満そうに、もう一人は従順に、部屋を後にした。

「しばしの間ですわ。お待ちください、エリーゼ様。へリスティのお茶はいかがですか?」
「へりすてぃ?」
「エリーゼ様のお美しい御髪おぐしに似た色のお茶ですの」

 どこか小馬鹿にしたような目をした他の二人とは違い、フィーリは柔和にゅうわな表情を少しも崩さず答えた。

「すっきりとした味わいのお茶ですわ。少し苦味がありますけど、慣れればそれがクセになります。よろしければ、蜜もご用意いたしますわ……そうですね、お茶も蜜も何種類かご用意いたしますので、飲み比べてみませんか? サロンでは姫様たちが、お茶の味で産地を当てる遊びをなさっていたりするんですよ」

 エリーゼがその気になってきていることを察したのか、フィーリは彼女の返事を待たずに他の侍女たちへ指示を出した。

「へリスティとアピニャ、ロネスキーニをご用意して。花の蜜も五つ以上はご用意してね」
「かしこまりました、フィーリ様」

 良家のご令嬢らしい美しい動作で、二人の侍女はフィーリに向かって礼をした。
 今のところ、エリーゼにとってサフィリディアという地位に、利点などない。名ばかりの地位を与えられ、強者のおりに閉じ込められている。
 エリーゼは一刻も早く、この檻から脱出してしまいたかった。


 やがてやってきたシーザの顔面は蒼白だった。
 小回りのよくきそうな、エリーゼよりも小さな身体。栗色のくせっ毛が印象的なその少女の頬の血色は悪い。それどころか、紫色をした唇を見て、エリーゼは眉根を寄せた。それは怪我や吐血をした時に、エリーゼの顔にもよく現れる特徴だった。

「……大丈夫?」

 エリーゼがそう尋ねると、シーザは顔をくしゃくしゃにした。茶色の目が、みるみるうちにうるんでいく。そして椅子に座るエリーゼの胸に飛び付き、シーザはせきを切ったように泣きだした。
 エリーゼはその肩を抱いて、他の侍女たちに視線を移した。居並ぶ侍女たちは、皆平静そのものだった。いや、平静を通り越して無関心に見える。フィーリだけが、唯一苦笑を浮かべていた。

「何があったの?」
「突き飛ばされて怪我をしたんです……私、いつも通りにやろうとしてただけなのに」

 シーザはフィーリたちを涙目でにらみつけた。

「私が平民だからって、差別してるんでしょう? 他の人も、笑いながら見てたわ!」
「シーザさん、それは違います」
「違ってなんかいないわ。私の方がエリーゼ様といた期間が長いから、みんな私のことを邪魔だと思っているんでしょう? エリーゼ様が勇者の妹だと分かった瞬間に群がってきた、権力の亡者もうじゃのくせにっ!」
「フィーリ様に、なんて口をくのかしら!」

 侍女の一人が憤然として声を荒らげた。シーザはその侍女を強く睨みつける。
 水色の髪をしたその侍女は、細いあごを不敵に逸らした。

「これだから平民は……。伯爵夫人であらせられるフィーリ様に対して、そのような振る舞い。それに仕事の一つも満足にこなせない手際の悪さ! エリーゼ様がエディリンスだった時と同じ気持ちでいてもらっては困ります。今やエリーゼ様はサフィリディアなのですよ? あなたみたいな侍女がいては、エリーゼ様の株が下がります!」
「ひいては勇者様の株も下がるでしょうね」

 灰色の目をした侍女が、冷たく言い放った。それに、小麦色の柔らかそうな髪をした侍女がおずおずと同意する。

「……それは、まずい、かと」

 それを聞き、シーザは再び、わっと泣き出した。
 エリーゼが反応に困っていると、フィーリが口を開く。

「重要なのは、エリーゼ様がどうなさりたいのかですわ」

 伯爵夫人だというフィーリは、柔らかな口調で言った。

「妃候補の侍女の中に、貴族でない方がいるというのはまれなことです。これから先、侍女の中に一人平民がいるというそれだけの理由で、あなた様を卑下しようとするやからが現れますわ。それどころか、シーザさんやそのご家族をおとしいれることで、エリーゼ様の足を引っぱろうと考える者もいるでしょう。シーザさんが貴族ならば、そんなことは起こりません。貴族とはたとえどんな田舎者であれ、少なからず他の貴族と縁故があり、繋がっているものなのです。下手に田舎貴族を突いて、大貴族を敵に回すということもありえますから」

 エリーゼ様のお家は少し特殊ですけれど、とつけ加えてからフィーリは続ける。

「生まれが平民だというだけで、弱点になるのです。あなたの生まれをけなしているわけではありませんのよ、シーザさん」

 何かを口にしかけていたシーザは、先制攻撃を受けて不満げに口をつぐんだ。

「エリーゼ様を陥れたい方はまず、シーザさんを苦しめようと考えるでしょう。その方法は、わたくしごときでも、いくつか考えつきますわ。一部の貴族の方々の恐ろしいなさりようは、わたくしも噂で聞き及んでいます。シーザさんもご存じでしょう? 誰よりも辛い思いをなさるのは、シーザさんですわ」

 フィーリの言葉に、シーザは遠慮なく噛みついた。

「私が今一番嫌なのは、手際が悪いからって食器棚に突き飛ばされることです。関係ない話を持ってきて、ごまかさないでください。結局私を辞めさせたいだけのくせに……いい人ぶって感じ悪い」

 シーザがつけ加えた最後の言葉は、静かな部屋によく響いた。
 食器棚に突き飛ばされたと主張するシーザの言葉を、誰も否定しない。フィーリは困ったように笑っている。水色の髪の侍女は何やら不満そうにつぶやいていたものの、はっきりとは言わなかった。灰色の瞳の侍女は我関せずという態度を取り、小麦色の髪の侍女は落ちつかない様子で視線をあちこちに動かしている。
 エリーゼは迷ったあげく、シーザを自分の胸から引きはがした。そして彼女の涙に濡れた強気な目と、彼女をエリーゼごと睥睨へいげいする水色の髪の侍女の目を見比べる。
 シーザの瞳に宿る力が強すぎて、誰が本当の弱者なのか、エリーゼにはよくわからない。
 けれど恐らく、一番立場が弱いのは平民であるシーザだろう。
 その事実を噛みしめると、エリーゼはフィーリに尋ねた。

「シーザ以外は、みんな貴族なんだっけ?」
「はい。わたくしはアロージャスティ伯爵夫人と呼ばれております。そちらの水辺の妖精のような方は、レザルダン伯爵令嬢。理知的な灰色の目が印象的な方は、ユーフェリア男爵令嬢。小麦色の御髪おぐしが美しい方は、サダン子爵令嬢――皆さん名のある方ばかりです」
「……じゃあ、さ。レザルダン?」
「私のことでしたら、名前はサティアです」

 水色の髪の侍女は、つんとあごを逸らして言った。

「何かご用ですか?」
「うん、あのね、シーザは慣れない後宮暮らしに戸惑っていて、間違えることもあるだろうから、サティアが助けてあげてくれないかな」

 それを聞いたシーザが、エリーゼに抗弁しかけた。エリーゼはその口を手でふさぎ、暴れようとする彼女を羽交い締めにする。そして、再びサティアを見据えた。サティアの顔にも、不服の色が露骨に表れていた。それを見てエリーゼは微笑む。

「魔物の臓物とか、嫌いでしょ?」
「……は?」
「貴族のお嬢様じゃ、そんなの触れないよね。だけど私が魔物の血とか臓物にまみれて後宮に帰ってきた時、きれいにしてもらえないと困るんだ」
「一体、何をおっしゃっているのか……」

 震える声で問いただすサティアに、エリーゼは明るい表情で続けた。

「私、よく迷宮に行くの。魔物と戦って服が返り血で汚れたり、自分の血反吐ちへどで汚れたり、色々あるんだけど……みんなはできれば触りたくないでしょ?」

 フィーリとシーザを除く三人の侍女が、異様なものを見るような目でエリーゼを見た。フィーリは相変わらず優しげな笑みを絶やさず浮かべていて、シーザはエリーゼに押さえつけられている。
 エリーゼはシーザの口を押さえる手をどけて言った。

「シーザなら、そういうのに慣れてるから」

 事実として、迷宮から帰ったエリーゼの汚れた衣類は、全てシーザが引き受けてくれていた。実際に洗濯をするのはシーザではないのかもしれないが、ほうほうのていで帰ってきたエリーゼの身体からよろいをはがすのは、いつもシーザの仕事だった。

「誰でも得意な分野があれば不得意な分野もあるって、みんなはそう思わない?」

 サティアはげんなりしているシーザを一瞥いちべつすると、強張こわばった顔で小さく頷いた。
 それを見て、エリーゼはほっとする。
 シーザにしかできない役目があれば、彼女は受け入れられるだろう。

「よかった。これからはみんな助け合えるよね。早速なんだけど、シーザにお仕事を頼んでもいい?」
「え……っ?」
「私ね、これから迷宮で魔物を狩ったら、その死体を解体したいんだ。だから魔物の解体業者について調べてくれない?」
「ええーっ」

 あからさまに不満の声をあげるシーザを無視し、エリーゼは説明した。

「私が自分で解体するのが一番いいんだけど、まだまだ経験が足りないからさー。バグキャットの内臓は加工すれば丈夫な袋になるって聞いたから、是非とも上手に解体してもらいたいんだよねえ」

 うっ、と声が聞こえたかと思うと、サティアが口を押さえて部屋を出て行く。その後ろ姿をうらやましそうに見送るシーザに、エリーゼは追い打ちをかけた。

「いくつか調べておいてね。実際に作業場に行って、どんな雰囲気なのか見てきてほしいんだ。できたら工業ギルドでの評判とか、店員の人柄とか、そういう細かい情報も含めてたくさん調べてきてほしいな」
「あの、一体どうしてそんなことが知りたいんです?」

 シーザの質問を受けて、エリーゼは生き生きと答えた。

「そういう、いかにも冒険者っぽいことがしてみたいの!」

 シーザは小さく、うえっとつぶやいた。エリーゼは気にせず目を輝かせて続ける。

「魔物を解体するとか毛皮をぎ取るとか、いかにも冒険者って感じでしょ!? 自分が倒した魔物がそのまま自分の道具になるなんて夢みたい! いつかは自分で解体できるようになりたいの。それができたら、いっぱしの冒険者って感じだし」
「はあ、そうですか……」
「納得できた?」
「……はあい」

 シーザは渋々頷いた。エリーゼはそれを見て頷くと、他の侍女たちに視線を向ける。

「他にも頼みたいことがいっぱいあるんだけど」

 フィーリ以外の侍女二人はエリーゼの視線を避けるように、反射的に身を引いた。シーザが魔物の解体業者を調べろと命じられた後なので、今度は何を頼まれるのかとおびえているらしい。
 エリーゼは渋るシーザを部屋から送り出すと、再び口を開いた。

「……じゃ、私は殿下にお届け物をしてくるね」
「随行いたします」

 すかさずそう言ったフィーリに、エリーゼはきっぱりと告げる。

「大丈夫だから」
「……かしこまりました」

 フィーリは優雅にお辞儀した。その場に残った他の二人も頭を下げる。

「それでは、お召し物をお取り替えいたします」
「え、なんで?」
「可愛らしいお召し物ではありますけれど、サフィリディアに相応ふさわしいものではありませんから。とはいえ、後宮の中にいらっしゃるのであれば、普段はお好きな格好をしていただいて構いません。もちろん、魔物の血などで汚れたままでは困りますけれど」

 悪戯いたずらっぽく含み笑いをしたフィーリは、やんわりとエリーゼの肩を押す。

「王宮内においては、ひと目見てその地位と立場がわかるような身なりをするしきたりです。エリーゼ様、ご理解いただけますわね?」

 その声に頭を押さえつけられるように、エリーゼは首肯しゅこうした。


 小豆あずき色の髪は巻かれて高く結いあげられ、花飾りが視界の端にぶらついている。更には、薄桃色の絹のドレスを着せられていた。
 これはエリーゼが寝込んでいる間に仕立てられたものだそうで、新しい部屋のクローゼットには、他にもドレスが並んでいた。裾をふわふわとふくらませるために、ドレスの中に仕込まれた木枠が重い。
 エリーゼは肩を落として、床を踏みしめるように部屋から出た。

「よ、よろいより重い――」

 のろのろと方向転換しようとしたエリーゼの横から、甲高かんだかい声が響いた。

「エリーゼ様!」
「……はい?」

 気だるそうに振り返るエリーゼの視線の先には、シーザがいた。エリーゼは目をしばたたかせる。

「シーザ? どうしてまだここにいるの?」
「エリーゼ様のご命令なら下男に伝えて、きちんと遂行するように言い含めてきましたっ。それより、あのサティア・レザルダンっていう女、ひどいんです! 伯爵様の娘だからって、いい気になって! 私のこと、食器棚に突き飛ばしたんですよ。最低だと思いません? あんな女、やめさせちゃってください!」

 一方的な言葉を浴びせられ、エリーゼは答えに詰まる。そんな彼女を見て、シーザは赤みを取り戻しつつある頬を膨らませた。

「大体、伯爵様の娘なのに、ご自身がエディリンスにもなれないなんておかしいですよ。絶対に、あの女には何か問題があるんですよっ!」

 シーザの言葉には一理ある。
 後宮という場所は権力闘争が激しいと聞く。だから、その機会と権利を持っていそうなサティアが、それを放棄しているのは不思議だ。


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