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3巻
3-2
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一本はアールジス王国の国旗で、もう一本はジルクリスタ学術学問同盟の旗だ。エリーゼはジルクリスタ学術学問同盟が掲げる標語を思い出して暗唱した。
「えっと。学問に国境はなく、あらゆる知識は共有されるべきであり、あらゆる謎は協力して解明せねばならないとかなんとか」
エイブリーは馬から降りると、ぶつぶつと呟くエリーゼを降ろした。そして見張りのいない門扉を開けて中に入る。雑草だらけで閑散とした庭の手前にある厩舎に馬を預けると、エイブリーは口を開いた。
「エリーゼ、学問に役立ちそうな恩恵を持ってるか? そうでないなら、お前は中へ入れないぞ」
「お兄様は何か持ってるの?」
「持っているわけがないだろう」
エイブリーは呆れた顔でエリーゼを見下ろした。
「お前はもう俺の種族を忘れたのか? 俺は騎士だから中に入ることができるんだ」
恩恵というものは、基本的に人間にしか与えられない。半魔族のエイブリーが持っているはずはなかった。
エリーゼは頷くと、懐からギルドカードを取り出し情報を展開した。ギルドカードとは、冒険者ギルドや商業ギルドなどに加入する際に作ることができる、身分証明書のようなものだ。
彼女は冒険者ギルドに所属している。冒険者ギルドのカード情報を展開すると、自分が持つ精霊の恩恵を参照することができるのだ。
実は大聖堂での戦いの後、エリーゼのカードには新たな情報が追加された。ベッドに縛り付けられるようにして過ごしていた間に、穴が開きそうなほど眺めていたが、それ以上の新しい変化はなかった。
「学問に役立ちそうな恩恵はない、かな」
「お前は胃が弱いだけでなく、美貌にも弱いのだったな。阿呆のように思われるから、できるだけ隠しておけ。いくら精霊の恩恵とはいえ、ハイワーズ家の恥になる。開示するのは冒険者ギルドでパーティを組む時だけにしろ」
あっさりとそう言い、建物の入り口に向かうエイブリーを、エリーゼは早足で追いかけながら聞いた。
「冒険者を続けてもいいんだ?」
「ハーカラント殿下が冒険者だからな。普通の貴族の令嬢は、迷宮になど潜りたがらん。勇者の妹であることを除けば、冒険者であることがお前の唯一の長所だろう。冒険者を続けて、せいぜい殿下の気を引くがいい」
「……そうしてハイワーズ家を王家に売り込んで、守り立てろってことか。お兄様って本当にハイワーズ家第一だよね」
エリーゼはうんざりした顔で言った。
エイブリーに言われた通り受付で止められたエリーゼは、エイブリーが戻ってくるまで玄関脇の待合室で待つことにした。
待合室には、古い本の匂いが充満している。エリーゼはその匂いを嗅ぐと、不思議な郷愁を覚えた。
(図書館の匂い……)
アラルドの書斎にもたくさんの本があるが、こんな匂いはしない。
けれど、どこの世界でも、古びた本は同じ香りがするらしい。
(少し黴っぽいような、なんだか湿った匂い。図書館の奥とか、そんな感じの――)
エリーゼは奥へ続く道にふらふらと近づいたが、中に入ることはできない。すぐ傍で受付の人が見張っているし、柵があって、鍵までかかっている。
やがてエイブリーが本を抱えて出てくると、エリーゼは呟くように言った。
「お兄様、いいな。私も中に入りたい」
「本を借りたいのか? 言っておくがな」
エイブリーは項垂れ、重苦しい溜息を吐いた。
「本を借りるにも銀貨数枚分の金がかかるんだぞ、エリーゼ」
この世界には金貨、白銀貨、銀貨、銅貨といった貨幣がある。最も価値が低い銅貨は、日本で言えば千円くらいだ。銀貨一枚は銅貨五十枚に等しいので、およそ五万円。つまりここで本を借りるには、何万円、いや何十万円ものお金がかかるということだ。
そこでふと、エリーゼは考える。それだけのお金を払える経済力がある人なら、中に入れてもらえるのではないかと。受付の人と交渉してみようかとエリーゼが迷っていると、エイブリーにぎろりと睨まれた。
唇を尖らせるエリーゼを見て、彼は低い声で八つ当たりのように言った。
「今うちには、余分な金は一切ないんだ。こんなことを言いたくはないが、父上や母上の金銭感覚はおかしい。後宮に行ったら緊急の場合以外、帰って来るな。お前にかかる生活費がもったいない」
「私、お金ならかなり持ってるから、必要な額を言ってくれれば、家にお金入れるけど」
「冒険者ギルドのクエスト報酬か? そんなもの、なんの足しにもならん。お前の好きに使え。自分磨きにでも、後宮内での版図を広げるための根回しにでも使うんだな」
エリーゼはすたすた歩いていくエイブリーを、必死で追いかける。
図書館――もとい王立学問所に後ろ髪を引かれたが、諦めることにした。今はお金を持ってきていないし、前世を懐かしむ以外に用もない。
厩舎に戻り再び馬に乗せられたところで、エリーゼは再びギルドカードを取り出し、情報を展開させた。そこに表示されている所持金の額に軽い眩暈を覚え、小さく呻く。
「額を見ただけで眩暈がするくらいのお金は、精霊バンクに入ってるよ……」
「お前がどうやって稼いだと言うんだ……いや、そういえばお前は古代語を話せるのだったか? 昨今巷に飛び交うバカげた噂によれば、お前は古代星語を自在に操り精霊魔法を駆使する、稀代の賢者だというが。……まさか、古代星語の翻訳の仕事でもしたのか? お前は生まれつき言語能力だけは発達しているようだからな」
「そういうお金の稼ぎ方もあるんだ」
へえ、と感心してから、エリーゼは肩を落とした。
「噂はデマじゃないよ。賢者かどうかはわからないけど、精霊魔法が使えたよ私。一瞬だけだけど」
「一瞬?」
「……精霊魔法は、ステファンの精霊に封印された」
エリーゼは舌打ちした。彼女の話に耳を傾けるためか、エイブリーが速度を少し落とす。親と一緒に歩く小さな子供が視界に入ると、エリーゼは精霊幼女たちを思い出し、理不尽だと思いつつも睨みつけた。
「生まれてからこれまで、魔法的なものとの接触を一切してこなかったから、いきなり精霊魔法を使えるようになったら危ないとかなんとか。……いや、わかるんだよ? 単なる精霊の嫌がらせじゃないってことは。精霊魔法を使った時の魔力の消費量は、半端じゃなかったからね。今の私がいきなり強力な魔法を使いまくったら、干からびて死ぬっていうことは感覚でわかってる。魔力込めて一言古代星語を口にするだけで死ぬって言われたし。その言葉自体は疑ってないよ? だけどさー」
ぶつくさ言うエリーゼの言葉に、エイブリーは眉根を寄せた。
「それはつまり、お前は古代星語を話そうと思えば話せるということか?」
「うん」
頷くエリーゼに目を瞠ってから、エイブリーは尋ねる。
「……どこで覚えた」
「わからない」
目を伏せて答えた後、エリーゼはエイブリーの鎧にしがみつき直した。
「誰にも言わない方がいいよね? なんかこれ、かなりすごいことみたいだし」
「今更気づいたのか?」
「いつの間にか話せてたから、特別なことだなんて思わなかったんだよ」
エリーゼは、言い訳するように言った。エイブリーは怪訝な顔をして続ける。
「翻訳を請け負ったわけでもないのなら、お前はどうやって金を稼いだ? 金額はどれほどだ?」
「白銀貨、三十枚くらい」
「――何をした。ちゃんと足が付かないようにしたか?」
「犯罪なんてしてないからね!」
白銀貨一枚は、日本円で二百五十万円くらいの価値がある。
三十枚ともなれば、およそ七千五百万円である。
とはいえ豪商なら一年で稼ぐことのできる金額だし、爵位を持つ貴族には、これくらいの資産を持っている人間も珍しくはない。
「だけど……その、正貨なんだよね」
正貨とは、古くからある貴重な貨幣だ。人間にはできない特殊な製法で作られているらしい。
人間以外の種族は普通、正貨を使用しているという。人間が使う貨幣はこの正貨を模倣して作ったもので、正貨にはその何倍もの価値がある。
「正貨だと!? 犯罪ではないなら何をした」
ついに馬の足を止め、エイブリーはエリーゼを振り返った。愕然とした表情で見下ろしてくる彼に、エリーゼは乾いた笑いをしてみせる。
「……トランプって知ってる?」
「昨今、流行っているようだな。軍事行動の最中でも簡単に持ち運べるとあって、騎士団の連中もそれを使って賭けに興じているぞ。平民出の騎士と貴族階級の騎士との間を取り持つ橋渡しになっているようだから、禁じてはいないが、借金で首が回らなくなった愚か者がいた。ゆえに俺の隊では禁止するべきかと悩んでいる」
そこまで言った後、エイブリーはエリーゼを凝視した。
「まさか、お前が開発者なのか?」
「うん。特許とったらこんなことに」
「……それほどの金がありながら使わなかったのは、精霊絡みか?」
「そう。精霊が私の行動を制限したとかで、大聖堂には入れないしお金は使えないしで、大変だったよ。けど、今回のどさくさの中で色々あって、最終的にその制限は解かれたんだ」
「よくわからないが……まあいい。それほど余裕があるというのなら、いくらか貸してくれ」
「貸す?」
自分がお金を持っているという事実をエイブリーが知れば、当然のように没収されるだろうと思っていただけに、エリーゼは驚いて目を丸くした。エイブリーは彼女の驚きの理由を誤解したらしく、なぜお金が必要なのかを話し始める。
「屋敷を管理するのに人手が足りないんだ。だが人を雇うには金がかかる。俺たちに魅了されていた使用人は、父上によって全員解雇されてしまったからな。ああいう人間は探そうと思うとなかなか見つからないし、美貌でない母上に対して礼を失するだろう。もはや普通のやり方で雇用するしかないのだ」
「家のために使うなら、別に返してくれなくていいよ」
「いくらお前が稼ぎ頭だとはいえ、それで全てを賄おうとするなど、ハイワーズ家の、そして騎士である俺の沽券に関わる。そもそも女であるお前が金を稼いでいるなどと、決して口外してはならないぞ。もはや姉上のことは仕方がないが、お前は後宮女官をやっているのだ。貴族としての体裁を気にしろ」
エイブリーはエリーゼのお金に手を付けることに抵抗がある様子だった。よその人にバレなければ問題ないだろうにと、エリーゼは不思議に思う。
「私にはお金の使い道が思いつかないし、有効活用してもらえるのなら、お兄様に預けるよ?」
エリーゼの申し出に、驚くほどの謙虚さをもってエイブリーは答えた。
「正貨だと言うのなら、とりあえず銀貨を五枚頼む」
「それだけでいいの?」
「万が一、父上から手持ちの金品を全て渡せと命じられたら、俺は抗えない」
「わかった。ドブに捨てるぐらいなら私が持ってる」
「父上をドブ扱いするな」
咎めるように言いつつも、エイブリーの表情には苦笑が浮かんでいた。一家の生活費を躊躇いなく無駄遣いするアラルドに全財産を渡してしまうのは愚かな行為だと、彼も頭ではわかっているらしい。
やがて王宮の城門の前で馬を止めると、エイブリーはエリーゼを馬から降ろす。そして王宮を囲む堀にかけられた跳ね橋を、先に渡るよう促した。
「早く行け。殿下をこれ以上お待たせするな」
「お金は今度ね」
ひらひらと手を振るエリーゼに軽く頷いてみせてから、エイブリーは背を向けた。門兵たちに何やら言葉をかけている彼を尻目に、エリーゼは王宮内広場を東から西へ突っ切る。
複雑に張りめぐらされた塀にとりつけられた門をくぐり、エイブリーから姿が見えなくなる場所まで来ると、エリーゼは立ち止まった。
「……あれ? さっきお父様をドブって言っても怒られなかったよね?」
珍しいこともあるものだと思いながら、エリーゼは首を傾げる。
「お兄様もお金のことで苦労して、人間が丸くなったのかな」
そう言った後でエリーゼは呟く。
「……人間じゃないんだった」
そこでそういえば、と鼻を掻き、鼻の奥に残っていた古い本の香りを嗅ぐ。懐かしくて涙が出そうになるのを堪え、エリーゼは歩き出した。
後宮にあるエリーゼの部屋は後宮の外郭部分にあって入り口に近く、第一王子の住む王子離宮からは、かなり遠い。上位の女官たちが日々のつれづれを過ごすというサロンからも若干遠く、侍女は一人しかいなかった。
だが久々に訪れてみると、エリーゼの部屋は移され、侍女も五人に増えていた。後宮に足を踏み入れるや否や彼女たちに出迎えられ、奥へ案内されたのだ。温室が近く、後宮女官たちの間でも人気が高いその部屋は、先日までエリーゼに与えられていた部屋の、四倍もの広さを誇っている。
その部屋には、この後宮の主が我がもの顔で居座っていて、エリーゼが部屋に入った瞬間、食いつかんばかりに迫ってきた。
「タイターリス・ヘデンって呼んでくれ!」
古代星語で『反逆の狼煙』という意味を持つ言葉、タイターリス・ヘデン。その名を精霊に与えられた彼の本当の名はハーカラントだ。ここアールジス王国の第一王子である彼は、妃候補のエリーゼにとっては、もしかしたら未来の夫となるかもしれない青年だった。
精緻な刺繍が施された絹のチュニックを着て、銀糸のサッシュベルトを締めている。腰に帯びた短剣の柄は金でできていて、ルビーやサファイアであろう宝石が象嵌されていた。そんな贅をこらした衣装をなんなく着こなしているタイターリスは、冒険者の服装をしている時とは随分印象が違う。
せいぜい彼の気を引けというエイブリーの言葉を思い出して微妙な気分になりながら、エリーゼは適当に言った。
「……たいたーりすへでん」
「違うだろ!」
タイターリスはエリーゼの肩を掴んでガクガク揺さぶった。
「もっとこう、なんかすごかっただろ! あの時はっ」
「あー、はいはい。わかったから揺さぶるのやめてよね」
十九歳の彼はエリーゼより四つも年上だが、色々あって彼に対する敬意というものを、エリーゼは持っていなかった。それどころか、親しさゆえの悪ふざけで『殿下』と口にしかけたが、流石にやめておいた。タイターリスは、いかにも切羽詰まった様子だったからだ。
「反逆の狼煙」
「なんか……違わないか?」
「そりゃ、古代語だからね」
「なんで古代魔語で言わないんだ?」
不満そうな顔で首を傾げ、タイターリスは思いついたように顎に指をかけた。
「いつでもどこでも話せるってわけじゃない、ってことか?」
「そうじゃないけど」
言葉を濁し、エリーゼは部屋の中を見回した。
「……広すぎて落ちつかないなぁ」
「落ちつかないから古代魔語が話せないのか!? じゃあ部屋を替えよう、俺からレーンに言ってやる!」
「やめてタイターリス。落ちついて」
「エリーゼちゃん!」
レーンとは誰だろうと思いながら、エリーゼはタイターリスを宥めようとした。だが彼の勢いに負けて、渋々古代星語を口にする。
〈反逆の狼煙〉
「……それも、なんか違くないか?」
「もうこれで許してよ! あのね、ルト語? って言うんだっけ。あれね、精霊の耳元で、わーって大きい声で叫ぶような感じの言葉なの。だからあんまり言いたくないんだよ。言えないことはないけど、気軽に口にするのは憚られるの」
「今のは古代星語か?」
「そうだよ。これじゃだめ?」
「いや、古代星語でも効いてる気がする」
「きいてるって、何?」
「俺の呪いに、効いてる気がする」
そう言いながら、タイターリスは自分の胸に手を置いた。表情を消して虚空を見つめる彼は、ちゃんと王子に見える。貴族らしくない、がっしりとした顎を持ち、肩幅も広いが、この豪華な後宮の一室にあって違和感がない。
タイターリスはベルベットが張られた長椅子の上に、無造作に腰を下ろした。
こめかみの白い傷跡だけが、部屋の雰囲気にそぐわない。その傷跡を指でなぞりながら、タイターリスは再び口を開いた。
「……精霊の呪いから完全に逃れるには、まだ足りない」
彼が不意に持ち上げた手には、カードが握られていた。その情報を展開すると、彼はカードをエリーゼに放って寄こす。
タイターリスが精霊神アスピルから与えられた恩恵、【人助け】が表示されている。一見善行を表すように見えるこの恩恵が、彼を苦しめてきた。彼が助けようと思うのは人間だけ。しかしこの世界には、人間以外にも様々な種族が存在している。
タイターリスは【人助け】の効果により、人間以外の種族に尋常ではない殺意を抱いてしまうのだ。
だから彼はこの恩恵を精霊の呪いと呼び、解除するための手掛かりを探していた。その手掛かりが、アスピルではない他の精霊から与えられた、タイターリス・ヘデンという名前だった。
エリーゼの働きにより、この名前が『反逆の狼煙』という意味を持つことを、タイターリスは知ることができた。しかしそれを知っただけでは、【人助け】という文字は消えることも薄くなることもなく、今も恩恵の欄に表示されている。
「こんな恩恵頼んでねーよ、って言いたいとこだけど、俺の場合は精霊にお願いした結果だからなあ」
タイターリスは苦笑して、こめかみの傷跡を引っ掻いた。
「自業自得なんだよな。だけど俺はもう、耐えられない」
「まあ、頑張って。ほどほどになら、私も協力してあげるよ」
「ばっか、エリーゼちゃん。ほどほどどころか、全力で協力してもらうに決まってんだろ?」
タイターリスの言葉に、エリーゼは心底驚いた。
「バカはタイターリスでしょ!? なんで勝手に決めてるの!?」
「エリーゼちゃん、俺が誰だか覚えてるか?」
タイターリスはエリーゼの言葉に少しも動じることなく、へらへらと笑った。
エリーゼは顔を顰める。彼がこの国の王子であり、自分はしがない下級貴族の次女でしかないことを、思い出したからだ。
「ギルドカードの職業欄を見てみな」
目を細めて言うタイターリス。エリーゼは自分のカードを見て、溜息を吐いた。
「……エディリンスじゃなくなってる」
「だろ?」
ぶっすりとしたエリーゼを見て、タイターリスは楽しげに笑った。
「エリーゼちゃんをできるだけ高い地位に上げるように、レーンに言っといたんだよ。エリーゼちゃんちの家格はあんまり高くないけど、父親のアラルド卿は一応爵位持ちだし、兄貴は勇者だから、なんとかなると思ったんだよな。なんて書いてある?」
「サフィリディア」
「おお! 俺の正妃候補じゃん! 階位で言うと上から三番目だぜ」
「わかってるから言わないで」
「なんで嫌そうなんだよ。後宮での権力を保証する高い地位だぞ。俺の呪いを解く手掛かりを示してくれたエリーゼちゃんへの、ご褒美でもあるんだけどな」
傷ついた顔をしてみせるタイターリスに眉を顰めて、エリーゼはソファに腰を下ろす。そして頬杖をつき、一頻り呻いてから、再び口を開いた。
「陰謀渦巻く後宮で、王子様の有力なお妃さま候補になっただなんて、考えるだけで胃が痛い。もし暗殺されそうになったりしたら、他のお妃さま候補に対して何をするかわかんないよ、私は」
「やめとけよ。他の有力候補はこの国の重鎮の縁者ばっかりだから、俺でも庇いきれるかわからないぞ?」
「……迷宮に閉じこもりたい」
「その気持ちはわからなくもないけどな」
タイターリスは乾いた笑いを零した。
「迷宮に潜ってれば、何の罪もない獣人の少女を殺さずに済むだろうからって――俺もこもってたことがあるよ」
「じゃあ、今からでも撤回してよ。ご褒美をくれるっていうなら、他のものが欲しい」
睨みつけるエリーゼの強い視線を受けとめて、タイターリスは目を細めた。
「悪いけど、俺はエリーゼちゃんを手放す気はないよ。たとえ正妃にできなくても、ずっと後宮にいてもらう。サフィリディアってのは、そのための地位だ」
微妙な顔をするエリーゼを見て、タイターリスはへらりと笑った。
「元々この後宮は、俺の精霊の呪いを解くのに役立ちそうな人間を囲い込むために作ったんだ。エリーゼちゃん以外の有力候補は普通に貴族から選ばれた子たちだけど、他の女の子たちは違う。精霊魔法の使い手を輩出した家の娘だったり、精霊に関する伝説が残る村の娘だったりを、国中から身分を問わずにかき集めたんだ。藁にもすがる思いでな。どんなにちっぽけな手掛かりでもいいから見つけるために」
「なんかタイターリスがものすごくひどい人に見える。その中に、婚約者がいる子とかはいなかったの?」
「あー、いたっぽいな」
「最低だね」
エリーゼの手厳しい言葉にも、タイターリスは平然と肩を竦めるだけだった。
「別に後宮の出入りは禁じてないだろ? 恋人と会おうと思えば会えるんだし、万が一恋人と会ってる場面を押さえても、罰を与えないようにレーンには言ってある。そんなにひどいことじゃないはずだ」
「だけど、異性と触れ合えないんでしょ? この国の守護精霊だかのせいで。極悪非道もいいところだよ」
「そう罵られるのは覚悟の上だよ」
うっすらと笑うタイターリスの目が、鋭く光った。
「どんなことをしてでも、俺はこの呪いを解くと決めた。そのためなら、なんだってやってやる。国中の女の子を後宮に集めて閉じこめることぐらい、なんでもない」
「……気持ちは、わかるよ」
呟くように言うと、エリーゼは目を伏せた。
そしてギルドカードを手で弄びながら、情報を展開する。タイターリスには見えないように念じたため、エリーゼだけに見えるその内容を確かめた。
名前……エリーゼ・アラルド・ハイワーズ
性別……女
年齢……15歳
職業……冒険者 サフィリディア
種族……人間
所持金……白銀貨29枚 銀貨35枚 銅貨21枚
恩恵……【気配察知】C 【逃げ足】D 【警告】B 【美貌に弱い】【胃弱】【勇者の妹】
加護……松???の霊魂
▼精霊クエスト
視線はまず所持金に向かう。大金すぎてまた眩暈がした。次に、新しく増えた恩恵を見る。【勇者の妹】というのがどんな恩恵なのか、よくわからない。そして最後に、加護のところを見た。
四つあったハテナマークが一つだけ開かれ、読めるようになっている。
(にほんご……だ)
久しぶりに見るその文字に感動したのは、一週間前のことだ。エリーゼはあらゆる文字を生まれつき読み解くことができたが、前の世界の文字は忘れかけていたらしい。明らかにされた『松』という文字を見た時、しばらくは文字ではなく絵にしか見えなかった。
「……わかるよ、タイターリス。少しでも可能性があるのなら、あらゆる手段を尽くしたいし、そうせずにはいられないよね」
霊魂という文字を注視しながら、エリーゼは喉にこみ上げる苦いものを呑み下した。
(松???っていうのは、きっと前世の私の名前で――)
魂のどこかで覚えている名前。
(霊魂、か)
あの少女が死んだことを、エリーゼは疑っていないつもりだった。前世の彼女が死んだから今のエリーゼがある。そう当たり前に考えていたはずなのに、その事実を突きつけられると、もう決して戻れないのだと言われているようで、目の前が暗くなる。
「えっと。学問に国境はなく、あらゆる知識は共有されるべきであり、あらゆる謎は協力して解明せねばならないとかなんとか」
エイブリーは馬から降りると、ぶつぶつと呟くエリーゼを降ろした。そして見張りのいない門扉を開けて中に入る。雑草だらけで閑散とした庭の手前にある厩舎に馬を預けると、エイブリーは口を開いた。
「エリーゼ、学問に役立ちそうな恩恵を持ってるか? そうでないなら、お前は中へ入れないぞ」
「お兄様は何か持ってるの?」
「持っているわけがないだろう」
エイブリーは呆れた顔でエリーゼを見下ろした。
「お前はもう俺の種族を忘れたのか? 俺は騎士だから中に入ることができるんだ」
恩恵というものは、基本的に人間にしか与えられない。半魔族のエイブリーが持っているはずはなかった。
エリーゼは頷くと、懐からギルドカードを取り出し情報を展開した。ギルドカードとは、冒険者ギルドや商業ギルドなどに加入する際に作ることができる、身分証明書のようなものだ。
彼女は冒険者ギルドに所属している。冒険者ギルドのカード情報を展開すると、自分が持つ精霊の恩恵を参照することができるのだ。
実は大聖堂での戦いの後、エリーゼのカードには新たな情報が追加された。ベッドに縛り付けられるようにして過ごしていた間に、穴が開きそうなほど眺めていたが、それ以上の新しい変化はなかった。
「学問に役立ちそうな恩恵はない、かな」
「お前は胃が弱いだけでなく、美貌にも弱いのだったな。阿呆のように思われるから、できるだけ隠しておけ。いくら精霊の恩恵とはいえ、ハイワーズ家の恥になる。開示するのは冒険者ギルドでパーティを組む時だけにしろ」
あっさりとそう言い、建物の入り口に向かうエイブリーを、エリーゼは早足で追いかけながら聞いた。
「冒険者を続けてもいいんだ?」
「ハーカラント殿下が冒険者だからな。普通の貴族の令嬢は、迷宮になど潜りたがらん。勇者の妹であることを除けば、冒険者であることがお前の唯一の長所だろう。冒険者を続けて、せいぜい殿下の気を引くがいい」
「……そうしてハイワーズ家を王家に売り込んで、守り立てろってことか。お兄様って本当にハイワーズ家第一だよね」
エリーゼはうんざりした顔で言った。
エイブリーに言われた通り受付で止められたエリーゼは、エイブリーが戻ってくるまで玄関脇の待合室で待つことにした。
待合室には、古い本の匂いが充満している。エリーゼはその匂いを嗅ぐと、不思議な郷愁を覚えた。
(図書館の匂い……)
アラルドの書斎にもたくさんの本があるが、こんな匂いはしない。
けれど、どこの世界でも、古びた本は同じ香りがするらしい。
(少し黴っぽいような、なんだか湿った匂い。図書館の奥とか、そんな感じの――)
エリーゼは奥へ続く道にふらふらと近づいたが、中に入ることはできない。すぐ傍で受付の人が見張っているし、柵があって、鍵までかかっている。
やがてエイブリーが本を抱えて出てくると、エリーゼは呟くように言った。
「お兄様、いいな。私も中に入りたい」
「本を借りたいのか? 言っておくがな」
エイブリーは項垂れ、重苦しい溜息を吐いた。
「本を借りるにも銀貨数枚分の金がかかるんだぞ、エリーゼ」
この世界には金貨、白銀貨、銀貨、銅貨といった貨幣がある。最も価値が低い銅貨は、日本で言えば千円くらいだ。銀貨一枚は銅貨五十枚に等しいので、およそ五万円。つまりここで本を借りるには、何万円、いや何十万円ものお金がかかるということだ。
そこでふと、エリーゼは考える。それだけのお金を払える経済力がある人なら、中に入れてもらえるのではないかと。受付の人と交渉してみようかとエリーゼが迷っていると、エイブリーにぎろりと睨まれた。
唇を尖らせるエリーゼを見て、彼は低い声で八つ当たりのように言った。
「今うちには、余分な金は一切ないんだ。こんなことを言いたくはないが、父上や母上の金銭感覚はおかしい。後宮に行ったら緊急の場合以外、帰って来るな。お前にかかる生活費がもったいない」
「私、お金ならかなり持ってるから、必要な額を言ってくれれば、家にお金入れるけど」
「冒険者ギルドのクエスト報酬か? そんなもの、なんの足しにもならん。お前の好きに使え。自分磨きにでも、後宮内での版図を広げるための根回しにでも使うんだな」
エリーゼはすたすた歩いていくエイブリーを、必死で追いかける。
図書館――もとい王立学問所に後ろ髪を引かれたが、諦めることにした。今はお金を持ってきていないし、前世を懐かしむ以外に用もない。
厩舎に戻り再び馬に乗せられたところで、エリーゼは再びギルドカードを取り出し、情報を展開させた。そこに表示されている所持金の額に軽い眩暈を覚え、小さく呻く。
「額を見ただけで眩暈がするくらいのお金は、精霊バンクに入ってるよ……」
「お前がどうやって稼いだと言うんだ……いや、そういえばお前は古代語を話せるのだったか? 昨今巷に飛び交うバカげた噂によれば、お前は古代星語を自在に操り精霊魔法を駆使する、稀代の賢者だというが。……まさか、古代星語の翻訳の仕事でもしたのか? お前は生まれつき言語能力だけは発達しているようだからな」
「そういうお金の稼ぎ方もあるんだ」
へえ、と感心してから、エリーゼは肩を落とした。
「噂はデマじゃないよ。賢者かどうかはわからないけど、精霊魔法が使えたよ私。一瞬だけだけど」
「一瞬?」
「……精霊魔法は、ステファンの精霊に封印された」
エリーゼは舌打ちした。彼女の話に耳を傾けるためか、エイブリーが速度を少し落とす。親と一緒に歩く小さな子供が視界に入ると、エリーゼは精霊幼女たちを思い出し、理不尽だと思いつつも睨みつけた。
「生まれてからこれまで、魔法的なものとの接触を一切してこなかったから、いきなり精霊魔法を使えるようになったら危ないとかなんとか。……いや、わかるんだよ? 単なる精霊の嫌がらせじゃないってことは。精霊魔法を使った時の魔力の消費量は、半端じゃなかったからね。今の私がいきなり強力な魔法を使いまくったら、干からびて死ぬっていうことは感覚でわかってる。魔力込めて一言古代星語を口にするだけで死ぬって言われたし。その言葉自体は疑ってないよ? だけどさー」
ぶつくさ言うエリーゼの言葉に、エイブリーは眉根を寄せた。
「それはつまり、お前は古代星語を話そうと思えば話せるということか?」
「うん」
頷くエリーゼに目を瞠ってから、エイブリーは尋ねる。
「……どこで覚えた」
「わからない」
目を伏せて答えた後、エリーゼはエイブリーの鎧にしがみつき直した。
「誰にも言わない方がいいよね? なんかこれ、かなりすごいことみたいだし」
「今更気づいたのか?」
「いつの間にか話せてたから、特別なことだなんて思わなかったんだよ」
エリーゼは、言い訳するように言った。エイブリーは怪訝な顔をして続ける。
「翻訳を請け負ったわけでもないのなら、お前はどうやって金を稼いだ? 金額はどれほどだ?」
「白銀貨、三十枚くらい」
「――何をした。ちゃんと足が付かないようにしたか?」
「犯罪なんてしてないからね!」
白銀貨一枚は、日本円で二百五十万円くらいの価値がある。
三十枚ともなれば、およそ七千五百万円である。
とはいえ豪商なら一年で稼ぐことのできる金額だし、爵位を持つ貴族には、これくらいの資産を持っている人間も珍しくはない。
「だけど……その、正貨なんだよね」
正貨とは、古くからある貴重な貨幣だ。人間にはできない特殊な製法で作られているらしい。
人間以外の種族は普通、正貨を使用しているという。人間が使う貨幣はこの正貨を模倣して作ったもので、正貨にはその何倍もの価値がある。
「正貨だと!? 犯罪ではないなら何をした」
ついに馬の足を止め、エイブリーはエリーゼを振り返った。愕然とした表情で見下ろしてくる彼に、エリーゼは乾いた笑いをしてみせる。
「……トランプって知ってる?」
「昨今、流行っているようだな。軍事行動の最中でも簡単に持ち運べるとあって、騎士団の連中もそれを使って賭けに興じているぞ。平民出の騎士と貴族階級の騎士との間を取り持つ橋渡しになっているようだから、禁じてはいないが、借金で首が回らなくなった愚か者がいた。ゆえに俺の隊では禁止するべきかと悩んでいる」
そこまで言った後、エイブリーはエリーゼを凝視した。
「まさか、お前が開発者なのか?」
「うん。特許とったらこんなことに」
「……それほどの金がありながら使わなかったのは、精霊絡みか?」
「そう。精霊が私の行動を制限したとかで、大聖堂には入れないしお金は使えないしで、大変だったよ。けど、今回のどさくさの中で色々あって、最終的にその制限は解かれたんだ」
「よくわからないが……まあいい。それほど余裕があるというのなら、いくらか貸してくれ」
「貸す?」
自分がお金を持っているという事実をエイブリーが知れば、当然のように没収されるだろうと思っていただけに、エリーゼは驚いて目を丸くした。エイブリーは彼女の驚きの理由を誤解したらしく、なぜお金が必要なのかを話し始める。
「屋敷を管理するのに人手が足りないんだ。だが人を雇うには金がかかる。俺たちに魅了されていた使用人は、父上によって全員解雇されてしまったからな。ああいう人間は探そうと思うとなかなか見つからないし、美貌でない母上に対して礼を失するだろう。もはや普通のやり方で雇用するしかないのだ」
「家のために使うなら、別に返してくれなくていいよ」
「いくらお前が稼ぎ頭だとはいえ、それで全てを賄おうとするなど、ハイワーズ家の、そして騎士である俺の沽券に関わる。そもそも女であるお前が金を稼いでいるなどと、決して口外してはならないぞ。もはや姉上のことは仕方がないが、お前は後宮女官をやっているのだ。貴族としての体裁を気にしろ」
エイブリーはエリーゼのお金に手を付けることに抵抗がある様子だった。よその人にバレなければ問題ないだろうにと、エリーゼは不思議に思う。
「私にはお金の使い道が思いつかないし、有効活用してもらえるのなら、お兄様に預けるよ?」
エリーゼの申し出に、驚くほどの謙虚さをもってエイブリーは答えた。
「正貨だと言うのなら、とりあえず銀貨を五枚頼む」
「それだけでいいの?」
「万が一、父上から手持ちの金品を全て渡せと命じられたら、俺は抗えない」
「わかった。ドブに捨てるぐらいなら私が持ってる」
「父上をドブ扱いするな」
咎めるように言いつつも、エイブリーの表情には苦笑が浮かんでいた。一家の生活費を躊躇いなく無駄遣いするアラルドに全財産を渡してしまうのは愚かな行為だと、彼も頭ではわかっているらしい。
やがて王宮の城門の前で馬を止めると、エイブリーはエリーゼを馬から降ろす。そして王宮を囲む堀にかけられた跳ね橋を、先に渡るよう促した。
「早く行け。殿下をこれ以上お待たせするな」
「お金は今度ね」
ひらひらと手を振るエリーゼに軽く頷いてみせてから、エイブリーは背を向けた。門兵たちに何やら言葉をかけている彼を尻目に、エリーゼは王宮内広場を東から西へ突っ切る。
複雑に張りめぐらされた塀にとりつけられた門をくぐり、エイブリーから姿が見えなくなる場所まで来ると、エリーゼは立ち止まった。
「……あれ? さっきお父様をドブって言っても怒られなかったよね?」
珍しいこともあるものだと思いながら、エリーゼは首を傾げる。
「お兄様もお金のことで苦労して、人間が丸くなったのかな」
そう言った後でエリーゼは呟く。
「……人間じゃないんだった」
そこでそういえば、と鼻を掻き、鼻の奥に残っていた古い本の香りを嗅ぐ。懐かしくて涙が出そうになるのを堪え、エリーゼは歩き出した。
後宮にあるエリーゼの部屋は後宮の外郭部分にあって入り口に近く、第一王子の住む王子離宮からは、かなり遠い。上位の女官たちが日々のつれづれを過ごすというサロンからも若干遠く、侍女は一人しかいなかった。
だが久々に訪れてみると、エリーゼの部屋は移され、侍女も五人に増えていた。後宮に足を踏み入れるや否や彼女たちに出迎えられ、奥へ案内されたのだ。温室が近く、後宮女官たちの間でも人気が高いその部屋は、先日までエリーゼに与えられていた部屋の、四倍もの広さを誇っている。
その部屋には、この後宮の主が我がもの顔で居座っていて、エリーゼが部屋に入った瞬間、食いつかんばかりに迫ってきた。
「タイターリス・ヘデンって呼んでくれ!」
古代星語で『反逆の狼煙』という意味を持つ言葉、タイターリス・ヘデン。その名を精霊に与えられた彼の本当の名はハーカラントだ。ここアールジス王国の第一王子である彼は、妃候補のエリーゼにとっては、もしかしたら未来の夫となるかもしれない青年だった。
精緻な刺繍が施された絹のチュニックを着て、銀糸のサッシュベルトを締めている。腰に帯びた短剣の柄は金でできていて、ルビーやサファイアであろう宝石が象嵌されていた。そんな贅をこらした衣装をなんなく着こなしているタイターリスは、冒険者の服装をしている時とは随分印象が違う。
せいぜい彼の気を引けというエイブリーの言葉を思い出して微妙な気分になりながら、エリーゼは適当に言った。
「……たいたーりすへでん」
「違うだろ!」
タイターリスはエリーゼの肩を掴んでガクガク揺さぶった。
「もっとこう、なんかすごかっただろ! あの時はっ」
「あー、はいはい。わかったから揺さぶるのやめてよね」
十九歳の彼はエリーゼより四つも年上だが、色々あって彼に対する敬意というものを、エリーゼは持っていなかった。それどころか、親しさゆえの悪ふざけで『殿下』と口にしかけたが、流石にやめておいた。タイターリスは、いかにも切羽詰まった様子だったからだ。
「反逆の狼煙」
「なんか……違わないか?」
「そりゃ、古代語だからね」
「なんで古代魔語で言わないんだ?」
不満そうな顔で首を傾げ、タイターリスは思いついたように顎に指をかけた。
「いつでもどこでも話せるってわけじゃない、ってことか?」
「そうじゃないけど」
言葉を濁し、エリーゼは部屋の中を見回した。
「……広すぎて落ちつかないなぁ」
「落ちつかないから古代魔語が話せないのか!? じゃあ部屋を替えよう、俺からレーンに言ってやる!」
「やめてタイターリス。落ちついて」
「エリーゼちゃん!」
レーンとは誰だろうと思いながら、エリーゼはタイターリスを宥めようとした。だが彼の勢いに負けて、渋々古代星語を口にする。
〈反逆の狼煙〉
「……それも、なんか違くないか?」
「もうこれで許してよ! あのね、ルト語? って言うんだっけ。あれね、精霊の耳元で、わーって大きい声で叫ぶような感じの言葉なの。だからあんまり言いたくないんだよ。言えないことはないけど、気軽に口にするのは憚られるの」
「今のは古代星語か?」
「そうだよ。これじゃだめ?」
「いや、古代星語でも効いてる気がする」
「きいてるって、何?」
「俺の呪いに、効いてる気がする」
そう言いながら、タイターリスは自分の胸に手を置いた。表情を消して虚空を見つめる彼は、ちゃんと王子に見える。貴族らしくない、がっしりとした顎を持ち、肩幅も広いが、この豪華な後宮の一室にあって違和感がない。
タイターリスはベルベットが張られた長椅子の上に、無造作に腰を下ろした。
こめかみの白い傷跡だけが、部屋の雰囲気にそぐわない。その傷跡を指でなぞりながら、タイターリスは再び口を開いた。
「……精霊の呪いから完全に逃れるには、まだ足りない」
彼が不意に持ち上げた手には、カードが握られていた。その情報を展開すると、彼はカードをエリーゼに放って寄こす。
タイターリスが精霊神アスピルから与えられた恩恵、【人助け】が表示されている。一見善行を表すように見えるこの恩恵が、彼を苦しめてきた。彼が助けようと思うのは人間だけ。しかしこの世界には、人間以外にも様々な種族が存在している。
タイターリスは【人助け】の効果により、人間以外の種族に尋常ではない殺意を抱いてしまうのだ。
だから彼はこの恩恵を精霊の呪いと呼び、解除するための手掛かりを探していた。その手掛かりが、アスピルではない他の精霊から与えられた、タイターリス・ヘデンという名前だった。
エリーゼの働きにより、この名前が『反逆の狼煙』という意味を持つことを、タイターリスは知ることができた。しかしそれを知っただけでは、【人助け】という文字は消えることも薄くなることもなく、今も恩恵の欄に表示されている。
「こんな恩恵頼んでねーよ、って言いたいとこだけど、俺の場合は精霊にお願いした結果だからなあ」
タイターリスは苦笑して、こめかみの傷跡を引っ掻いた。
「自業自得なんだよな。だけど俺はもう、耐えられない」
「まあ、頑張って。ほどほどになら、私も協力してあげるよ」
「ばっか、エリーゼちゃん。ほどほどどころか、全力で協力してもらうに決まってんだろ?」
タイターリスの言葉に、エリーゼは心底驚いた。
「バカはタイターリスでしょ!? なんで勝手に決めてるの!?」
「エリーゼちゃん、俺が誰だか覚えてるか?」
タイターリスはエリーゼの言葉に少しも動じることなく、へらへらと笑った。
エリーゼは顔を顰める。彼がこの国の王子であり、自分はしがない下級貴族の次女でしかないことを、思い出したからだ。
「ギルドカードの職業欄を見てみな」
目を細めて言うタイターリス。エリーゼは自分のカードを見て、溜息を吐いた。
「……エディリンスじゃなくなってる」
「だろ?」
ぶっすりとしたエリーゼを見て、タイターリスは楽しげに笑った。
「エリーゼちゃんをできるだけ高い地位に上げるように、レーンに言っといたんだよ。エリーゼちゃんちの家格はあんまり高くないけど、父親のアラルド卿は一応爵位持ちだし、兄貴は勇者だから、なんとかなると思ったんだよな。なんて書いてある?」
「サフィリディア」
「おお! 俺の正妃候補じゃん! 階位で言うと上から三番目だぜ」
「わかってるから言わないで」
「なんで嫌そうなんだよ。後宮での権力を保証する高い地位だぞ。俺の呪いを解く手掛かりを示してくれたエリーゼちゃんへの、ご褒美でもあるんだけどな」
傷ついた顔をしてみせるタイターリスに眉を顰めて、エリーゼはソファに腰を下ろす。そして頬杖をつき、一頻り呻いてから、再び口を開いた。
「陰謀渦巻く後宮で、王子様の有力なお妃さま候補になっただなんて、考えるだけで胃が痛い。もし暗殺されそうになったりしたら、他のお妃さま候補に対して何をするかわかんないよ、私は」
「やめとけよ。他の有力候補はこの国の重鎮の縁者ばっかりだから、俺でも庇いきれるかわからないぞ?」
「……迷宮に閉じこもりたい」
「その気持ちはわからなくもないけどな」
タイターリスは乾いた笑いを零した。
「迷宮に潜ってれば、何の罪もない獣人の少女を殺さずに済むだろうからって――俺もこもってたことがあるよ」
「じゃあ、今からでも撤回してよ。ご褒美をくれるっていうなら、他のものが欲しい」
睨みつけるエリーゼの強い視線を受けとめて、タイターリスは目を細めた。
「悪いけど、俺はエリーゼちゃんを手放す気はないよ。たとえ正妃にできなくても、ずっと後宮にいてもらう。サフィリディアってのは、そのための地位だ」
微妙な顔をするエリーゼを見て、タイターリスはへらりと笑った。
「元々この後宮は、俺の精霊の呪いを解くのに役立ちそうな人間を囲い込むために作ったんだ。エリーゼちゃん以外の有力候補は普通に貴族から選ばれた子たちだけど、他の女の子たちは違う。精霊魔法の使い手を輩出した家の娘だったり、精霊に関する伝説が残る村の娘だったりを、国中から身分を問わずにかき集めたんだ。藁にもすがる思いでな。どんなにちっぽけな手掛かりでもいいから見つけるために」
「なんかタイターリスがものすごくひどい人に見える。その中に、婚約者がいる子とかはいなかったの?」
「あー、いたっぽいな」
「最低だね」
エリーゼの手厳しい言葉にも、タイターリスは平然と肩を竦めるだけだった。
「別に後宮の出入りは禁じてないだろ? 恋人と会おうと思えば会えるんだし、万が一恋人と会ってる場面を押さえても、罰を与えないようにレーンには言ってある。そんなにひどいことじゃないはずだ」
「だけど、異性と触れ合えないんでしょ? この国の守護精霊だかのせいで。極悪非道もいいところだよ」
「そう罵られるのは覚悟の上だよ」
うっすらと笑うタイターリスの目が、鋭く光った。
「どんなことをしてでも、俺はこの呪いを解くと決めた。そのためなら、なんだってやってやる。国中の女の子を後宮に集めて閉じこめることぐらい、なんでもない」
「……気持ちは、わかるよ」
呟くように言うと、エリーゼは目を伏せた。
そしてギルドカードを手で弄びながら、情報を展開する。タイターリスには見えないように念じたため、エリーゼだけに見えるその内容を確かめた。
名前……エリーゼ・アラルド・ハイワーズ
性別……女
年齢……15歳
職業……冒険者 サフィリディア
種族……人間
所持金……白銀貨29枚 銀貨35枚 銅貨21枚
恩恵……【気配察知】C 【逃げ足】D 【警告】B 【美貌に弱い】【胃弱】【勇者の妹】
加護……松???の霊魂
▼精霊クエスト
視線はまず所持金に向かう。大金すぎてまた眩暈がした。次に、新しく増えた恩恵を見る。【勇者の妹】というのがどんな恩恵なのか、よくわからない。そして最後に、加護のところを見た。
四つあったハテナマークが一つだけ開かれ、読めるようになっている。
(にほんご……だ)
久しぶりに見るその文字に感動したのは、一週間前のことだ。エリーゼはあらゆる文字を生まれつき読み解くことができたが、前の世界の文字は忘れかけていたらしい。明らかにされた『松』という文字を見た時、しばらくは文字ではなく絵にしか見えなかった。
「……わかるよ、タイターリス。少しでも可能性があるのなら、あらゆる手段を尽くしたいし、そうせずにはいられないよね」
霊魂という文字を注視しながら、エリーゼは喉にこみ上げる苦いものを呑み下した。
(松???っていうのは、きっと前世の私の名前で――)
魂のどこかで覚えている名前。
(霊魂、か)
あの少女が死んだことを、エリーゼは疑っていないつもりだった。前世の彼女が死んだから今のエリーゼがある。そう当たり前に考えていたはずなのに、その事実を突きつけられると、もう決して戻れないのだと言われているようで、目の前が暗くなる。
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