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3巻
3-1
しおりを挟む第一章 魔宮の者
ハイワーズ準男爵家の次男ステファンが勇者に選ばれたという朗報は、あっという間に国中に広がった。勇者はこの世界から魔物を減らすため、己の力を試すため、あるいは強くなるために、迷宮探索をするはずだと人々は考えた。
この国――アールジス王国には三つの迷宮がある。王都アーハザンタスにある王都迷宮、迷宮都市ヴェンナのヴェンナ迷宮、そして港湾都市ヘリエステルの近郊にある海岸迷宮。それらの周辺の街は、勇者の訪れを期待して、いつもより賑わっている。
王の祖先が人々を引き連れ、魔物が跋扈する土地を平らげて国を興した――その史実から、アールジス王国では武が尊ばれている。そんな国で生まれた勇者ともなれば、きっと強靭な肉体と精神を持つ青年なのだろうと、誰もが想像した。
しかし勇者に選ばれたステファンは今、アーハザンタスにある自宅の玄関ホールで妹に笑われていた。
「ひゃはははははははは!」
「エリーゼぇええ!」
ステファンは羞恥のあまり頬を染めて叫びながら、笑い転げる妹のエリーゼに近づいた。
何があったのかといえば――
騎士である長男のエイブリーが、勇者となった弟ステファンに剣の稽古をつけていたのだ。
これまで剣など握ったこともないステファンの稽古ぶりは無様なもので、彼が振り被った模擬刀は手からすっぽ抜けた。そして階段の手すりに当たって跳ね返り、ステファンの額に直撃したのだ。
その様を目撃したエリーゼは、文字通り笑い転げた。
ステファンは顔を真っ赤にしたまま、彼女に向かって拳を振り上げる。
エリーゼは笑いながら逃げようとしたが、両足にしがみつく幼女の姿をした精霊たちのせいで、動けない。ステファンはそれを見て、ぴたりと動きを止めた。
「どうしたの? ステファン」
赤髪の幼女がきょとんとする。その相貌はエリーゼのそれと酷似していた。
もう一人、黒髪の幼女もまた、幼い頃のエリーゼにそっくりだ。
「殴らないの? ステファン」
「……お前たち」
がっくりと肩を落としたステファンを見て、二人はエリーゼの足を放した。そしてステファンの周りをくるくる回って、彼の顔を心配そうに覗き込む。勇者のために生まれた精霊たちに気遣われ、ステファンは苦笑を浮かべた。
「お前たちは、僕が妹のバカげた行動にいちいちカッとなるのを、やめさせようとしてくれてるんだよな?」
「え? えっと」
小首を傾げる幼女たちにもわかるように、ステファンは噛みくだいて言い直す。
「僕の方がエリーゼより身体がでかくて力も強いのに、お前たちに押さえつけさせて殴るなんて、卑怯だもんな。だから敢えてひどいことをしてみせて、僕を正気づかせてくれたんだろう?」
「あ、うん……そうなのかな?」
「そう、なんじゃない? ……そうなの?」
二人の精霊――アカとクロは、お互いに顔を見合わせて首を捻る。
「ありがとうな」
ステファンはそんな二人の頭を、ぐりぐりと撫でた。ぱっと花が咲くように笑う幼女たちを見て顔を綻ばせると、ステファンは今度はエリーゼを見た。精霊たちに似たその顔をじっと眺めてから、深い溜息を吐く。
「……顔だけはそっくりなのにな」
「なんでだろう。殴られるより傷つく」
エリーゼが素直で可愛らしい妹でいられなかったのは、彼女をこれまでずっと虐げてきたステファンにも責任があるだろうに。エリーゼはそう思ったが、ステファンは彼女を指差して、精霊たちにいけしゃあしゃあとこんなことを言う。
「お前たちは、まっすぐに育てよ。あれみたいになるな。卑怯な真似やひどいことをすると、ああなるぞ」
それを聞いて、エリーゼは憤慨する。
「私をダシにして精霊を教育するの、やめてくれない!?」
「おい、ステファン」
黙って見ていたエイブリーがうんざりした様子で、エリーゼたちの会話に割って入った。
「元々、俺は初心者の指導に向いていないんだ。お前は俺の訓練を受ける段階に達していない。まずは憲兵隊が催している素人向けの訓練や、個人が営んでいる道場で学んだ方がいい。今のままでは騎士学校に入学することすらできないぞ。剣の握り方から教えてもらえ」
「……僕が勇者だってみんな知ってるのに、素人向けの訓練を受けろって?」
「ステファンはダンスの方も、ステップから学び直した方がいいんじゃないのー?」
エリーゼが茶々を入れると、ステファンの顔が再び赤く染まった。
大聖堂での戦いで傷ついたエリーゼは最近になって、やっと完全に回復した。本来ならエリーゼが回復した後、国王がハイワーズ家の全員を呼んでパーティーを開いてくれるはずだったのだ。けれど、とある伯爵令夫人が国王に話を通して、エリーゼの回復を待たずにステファン個人をパーティーに招待する権利を得た。国王が許可したとなれば断ることもできず、ステファンは渋々招待に応じたのだった。
「ご婦人の足を踏みすぎて、王様のパーティーが無期延期になったんでしょ?」
エリーゼは馬鹿にしたように言ったが、ステファンは挑発に乗らなかった。
「勇者になれなかったバカの戯言……」
その言葉を聞いて、エリーゼはうっと詰まった。
エリーゼは前世で、日本の女子高生だった。だが何者かに殺されて、異世界に転生したのだ。
魔法や魔物が実在するこの世界に生まれ変わったということは、勇者に選ばれ活躍する運命にあるのでは?
つい先日までそんな夢を抱いていたエリーゼの胸に、ステファンの言葉が突き刺さる。先代の勇者である母アイリスの後継者に選ばれたのは、エリーゼではなく彼だった。
エリーゼは生まれつきこの世界の言語を理解し、読み書きもできる。魔法を使うために必要な古代語、古代星語、古代魔語も操ることができるのだ。
それにエリーゼは、いくつかの恩恵を持っていた。恩恵とは、精霊から稀に授けられる特殊能力のことだ。しかし、この恩恵が持ち主の人生に悪影響を及ぼすこともあり、そういった恩恵は精霊の呪いと呼ばれ忌み嫌われる。エリーゼの持つ【胃弱】や【美貌に弱い】という恩恵も精霊の呪いの一種であり、エリーゼはこれを解除する方法を探して、時おり迷宮を探索していた。
魔法を使う力も精霊によって封じられていたが、精霊に頼んで使えるようにしてもらった。けれど、偉大な運命はステファンのもので、エリーゼは今もただの一冒険者にすぎない。そしてハーカラント王子の妃候補という、望まぬ立場を強いられてもいた。
だが彼女は無理やり気を取り直した。兄をぎゃふんと言わせる手段は、まだ残っている。
「お、王様のパーティーには、外国の大使とかも呼ぶ予定だったみたいだもんねー。自国の貴族で勇者でもあるステファンがダンスもまともにできないんじゃ、あまりにもかっこ悪いもんねー」
「……勇者になれなかったバカの僻み」
「くっ。……そういえば療養中暇だったから、ステファンの下着に刺繍をしておいたよ」
「は? どんな刺繍だよ」
「『幼女大好き』って」
「――エリーゼぇえええッ!!」
ステファンが絶叫した。ただの幼女にしか見えない精霊を連れ回す彼にとっては、笑えない冗談だろう。高笑いしながら逃げ出したエリーゼを、額に青筋を浮かべたステファンが追う。精霊たちもその後について走り、玄関ホールから消えた。
それを見送ったエイブリーは深い溜息を吐き、剣を左手から右手に持ち替えた。そして軽く素振りしてから、右腕に巻かれていた包帯を取り外す。
右腕の尺骨に沿うように、赤い傷跡がうっすらと残っている。悪霊に取り憑かれたステファンにつけられた傷だ。
「精霊魔法で癒されてもなお、こうして痕が残るほどの傷を俺に負わせたんだ。どうにかすれば、あいつは魔法剣の使い手として、かなりいい線まで行くんだろうが――」
遠くからステファンの怒声とエリーゼの笑い声が聞こえ、エイブリーは眉を顰めた。
「あれでどうして人間の代表として選ばれ、魔王を殺す器たりえるのか。まるでわからん」
階段の手すりにかけておいた上着を取り上げ、エイブリーは中央階段を上った。二階の左端に位置する自室の扉を開く。母アイリスの独断専行によって無理やり替えられたカーテンの赤色が目に痛い。エイブリーは目を瞬かせて、そこから視線を逸らした。
カーテンの花柄の模様はベージュの壁紙と調和しているし、部屋の雰囲気自体は趣味のよい明るいものになっている。だが、ここが今年二十四歳になる長男の部屋であることを、アイリスはすっかり忘れているらしい。
しかしエイブリーは、異を唱えはしない。母の考えは父アラルドの考えに等しいからだ。父に逆らう気など、全く起きなかった。エイブリーは半魔族であるせいか、人間なら普通経験するはずの、反抗期というものにも覚えがない。
彼は軍靴を探して部屋の中をうろつき、ベッドの下からそれを引っぱり出すと、ベッドにどかりと腰を降ろした。
「アーハザンタス憲兵隊の編成は予想通り滞っているようだし、ミーティ騎士団の補充の件もどうなったのか……それに第三近衛騎士隊副隊長の処分は――」
仕事のことを考えながら軍靴を履き、鎧を身につけ終えると、エイブリーは溜息を吐き、視線を宙に彷徨わせた。
やがて執務机の上から書類の束を取り上げ、紐で括ってから、袋の中に放り込む。そして兜を脇に抱え、その中に袋を詰め込んで、エイブリーは扉を押し開けた。
玄関ホールに戻ると、屋敷に残っている僅か二人の使用人のうちの一人が、掃除用具を片付けていた。
そのひっつめ髪の老メイドは、きびきびした動作で頭を下げる。父アラルドに辞めさせられた使用人たちは皆、カロリーナやエイブリーの美貌に魅了されてハイワーズ家にやってきたが、このメイドは違った。前の屋敷で女主人の采配に口を出しすぎたことで嫌われ、働き口を探していた時、この屋敷を偶然見つけたという。
彼女が雇われたのはエイブリーが生まれる前のことなので、その経緯を詳しくは知らないが、ハイワーズ家で最も古参の使用人だった。以前の屋敷での経験を踏まえてか、ハイワーズ家の人々がどんなに異常な振る舞いをしても、口出しすることはない。
そんな老メイドに、エイブリーは静かな声で命じる。
「母上に伝えろ。物を買うなとは言わないが、せめて買ったものの明細書だけはとっておいてくれと。俺がこんなことを言ったら、父上がお怒りになるかもしれない。だが母上が欲しい物を買うのに必要な金銭を工面するためだと言えば、父上もご理解くださるだろう。それと、母上がこれまでに接触した商人の名前をリストにしてくれ。これから先、母上も外へ出ることが多くなるだろうから、ドレスを新調する必要がある。ドレスメーカーを呼んで、母上の採寸をさせろ。ついでにカロリーナ姉上とエリーゼのもな。母上のドレスについては、母上の希望を最大限叶える形にするんだ。その代わり、姉上とエリーゼのドレスはツーシーズンは流行遅れでもよいから、安く上げるように」
「差し出がましいことかと存じますが」
「なんだ?」
「お早く、執事を雇い入れるべきではないかと」
それだけ言うと、老メイドは一礼して足音も立てずに後ずさりし、エイブリーの視界から消えた。皺の寄った眉間を揉みほぐしながら、エイブリーは呟く。
「確かにこんなことは執事がやるべきで、俺の仕事ではないだろう。だが貧しい貴族の家では、長男が家のことを取りしきるのが普通だというし――」
「うちって貧乏なの?」
考え込んでいたエイブリーの背後から、エリーゼが現れた。どうやらステファンを撒いて、ここに戻ってきたらしい。エリーゼは玄関ホールをきょろきょろ見回し、首を傾げた。
「お兄様、誰としゃべってたの? それとも独り言? 頭大丈夫?」
その言葉について、エイブリーは考察する。これは額面通りに受け取るべきかと。エリーゼのこれまでの行状に照らし合わせて考えるに、心配されているわけではないだろう。恐らくバカにしているのだ。そう結論づけると、エイブリーはエリーゼに掌を向けて、静かに威嚇した。
「どうやらステファンから逃げおおせたようだが、お前をとっ捕まえて、あいつに引き渡してやってもいいんだぞ?」
「ごめんなさい」
エリーゼは素早く謝った。やはりエイブリーをバカにしていたらしい。だからといって、別に怒りは湧いてこない。だからそのまま玄関を出たのだが、エリーゼが後ろからついてきたので、エイブリーは眉根を寄せた。
「リールに外出を許可されたのか?」
「なんでリールに断らなきゃなんないの。一応手紙を書いて、リールの部屋に置いてきたけど」
エリーゼは気楽な調子で言ったが、エイブリーにはそれでいいとは思えなかった。彼は怒りとも困惑ともつかない奇妙な感情を覚えて、顔を顰める。
「またリールがうるさくなるから、やめておけ」
「春追い祭りにも参加できなかったし、もうこれ以上、引きこもってるのは耐えられない!」
春追い祭りとは、毎年この季節に開かれる祭りだ。勇者誕生のこともあり、今年は例年より多種多様な祝い酒が振る舞われたと聞く。幻想魔法が夜空に輝き、平民が焚く篝火で、地上も明るく照らされた。兎を焼く火の周りで、人々は夜を徹して踊ったらしい。羨ましそうに言うエリーゼも、もし参加していたら止められるまで飽きずに踊り続けていただろう。
エイブリーの同僚の騎士たちの中にも、祭りの騒ぎに羨望の眼差しを向けていた者がたくさんいた。彼らは仕事があったため、参加できなかったのだ。エイブリーには、どうして参加したいのか全くわからなかったが。
「手間をかけさせるな。俺は忙しいんだ。お前が外出したと知って荒れるリールを、宥めている暇はない」
玄関から一緒に出てきてしまったエリーゼに、エイブリーは言外に戻れと命じた。
しかし彼女は最後の手段とばかりに、懐から紙の束を取り出した。それを無感動に見つめるエイブリーに、エリーゼは端的に言う。
「王子様からの呼び出しの手紙」
エリーゼが手にしている手紙は、一通や二通ではなかった。エイブリーは目を瞠る。
「まさか呼び出しがあったにもかかわらず、応じなかったのか? 臥せっていた時ならばともかく、床から出てずいぶん経つだろう」
「だって、リールがまだ出るなって――」
「バカめ! 相手は殿下なのだぞ。ついさっきも屋敷を走り回っていたくせに! 庭でも阿呆のように転げ回っていたから、塀の外にいるやつらに覗かれていたかもしれないぞ。殿下への詫び状は俺が用意しておくから、さっさと支度しろ」
「そんなのいらないよ。だって、タイターリスだよ?」
「気安く名を呼べる仲だから、軽んじていいとでも言うつもりか? 将来の国王陛下を? そうでなくとも、お前の夫になるかもしれないお方だぞ」
エリーゼは酢を呑んだような顔をした。だが、すぐに気を取り直して言う。
「迷宮で寝食を共にしたパーティの一員だから、気心は知れてるってことだよ。……まあ、だからこそ元気になったことを知らせたいんだよね。心配してくれてるみたいだから」
「手紙には回復したら、後宮に顔を見せに来いとでも?」
「そんな感じ。というわけで、後宮に連れて行ってください」
「ああ。一人での外出を控えるだけの分別はあるんだな」
「……リールの毒舌って、お兄様のせいだと思う」
膨れるエリーゼを軽くあしらうと、エイブリーは素早い足どりで、屋敷の南側に回り込んだ。エリーゼはその後を、小走りでついてくる。
周囲には、厩舎や鶏小屋がまばらに建っていた。鶏小屋の周りにめぐらされた柵の中で、雌鶏が呑気に鳴いている。エリーゼは時おりここから鶏の卵を失敬しているようだった。
「今は誰がお世話してるの?」
「幸運にも、今回の騒動で屋敷を去らなかった使用人のうちの一人が厩番だ。今は家畜の世話だけでなく、庭の簡単な手入れも任せている。あれは馬に乗れない人間を軽蔑しているから、お前など視界にも入れないだろうな。その点、母上はブランクがあるとはいえ、乗馬の腕前はかなりのものだ。あいつはそれを見抜いて愛想良くしている」
「へー」
「お前もあいつに乗馬を習ったらどうだ? 教えは厳しいが、素直に学べば上達する。ステファンにもそのうち仕込む必要があるだろうな」
「……私はいいや。迷宮に入るのに馬は使えないし」
エリーゼの言葉に目を丸くして、エイブリーが口を開こうとした時、厩舎の扉が内側から開かれた。中から出てきたのは、青い目を爛々と光らせる中肉中背の男性だ。歳の頃は三十代半ばに見える。
どこか目の焦点が合っていないものの、仕事はきびきびとこなしていた。エイブリーが咳払いをすると、潤んだ目でうっとりと馬を眺めていた男は、素早く鞍を取りつけた。
現在、ハイワーズ家の使用人はあの老メイドとこの男しかいない。こうした変わり者だからこそ、残っているのだろう。
エイブリーは鞍に近付き、紐の結び目を簡単に確認すると、無言でエリーゼを抱き上げ馬に乗せた。
「高い! 怖い!」
「静かにしていろ」
そう言って自分も馬に乗り、背中にしがみつくエリーゼを気にすることなく拍車をかけた。
「前に進むなら進むって言ってよ!」
「途中で王立学問所に寄るぞ」
エリーゼの言葉を無視して、エイブリーは行き先を告げた。するとエリーゼはエイブリーにしがみついたまま首を傾げる。
「本でも借りるの? 本ならお父様がいっぱい持ってるのに」
「許可を得て書棚の本棚を拝見したが、俺が探している類の本はなかった」
「どんな本を探してるの?」
「魔族の生態について書かれた本だ」
父アラルドは魔族だ。母アイリスは人間だが、長女カロリーナも完全な魔族である。親に限らず先祖に魔族がいれば、魔族か半魔族として生まれることがあるという。
エイブリーは半魔族で、まだ種族が判明していないリールも、魔族か半魔族である可能性が高かった。しかし、自分がそうだからといって、魔族とはこういうものだと生まれつき理解できているわけではない。それは人間だって同じだろう。
やがて門扉の傍まで来ると、エイブリーは馬を降りる。錠の下りていない門扉の前には人だかりができていて、そこから黄色い声があがった。
エイブリーが門扉を開けて馬を引き出した途端、黄色い声に不満げな声が交じる。馬上にいるエリーゼを、エイブリーの恋人だとでも思ったのだろう。エリーゼは女性たちの嫉妬の視線に戸惑い、ひときわ強い視線を向けてくる女性に愛想笑いをしてみせた。
「……妹でーす」
それを聞いて、女性たちはエリーゼとエイブリーの髪色が似ていることを確かめると、息を吹き返したように再び黄色い声をあげた。
エイブリーは強い語気で、けれど丁寧な口調で声を張り上げる。
「道を開けてくれ。急いでいる」
すると物見の群衆はすぐさま、馬車でも通れそうなほど道を広く開けた。だが足どりのおぼつかない老人が一人、素早い行動をとり損ねた。それを見たエイブリーは老人に手を貸し、道の脇へ連れて行く。
その様を見て気持ちが昂ぶったのか、エイブリーと同じ年頃の女性が馬の前に躍り出たが、彼はそちらには見向きもしない。そして馬にひらりと飛び乗ると、女性を轢きそうな勢いで駆け出した。
「……ひっどいなー」
エリーゼの呟きを聞いて、エイブリーが馬の足を緩めた。市街をゆっくりと移動する馬の上で、彼は興味深げにエリーゼに問う。
「道を妨げた女に対する、俺の行動について言っているんだな? 同じようなことを、同僚たちにもよく言われるのだが」
「いつもあんなことしてるの?」
「いけないか?」
不可思議だと言わんばかりに、エイブリーは眉根を寄せる。
「ご老人はともかく、あの女は健脚だろうに、わざと道を塞ごうとしたんだぞ。悪意があるとしか思えん。同僚たちは、そういう行動に出る女はむしろ俺に好意があると言うのだが、何度説明されても理解できん」
首を傾げるエイブリーを見て呆気にとられた後、エリーゼは苦笑した。
「種族的な感性の違いなのかな。それとも、エイブリーお兄様だけが変なのかな。そういうことを調べるために本が欲しいの?」
「それもある」
エリーゼはからかい気味に言ったのだが、エイブリーはあっさり認めた。
二人は王の道と呼ばれるメインストリートを王宮のある北方面へ進み、やがて西へ折れた。串焼き肉の屋台から漂ってくる甘辛いタレの匂いに気を取られ、首を巡らしていたエリーゼに、エイブリーは独り言のように打ち明ける。
「本来、魔族は群れを作らないものだと騎士学校で学んだことがある。しかし、ハイワーズ家は父上のもと統率されている。群れを作るのは、魔王を頂点に据える場合のみだと聞いていたが――」
声は小さかったが、際どい話題だったので、エリーゼは馬上から周囲に視線を走らせた。
「……お父様が魔王? まさか」
周囲を警戒しつつ、エリーゼはそう返した。勇者の父親が魔王だなんて、物語としては面白いが、現実なら洒落にならない。
「いや『赤の勇者の物語』から推察するに、父上は〝灰色の黒〟――つまり魔王を裏切った魔族だろう。だがハイワーズ家に赤の勇者である母上と、その跡を継ぐステファンがいる以上、魔族を敵に回すのは必至だ。現状を正しく理解し、対策を練らねばならない」
『赤の勇者の物語』は実話をもとにして作られたおとぎ話だ。それには灰色の黒と呼ばれる、魔王を裏切った魔族が登場する。
「敵を知り、えーと、自分を知れば、百戦しても危なくない? っていうことだね」
「お前でも、たまには素晴らしい言葉を口にするものなんだな。どこの偉人の言葉だ?」
「……私が考えたんじゃないって、ソッコーでバレた」
「やはりそうか。だいたい人間性というものは、早々変わらないものだ。若い時分には急激に変化することも珍しくはないそうだし、お前が短期間で成長するのもあり得ないことではないのだろうが、成長したところで本質が変わるわけではないからな」
「よくわからないけど、バカにされてる?」
「バカにしてなどいないぞ」
エイブリーは驚いたような顔でエリーゼを振り返った。そして目を瞬かせてから、苦い表情を浮かべて正面に向き直る。
「……確かに、敬意を抱いているわけではない。尊重しようとも思っていないな。以前は恐らく『バカにしている』という表現に見合う認識をお前に持っていたが、今はバカにしているつもりはない。しかしこうして事実を口にしているだけで、似たようなことをよく言われるし、そのせいで問題が起きることもある。騎士団の規律を乱してはまずいから、俺が態度を改善すべきか」
「えっと、本気で悩んでるの?」
「これは悩んでいるというべきか?」
そんなことを聞かれても答えられるはずもなく、エリーゼは口を噤んだ。そんな彼に構わず、エイブリーは馬の足を速める。
「人間ならばできて当然のことができないのなら改善しなくてはならないと、常々考えている。思うことがあってもなるべく口にしないようにしているが、それでは根本的な解決にはならない。人間の思惟を忖度できるようになるべきなのだろう」
「人間にも空気が読めない人ってそれなりにいると思うよ、お兄様」
エリーゼが精一杯発した言葉の意味は、馬が足を速めたせいで揺れがひどいものの、正確にエイブリーに伝わったらしい。
「……そのような言い草を『バカにする』と言うのだと、流石の俺にもわかるぞ。馬から振り落とされたいのか?」
「ごめんなさい」
「そうか。人間たちの間では罪悪感の有無にかかわらず、すぐに謝れば一応の収まりはつくのか」
背に強くしがみつくエリーゼを放置して、エイブリーは思考の海に沈んだ。
しばらく行くと、精霊神教会のある広場に着いた。王立学問所はこの広場の、ちょうど精霊神教会とは正反対に位置している。
エリーゼは精霊神教会の白い壁を見た。アスピルという精霊を神と崇めるこの宗教団体は、人間以外の種族を悪魔と見なして弾圧している。人間以外の家族を持つエリーゼとは、相容れない思想だ。
あの建物の中に、先日エリーゼたちを死の間際まで追いつめ、苦しめた聖女シルフローネはいない。彼女は精霊神教会の上位機関に連れて行かれたと聞いた。勇者を殺そうとした罪で罰せられるそうだ。彼女に殺されかけたエリーゼとしては、できれば厳罰に処して欲しいと願うばかりだった。
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その門柱には、二本の旗が立てられている。
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