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1巻
1-2
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「トランプだー。懐かしー」
早速使ってみようとして、エリーゼは固まった。どうやっても、紙のトランプのように切ることができない。
「……やっぱ紙じゃなきゃだめだ」
エリーゼは唸った。この世界にも紙はあるが、前世の世界に比べてずっと高価なのだ。そもそも無一文の彼女には買うことができない。
「まあ……上手くいくなんてあんまり思ってなかったし……」
負け惜しみのようなことを言いながら、エリーゼは木のトランプを布に包んだ。
「トランプを使うことが目的じゃないし」
胸の内にある計画を反芻して彼女は笑った。そして包みを抱えて部屋を出る。
(これが上手くいったら、女子高生の時の知識ってチートじゃん!)
エリーゼははしゃいでいた。屋敷を出てすぐに、庭で次兄ステファンと遭遇するまでは。
彼の深い藍色の瞳がエリーゼを映す。
(ころされる)
思わずずり、と後ずさった。咄嗟に周囲を見回したが、庭には他に誰もいない。屋敷の前の通りにも人の気配は感じられない。ステファンが無表情のまま自分のほうへ踏み出すのを見て、エリーゼは青ざめる。
(殺されるほど悪いことなんて、していないはずなのに)
そう思いながら、逃げるように門の外へ飛び出した。
今日の外出の目的は、大聖堂と呼ばれる施設を利用してみることだった。そこはこの世界における役所のようなものだが、各種申請を受け付けてくれるのは、人間ではなく精霊だという。
父アラルドは、膨大な蔵書を有している。なんでも母を手に入れるのに色々と策を練らなくてはならず、そのために本を大量に集めたのだそうだ。父に頼んでみたら、書斎の本を読んでいいと言われたため、エリーゼはこの世界について色々と知ることができた。
この世界、大陸、あるいは惑星を称してアールアンドという。かつて勇者が魔王を倒したとの史実があり、魔物も実在する剣と魔法の世界だ。エルフやドワーフといった異種族も存在している。そして精霊も。前世で女子高生だった頃からファンタジーに憧れていたエリーゼは、それらに興味津々だった。
彼女は、手描きの地図を見下ろした。
「……えっと、確か大聖堂は、この地区にあったはずだよね」
地図を見ながら歩いていくと、やがて人通りが多い道へ出た。ここアールジス王国の王都アーハザンタスの中央通りで、王の道と呼ばれている。エリーゼは左右を見渡した。道の両脇には露店がたくさん出ていて、お客が商品を値切る声などで賑わっている。その活気のある様子に、彼女は顔を綻ばせた。
まっすぐ行けば大聖堂に着くはずだ。それを通りすぎて、北に進めば王宮がある。通りかかった親切な女性に道を確認したあと、エリーゼは堂々とした足どりで再び歩き出した。迷子だと思われたら家に連れ戻されかねない。悪漢に目を付けられる可能性もある。
(準男爵家とはいえ、貴族ってだけで利用価値があるかもしれないし)
兄たちの視線によって鍛えられたエリーゼの視線感知能力によれば、屋敷から出ていくところはステファン以外の誰にも見られていないはずだ。それでも一応警戒しながら歩いていくと、大きな広場に行き当たった。広場の中央には、昔の王の像が建てられている。その右手には、継ぎ目のない白い壁でできた円筒形の建物があった。
幅の広い階段を上り、庇をくぐると、中は精霊神教会よりもがらんとしていた。手前半分は薄暗いのに、奥はぼんやりと明るい。
その光源を見つけて、エリーゼは目を見開いた。
「……精霊の御代」
大人の頭くらいの大きさの水晶玉が、いくつも宙に浮いている。それらはつやつやとした白い壁を淡い光で照らしながら、不規則にゆっくりと宙を動きまわっていた。
(これが精霊……の宿った何か)
大聖堂は無人の施設で、精霊の御代と呼ばれるその水晶玉が、来訪者の用件に応じてくれる。エリーゼが奥へ入っていくと、一つの水晶玉が音もなく動いてエリーゼのところへやってきた。
「不思議……」
思わずそう呟いてしまい、エリーゼは口を覆った。きょろきょろとあたりを見回す。そして自分以外に人がいないことを確かめて、胸を撫で下ろした。
「エリーゼ・アラルド・ハイワーズ!」
水晶玉に触れて名前を言うと、それはひときわ強い光を放つ。
すると、目の前に立体映像が浮かび上がった。銀行のATMの画面に似ている。
「……おお」
大聖堂は役所の役割の他に、銀行のような機能もある。国王が精霊と契約して、それらの仕事をお願いしているのだ。元の世界では機械が行っていた精緻で便利な機能を、精霊の力で実現している。
「特許の申請って、どうやるんだろう?」
この世界にも、特許という仕組みがある。発明したものを精霊に申請し、登録されると、それが商品化された際、発明者にお金が入るのだ。
エリーゼが今回申請するのは、自作のトランプだ。トランプはこの世界にはないだろうし、似たようなものがあったとしたら、精霊が膨大な情報と照合して、そう教えてくれるらしい。
エリーゼの声に反応したのか、立体映像は特許の申請画面に切り替わった。まるで意思を持ったコンピュータのようだ。便利、と呟きながら、エリーゼはとりあえずトランプの試作品を水晶に押しつけてみた。試作品がある場合、精霊が引き取ってくれ、特許が下りた場合は見本としてホログラムのようなもので公開されるという。
(二度と戻ってこないらしいけどね)
ぐいぐいと押しつけていたら、トランプはシュン! と軽い音を立てて消え、エリーゼは水晶玉に鼻を打ちつけてしまった。しばらく身悶えたあと、エリーゼは再度あたりを確認した。やはり視線は感じない。
特許申請するところは、できるだけ誰にも見られたくなかった。トランプのような複雑なものを五歳の子供が思いつき、しかも自ら特許を申請するなんて不自然だ。
売れなくてもいい。見向きもされなくたっていい。それどころか、特許が下りなくてもかまわない。
(精霊が受け付けて、対処してくれるっていうのがすごいんだよ)
彼らは間違いなく実在している。水晶玉を通してではあるが、その存在を初めて感じてエリーゼは頬を紅潮させる。
(この特許申請のやり方ひとつとっても、私には十二分にファンタジーだよ)
内心浮かれながら、エリーゼは現れた画面に入力していった。
精霊が司るこの手続きにおいて、偽りの情報を登録することはできないが、非公開設定にすることはできる。名前はもちろんのこと、年齢や性別などあらゆる項目を秘匿しようとしたが、エリーゼは少し考えて種族だけは開示した。年齢や性別を邪推されても、特になんとも思わない。けれども、種族だけは人間以外のものに間違われると、なんだか変な感じがする。
「人間でいいじゃない」
この世界に生まれ変わって良かったとは、まだ思えない。けれど、また人間に生まれることができたのは良かったと思う。虫とかに生まれるよりよっぽどマシだ。
そう思って頷きながら、エリーゼは入力を続けていく。トランプの概要、理想の材質は紙であること、表面に描かれた模様や数字について。そして遊び方も知っている限り入力しておいた。
それらの情報は水晶玉に触れるだけで、誰にでも見られるようになるという。
(ハイテクだなー……)
万が一、誰かが商品化してくれた時のことを考えて、価格は銅貨十枚くらいにしてほしいと備考欄に書き添えておいた。日本円に換算すれば、およそ一万円だ。この世界の常識から言っても、子供用の玩具にかけるような金額ではない。だが材料が紙であることや作る手間を考えると、一万円で売っても利益はほとんど出ないだろう。だから、実現されることは期待していない。
「本当は子供たちがお小遣いを出しあって、買えるぐらいの値段で販売されるといいんだけどな」
その代わり、申請者が自由に決められる特許使用料は、あくまで低く設定する。銅貨一枚、日本円にしておよそ千円だ。オートで決めようとしたらケタが二つくらい多かったため、破格の安さといえるだろう。子供の手に入りやすいよう、できるだけ多くの店に置いてほしいからだ。契約期間は一年としたので、それを払えば、一年間はトランプを商品として販売できる。
条件をすべて書き終えると、不備はないか、余計なことを書いてしまっていないかを確認して、精霊に申請した。すると十秒もかからないうちに、申請完了の文字が返ってきた。どうやら無事に受理されたらしい。
「わお、面白ーい」
大聖堂で一人、思わず拍手をしてしまうエリーゼだった。
後日、トランプの新しい遊びを思いつき、彼女は再び大聖堂に来ていた。
今度は他に人がいたが、気にしない。子供がお小遣いを精霊に預けるのはよくあることらしいので、エリーゼの存在が不審に思われることはないだろう。大聖堂は、誰にでも気軽に利用できる施設なのだ。
エリーゼは、順番待ちをしてから水晶玉に向かった。水晶玉に触れた瞬間、【特許の使用申請がありました】という文字が現れて、エリーゼはぽかんと口を開いた。急いで周りを見回したが、彼女のほうを気にしている人はいないのでほっとした。
精霊の御代を通した手続きは、超簡易的な精霊との契約なのだという。使用者が名前を口にし、情報を与える。精霊は公開してもいいと設定されている情報をその他大勢の使用者に公開するが、秘匿されている情報は決して漏らさない。精霊との契約は、人間同士が交わす契約とは違い、よほどのことがない限り破られることはない。
トランプの発案者がエリーゼだということは誰にも知られていないし、この画面はエリーゼ以外、誰にも見えていないはずだ。エリーゼは気を落ち着かせた。冷静に考えてみれば、喜ばしい事態である。小金を稼ぐことができたかもしれないのだ。
だが、次に表示された画面を見て、エリーゼはむせた。
「ゴホッ」
トランプの特許は売れていた。……ざっと見ただけで、一万件以上。
視界の端に【すべて入金済みです】という文言がちらついている。エリーゼがその金はどこに行ったのだろう、と、ちょっと意識しただけで、回答が表示された。
【バンクに自動転送されました。確認しますか?】
「あ、あの、あああああえええええと」
千円の入金が一万件。
(単純計算で、えと、待って……たんじゅんけいさんって、なんだっけ)
エリーゼが混乱している合間にも、その意思を読み取って精霊は処理を進めていく。
【エリーゼ・アラルド・ハイワーズのバンクを開きます】
【入金額、合計で白銀貨(正貨)四枚】
エリーゼは絶句した。
正貨というのは、ドワーフが作っていると言われる由緒正しい貨幣だ。人間が作る貨幣と同じく、価値が高い順に金貨、白銀貨、銀貨、銅貨がある。人間以外の種族は全て正貨で取引をしているらしいが、人間の市場には正貨なんてせいぜい銅貨ぐらいしか出回っていない。その銅貨も、人間の市場では普通の銅貨の何倍もの価値をもつ。
どうやら特許の申請を行う際に間違えて、貨幣の種類を正貨に設定してしまったらしい。しかも振り込まれた銅貨は、非常に珍しい白銀貨に換金されているようだ。白銀貨四枚は人間の市場において、途方もない金額に相当するはずである。
(なんで、こんなことに――)
エリーゼはその場にへたり込んだ。身体が震える。気がつくと、エリーゼに周囲の人々の視線が集まっていた。彼女の手を離れた水晶玉は、次に順番を待つ子供のところへふわふわと飛んでいく。
眩暈がした。胃が痛い。吐き気がする。
(お金を持ちすぎても、胃が痛くなるなんて……)
耐えきれずうずくまるエリーゼの顔を、人の好さそうな青年が覗き込む。だが、今は愛想笑いを浮かべる余裕もない。心配そうに声をかけてくる青年を無視して、エリーゼは呟いた。
「……さいあく」
身の丈に合わない幸運だとでも言うように、身体が拒絶反応を示す。楽しかった気分が台無しだ。
(チートなんて、くそくらえ)
心の中で悪態を吐くと、エリーゼは吐血した。
第二章 後宮と迷宮
エリーゼは十五歳の成人を迎えたら、冒険者という職に就こうと決めていた。
トランプの特許をとり、バンクに振り込まれていた使用料の金額を見て胃がやられてから十年。
胃に開いた穴は治癒魔法で治った。だが、その治療にはだいぶお金がかかったらしく、父に余計な金を使わせたと兄たちから責められた。エリーゼはあの事件のせいで大聖堂がトラウマになり、以来一度も行っていない。
「革の鎧に、短剣、各種野営用グッズ……全部揃ってる」
他にも替えの下着や裁縫道具、剣の手入れ用品や携帯食料など、冒険者にとっての必需品は、ひと抱えほどの背嚢――いわゆるリュックサックにすべて収められている。
朝日が昇り始めた空はうっすらと明るく、曇った窓硝子から白い光が差し込んでくる。エリーゼは、ほっと息を吐いた。
あのあとも大聖堂に近づこうとすると胃が痛くなり、結局エリーゼはお金を下ろすことができなかった。だから子守りなどで地味にお小遣い稼ぎをしながら、今日のために少しずつ揃えてきた。
なぜなら今日が、竜王の一五七年、四番目の月、二十六の日だからだ。
この世界では、一年が地球と同じく十二分割されていて、四季のようなものもある。よって、元の世界でいう四月二十六日とほぼ同じ。
つまり、エリーゼの十五歳の誕生日――成人となる日だった。
「よし、冒険者ギルドへ行こう!」
エリーゼは、決意も新たに小声で呟いた。
「冒険者ギルドで登録してから、冒険者の宿で待機して……日の出と共に王都脱出、と」
街を出るには、身分を証明するカードが要る。成人しているという証明だ。最も一般的なのが市民カードで、十五歳の誕生日以降なら、誰でも発行してもらうことができる。しかし、それを発行している場所は、大聖堂。エリーゼには近づくことができない。
そこで代わりとなるのがギルドカードだ。あらゆるギルドに登録できる最低年齢は十五歳。とはいえ商業ギルドなどは、成人後、数年の下積みを経験して師匠の許しを得てから登録するのが普通だった。成人直後でも登録できるのは、冒険者ギルドくらいだ。なぜなら冒険者ギルドの人員は、常に不足しているからである。
この世界において主な冒険の舞台となるのは、迷宮だ。迷宮とは、簡単に言えば永続的に魔物が出てくる洞窟である。階層構造になっていて、下の階層へ潜るほど魔物は強くなる。放置しておくとどんどん深くなるが、迷宮内の魔物をザコでもいいから倒し続ければ、それをある程度食い止められるのだ。
冒険者はクエストに応じてその迷宮の拡大を防いだり、珍しい魔物を倒して皮や牙を持ち帰ったりと、様々な任務をこなす。それらは危険を伴い、命を落とすこともある。冒険者は、この世で最も死に近い職業だ。
そんなわけで、やる気のある人間は誰でも受け入れてもらえる。見るからにただの女の子であるエリーゼでも、成人している以上、断られることはない。
(外暗いな……でも、誰も私を見てる気配はなし)
窓の外を確認し、兄たちへの手紙を残してこっそり部屋から出ようとした。
その時、ドアノブに手を伸ばしたエリーゼの前で、なぜか自動的に扉が開いた。
「……何をやっている」
扉の外には、長兄エイブリーが立っていた。
エリーゼより八歳年上の二十三歳。美貌は相変わらずで、すらりとしているがたくましい身体に、銀の鎧をつけている。その美貌と準男爵家の子息という出自が奏功し、名誉ある王家の騎士団に所属していた。
驚きのあまり何も言えないエリーゼを見て、エイブリーは顔を不愉快そうに歪めた。
エリーゼは気合いで言葉をひねり出す。
「ピクニックに、行こうかと、思いまして」
「こんな夜中にか? 門も開いていないのに?」
「アハハ、ハハ」
「気でも触れたか……母上のように精霊の加護も受けていないくせに。なんだその格好は? 冒険者にでもなる気か?」
図星を指され、エリーゼの身体がびくりと震えた。だが、エイブリーは気づかなかったようだ。手にしていた燭台を彼女に突きつけ、嘲笑うように言った。
「阿呆なだけで気を引けるのは父上だけだ。だがいつまでも父上にべったりと貼りついているようなら、俺は決して許さないぞ。あの方の役にも立てない無駄飯食らいの愛玩動物など、死んだほうがましだ。そうだろう?」
エイブリーは、国からもらっている稼ぎの全てを、父に貢いでいる。何が彼にそこまでさせるのか、エリーゼには未だにわからない。
もしかして、この場でバッサリやられてしまうのだろうか。エリーゼは生唾を呑んだ。エイブリーの腰には、長剣が提げられている。美しい装飾が施された銀の鞘に収められているが、お飾りではないだろう。戦争は頻発していると噂で聞くし、危険な魔物は次々に湧いてくる。国家を守護するという名目は伊達ではない。
エイブリーはエリーゼを睥睨したまま言った。
「安心するがいい。お前のような役立たずにも、使い道はある」
エリーゼはうなだれた。役に立たないのは本当だった。カロリーナのように美しさで男性を虜にして貢がせることはできない。エイブリーのように剣も扱えない。ステファンのように工芸品を作ることもできない。弟のリールは類稀な魔法の才能を持っていることがわかり、日々腕を磨いているが、彼のように魔法を使うこともできない。
唯一、計算だけは前世の知識のおかげで人並み以上にできるけれども、それを生かせるのはこの世界では商人くらいだ。準男爵家とはいえ、貴族の子女がやることではない。
エイブリーは父の名誉を守るため、エリーゼがそのような仕事に就くことを絶対に許さない。だから、彼は奉公に出ている姉のカロリーナとも折り合いが悪い。彼女の稼ぎで食べさせてもらい、騎士学校にも通わせてもらったくせに。
「ついて来い」
威圧的に命じられ、エリーゼは唇を噛みしめて頷いた。
エリーゼが連れていかれたのは、十九歳になった次男ステファンの部屋だった。
「わ……あ」
初めてその部屋に入った彼女は感嘆した。部屋中に工具や木切れ、鉄屑などが散乱している。壁に取りつけられた棚に並ぶのは、素晴らしい工芸品の数々。まるで小さな美術館のようだった。母を喜ばせ、父に褒められるために、ステファンは日々腕を磨いている。
自分が置かれている状況も忘れ、エリーゼは入り口近くの棚に置いてあったステンドグラスのような照明器具に見惚れていた。だが、すぐに部屋の主の言葉で、現状とおのれの境遇を思い出す。
「母上にそっくりの可愛らしい顔で、僕の作品に称賛の眼差しを向けてくれるなんて、ありがたすぎて涙が出るね。――今すぐそのガラス細工をぶち壊したくなる」
エリーゼは、顔を引き締めて俯く。
つかつかと歩み寄ってきたステファンは、その美しい細工物を手で薙ぎ払った。照明器具は、床に落ちてバラバラに砕け散る。
「母上似のその顔は、父上が賛美している芸術品だ。宝石すらも及ばないだろうに、僕の作ったガラクタなんかが出しゃばったら悪いだろう? 父上に叱られてしまう」
銀色の髪の毛と藍色の目を持つステファン。彼もまた美貌の持ち主だったが、顔立ちは父にも母にもあまり似ていない。鼻筋は家族の誰よりも細くて高い。目は母のようなアーモンド型でも父のような切れ長でもなく、猫のようにぱっちりしている。
彼はエイブリーより細身で力はないが、ある意味もっと危険だった。
ステファンは自分の容姿が家族の誰にも似ていないことに、強いコンプレックスを抱いているらしい。鬱屈した気持ちはすべてエリーゼに向けられていた。
「ああそうだ。この部屋にあるもの全部壊そう、そうしよう。だって母上に似ているその顔に比べたら、どれもガラクタなんだから――」
「よせ、ステファン。気持ちはわかるが、今はそんなことをしている場合ではない。お前には頼みがあると言っておいたはずだぞ」
今にも自室をめちゃくちゃにしそうだったステファンを、エイブリーが力ずくで止めた。ステファンの身長が百七十センチくらいだとすると、エイブリーは百九十センチぐらいあるかもしれない。だが、あまりのっぽに見えないのは、鍛えられた体躯とバランスの良い手足のせいだろう。
「明日の昼までに、これを多少見栄えのするように整えろ」
「……父上のため、なんだっけ。わかったよ兄上」
諦めたように言い、ステファンはいつの間にか持っていたナイフを手放した。
エリーゼは、ほっとして息を吐いた。エイブリーの威圧的な態度も重苦しいが、ステファンの激しい気性も恐ろしい。
「必要なものは昨日のうちに届けてやっただろう。頼んだぞ」
「ああ」
ステファンがおざなりに返事をすると、エイブリーはエリーゼを見もせずに部屋を出ていった。ステファンと二人取り残されたエリーゼは、なんとか落ち着こうと深呼吸を繰り返す。
これまで、ステファンから物理的に攻撃されたことはなかったと思う。けれども、いつされてもおかしくないと常々思っていただけに、この状況はあまりにも心臓に悪い。
固まっているエリーゼから視線を逸らし、ステファンは舌打ちをした。
綺麗な格好をするのは嬉しい。コルセットが苦しくドレスが重いということを除けば、着心地は悪くない。が――
姿見に映った自分の姿を眺めて、エリーゼは呆気にとられていた。
今、ステファンの手でヘアメイクも施されている。訳のわからない状況に耐えかねて、エリーゼは口を開いた。
「……何、ですか、これ」
「しゃべるなよ。化粧が崩れる」
「仮装大会でも……あるんですか? お兄様」
「お前はいつからそんなにお喋りになったんだ? いつもみたいに青い顔して怯えながら、役立たずらしく縮こまっていろよ」
「でも、なんだか」
ありえない、とわかってはいる。けれどステファンがこんなに自分の近くにいて、自分に触れ、自分のために何かをしてくれるなんて、生まれて初めてのことだった。
「十五歳の成人を、祝われているような気持ちなんですけれど――」
浮ついた台詞は、言い終える前に遮られた。気がつけば、目の前にナイフが突きつけられていた。
ステファンは、ナイフを持っていない方の手でエリーゼの首を軽く絞めた。短剣の切っ先を揺らしながら、底冷えするような声で言う。
「なんで僕たちが、お前なんかの成人を祝ってやらないといけないんだ!?」
そうですよね、とエリーゼはすぐに思い直した。生まれて十五年も経つのに、肉親との関係は冷え冷えとしている。だが、それも当然のことだった。エリーゼは生まれてから今まで、その状況を打開するために努力したことは一度もない。どうせ十五歳になったら、この家から逃げ出す予定だったのだから。
一瞬でも、勘違いした自分が恥ずかしい。後悔する彼女をさらに責め立てるように、ステファンがその手に込める力を強めた。
「お前なんかを、妹だと思ったことはない!」
「…っ、にい、さま」
整えられていた髪が、ぐしゃりと崩れる。
早速使ってみようとして、エリーゼは固まった。どうやっても、紙のトランプのように切ることができない。
「……やっぱ紙じゃなきゃだめだ」
エリーゼは唸った。この世界にも紙はあるが、前世の世界に比べてずっと高価なのだ。そもそも無一文の彼女には買うことができない。
「まあ……上手くいくなんてあんまり思ってなかったし……」
負け惜しみのようなことを言いながら、エリーゼは木のトランプを布に包んだ。
「トランプを使うことが目的じゃないし」
胸の内にある計画を反芻して彼女は笑った。そして包みを抱えて部屋を出る。
(これが上手くいったら、女子高生の時の知識ってチートじゃん!)
エリーゼははしゃいでいた。屋敷を出てすぐに、庭で次兄ステファンと遭遇するまでは。
彼の深い藍色の瞳がエリーゼを映す。
(ころされる)
思わずずり、と後ずさった。咄嗟に周囲を見回したが、庭には他に誰もいない。屋敷の前の通りにも人の気配は感じられない。ステファンが無表情のまま自分のほうへ踏み出すのを見て、エリーゼは青ざめる。
(殺されるほど悪いことなんて、していないはずなのに)
そう思いながら、逃げるように門の外へ飛び出した。
今日の外出の目的は、大聖堂と呼ばれる施設を利用してみることだった。そこはこの世界における役所のようなものだが、各種申請を受け付けてくれるのは、人間ではなく精霊だという。
父アラルドは、膨大な蔵書を有している。なんでも母を手に入れるのに色々と策を練らなくてはならず、そのために本を大量に集めたのだそうだ。父に頼んでみたら、書斎の本を読んでいいと言われたため、エリーゼはこの世界について色々と知ることができた。
この世界、大陸、あるいは惑星を称してアールアンドという。かつて勇者が魔王を倒したとの史実があり、魔物も実在する剣と魔法の世界だ。エルフやドワーフといった異種族も存在している。そして精霊も。前世で女子高生だった頃からファンタジーに憧れていたエリーゼは、それらに興味津々だった。
彼女は、手描きの地図を見下ろした。
「……えっと、確か大聖堂は、この地区にあったはずだよね」
地図を見ながら歩いていくと、やがて人通りが多い道へ出た。ここアールジス王国の王都アーハザンタスの中央通りで、王の道と呼ばれている。エリーゼは左右を見渡した。道の両脇には露店がたくさん出ていて、お客が商品を値切る声などで賑わっている。その活気のある様子に、彼女は顔を綻ばせた。
まっすぐ行けば大聖堂に着くはずだ。それを通りすぎて、北に進めば王宮がある。通りかかった親切な女性に道を確認したあと、エリーゼは堂々とした足どりで再び歩き出した。迷子だと思われたら家に連れ戻されかねない。悪漢に目を付けられる可能性もある。
(準男爵家とはいえ、貴族ってだけで利用価値があるかもしれないし)
兄たちの視線によって鍛えられたエリーゼの視線感知能力によれば、屋敷から出ていくところはステファン以外の誰にも見られていないはずだ。それでも一応警戒しながら歩いていくと、大きな広場に行き当たった。広場の中央には、昔の王の像が建てられている。その右手には、継ぎ目のない白い壁でできた円筒形の建物があった。
幅の広い階段を上り、庇をくぐると、中は精霊神教会よりもがらんとしていた。手前半分は薄暗いのに、奥はぼんやりと明るい。
その光源を見つけて、エリーゼは目を見開いた。
「……精霊の御代」
大人の頭くらいの大きさの水晶玉が、いくつも宙に浮いている。それらはつやつやとした白い壁を淡い光で照らしながら、不規則にゆっくりと宙を動きまわっていた。
(これが精霊……の宿った何か)
大聖堂は無人の施設で、精霊の御代と呼ばれるその水晶玉が、来訪者の用件に応じてくれる。エリーゼが奥へ入っていくと、一つの水晶玉が音もなく動いてエリーゼのところへやってきた。
「不思議……」
思わずそう呟いてしまい、エリーゼは口を覆った。きょろきょろとあたりを見回す。そして自分以外に人がいないことを確かめて、胸を撫で下ろした。
「エリーゼ・アラルド・ハイワーズ!」
水晶玉に触れて名前を言うと、それはひときわ強い光を放つ。
すると、目の前に立体映像が浮かび上がった。銀行のATMの画面に似ている。
「……おお」
大聖堂は役所の役割の他に、銀行のような機能もある。国王が精霊と契約して、それらの仕事をお願いしているのだ。元の世界では機械が行っていた精緻で便利な機能を、精霊の力で実現している。
「特許の申請って、どうやるんだろう?」
この世界にも、特許という仕組みがある。発明したものを精霊に申請し、登録されると、それが商品化された際、発明者にお金が入るのだ。
エリーゼが今回申請するのは、自作のトランプだ。トランプはこの世界にはないだろうし、似たようなものがあったとしたら、精霊が膨大な情報と照合して、そう教えてくれるらしい。
エリーゼの声に反応したのか、立体映像は特許の申請画面に切り替わった。まるで意思を持ったコンピュータのようだ。便利、と呟きながら、エリーゼはとりあえずトランプの試作品を水晶に押しつけてみた。試作品がある場合、精霊が引き取ってくれ、特許が下りた場合は見本としてホログラムのようなもので公開されるという。
(二度と戻ってこないらしいけどね)
ぐいぐいと押しつけていたら、トランプはシュン! と軽い音を立てて消え、エリーゼは水晶玉に鼻を打ちつけてしまった。しばらく身悶えたあと、エリーゼは再度あたりを確認した。やはり視線は感じない。
特許申請するところは、できるだけ誰にも見られたくなかった。トランプのような複雑なものを五歳の子供が思いつき、しかも自ら特許を申請するなんて不自然だ。
売れなくてもいい。見向きもされなくたっていい。それどころか、特許が下りなくてもかまわない。
(精霊が受け付けて、対処してくれるっていうのがすごいんだよ)
彼らは間違いなく実在している。水晶玉を通してではあるが、その存在を初めて感じてエリーゼは頬を紅潮させる。
(この特許申請のやり方ひとつとっても、私には十二分にファンタジーだよ)
内心浮かれながら、エリーゼは現れた画面に入力していった。
精霊が司るこの手続きにおいて、偽りの情報を登録することはできないが、非公開設定にすることはできる。名前はもちろんのこと、年齢や性別などあらゆる項目を秘匿しようとしたが、エリーゼは少し考えて種族だけは開示した。年齢や性別を邪推されても、特になんとも思わない。けれども、種族だけは人間以外のものに間違われると、なんだか変な感じがする。
「人間でいいじゃない」
この世界に生まれ変わって良かったとは、まだ思えない。けれど、また人間に生まれることができたのは良かったと思う。虫とかに生まれるよりよっぽどマシだ。
そう思って頷きながら、エリーゼは入力を続けていく。トランプの概要、理想の材質は紙であること、表面に描かれた模様や数字について。そして遊び方も知っている限り入力しておいた。
それらの情報は水晶玉に触れるだけで、誰にでも見られるようになるという。
(ハイテクだなー……)
万が一、誰かが商品化してくれた時のことを考えて、価格は銅貨十枚くらいにしてほしいと備考欄に書き添えておいた。日本円に換算すれば、およそ一万円だ。この世界の常識から言っても、子供用の玩具にかけるような金額ではない。だが材料が紙であることや作る手間を考えると、一万円で売っても利益はほとんど出ないだろう。だから、実現されることは期待していない。
「本当は子供たちがお小遣いを出しあって、買えるぐらいの値段で販売されるといいんだけどな」
その代わり、申請者が自由に決められる特許使用料は、あくまで低く設定する。銅貨一枚、日本円にしておよそ千円だ。オートで決めようとしたらケタが二つくらい多かったため、破格の安さといえるだろう。子供の手に入りやすいよう、できるだけ多くの店に置いてほしいからだ。契約期間は一年としたので、それを払えば、一年間はトランプを商品として販売できる。
条件をすべて書き終えると、不備はないか、余計なことを書いてしまっていないかを確認して、精霊に申請した。すると十秒もかからないうちに、申請完了の文字が返ってきた。どうやら無事に受理されたらしい。
「わお、面白ーい」
大聖堂で一人、思わず拍手をしてしまうエリーゼだった。
後日、トランプの新しい遊びを思いつき、彼女は再び大聖堂に来ていた。
今度は他に人がいたが、気にしない。子供がお小遣いを精霊に預けるのはよくあることらしいので、エリーゼの存在が不審に思われることはないだろう。大聖堂は、誰にでも気軽に利用できる施設なのだ。
エリーゼは、順番待ちをしてから水晶玉に向かった。水晶玉に触れた瞬間、【特許の使用申請がありました】という文字が現れて、エリーゼはぽかんと口を開いた。急いで周りを見回したが、彼女のほうを気にしている人はいないのでほっとした。
精霊の御代を通した手続きは、超簡易的な精霊との契約なのだという。使用者が名前を口にし、情報を与える。精霊は公開してもいいと設定されている情報をその他大勢の使用者に公開するが、秘匿されている情報は決して漏らさない。精霊との契約は、人間同士が交わす契約とは違い、よほどのことがない限り破られることはない。
トランプの発案者がエリーゼだということは誰にも知られていないし、この画面はエリーゼ以外、誰にも見えていないはずだ。エリーゼは気を落ち着かせた。冷静に考えてみれば、喜ばしい事態である。小金を稼ぐことができたかもしれないのだ。
だが、次に表示された画面を見て、エリーゼはむせた。
「ゴホッ」
トランプの特許は売れていた。……ざっと見ただけで、一万件以上。
視界の端に【すべて入金済みです】という文言がちらついている。エリーゼがその金はどこに行ったのだろう、と、ちょっと意識しただけで、回答が表示された。
【バンクに自動転送されました。確認しますか?】
「あ、あの、あああああえええええと」
千円の入金が一万件。
(単純計算で、えと、待って……たんじゅんけいさんって、なんだっけ)
エリーゼが混乱している合間にも、その意思を読み取って精霊は処理を進めていく。
【エリーゼ・アラルド・ハイワーズのバンクを開きます】
【入金額、合計で白銀貨(正貨)四枚】
エリーゼは絶句した。
正貨というのは、ドワーフが作っていると言われる由緒正しい貨幣だ。人間が作る貨幣と同じく、価値が高い順に金貨、白銀貨、銀貨、銅貨がある。人間以外の種族は全て正貨で取引をしているらしいが、人間の市場には正貨なんてせいぜい銅貨ぐらいしか出回っていない。その銅貨も、人間の市場では普通の銅貨の何倍もの価値をもつ。
どうやら特許の申請を行う際に間違えて、貨幣の種類を正貨に設定してしまったらしい。しかも振り込まれた銅貨は、非常に珍しい白銀貨に換金されているようだ。白銀貨四枚は人間の市場において、途方もない金額に相当するはずである。
(なんで、こんなことに――)
エリーゼはその場にへたり込んだ。身体が震える。気がつくと、エリーゼに周囲の人々の視線が集まっていた。彼女の手を離れた水晶玉は、次に順番を待つ子供のところへふわふわと飛んでいく。
眩暈がした。胃が痛い。吐き気がする。
(お金を持ちすぎても、胃が痛くなるなんて……)
耐えきれずうずくまるエリーゼの顔を、人の好さそうな青年が覗き込む。だが、今は愛想笑いを浮かべる余裕もない。心配そうに声をかけてくる青年を無視して、エリーゼは呟いた。
「……さいあく」
身の丈に合わない幸運だとでも言うように、身体が拒絶反応を示す。楽しかった気分が台無しだ。
(チートなんて、くそくらえ)
心の中で悪態を吐くと、エリーゼは吐血した。
第二章 後宮と迷宮
エリーゼは十五歳の成人を迎えたら、冒険者という職に就こうと決めていた。
トランプの特許をとり、バンクに振り込まれていた使用料の金額を見て胃がやられてから十年。
胃に開いた穴は治癒魔法で治った。だが、その治療にはだいぶお金がかかったらしく、父に余計な金を使わせたと兄たちから責められた。エリーゼはあの事件のせいで大聖堂がトラウマになり、以来一度も行っていない。
「革の鎧に、短剣、各種野営用グッズ……全部揃ってる」
他にも替えの下着や裁縫道具、剣の手入れ用品や携帯食料など、冒険者にとっての必需品は、ひと抱えほどの背嚢――いわゆるリュックサックにすべて収められている。
朝日が昇り始めた空はうっすらと明るく、曇った窓硝子から白い光が差し込んでくる。エリーゼは、ほっと息を吐いた。
あのあとも大聖堂に近づこうとすると胃が痛くなり、結局エリーゼはお金を下ろすことができなかった。だから子守りなどで地味にお小遣い稼ぎをしながら、今日のために少しずつ揃えてきた。
なぜなら今日が、竜王の一五七年、四番目の月、二十六の日だからだ。
この世界では、一年が地球と同じく十二分割されていて、四季のようなものもある。よって、元の世界でいう四月二十六日とほぼ同じ。
つまり、エリーゼの十五歳の誕生日――成人となる日だった。
「よし、冒険者ギルドへ行こう!」
エリーゼは、決意も新たに小声で呟いた。
「冒険者ギルドで登録してから、冒険者の宿で待機して……日の出と共に王都脱出、と」
街を出るには、身分を証明するカードが要る。成人しているという証明だ。最も一般的なのが市民カードで、十五歳の誕生日以降なら、誰でも発行してもらうことができる。しかし、それを発行している場所は、大聖堂。エリーゼには近づくことができない。
そこで代わりとなるのがギルドカードだ。あらゆるギルドに登録できる最低年齢は十五歳。とはいえ商業ギルドなどは、成人後、数年の下積みを経験して師匠の許しを得てから登録するのが普通だった。成人直後でも登録できるのは、冒険者ギルドくらいだ。なぜなら冒険者ギルドの人員は、常に不足しているからである。
この世界において主な冒険の舞台となるのは、迷宮だ。迷宮とは、簡単に言えば永続的に魔物が出てくる洞窟である。階層構造になっていて、下の階層へ潜るほど魔物は強くなる。放置しておくとどんどん深くなるが、迷宮内の魔物をザコでもいいから倒し続ければ、それをある程度食い止められるのだ。
冒険者はクエストに応じてその迷宮の拡大を防いだり、珍しい魔物を倒して皮や牙を持ち帰ったりと、様々な任務をこなす。それらは危険を伴い、命を落とすこともある。冒険者は、この世で最も死に近い職業だ。
そんなわけで、やる気のある人間は誰でも受け入れてもらえる。見るからにただの女の子であるエリーゼでも、成人している以上、断られることはない。
(外暗いな……でも、誰も私を見てる気配はなし)
窓の外を確認し、兄たちへの手紙を残してこっそり部屋から出ようとした。
その時、ドアノブに手を伸ばしたエリーゼの前で、なぜか自動的に扉が開いた。
「……何をやっている」
扉の外には、長兄エイブリーが立っていた。
エリーゼより八歳年上の二十三歳。美貌は相変わらずで、すらりとしているがたくましい身体に、銀の鎧をつけている。その美貌と準男爵家の子息という出自が奏功し、名誉ある王家の騎士団に所属していた。
驚きのあまり何も言えないエリーゼを見て、エイブリーは顔を不愉快そうに歪めた。
エリーゼは気合いで言葉をひねり出す。
「ピクニックに、行こうかと、思いまして」
「こんな夜中にか? 門も開いていないのに?」
「アハハ、ハハ」
「気でも触れたか……母上のように精霊の加護も受けていないくせに。なんだその格好は? 冒険者にでもなる気か?」
図星を指され、エリーゼの身体がびくりと震えた。だが、エイブリーは気づかなかったようだ。手にしていた燭台を彼女に突きつけ、嘲笑うように言った。
「阿呆なだけで気を引けるのは父上だけだ。だがいつまでも父上にべったりと貼りついているようなら、俺は決して許さないぞ。あの方の役にも立てない無駄飯食らいの愛玩動物など、死んだほうがましだ。そうだろう?」
エイブリーは、国からもらっている稼ぎの全てを、父に貢いでいる。何が彼にそこまでさせるのか、エリーゼには未だにわからない。
もしかして、この場でバッサリやられてしまうのだろうか。エリーゼは生唾を呑んだ。エイブリーの腰には、長剣が提げられている。美しい装飾が施された銀の鞘に収められているが、お飾りではないだろう。戦争は頻発していると噂で聞くし、危険な魔物は次々に湧いてくる。国家を守護するという名目は伊達ではない。
エイブリーはエリーゼを睥睨したまま言った。
「安心するがいい。お前のような役立たずにも、使い道はある」
エリーゼはうなだれた。役に立たないのは本当だった。カロリーナのように美しさで男性を虜にして貢がせることはできない。エイブリーのように剣も扱えない。ステファンのように工芸品を作ることもできない。弟のリールは類稀な魔法の才能を持っていることがわかり、日々腕を磨いているが、彼のように魔法を使うこともできない。
唯一、計算だけは前世の知識のおかげで人並み以上にできるけれども、それを生かせるのはこの世界では商人くらいだ。準男爵家とはいえ、貴族の子女がやることではない。
エイブリーは父の名誉を守るため、エリーゼがそのような仕事に就くことを絶対に許さない。だから、彼は奉公に出ている姉のカロリーナとも折り合いが悪い。彼女の稼ぎで食べさせてもらい、騎士学校にも通わせてもらったくせに。
「ついて来い」
威圧的に命じられ、エリーゼは唇を噛みしめて頷いた。
エリーゼが連れていかれたのは、十九歳になった次男ステファンの部屋だった。
「わ……あ」
初めてその部屋に入った彼女は感嘆した。部屋中に工具や木切れ、鉄屑などが散乱している。壁に取りつけられた棚に並ぶのは、素晴らしい工芸品の数々。まるで小さな美術館のようだった。母を喜ばせ、父に褒められるために、ステファンは日々腕を磨いている。
自分が置かれている状況も忘れ、エリーゼは入り口近くの棚に置いてあったステンドグラスのような照明器具に見惚れていた。だが、すぐに部屋の主の言葉で、現状とおのれの境遇を思い出す。
「母上にそっくりの可愛らしい顔で、僕の作品に称賛の眼差しを向けてくれるなんて、ありがたすぎて涙が出るね。――今すぐそのガラス細工をぶち壊したくなる」
エリーゼは、顔を引き締めて俯く。
つかつかと歩み寄ってきたステファンは、その美しい細工物を手で薙ぎ払った。照明器具は、床に落ちてバラバラに砕け散る。
「母上似のその顔は、父上が賛美している芸術品だ。宝石すらも及ばないだろうに、僕の作ったガラクタなんかが出しゃばったら悪いだろう? 父上に叱られてしまう」
銀色の髪の毛と藍色の目を持つステファン。彼もまた美貌の持ち主だったが、顔立ちは父にも母にもあまり似ていない。鼻筋は家族の誰よりも細くて高い。目は母のようなアーモンド型でも父のような切れ長でもなく、猫のようにぱっちりしている。
彼はエイブリーより細身で力はないが、ある意味もっと危険だった。
ステファンは自分の容姿が家族の誰にも似ていないことに、強いコンプレックスを抱いているらしい。鬱屈した気持ちはすべてエリーゼに向けられていた。
「ああそうだ。この部屋にあるもの全部壊そう、そうしよう。だって母上に似ているその顔に比べたら、どれもガラクタなんだから――」
「よせ、ステファン。気持ちはわかるが、今はそんなことをしている場合ではない。お前には頼みがあると言っておいたはずだぞ」
今にも自室をめちゃくちゃにしそうだったステファンを、エイブリーが力ずくで止めた。ステファンの身長が百七十センチくらいだとすると、エイブリーは百九十センチぐらいあるかもしれない。だが、あまりのっぽに見えないのは、鍛えられた体躯とバランスの良い手足のせいだろう。
「明日の昼までに、これを多少見栄えのするように整えろ」
「……父上のため、なんだっけ。わかったよ兄上」
諦めたように言い、ステファンはいつの間にか持っていたナイフを手放した。
エリーゼは、ほっとして息を吐いた。エイブリーの威圧的な態度も重苦しいが、ステファンの激しい気性も恐ろしい。
「必要なものは昨日のうちに届けてやっただろう。頼んだぞ」
「ああ」
ステファンがおざなりに返事をすると、エイブリーはエリーゼを見もせずに部屋を出ていった。ステファンと二人取り残されたエリーゼは、なんとか落ち着こうと深呼吸を繰り返す。
これまで、ステファンから物理的に攻撃されたことはなかったと思う。けれども、いつされてもおかしくないと常々思っていただけに、この状況はあまりにも心臓に悪い。
固まっているエリーゼから視線を逸らし、ステファンは舌打ちをした。
綺麗な格好をするのは嬉しい。コルセットが苦しくドレスが重いということを除けば、着心地は悪くない。が――
姿見に映った自分の姿を眺めて、エリーゼは呆気にとられていた。
今、ステファンの手でヘアメイクも施されている。訳のわからない状況に耐えかねて、エリーゼは口を開いた。
「……何、ですか、これ」
「しゃべるなよ。化粧が崩れる」
「仮装大会でも……あるんですか? お兄様」
「お前はいつからそんなにお喋りになったんだ? いつもみたいに青い顔して怯えながら、役立たずらしく縮こまっていろよ」
「でも、なんだか」
ありえない、とわかってはいる。けれどステファンがこんなに自分の近くにいて、自分に触れ、自分のために何かをしてくれるなんて、生まれて初めてのことだった。
「十五歳の成人を、祝われているような気持ちなんですけれど――」
浮ついた台詞は、言い終える前に遮られた。気がつけば、目の前にナイフが突きつけられていた。
ステファンは、ナイフを持っていない方の手でエリーゼの首を軽く絞めた。短剣の切っ先を揺らしながら、底冷えするような声で言う。
「なんで僕たちが、お前なんかの成人を祝ってやらないといけないんだ!?」
そうですよね、とエリーゼはすぐに思い直した。生まれて十五年も経つのに、肉親との関係は冷え冷えとしている。だが、それも当然のことだった。エリーゼは生まれてから今まで、その状況を打開するために努力したことは一度もない。どうせ十五歳になったら、この家から逃げ出す予定だったのだから。
一瞬でも、勘違いした自分が恥ずかしい。後悔する彼女をさらに責め立てるように、ステファンがその手に込める力を強めた。
「お前なんかを、妹だと思ったことはない!」
「…っ、にい、さま」
整えられていた髪が、ぐしゃりと崩れる。
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