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2巻
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しおりを挟む第一章 聖女姫
アールジス王国の王都迷宮。その出入り口には、冒険者ギルドから派遣された職員が立っていた。
緊急クエスト中にもかかわらず迷宮から出ようとしていたエリーゼたち一行を不審に思ったのだろう。迷宮から出る理由を問われ、エリーゼはぎくりとする。だがパーティの一人であるジュナは、笑みを浮かべてさらりと言った。
「外で身体を洗いたいんだよ。あたしとエリーゼは女なんだし、数日に一回ぐらいはね」
もちろん嘘だ。本当はクエスト中に魔族である疑いが浮上したエリーゼの弟リールを、精霊神教会の影響力が強いこの国から逃がすためだった。
リールが本当に魔族なのか、すぐに確かめる術はない。だが万が一、魔族だった場合、それを精霊神教会に知られれば、彼の身に危険が及ぶ。事は一刻を争う。そのためエリーゼとジュナは、リールを連れて迷宮を出たのだ。
本来、今回のような強制クエスト中の離脱は認められない。職員はなかなか首を縦に振らなかったが、ジュナがしつこく訴え続けてなんとか説得に成功した。
迷宮の門をくぐりながら、ジュナは肩を竦める。
「あたしたちは迷宮に隔離されてるようなもんだからね。特にあたしと魔法使いはそんじょそこらの冒険者より強いから、今も多分ギルドの監視がついてるよ。そいつらに止められないよう、素早く街を出なきゃね」
エリーゼは弱いが、一緒に冒険をしていたパーティのうち、リール、タイターリス、ジュナはいずれも凄腕なので、今王都を騒がせている悪霊が憑いたら王都に大きな被害が出てしまう。それで、冒険者ギルドは警戒しているのだろう。
元々日本で普通の女子高生だったエリーゼは元の世界で突然何者かに殺され、この剣と魔法のファンタジー世界に準男爵令嬢として転生した。といっても剣や魔法の才能もなく、持って生まれたものといえば、この世界の言語を誰にも教わることなく読み書きできる能力と、いくつかの恩恵だけだった。
恩恵とは、この世界において精霊から稀に授けられる特殊能力のこと。だがエリーゼの場合は俗に精霊の呪いと呼ばれる、持ち主にとって迷惑でしかない恩恵まで授かっていた。
【胃弱】【美貌に弱い】という二つの精霊の呪いをどうにかする手がかりを探るため、迷宮に入っていたのだが、途中で【人助け】という特殊な恩恵を持つタイターリスが、リールは魔族である可能性が高いと言い出したのだった。
リールは怪訝な顔でジュナに問う。
「ボクがまだ成人していなくて一人では街から出られないので、ジュナがついて来てくれるということですか?」
「ああ」
「いくら払えばいいですか? 最近大きな買い物をしたので、あまり多くは払えませんが」
その言葉を聞いて、エリーゼは自分の身体を見下ろした。新品のプレートメイルが、陽の光を反射して銀色に輝いている。
「大きな買い物って、もしかして私の鎧?」
「姉さんが気にすることではありません」
エリーゼの鎧を見て少し微笑んだリールを横目に、ジュナは溜息を吐いた。
「別に金はいらないよ。それよりも、あんたたちとの縁が欲しいね」
「縁?」
リールは眉根を寄せて言った。
「あんたが本当に魔族だってんなら、繋がりを持ってるだけできっと利益になる」
「……ボクは、自分が魔族だとは思えないんですが。ボクが魔族かもしれないと言った時のタイターリスの様子は確かに普通じゃなかったですけどね」
「様子がおかしかったのは、あんたもだよ」
ジュナはにやりと笑った。
「エリーゼが悪霊に憑かれた時のことさ。自分を殺そうとするエリーゼを喜んで煽っていたあんたは、教会が言う『人間を堕落させ、魂を奪おうとする』悪魔そのものだったよ。あたしは見ていて寒気がしたんだから。まぁいくら悪霊憑きとして処分されるのが嫌だからって、血の繋がった弟を手にかけようとしてるエリーゼも、かなり悪魔っぽかったけどね」
「……確かに普通じゃないかもしれない。だけど私は人間です!」
「あんたにはギルドカードがあるから、それははっきりしてるもんね」
市民カードや各ギルドのカードには、精霊によって持ち主の種族が記載されており、それを偽ることはできない。だからエリーゼは自分の種族が人間だと知っていた。リールもカードがあれば種族がわかるのだが、未成年なのでまだカードを作れないのだった。
街を歩いていたエリーゼは、通行人の視線を感じた。鎧を身につけているからだろう。冒険者なら緊急クエストの真っ最中のはずなのに、こんなところを歩いているので不思議に思っているに違いない。だがそれより強く感じるのは、明確な意図をもってこちらを見張っている者たちの視線だ。
「監視が三人に増えてる」
エリーゼが呟くと、リールが口を開いた。
「ボクたちが東門から街の外へ出たら、姉さんは大人しく彼らに捕まってください」
「あ、うん。どうせ逃げられないしね」
「そしてギルドマスターに、迷宮から出た理由を正直に話してください。他の人に言ってはいけませんよ」
「子供じゃないんだから、わかってるって」
「でも姉さんは肝心なところで大ポカをやらかすタイプですから」
「リールってば、ひどい!」
「あんたたち、のんびりしてるねえ」
ジュナが呆れたように言い、リールは肩を竦めた。
ひと気のない場所で、リールは足を止め、エリーゼに向き直った。
「ギルドマスターに話したら、次は兄上と姉上に報告してください」
「お姉さまはともかく……エイブリーお兄様やステファンお兄様を呼び出すのは難易度高いよ」
「ハイワーズ家に危険が迫っていると伝えれば、すぐに集まりますよ。父上に……と言えば、どこにいたって飛んできます」
住宅街を抜けると、完全に人通りが途絶えた。街の東の外壁沿いにある、貴族などの身分が高い犯罪者を収容している監獄塔が見えてくる。それをちらりと見てから、リールは灰色の曇り空を見上げた。
「ボクが本当に異種族だとしたら、ハイワーズ家の誰かが同じく異種族かもしれないわけです。姉さんは確実に人間ですが、注意だけはしておいてください。精霊神教会が、それを確かめもせずにいきなり殺そうとする可能性もゼロではありませんから」
リールの緑色の瞳がエリーゼを捉える。エリーゼもリールを見つめ返した。
「もしも一家の中に異種族がいると知られたら、ハイワーズ家は窮地に立たされます。姉さん、この国では人間以外の種族が存在することは、許されないんですよ」
「……知ってるよ」
「まだタイターリスの勘にすぎません。根拠はどこにもない。だから調査の手が伸びる前に、ボクがこの国を出てしまえばいい。ですがハイワーズ家の他の誰かが異種族で、それが世間に知られれば……ハイワーズ家は取り潰されます。場合によっては、全員が極刑に処されるかもしれません」
やがて三人は、街の東端にたどりついた。そびえ立つ黒灰色の外壁は南や西にあるものと同じはずなのに、やけに血なまぐさい雰囲気があって近づきがたい。すぐ外に絞首台と墓地があるからだろう。
「……尾行者たちが、かなり近づいてきているようですね。彼らにボクたちを止められるとは思えませんが、念のため門は一気に駆け抜けましょう。ジュナはギルドカードを用意しておいてください」
「ああ」
「リール」
エリーゼが声をかけると、リールは振り返って小首を傾げた。
「十五歳になって何かのギルドでカードを作って、人間だとわかったら、帰ってきてね」
「もしも人間じゃなかったら?」
「私がこの国を出て、リールのところへ行く。今は出られないけどどうにか出られる方法を探すから、待ってて!」
「街からも出られないのに? ……まあ頑張ってください」
「でもリールだって、この国から出られないかもしれないんだよ?」
エリーゼは街を出ようとすると血を吐いてしまう。それは母アイリスを加護する精霊のせいではないかと、リールが以前推測していた。アイリスが子供たちの遠出を望んでいないから、その願いを叶えるために精霊が邪魔しているのではないかと。本当にそうだとしたら、リールも同じかもしれない。
「そうですね。でも、もしボクが無事に出国できて、いつか姉さんが国から出られるようになったら、遠くの国で二人で暮らすのもいいですね。そろそろ身の程を知るべきだと思いますが、姉さんがどうしても冒険者をやりたいと言うのなら、その国でやらせてあげますよ」
「……その毒舌も、しばらくお預けだと思うとすごくさみしい」
「やっとボクを見てくれるようになった姉さんと離れるのは、ボクも嫌ですよ」
エリーゼと軽く手を振り合うと、リールはエリーゼに背を向けた。
それを見て、エリーゼの胃がしくしくと痛む。確実に再会できるとは限らないからだろうか。
エリーゼがそう思った瞬間、リールとジュナは駆け出した。門前の兵士はジュナが突きつけるように示したカードを見て、あっさり通行を許す。
尾行者たちは「止まれ」と声をあげたものの、それ以上のことをしようとはしない。
そのままリールたちが門をくぐるのを、誰もが見送ってしまおうとした時だった。
エリーゼが膝からくずおれ、背後にいた女性が悲鳴をあげた。
「――姉さん!?」
振り返ったリールは血反吐を吐くエリーゼを見て、血相を変えて引き返す。エリーゼを襲った強烈な胃の痛みは、リールが街の中に戻るとすぐに引いていった。
石畳が、紅に染まっている。エリーゼは口の中に溜まっていた血を吐き出して、リールを見上げた。
「リール、行って」
「……ボクが街の外に出た途端、姉さんが血を吐いたのに?」
「関係ないかもよ。いいから行って」
「いや、間違いないでしょう。このままボクが出て行けば、姉さんは血を吐いて、悪ければ死ぬ。街を出ようとしたボクではなく姉さんに影響が出たことを考えると、どうやら母上の精霊の仕業ではないようですね」
リールはエリーゼに肩を貸して立たせると、門に背を向けて歩き出した。
尾行していたギルドの男性職員に問い詰められていたジュナは、それを振り切り、エリーゼたちを追いかけてきた。
「これからどうするんだい?」
「まずは医者に行かなくてはいけませんね」
「リール、ごめん」
「悪いのは姉さんではなく、姉さんをそんな目に遭わせている精霊ですよ」
胃が傷ついているからか、エリーゼは再び血を吐き、リールの外套を赤く汚してまた謝る。
――こうして、リールは逃亡に失敗した。
(私が精霊からもらった恩恵――【胃弱】のせいで、リールは街を出られなかった)
エリーゼはこの世界に転生した時、いくつかの恩恵を授かった。恩恵は、精霊からもたらされる祝福の力。たとえそれが【胃弱】のようなおかしなものだろうと、恩恵を持っていることは、とてもありがたいことだとされている。
けれどその恩恵が人生を大きく狂わせる時、人はそれを精霊の呪いと呼ぶ。【胃弱】はエリーゼにとって、まさに呪い以外の何物でもなかった。冒険しながら精霊の呪いを解く方法を探しているが、そう簡単に解けるものではないらしい。
リールの身に危険が迫っている。それなのに逃がしてやれない。エリーゼは内心自分を責めたが、やがてリールがどこに向かっているのかわかると、ほっとした。その場所は、リールにとって安全な場所だからだ。
「医者って、どこの医者だい? いい医者を知ってるなら、ぜひとも紹介しておくれよ」
「後宮の侍医ですよ」
「後宮? ……まさか、エリーゼが入ってんのかい?」
「ええ。姉さんは妃候補ですから。後宮には腕の良い侍医が常に待機していますが、貴女が治療を受けることはできないでしょう」
ジュナが驚いた表情でエリーゼを見る。なんだか恥ずかしくなって、エリーゼは俯いた。
地面に視線を落としたまま、エリーゼは考える。
精霊神教会は、異種族を悪魔と見なし、それを殺すことを躊躇わない。その精霊神教会の聖女に迷宮で何かあったのかと聞かれたら、タイターリスはリールが魔族かもしれないと話してしまうだろう。なぜなら精霊神アスピルより【人助け】の恩恵を授かった彼は、自分以上にアスピルに愛されている聖女に隠し事ができないからだという。
タイターリスはエリーゼと同じように、精霊の呪いを授かっている。その【人助け】という名の恩恵のせいで、人間と異種族が戦っているのを見ると、異種族の方に強い殺意を抱いてしまうのだ。
また、精霊神の加護を持つ聖女からリールのことを聞かれたら、嘘を吐くことはできないらしい。
彼は今、他の仲間と共に迷宮に残っているが、いずれは出てくるだろう。
「後宮には、妃候補の家族を除く部外者は入れない。たとえ聖女でも、しばらくは遠ざけることができると思う」
「場合によっては、時間稼ぎにもなりませんけどね」
リールが溜息混じりで言ったが、エリーゼは意味がわからず首を傾げる。だがリールは、それ以上は何も言わなかった。
ジュナを冒険者ギルドに説明に行かせると、エリーゼとリールは王宮へ向かった。
妃候補の家族とはいえ男性なので、簡単には入れないかもしれないとリールが言ったため、エリーゼは急に心配になった。だが王宮の西側勝手口の警備兵は、彼をあっさり中に入れた。
リールはエリーゼを医務室に放り込んだ後、エリーゼの侍女を通じて兄姉に「緊急の家族会議を開く」と連絡した。
治療を終えたエリーゼは、リールと共に自分の部屋に入る。長姉カロリーナと長兄エイブリーが早くもそこにいるのを見て、リールは頭を抱えた。
「ここの警備はざるですか?」
「あら、妃候補の家族は、いつでも訪問していいのでしょう?」
「だからといって、姉上はともかく、男であるボクと兄上を簡単に入れてしまうのはどうかと思いますが」
ちなみに、と言って、リールは声を低める。
「後宮に入る時、種族はチェックされましたか?」
「そんなことはされない。そもそも妃候補たちも、種族のチェックなどされないのだからな。アールジス王国も建国当初は、異種族を排斥しようなどと考えていなかっただろう。恐らくこの国を守護する精霊は、妃候補が人間でなくとも気にしていない」
「では、妃候補として一旦後宮に入ると、この街を出られないよう精霊によって行動を制限されるということはあるのでしょうか?」
「それもない。後宮が出入り自由なのは、かつての妃が冒険者として恐ろしいまでの功績をあげたからだ。以降、妃候補の行動を制限するような決まりは次々と廃止されていった。今は国内ならば、どこへでも行けるはずだ」
「では、姉さんを害しているのはこの国を守護する精霊でもないんですね」
エイブリーたちの視線がエリーゼに集まる。胃の中に、まだ重苦しい何かが残っている気がして、エリーゼは腹を撫でた。
「今の状況を簡単に説明します。ボクは人間ではないかもしれません。それを確認する術はありませんが、可能性は高いと見ていいでしょう。そしてそのことが、教会に知られる恐れがあります。ボクは調査の手が伸びる前に国を出るつもりでしたが、街を出ようとしただけで姉さんが血を吐きました」
「これが血を吐いたところで何だというんだ。構わず行けばいいものを」
「ボクは兄上とは違います。姉さんを犠牲にするつもりはありません」
「殺せばよかったのよ」
寝椅子にもたれながら、カロリーナが微笑んだ。ドレスの裾をしどけなく乱し、靴を脱いで白い足を露わにしている。
「リール、あなたが異種族かもしれないと言った人間がいるのでしょう? すぐに殺せばよかったのに、どうしてそうしなかったの?」
「相手はこの国の第一王子ですから」
「ハーカラント殿下か……」
苦々しい表情を浮かべたエイブリーに、カロリーナは無邪気な顔で尋ねる。
「王子様を殺してはいけないのかしら?」
「姉上、バカなことを言わないでいただきたい。父上に逆賊の汚名を着せたいのか?」
「あら、それは嫌だわ」
カロリーナはそう言って肩を竦めた。
エリーゼは首を傾げてリールに問う。
「いつ王子様に知られたの?」
「タイターリスが第一王子なんですよ」
冒険者仲間の名に、エリーゼは目を見開いた。
「……いやいや、だってタイターリスって名前、ギルドカードにもちゃんと書いてあったよ? 偽名は使えないよね? ギルドランクもDって書かれてたし。王子様はBなんでしょ?」
「あの方はどういうわけか、名前を二つ持っているらしいですね。精霊にもらったというようなことを言っていましたが。王子としてはBランク、タイターリスとしてはDランクということなんでしょう」
「……私、今までかなり粗雑な対応をしてきちゃったんだけど」
「それを咎められはしないと思いますよ。素姓を隠していたのはあちらなんですから」
「高貴なオーラとか全然ないし」
「姉さんは、兄上や父上を見慣れていますからね。特に父上は、王族よりも血統が良さそうに見えますし」
「――お前たち、王家に対して無礼なことを言うのはやめろ。ここは王宮なんだぞ」
エイブリーは頭を抱えて言った。エリーゼは慌てて口を噤んだが、リールは気にする様子もなく続ける。
「王子に異種族だと疑われているボクが後宮に長居するのは得策ではありませんから、手早く話を済ませたいのですが……父上は人間なんですか?」
「人間でなかったら、何だというのかしら」
カロリーナが目を細めて剣呑な空気を漂わせたが、リールは動じなかった。
「父上の種族から、ボクが人間ではなかった場合の種族が推測できます」
「推測できたところで、どうするつもり? エリーゼが血を吐くからと言って、あなたはこの街を出ることすらできないのに」
「とりあえずは、この街のどこかに潜伏する予定です」
「じゃあ、わたしは伝手を頼って十五歳未満でも種族がわかるようなカードを用意するわね。早くあなたの種族がわかった方がいいもの」
「俺は今聞いた話を父上に報告し、今後の方針を決めていただく。場合によってはリール、お前の命はないものと覚悟しておけ」
「ただで殺されるつもりはありませんが、わかりました」
頷いたリールに、カロリーナは赤い髪の毛先を弄びながら尋ねた。
「敵は精霊神教会と、第一王子殿下、エリーゼの行動を制限している精霊と……他にいるかしら?」
「恐らく姉さんの行動を制限しているのは、精霊神教会の精霊でしょう。この国を守護する精霊でも、母上を守護する精霊でもないとすれば、それ以外に思い当たりません」
「悪くすると国、そしてステファンも敵になるな。あいつは教会に入り浸っている。教会側に与してハイワーズ家に不利益をもたらすようであれば、始末するべきだろう」
エイブリーはこの場に姿を見せていない、エリーゼの次兄の名を挙げる。
「ええ。では、ボクはもう行きますね」
「気をつけるのよ。教会に捕まりそうになったら、自害してね」
淡々と会話が交わされ、それぞれが納得した顔で、あっさり席を立とうとする。しばらく呆然としていたエリーゼは、慌ててリールの袖を掴んだ。
リールは椅子から腰を浮かせかけた格好のまま、不思議そうな顔でエリーゼを見る。エリーゼは少しの間言葉を探した後、口を開いた。
「意味わかんないよ。お姉さまたちは人間なの? それとも違うの? これからどうするの? 私の身体をおかしくしたのが教会の精霊だっていうのは納得できたけど。人間びいきの精霊神アスピルが、異種族かもしれないリールを逃がさないために私を利用したんじゃないかって、私もなんとなく考えてたから」
カロリーナは、うっすらと笑みをたたえてエリーゼを見ている。エイブリーは何かを言おうとしたが、リールに手で制され口を噤んだ。
そのリールは、次の言葉を待つようにじっとエリーゼを見つめている。エリーゼは言葉を続けた。
「それに、ステファンお兄様を始末するだなんて……。エイブリーお兄様がそう言うのはまだわかるけど、どうしてお姉さまもリールも反対しないの?」
「姉さん、それはステファン兄上がハイワーズ家に敵対した場合の話ですよ」
「だとしても、おかしいでしょ?」
「何がおかしいんですか?」
リールは、わけがわからないという顔でエリーゼに尋ねた。だがどうにか理解しようと思ったのか、目を眇めてエリーゼを見つめる。
「ステファン兄上は、精霊神教会に身を寄せています。ボクに異種族の疑いがあると知ったら、教会は真っ先にステファン兄上の種族を調べるでしょう。そしてもしステファン兄上が人間でなかったら、その時点でハイワーズ家は終わりです。そもそもハイワーズ家の危機だと言って招集をかけたのに今ここにいないのですから、すぐにでも殺してしまいたいくらいですよ」
「そんな……!」
「ですが、姉さんに家族は大切にするべきだと教わったから、ボクは暗殺者を送るという提案はしませんでした。それだけでは不満ですか?」
「不満って……」
絶句したエリーゼを見て、カロリーナはおかしそうに笑った。
「エリーゼは優しいのね。ステファンを殺そうという話になったら、あなたは喜ぶと思ったのに」
「喜ぶだなんて、そんな……」
「あなたは忘れてしまったみたいだけれど、ステファンは昔あなたを殺そうとしたのよ?」
「……私が後宮に入る時?」
後宮に入る直前、ステファンに首を絞められたことは記憶に新しい。
「そんな最近のことじゃなくて、あなたが四歳の時のことよ。あの時からステファンは、あなたに殺意を抱いていたの。いなくなったら嬉しいでしょう?」
エリーゼは思わず自分の胸を押さえた。心臓が大きな音を立てる。過去の記憶を探ってみたが、何も思い出せなかった。
「全然覚えてないし、嬉しくなんてないよ。それよりお姉さまは、どうして笑っていられるの? 何もしないお父様やお母さまに代わってステファンお兄様のお世話をしてたの、お姉さまでしょ? 私とは違って、お姉さまはステファンお兄様と仲が良かったじゃない」
「それはつい最近まで、あの子がわたしの【魅了】にかかっていたからよ」
「み……りょう?」
「そうよ。わたしが何もしなくても、多くの人がわたしに惹かれる。ステファンもね。わたしがあの子に何もしなくても、あの子はわたしを慕っていた。それでも決して溺れはしなかったあたり、【魅了】に対する耐性を感じるけれど」
姉の言葉を呑み込みきれず、エリーゼは唖然とした。
カロリーナは寝椅子の上で身を起こすと、固まっているエリーゼに優しく声をかける。
「あなたも耐性があるのよね、可愛らしいわたしの妹。ただの人間なのに、誰にも教わることなく言葉を話したり文字を読んだりできたのも、本当に不思議よねえ」
それを姉に知られていたことに驚き、エリーゼは目を瞠る。カロリーナはいかにもおかしそうに笑い、言葉を続けた。
「エイブリーはその頃、騎士学校に行っていたから、そのことをあまり知らないのよ。けれどわたしは知っているわ。五歳の時のあなたは、九歳のステファンよりも、よほど役に立っていたわよね。四歳の時ステファンに殺されかけて以来、ステファンに対する興味をすっかり失ってしまったみたいだから、自覚はなかったでしょうけど」
身体が我知らず震え出して、エリーゼは全身の産毛が逆立つような感覚を覚えた。
カロリーナは艶やかな赤い唇を指の腹で押さえ、笑いを堪えるように言う。
「自分のことは何でも自分でできたあなたと違って、ステファンは十歳になるまで、ろくに話すこともできなかったのよ?」
「な、ん――」
「なんでと言いたいの? そうね、それはわたしも不思議だわ。どうして他人に話しかけられないと、言葉を習得できないのかしら。人間って不便よね」
にっこりと笑うカロリーナを見て、エリーゼはぞっとした。ずっと掴んだままだったリールの外套の袖を握りしめ、震えを抑えるために歯を食いしばる。
怯えたような目で自分を見つめるエリーゼに、カロリーナは微笑みかけた。
「顔色が悪いわ、エリーゼ。どうしたの? わたしはステファンよりも、あなたの方がずっと役に立つと言ったのに、嬉しくないの? あなたがいてくれたから、私はステファンに言葉を教えるなんて面倒なことをやらなくて済んだのよ。エイブリーとは違って、わたしはあなたを評価しているわ。きっといつか、お父様のお役にも立つと――」
「……どういうこと?」
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