精霊地界物語

山梨ネコ

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2巻

2-2

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「ん? 何かしら?」
「どうして私がいたから、ステファンお兄様が言葉を覚えられたの?」
「ああ、そのこと」

 カロリーナは何でもなさそうに言う。

「ステファンは、あなたがリールに絵本を読んであげているのを聞いて、言葉を覚えたらしいのよ。涙ぐましい努力よね。そして四歳下の妹が自分よりも流暢りゅうちょうに読んだり話したりしているのを見て、わたしやお父様に言葉を教わったのだと思ったみたい。きっと死にたいほどの屈辱だったでしょうね。だからあの子はあなたが嫌いなの。今でも殺したいほどうらんでる。一方的にね」

 カロリーナは、口角を吊り上げた。

「本当に、可愛らしいくらい滑稽こっけいよねえ!」

 少女のように甲高い笑い声をあげたカロリーナを見て、エリーゼは身を震わせた。

「お姉さま」

 エリーゼが呼びかけると、カロリーナはぴたりと笑いを止めて首をかしげる。未だ笑いの名残なごりがあるカロリーナの目尻を見すえながら、エリーゼは吐き捨てた。

「あなたは悪魔だ」
「あらあ」

 カロリーナは楽しそうに唇をめた。

「今ごろ気づいたの? そうよ。わたしは魔族なの」

 湿った赤い唇が、艶々つやつやと輝く。それを見て、姉の言葉は真実なのだろうとエリーゼは直感する。
 そして顔をゆがめ、がたりと音を立てて席を立った。

「どこへ行く気だ? エリーゼ」

 エイブリーが鋭い声で問う。

「ステファンお兄様を迎えに行きます。心配だとか、可哀想だとか、そういう感情がないようでいらっしゃるお兄様たちの代わりにね!」

 エリーゼは乱暴に扉を開けて部屋を出た。だが数歩も歩かないうちに、エイブリーに肩をつかまれ止められる。

「放して!」
「何を考えている?」
「何って――」
「今までお前は、何にも関心を持っていないように見えた。何もせず、何も求めない。ただの木偶でくかと思っていたが、あれは演技だったようだな。お前の目的は、一体何だ」
「……演技? お兄様が何を言っているのか、わからない」

 目をみはるエリーゼを、エイブリーは問い詰める。

「ステファンにおびえていたはずだ。そして俺にも。いつもおどおどして目を合わせず、俺たちに出くわせばすぐに逃げていた。それなのに、今こうして俺と視線を合わせている。つまり、これまでの態度は演技だったのだろう。お前は何をたくらんでいる? したっていたはずの姉上に、どうして反抗的な態度をとる? あれだけ険悪な仲だったステファンと会って、どうするのだ? まさか、お前までハイワーズ家に敵対するつもりじゃないだろうな」
「……何、その毒電波」
「どくで……?」
「寒気がする。なんでお兄様がそんなふうに考えるのか、私には全然わからない」

 エイブリーはひるんだようにエリーゼの肩から手を離した。
 強く掴まれていたためにしびれた肩を手でかばいながら、エリーゼは首を横に振る。

「さっきのお姉さまの話を聞いて、お姉さまを好きでいられるわけがないじゃない。それにステファンお兄様が受けた仕打ちを知ったら、同情するのは当たり前でしょう? ……なんで私、今まで気づかなかったんだろう」

 エリーゼは顔を歪めて、震える手で頭を押さえた。

「……ありえないくらい、私の目には何も映ってなかった。お姉さまがあんなに残酷なことを言える人だなんて、知らなかった。ステファンお兄様が十歳になるまでしゃべれないくらい放置されてたことにも、気づかなかった」

 ショックのあまり吐き気を覚えて、エリーゼは喉元のどもとに手をやった。
 思い返してみれば、ステファンと会話する時はいつも、ステファンの方から話しかけてきた。ある時は見下し、ある時はさげすみ、ある時は怒りをぶつけてきた。だがエリーゼはその全てを、ないものとして扱ってきたのだ。いずれは元の世界に帰るのだと、なんとなく考えていたから。

「私がステファンお兄様を、わざと無視していたとでも思っているんですか? 本当に、気づいていなかったんですよ。私はお兄様が言ったように、全てのものから目をらして生きてきたから」
「どうして目を逸らしていた? そして、どうして目を逸らすのをやめた? お前が何を目的としてそんなことをしているのか、正直に話せ」
「目的なんてない。ただ、知らず知らずのうちに自分が変わっていくんですよ」
「自分の意思ではないとでも言うのか? 何かにあやつられているのではないか? どうしてそんな恐ろしいことが起きる」

 怪訝けげんそうなエイブリーを見て、エリーゼは少し笑う。

「お兄様は、そういう思いをしたことがないんでしょうね。でも……」

 エリーゼはエイブリーの顔をまじまじと見た。エリーゼよりも少し深い小豆あずきいろの髪に縁取ふちどられた、輝くばかりの美貌びぼう。エリーゼとは似ても似つかない。

「変わりたくないのに、生きているだけで変わってしまう。昔の自分に必死でしがみついていても、気づいたら別人のようになっている。人間なら、きっとよくあることですよ。――お兄様が人間じゃないなら、わからないかもしれませんけどね」
「……そうだな。俺にはわからない」

 廊下に出て二人のやりとりを見ていたリールに目をやり、エリーゼはくしゃりと顔をゆがめた。

「リールにはわかってほしいから、人間じゃなくても、理解できるんだって信じたいけど」
「姉さん、ボクは――」
「止めないでよね、リールまで」
「ですが、姉さんが人質として教会に捕まったら、ボクは姉さんを助けるために教会に近づかざるを得ません。姉さんはボクよりもステファン兄上を優先するんですか?」
「リール、それは違う」
「何が違うんですか? ボクより兄上を選ぶということじゃないんですか?」
「お願いだから、そんなこと言わないで」

 エリーゼの目に涙が浮かぶ。

「泣くのはやめてください。卑怯ひきょうですよ」
「じゃあ泣かないから、聞いてよ!」

 涙をこらえながら、エリーゼは顔を真っ赤にして訴えた。

「吐き気がするの。このままじゃ自分が嫌いになりそう。お姉さまでもお兄様でもステファンでもなく、私は私に腹が立ってる」

 意味がわからず呆然とするリールに、エリーゼはうなるように言う。

「私のことなんかどうでもいいから街の外へ逃げてって、リールに強く言ってあげられない。だって、リールが私が死ぬとわかっているのに街の外へ出ようとしたら、きっと私はまたリールを殺したいと思ってしまう。そんな私がステファンに何かをしてあげたいなんて考えるの、おかしいのはわかってるよ。だけど何かしたいの、自分にできることを」
「やっぱり姉さんは、ボクよりステファン兄上を優先して――」
「違うって言ってるでしょ! 男の子なんだからぐちぐち言うな!」
「……ものすごく横暴おうぼうな論理ですね」
「うるさい! とにかく今すぐステファンに会いにいく! その後のことは、ステファンに会って殴ってから考える!」
「さっきから、ステファン兄上を呼び捨てにしていますが」
「妹にこんなに心配かける兄に、様なんて付けるわけないよ!」
「意味がわかりませんが、姉さんが本気で言ってるということだけはわかります」
「なんかバカにされてる気がする!」
「気がする? おかしいですね。はっきりバカにしたつもりなんですが」
「ひどい!」

 思わず叫んだエリーゼに、リールはあきらめたように微笑みかけた。

「姉さんがそうしたいというのなら、止めません。ですが、姉さんが危ない目にったら、ボクはステファン兄上を殺しますよ。ボクが姉さんをそれなりに心配しているということを、忘れないでください。教会に捕まって拷問ごうもんされても、自害したりしちゃだめですよ」
「拷問!?」
「まあ、タイターリスはまだしばらく迷宮にいると思うので、猶予ゆうよはあります。彼が迷宮を出て教会に告げ口する前にステファン兄上を連れて帰ってくれば、大丈夫でしょう」
「そうだな。もしもステファンを連れ戻せるなら、それが一番上等だ。……恐らくステファンは人間だろう。人間以外の種族は、好き好んで教会へ通ったりはしないからな」
「……ステファンは人間で、お姉さまは魔族。じゃあ、お兄様は?」
「半分は人間だ」

 エイブリーは低い声で言った。

「もう行け。俺は父上のところへ行く」
「わかった。ステファンは絶対に取り戻す」

 握りしめたこぶしを胸に当てたエリーゼを見て、エイブリーは目をまたたかせた。

「人間というのは、本当に変わるものなのだな。なんだ、そのやる気に満ちた顔は。あの意志の弱そうな目はどこへやった? 本当に演技ではないのか? 全く理解できん」
「他人を理解できない俺、カッコイーみたいな? ……異種族だからっていうより、ただの中二病なんじゃないの」
「……なぜだろうな。意味はわからないが、腹が立ってきた」
「ぎゃあああああああ! 痛い痛い痛い痛い」

 頭を鷲掴わしづかみしてくるエイブリーの力強い手から逃れると、エリーゼは脱兎だっとのごとく駆け出した。


「ごめんなさいね。ステファンが会いたくないと言っているのですわ」

 教会を訪れたエリーゼを出迎えたのは、白い服を着た聖女だった。
 長い銀色の髪と、紫水晶のような目を持つ美しい少女。言葉とは裏腹に、その優しげな微笑みからは罪悪感などまるで感じられない。
 そんな聖女に少し違和感を覚えつつ、エリーゼは姿を見せない兄に苛立いらだって舌打ちした。そして、隣に立つ姉の顔を見上げる。
 リールのカードを作ってくれそうな人物に手紙を出し終えたカロリーナは、後宮を出たエリーゼを追いかけて来たのだ。

「……お姉さま」
「そんなうらみがましい顔でわたしを見てはいやよ、エリーゼ。きっとあなたがいるから、ステファンは出てこないのだわ」
「お姉さまがいるせいでもあるんじゃないの?」
「そうかもしれないわね。でも手紙を出してしまったら、後はやることがなくて暇だったの」

 カロリーナは不機嫌なエリーゼをからかうように笑う。

「それに、敵情視察もしておきたかったのよ」
「お姉さま!」
「教会を敵とおっしゃるの?」

 聖女が薄紫色の大きな瞳を震わせて、エリーゼたちを見る。
 エリーゼは咄嗟とっさに首を横に振ったものの、カロリーナは平然と言いつのった。

「ええ。だってわたしの弟を、前の聖女と二代にわたってたぶらかしているじゃないの。その上こうして教会に閉じ込めて、家族にも会わせないのだから、敵と言えるでしょう?」
「誑かしているだなんて、人聞きが悪いですわ」
「大体シーザリア王国の王女が、どうしてアールジス王国の王都で聖女などやっているのかしら。ねえ、こんなうわさがあるのをご存じ? あなたが聖女をしているのは精霊神への信仰ゆえではなく、間諜かんちょうのまねごとをするためだって。その可愛らしい容姿で男を誑かして、王宮の情報を探るための手駒てごまにしていると聞いたわ。弟が悪い道に引きずり込まれてしまうのではないかと、姉として心配するのは当然ではなくって?」

「心配」と聞いて、エリーゼはカロリーナに胡乱うろんな眼差しを向けてしまった。だが、当のカロリーナはけろりとして、自分より頭一つ分小さい聖女を見すえている。
 無言でにらみ合う二人がかもし出す重苦しい空気に耐えかね、エリーゼは口を開いた。

「えっと、聖女様は……王女様なんですか?」
「……ええ。国よりも神に仕えることを選んだから、わたくしはここにいるのですわ。ですが、ステファンのお姉さまのお気持ちはわかります。大事な弟が帰ってこないとなれば、動揺するのも無理のないこと。そのせいで、生来せいらいの品の悪さが出てしまっているのでしょうね」

 聖女は、にっこりと微笑んだ。
 エリーゼは反射的に微笑み返した後、隣に立つ姉から殺気を感じて振りあおぐ。カロリーナは笑顔だったが、目は笑っていなかった。

「ステファンのお姉さまは、とても強い【魅了】の恩恵ギフトをお持ちなのでしょうね。あなたの周りの人たちは、まるで魔物に魅入みいられたかのように夢中になっていると聞きましたわ」
「同じ言葉を返すわね、聖女シルフローネ。わたしの弟も、魔物に魅入みいられてしまったみたいだもの。弟がいつになったらうちに帰って来るのか、あなたの大好きな精霊神に聞いておいてくださらない?」

 微笑み合う二人の姿を見て、エリーゼは顔を引きつらせ、後ずさった。それを合図としたかのようにカロリーナは聖女から顔をそむけると、エリーゼの腕をつかんで言う。

「一旦引き上げましょう、エリーゼ」
「でも」
「ゆっくりしていってくださいな。あなたたちが精霊に対して愛と敬意をお持ちなら、ぜひとも礼拝なさっていただきたいですわ」
「ま、また後で来ます。ステファンにも、そう伝えておいてください!」

 赤い爪が腕に食い込むほどの力で引きずられながら、エリーゼは聖女を振り返って言った。すると聖女は、微笑みを浮かべてうなずく。

「あなたとは、お話ししたいことがあるのですわよ、エリーゼ。だからケーキを焼いてお待ちしておりますわ」

 ケーキと聞いて目の色を変えたエリーゼの腕に、カロリーナは思いきり爪を立てた。「痛い!」と叫んで飛び上がりながら、エリーゼは姉に引かれるまま歩く。
 やがて大通りに出ると、カロリーナは少人数乗りの小綺麗な辻馬車つじばしゃを呼び止めた。そしてその馬車に乗り込むや否や、口を開く。

「ステファンは、やっぱり人間で間違いないわ。あんな気分の悪いところにいられるんだもの」
「え、あの、お姉さま……」

 御者ぎょしゃに聞かれてはまずいと思い、エリーゼは慌てた。

「大丈夫よ。この御者は、わたしの恋人の一人だから」

 御者は、地味ながら整った顔立ちをしていた。彼はエリーゼの視線に気づいたからか振り返ったが、その顔には何の感情も浮かんでいない。エリーゼが思わず身震いすると、カロリーナは笑った。

「とにかく、魔族であるわたしが教会に立ち入るのは無理ね。特にあの聖女がいるうちは。わかっていたことだけれど」
「……わかっていたのに、なんでついて来たんですか?」
「あの女がどういう人間なのか、あなたに教えるためよ。先ほどの会話を聞いていて、大体は理解できたでしょう? あの女はね、前からハイワーズ家を良く思ってないの。先代の聖女の件があったからかしら」
「先代の聖女?」
「ステファンに恋をした、愚かなおばさんのことよ。年甲斐としがいもなくのぼせ上がって、ハイワーズ家に惜しみない援助をしてくれたわ。だけど、その後すぐに聖女をやめさせられたみたい。そしてその頃から、ハイワーズ家は教会に目を付けられているの。理由はわからないけれど、もしかしたらハイワーズ家には人間でないものがいると、勘づいたのかもしれないわね。屋敷に間者かんじゃを潜り込ませようとしたり、今の聖女――シルフローネがわたしの恋人を教会に引き入れようとしたり、やりたい放題だわ」
「シルフローネさんって、他国の王女様でもあるんですよね? 彼女を敵に回すのって、相当まずいことなんじゃ?」
「あの女の母国であるシーザリア王国は、王権ごと教会に取り込まれつつあるけれど、この国では教会の権限はまだそこまで強くないわ。だから爵位しゃくいを持つお父様と騎士であるエイブリーに、あの女はそう簡単に手出しできないの。下手をすれば国際問題になりかねないし。問題は、わたしとエリーゼ、ステファンとリールの四人よね。わたしがこの街から出ようとしたら、やっぱりあなたは血を吐くのかしら?」
「……お姉さまは私が血を吐こうが、出て行く時は出て行くんでしょ?」

 エリーゼが憮然ぶぜんとして言うと、カロリーナは目を細めた。

「そんなことを言わないで、エリーゼ。わたしのことが嫌いなの?」
「前は好きでした。でも今は、好きでも嫌いでもありません」
「そう。わたしが美しいから許してくれている、といったところかしら?」

 白く美しい指でエリーゼのあごをとらえ、カロリーナは顔を寄せた。甘い花の匂いがして顔をしかめたエリーゼを見て、くすりと微笑む。

「【美貌びぼうに弱い】だなんて、本当に面白い恩恵ギフトよね。【胃弱】といい、きっと意味があるんだわ。――そうでなくては許さないわよ、エリーゼ」

 やがて貴族街の端にあるハイワーズ家の屋敷の前で、馬車が停まった。カロリーナが降りると、馬車はエリーゼを乗せたまま後宮に向かって進み始める。
 車輪が石畳の上で跳ねる音を聞きながら、エリーゼは溜息ためいきいた。

「誰が味方で、誰が敵なんだか」


 後宮に戻ったエリーゼを、女官長が待ち受けていた。ハーカラント王子がタイターリスという名でエリーゼとパーティを組み迷宮に潜っていたことを、女官長は知っていたのだ。
 タイターリスに冒険などという危険な行為をやめさせたいらしい彼女は、なぜタイターリスを残してエリーゼだけ迷宮から出てきたのかと、しつこく聞いてきた。
 ――理由を言えるわけがない。エリーゼは【逃げ足】の恩恵ギフトを使って女官長を振り切り、再び教会へ向かった。どうせタイターリスから情報が漏れるだろうが、少しでも時間を稼ぎたい。
 教会に着いたエリーゼは、礼拝堂の奥にある一室に通され、テーブルについていた。後宮の私室に比べると、いささかこぢんまりとしている。整理整頓されていてゴミ一つないが、テーブルの角に少し傷があり、生活の跡が見えた。棚には幼い頃の聖女とその家族らしき人々を描いた肖像画が飾られている。
 しばし部屋の中をきょろきょろと見回していたエリーゼは、化粧けしょう箪笥だんすの上に無造作に置かれている、薄汚れた布に目を留めた。

「……雑巾ぞうきん?」

 よく見ようと腰を上げかけたエリーゼの鼻先に、銀色の軌道きどうが描かれる。直後ににぶい音がしたのでそちらを見ると、白い壁にフォークが突き刺さっていた。
 次いでフォークが飛んで来た方向に目をやれば、部屋の入口に聖女が立っていた。右手でフォークを投げた格好のまま、にっこり微笑んでいる。左手には、クリームケーキの載ったお盆を持っていた。

「触らないで欲しいのですわ。わたくしのとても大切な、思い出の品ですの」


 エリーゼは無意識のうちに短剣を抜こうとしていた自分の右手を、左手で抑えた。
 聖女は美しい顔立ちをしているが、まだあどけないためか、エリーゼの【美貌びぼうに弱い】という恩恵ギフトは働かないようだった。自分に危害を加えかけた相手をにらみつけそうになるのをこらえて、エリーゼは謝る。

「……ごめんなさい」
「いいのですわ。あなたが知るはずもないことですものね」

 微笑んだまま言った聖女に、エリーゼは愛想笑いを返す。教会と揉め事を起こしてはいけないし、できるだけ早くステファンを取り戻さなければならない。ハイワーズ家の中で今、教会に容易に近づけるのは、人間であることが明らかなエリーゼだけなのだ。

「えっと、聖女様……?」
「せっかくのお茶会ですもの。そう他人行儀になさらないで。名前で呼んでくださればよろしいのよ」
「じゃあ、オリヴィエ様――」

 ぐさり、とナイフが突き刺さった。エリーゼがテーブルの上に置いていた手のすぐ近くに。
 エリーゼの胸の奥がざわつく。殺される前に殺したいという衝動がき上がってくる。

(殺しちゃいけない、殺しちゃいけない……!)

 表情がゆがむのを抑えられないエリーゼに頓着とんちゃくしたふうもなく、聖女は微笑んで言う。

「その名前は、親しい方にしか呼ばせていないのですわ。この国では公表していませんのに、どうしてあなたがご存じなのかしら。きっとシーザリア王国について、よく勉強していらっしゃるのですわね」

 水晶玉のような菫色すみれいろの目を細めて、聖女はそう決めつけた。

「わたくしは聖女となってからは、シルフローネと呼ばれているのですわ。精霊神アスピルから授かった名前なのです。これからは、シルフローネと呼んでくださいませね?」
「……シルフローネ、様」

 エリーゼが呼び名を改めると、シルフローネはにっこりと微笑んだ。エリーゼは首をかしげる。

「シルフローネ様って、タイターリスと親しいんですか?」
「なぜそう思うのかしら」
「タイターリスが、シルフローネ様のことをオリヴィエって呼んでましたから。だから私もその名前を知っているんです」

 それを聞くと、シルフローネは年相応のあどけない微笑みを浮かべた。

「……そうよね、わたくしの方がタイターリス様に近しいのだから、焦ることはないですわよね」

 ひとりごちているシルフローネに構わず、エリーゼは切り出す。

「ところで、私にお話があるとのことでしたが」
「タイターリス様のことですわ」

 シルフローネはきっぱりと言った。

「わたくしと張り合おうなんて、思わないでくださいませね」

 エリーゼは元の話題に戻ってしまったことにがっかりしつつ、ひとまずうなずいた。
 どうやらシルフローネは、タイターリスのことが好きらしい。タイターリスがアールジス王国の王子だと、知っているのだろうか。知っているのだとすれば、シーザリア王国の王女として、彼の妃になることを望んでいるのかもしれない。

(恋してるのが丸わかりで可愛いけど、勝手にライバル視されてるみたいだし、それになんだか――)

 居心地が悪い。それを誤魔化ごまかすようにお腹をさすると、エリーゼは口を開いた。

「私はタイターリスと、それほど仲が良いわけじゃありません。別に悪くもないですけど。そんなことより、今は家族が心配なんです。こちらでお世話になっているステファンのことが」
「彼は難しい悩みを抱えているようですわね。だから今は精霊神アスピルに心をゆだねて、いっときの安らぎを得ているのでしょう」
「話がしたいので、会わせていただけませんか?」
「わたくしたちは、彼を閉じ込めているわけではありませんわ。あなたがお姉さまと一緒にいらした時も、すぐステファンに伝えましたのよ」

 その時の兄の反応が想像できたので、エリーゼは肩を落とした。

「……何か言ってました?」
「よりによって、どうしてあなたが来たのかと」
「そうですか……言うだろうとは思ってたけど、腹立つなあ」

 母はずっとせっていて動けない。父は動くような人じゃない。姉弟は恐らくみんな人間じゃない。教会に来れるのはエリーゼだけなのだから、仕方ないのに。エリーゼは頭をくしゃりときながら溜息ためいきいた。

「では、伝言をお願いできますか?」
「よろしいですわ。ただし、今回限りですわよ」
「ありがとうございます。ハイワーズ家に厄介事が起きたから、すぐエイブリー兄上と連絡をとるように、と伝えてください」
「困り事がおありなのでしたら、ご相談に乗りますけれど?」
「ご厚意に感謝します。ですが、これはハイワーズ家の問題なので」

 エリーゼはそう言って頭を下げた。

「あら、そうですの?」

 小首をかしげてみせるシルフローネは可愛らしく、エリーゼは思わず笑みを浮かべた。状況が違えば、エリーゼはシルフローネとのお茶会を楽しめたかもしれない。
 シルフローネが用意してくれたさわやかな酸味のあるチーズケーキを食べ終えると、エリーゼは立ち上がった。

「おいとまします。ケーキごちそうさまでした。美味おいしかったです」
「わたくしの手作りですのよ。タイターリス様は気に入ってくださるかしら?」
「さあ……味の好みを知るほど親しくはないので」

 エリーゼの言葉を聞き、シルフローネは満足そうに目を細めて笑った。

「今日のところは見逃してさしあげますわ。……精霊神アスピルが清めた聖水入りのお茶やケーキを平気で口にしたんですもの。あなたはきっと人間なのですわね、エリーゼ。当てが外れてがっかりですわ」

 ぎくりと肩を揺らしたエリーゼを見て、シルフローネは笑みを深めた。

「わたくし、あなたは絶対に人間ではないと思っていたんですの。タイターリス様をたぶらかす、悪魔かその眷族けんぞくではないかと。聖水をもってしても、確実に正体をあばけるわけではありませんから、今も少し疑っていますわ。でも、もしあなたが人間なのだとしたら、なぜわたくしの【魅了】にかからないのかしら」

 欲しい玩具おもちゃが手に入らなかったことをなげくような言い方に、エリーゼは息を呑んだ。
 ひるむエリーゼを見上げて、シルフローネは可愛らしく微笑む。

「あなたが人間でなければ、タイターリス様につく悪い虫を、精霊神教会の名のもとに一匹駆除できましたのに」
「……そんなふうにおどさなくても、私はシルフローネ様から、タイターリスをとったりしませんよ」
「そうかしら? 信用できませんわ。それにわたくしの言葉は脅しじゃなくて、本心ですの」


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