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しおりを挟むプロローグ すべてのはじまり
少女は高校のホームルームが終わると、急ぎ足で教室を出た。その日はたまたま、母から用事を頼まれていたのだ。いつも一緒に帰宅する友人たちを残し、一人で校門へ向かう。
ペンキの剥がれかけた校門のそばに、常にはない影が落ちていることに少女は気づかなかった。少女はその影の主に、背後から身体を刺し貫かれた。
「な、んで」
少女は腹を見下ろした。だが目が霞んでいて、右脇腹から突き出る刃先が見えない。
鉄に似た匂いがする。そう思った直後、身体が膝から崩れ落ちた。腹が燃えるように熱い。
(息が、苦しい)
少女は浅い息を小刻みに繰り返して、歩道のタイルに頬を擦りつけた。
身体が動かないので、犯人の顔を見ることはできない。けれど背後から、黒々とした影が伸びているのはわかった。それがゆらりと動くと、少女の背中から凶器が引き抜かれた。焼けつくような痛みを感じて、少女は声にならない悲鳴をあげる。
犯人が、校舎のほうへ足を向ける気配がした。
(殺されるほど悪いことなんて、私はしていない)
だから、きっと無差別殺人者なのだろうと少女は思った。
すでに痛みは感じなくなっている。自分はもう助からないと直感した。
そのせいかもしれない、不思議と勇気のようなものが出てきたのは。
「人殺しぃいいいい!!」
残りの力を振り絞って叫んだ。
帰宅のため校門に向かっているであろう、学友たちを守るために。
だが声が届いたのかはわからない。
叫び終えたあと一呼吸すると、少女の意識はふつりと途絶えた。
第一章 美しい家族
飛び起きると、ベッドの上だった。エリーゼは、また前世で殺された時の夢を見ていたことに気づき、呆然とする。視界にあるのは破れた壁紙に、煤けた床。窓を見ると、冷や汗が玉のように浮かぶ自分の顔が映っていた。異世界に転生して五年が経っている。新しい顔も、もう見慣れていた。
(赤い髪と目……)
白い肌に小さな鼻、細い顎。日本人とはかけ離れた顔立ち。肩に垂れる髪の毛先をしばし弄んでいたが、やがてベッドから降りた。朝食をとらねばならない。
クローゼットから、姉のお下がりの洋服を出して身につける。毛羽立った絨毯の上を歩いて扉に向かった。
扉を開くと蝶番が大きな音を立てたので、エリーゼはどきりとした。耳を澄まし、人の気配がないことを確認して部屋から出る。足音を忍ばせて階段を下り、食堂へ向かった。
食堂の前にたどりつくと、中から話し声が聞こえてくる。なぜか生まれつき理解できていた、異世界の言語。重い扉を開けてエリーゼが入ると、話し声がやんだ。
五つの視線が彼女に集中する。視線の主であるエリーゼの家族たちは、みな目を瞠るほど美しい。彼らに感情のない眼で見すえられ、エリーゼは入り口で立ち止まった。
「おはよう、エリーゼ」
甘やかな微笑みを浮かべてそう言ったのは、食堂の最奥に座る父――ハイワーズ準男爵家当主アラルド・アラルド・ハイワーズだ。
「アラルド」は屋敷を建てた曽祖父の名で、父はファーストネームとミドルネームの両方とも彼にあやかったようだ。ちなみに、エリーゼのミドルネームも同じである。
父が食堂に顔を出すのは珍しいので、エリーゼは少々面食らった。おそらく、母に言われて渋々寝室から出てきたのだろう。
「おいで、僕の可愛い宝石の娘」
烏の濡羽色の髪。作り物のように整った顔。夜の森を思わせる緑色の瞳は、知性を感じさせる。にもかかわらず、自身の言葉で空気が一変したのを、彼は察することができないようだ。
彼はエリーゼを子供たちの中で特別甘やかし、贔屓していた。
「僕の膝の上においで」
すると、エリーゼに冷たい視線が突き刺さる。視線の主は、彼女から見て父の右側に座っている兄二人。
長兄のエイブリーは十三歳。母譲りの小豆色の髪と、父に精悍さを加えたような美貌、そして父よりも恵まれた体格をした彼は、エリーゼを睥睨している。
次兄のステファンは九歳。銀髪と藍色の瞳を持ち、美しい顔立ちをしているが、両親のどちらにも似ていない。そしてその美貌は今、激しい負の感情で歪んでいた。
エリーゼは二人を避けるように、反対側を通って父のほうへ向かう。
「ねえさま」
「……おはよ、リール」
ステファンの向かいの席に座る一つ年下の弟リール。彼を見て、エリーゼは顔を綻ばせた。
リールの髪は鮮やかな赤色で、瞳は深い森のような緑色だ。面差しには父と似た華やかさがあるが、丸く大きな目や顔の輪郭は母やエリーゼに似ている。
食堂内の凍りつく空気には気づいていないように見える彼に微笑みかけたあと、エリーゼはその隣の少女に目をやった。
「おはよう、お姉さま」
姉のカロリーナは、エリーゼを見やると少し笑った。赤い唇が、十四歳の少女とは思えないほど妖艶だ。少しくすんだ赤毛に、母とエリーゼと同じ赤色の瞳。顔立ちは、父をそのまま女性らしくしたようだった。一家の食い扶持を稼ぐため奉公に出ていて、家にはほとんど帰ってこない。
「お姉さまがいるの、珍しいね」
「本当は帰ってくるつもりじゃなかったのよ。だけど、お暇を出されてしまったの」
艶やかに微笑みながら、千切ったパンを口に運ぶ姉。
奉公先で苦労しているのだろう。エリーゼは胸が詰まった。
「無理しないでね。……お仕事、大変なんでしょ?」
「ハイワーズ家のために尽くせるのだから、幸せよ」
父アラルドに敬意の眼差しを向けたあと、姉は優しく微笑む。子供たちは父のせいで貧しい生活を強いられ、苦労させられている。にもかかわらず、そんな父のために尽くすことが幸せだという。姉の言動が理解できず、エリーゼは引きつった笑いを浮かべた。
そして何気なく食卓に視線を向けて、エリーゼは驚いた。
カロリーナが食べているのは、粗悪な黒パンとしなびた野菜のスープだ。それに対して、父アラルドの前には真っ白なパンに肉厚のベーコン、果物の籠や蜂蜜の入った硝子瓶が並んでいる。
我が目を疑いまばたきを繰り返すエリーゼに、父アラルドは優しく微笑みかけた。立ち上がって彼女に歩み寄ると、優雅な動作で抱き上げる。
「ほら、お父様と一緒に食べよう。本当ならお行儀が悪いのだけれど、エリーゼはお母さまに似て可愛いからしかたないね」
エリーゼは父の言葉に応えず、ただ目を伏せる。再び兄たちの突き刺さるような視線を感じ、こっそり溜息を吐いた。
(この人の気まぐれに、どうしていちいち反応するかな)
緊張で身を硬くしながら、エリーゼは父の顔をちらりと見上げる。
絶世の美貌という言葉がこれほど当てはまる人はいない。その異常なまでの美しさが他人はもちろんのこと、血の繋がった子供たちをも虜にし、服従させているのだろう。
「エリーゼはお母さまと同じように、甘いものが好きだったね」
着席してエリーゼを膝の上に乗せると、父は微笑みながら銀のスプーンを手にとった。蜂蜜をすくい、エリーゼの口もとに差し出してくる。
甘い匂いを鼻先に突きつけられた彼女は、空腹だったこともあり、誘惑に負けて口を開いた。父に手ずから食べさせてもらったエリーゼを見て、兄たちの表情が一層険しくなる。
一緒の家で暮らしていながら、父母と子供たちの生活水準には、なぜか雲泥の差がある。子供たちは貴族の家に生まれたにもかかわらず、ほとんど自活していた。
だが、誰も文句は言わないし、エリーゼも言えない。
(お父さまが美しすぎるから)
完璧な容貌。優美な動作。彼の玲瓏な声で命じられれば、赤の他人でも従わなければいけないような気になってしまうのだ。実際に、見知らぬおじさんが庭の掃除をやらされていたこともある。
「……お母さまはどうしたの?」
静寂に耐えかねたエリーゼが問うと、アラルドは朗らかに答えた。
「具合が悪くてね、寝ているよ。君たちと朝食をとりたがっていたのだけれど」
可哀想にね、と父は囁いた。
「お母さまの精霊は、その……元気、なの?」
この世界には、精霊と呼ばれる存在がいる。母アイリスは、その加護を受けているらしい。それがどういうことなのか、エリーゼにはよくわからない。だが精霊の活動と母の体調には、何か関係があるようだ。
エリーゼが言葉を探しながら問うと、アラルドは強い口調で答えた。
「邪魔なぐらいにね」
毒を含んだ言い方に、エリーゼは首を傾げる。精霊が元気すぎると、何か不都合があるのだろうか。
エリーゼは母の姿を思い浮かべた。自分と瓜二つの容姿。はにかんだような笑顔。花壇の前に座って花を愛でる白い横顔。だが、その目の焦点は合っておらず、時おり意味のわからないことを呟く。精霊の加護を受ける人間は、「精霊に愛されている」と表現されるが、そもそもそんな母が、なぜ精霊に愛されているのだろう。
「えっと……あー、どうして精霊は、お母さまを愛しているの?」
「アイリスがとても可愛いからだよ」
そのアラルドの言葉は揺るぎなかった。父の顔を見上げたエリーゼは目を見開く。本気でそう思っているとしか思えない笑顔がそこにある。
父はエリーゼを抱いて歌うように言う。
「アイリスの瞳と同じ色の石がついたネックレスを買ったのだけれど、彼女に似合うかな?」
えっ、とエリーゼは動揺して思わず声を出した。家には、そんなものを買う金銭的余裕はないはずだ。カロリーナが視線をちらと上げて父を見る。エイブリーは一瞬眉根を寄せた。
「イヤリングと指輪も買おうと思ったのだけれど、アイリスはイヤリングを嫌がるし、指輪はすぐに壊してしまうから。ああそうだ、アイリスにそっくりな君に似合うなら、彼女にも似合うかもしれないね、エリーゼ?」
そう言って父がエリーゼの目の前にぶら下げたのは、赤色の宝石が付いた金の鎖。エリーゼは口端を引きつらせた。子供たちが着ている襤褸や寂れた屋敷との対比に眩暈を覚える。
「ああ、やっぱり似合うね。同じ色味のドレスも仕立てようかな――カロリーナ、手配しておくれ」
「はい、お父様……ですが、その……お恥ずかしい話なのですけど、お給金をもらえるのが一週間後で……」
「一週間後でも構わないよ。それで最高のドレスができるのならね」
父が微笑みながら当然のように言ったので、エリーゼは慌てて口を挟んだ。
「だけど、お姉さまのお金はお兄様が学校に行くための――」
「大丈夫よエリーゼ」
彼女の言葉を遮って、カロリーナは微笑む。
「必ずお父様のお眼鏡に適うドレスを用意するわ」
言うが早いか、ただでさえ少ない食事を残して姉は席を立った。
「奉公先へ戻るわね」
その短い言葉を残し、彼女は食堂を後にする。それを見送ると、父は優雅に食事を再開した。
やはり、この家の親子関係は到底理解できない。一緒にいるうちに、自分までおかしくなってしまいそうだ。姉が座っていた席を呆然と見つめながら、エリーゼは心の中で強く誓う。
(早くこの家を出よう)
目の前に花の蜜を塗ったラスクを並べられても、胸が詰まって食べられそうになかった。
「……お腹減った」
自室で、エリーゼは靴を脱ぎながら呟いた。ドレスも脱いで、肌着の上に襤褸の肌着をもう一枚重ねる。ひび割れた窓の向こうは藍色に染まっていた。
「もう夜か」
まだ残ってるかな、と考えながら、彼女は忍び足で屋敷を抜け出した。
貴族街はいつもと同じように閑散としていた。蔦に覆われ、幽霊屋敷然とした屋敷もちらほら見受けられる。この辺りでは貧しさのあまり、屋敷を手放す貴族が多いのだ。
南へずっと歩いていくと、裕福な庶民が暮らす区域に入った。貧窮した貴族の屋敷よりもよほど小ぎれいな家々が軒を連ね、夕食時の活気ある笑い声が聞こえてくる。
やがて目的の建物が見えた。まっすぐに伸びた、白く四角い塔。天辺近くに幾何学的な模様が描かれている。精霊を表す円を中心として、光輝を表す線が放射状に伸びているものだ。
その建物――精霊神教会の前には、誰も並んでいない。
(配給終わっちゃったの?)
焦って駆け込むと、中で話をしていた白い服の男性が言葉を切った。彼の前に座る、エリーゼと同じくらいか、少し大きな子供たちが彼女を睨む。エリーゼは気まずさを覚え、軽く頭を下げた。
左右に円柱が立ち並ぶ、がらんと広い空間。奥には祭壇があり、男とも女ともつかない美しい人を描いた絵が飾られている。
教会を司る「師父」と呼ばれる男性はその祭壇を背に立ち、子供たちは彼の前に膝を抱えて座っている。エリーゼも、その中に加わった。
師父の語る教義を聞き終えると施しのパンがもらえるのだ。それほど長い話ではないが、腹を空かせた子供たちには、じれったい時間だった。その上、エリーゼが後から入って来たせいで、話が初めからになるかもしれない。
(そうなったら、出ていこう)
と、エリーゼが思った時、子供たちの間に漂う空気に気づいたのか、柔和な顔の師父は言った。
「今日はここまでにしようか。君は後から来たから、私の質問に答えておくれ」
彼はエリーゼに問う。
「私たちを見守ってくださる精霊神の名前は?」
「アスピルです」
「正解だね。では、私たちが決して忘れてはならないことは?」
「父祖への敬愛、ですか?」
師父は、にっこり笑ってエリーゼの頭を撫でた。エリーゼは思わずはにかむ。
「では、あなたたちに神の御心をさしあげましょうね」
そう言うと、師父はゆっくりとした足どりで奥の部屋へ入っていった。人数分のパンが入ったバスケットを持ってきてくれるのだろう。それを見送っていると、横から声をかけられた。
「お前、すごいな。話を聞いてなかったのに、なんでわかんの?」
一人の男の子が、くりくりとした灰色の目を好奇心で輝かせていた。自分よりいくつか年上だろう、とエリーゼは見当をつける。
「フソへのケーアイってなに?」
「両親やご先祖さまを尊敬すること、かな?」
「へェ? なんで精霊は、あんな飲んだくれをソンケーしろなんて言うんだろな」
へんなの、とひとりごちる男の子に返す言葉が思い浮かばない。生まれ変わってから他人と会話を交わす機会がほとんどないので、こうして話しかけられると言葉に詰まってしまう。
「お前の親はどんなん? ソンケーできる?」
「あんまり」
男の子の質問に、エリーゼは正直に答えた。
「おに……お兄ちゃんたちは、すごく尊敬してるみたい。だけど、私は好きじゃない」
お兄様と言いそうになり、彼女は慌てて言い替える。
父は、母に似ている自分をとても可愛がる。だが自分は父を好きではないし、尊敬もしていない。母にばかり構い、子供たちのことはほとんど顧みない父。その上、一家の長でありながら、娘のカロリーナが稼いだ金で贅沢をしている。尊敬など、できるはずがなかった。
「……私のこと、お兄ちゃんたちは嫌いなんだ。だからすごく恐いの」
「あにきたちって、いくつ?」
「十三歳と、九歳だったかな」
「めちゃくちゃデカイじゃん! そんなんに、お前なぐられてんの?」
真剣な顔で聞かれ、エリーゼは一瞬呆けた。が、自分が心配されていることに気がつくと、くすぐったい気分になって笑った。
「何わらってんだよ。なんだったら、すぐに家でろよ。おれがかくまってやるから」
「ありがとう」
エリーゼがお礼を言うと、男の子は得意げに話し始めた。
「おれなんか、ずっと前に家をでてやったんだぜ?」
「うそ、ほんとに?」
エリーゼは目を丸くした。
「ほんとだよ。仲間がいるんだ。お前小さいけどかしこそうだから、みんなよろこんで仲良くするとおもうよ。お前、字かける?」
こくりと頷いたエリーゼを見て、男の子は手を打った。
「きまった! パンもらったら、すぐここをでようぜ! 仲間のところにつれてってやる」
「え? 私も行くの?」
「だってお前、家キライだろ?」
エリーゼは答えに詰まった。
美しい父。幸せそうな母。麗しい兄弟たち。姉と弟は好きだ。母はあまり話したことがないのでよくわからない。兄たちは怖いとは思うが、嫌いだと思ったことはない。父も尊敬はできないが、嫌いというわけではなかった。
だが彼らの考えは理解しがたく、居心地は良いとは言えない。だからこそ、いつか家を出て、外の世界を見たいと思っている。
そんなことを考えていると、彼女の頭は自然と上下に動いていた。
「よし。おれたちといたら、もうなぐられることなんてないぜ」
男の子の無邪気な笑顔を見て、エリーゼも思わず笑顔になった。
ほどなく戻ってきた師父からチーズとパンを受けとると、男の子はすぐさま教会を飛び出した。エリーゼもその後を追う。
けれど貴族街とは正反対の方角へ歩き出した男の子を見て、彼女は足をピタリと止めた。
「どうしたんだ?」
男の子は不思議そうな顔で振り返った。わからない、とエリーゼは口の中で呟いた。
足がまるで石畳に吸いついたかのように動かない。お腹がちくちくと痛む。気分が悪くなってきて、彼女は俯いた。
そんなエリーゼを見て、男の子は苛立ったように声を荒らげる。
「どうなんだよ、おい」
「私行けない」
気づけば、エリーゼはそう口にしていた。
「なんで」
「家に帰らないといけないから……かな」
「……あにきにそう言われたのか?」
エリーゼを嫌っている兄たちが、そんなことを言うわけがない。彼女も、自分の言葉に困惑していた。なぜか、家に帰らなければいけない気がするのだ。
「言われてないけど……」
「だったら、どうして」
「だって……」
お腹が痛い。針で刺されるようなちくちくとした痛みが、エリーゼを責め立てる。
前世でも追いつめられるとよく胃を悪くしたが、その時の痛みと同じだ。だが今の自分は、何に追いつめられているのだろう。家を出ることを、望んでいたはずなのに。
彼女はお腹を押さえてうなだれた。
「……帰らなきゃ、怒られるから」
「怒らせとけばいーんだよ」
男の子の言葉を聞いて、エリーゼは思った。一体誰が怒ってくれるのだろうか。父でさえ、母がいる時はエリーゼの存在に注意を払わないのに。
「もしかしてお前、家スキ?」
「好きじゃない」
即答したエリーゼを、男の子は怪訝そうに見た。それならばなぜ、とその顔に書いてある。
自分でもなぜ、と思った。家が嫌なら出ればいい。
けれど、まだ小さいエリーゼにとって、外の世界は危険すぎる。男の子の仲間というのは、おそらくみんな子供だろう。大人がいたとしても浮浪者か、もっと悪くすれば身寄りのない子供たちを集めて売買する奴隷商人の可能性だってある。
(出ていくなら、成人してからのほうがいいかもしれない)
自分でしたことの責任を自分で負うことができる年齢。その頃なら、ある程度自分の身を守れるようにもなっているだろう。何と言っても、エリーゼはまだこの世界のことをよく知らないのだ。
そう考えると、胃の痛みが引いていった。家を出るなどという大きなことを、勢いで決めようとしていたせいかもしれない。焼けつくような痛みがなくなり、エリーゼはほっとした。
「ごめん。誘ってくれてありがとう」
「なんだよ、いくじなし」
男の子は傷ついたような顔でそう言うと、彼女の手からパンをひったくって駆け出し、やがて見えなくなった。
それから数日経った曇りの日。エリーゼは自室へ駆け込み、すぐさま扉を閉じた。
しばらくの間じっと硬直していたが、誰も追って来ないのを確認すると、ようやく力を抜いて床に膝をつく。睨みつけるような視線を感じたが、きっと気のせいなのだろう。
「……こわっ」
腕に抱いていた木切れをばらばらと落としながら、エリーゼは呟いた。
エイブリーが暖炉にくべるために作った薪の残骸。その中からエリーゼがくすねてきたのは、水分をよく吸った燃えにくい若木の破片ばかりだ。もしばれても、それほど咎められはしないだろう。
エリーゼは手に握る工具を見下ろした。使い古された彫刻刀、やすり、短刀。それらの工具は元々ステファンのものだった。得意の工作で母を喜ばせた彼は、父アラルドから新しい工具を贈られたので、不要になったのだろう。庭の隅に捨てられていた。
(いらなくなったものでも、私に使われるのは嫌がるだろうな)
美しい顔が歪む様が目に浮かんで、エリーゼは身震いした。ちっぽけな望みを叶えるために、彼女は命の危険すら感じなくてはならなかった。
理不尽な兄たちへの怒りに、細工用の短刀を握りしめるエリーゼの腕が震える。だが、兄の美しい顔を思い浮かべると、すぐに腕の震えは収まり、怒りもたちまち霧散した。
(美しさは正義です、ってこと?)
前世の友達と、よく口にしていた言葉を思い出して、エリーゼは微笑んだ。
そしてその場に座り込むと、一枚の木切れを手にとる。
「高飛車でも突飛な行動をしても、美形なら許せるよね。そういうキャラクターが出てくるお話のほうが、面白かったりするもんね」
木切れを彫刻刀で削りながら、記憶の中の友人に話しかける。彼女とは『美しい人が好き』という共通点があり、よくそのことを話題にして盛り上がった。そんな淡い思い出が、次々と蘇る。
「美形は世界の宝だよね」
そう口にすれば、思い出の中の、顔も忘れかけた友人が勢いよく頷く。エリーゼも笑顔で頷いた。
錆びた彫刻刀で木切れを削るのは、困難な作業だった。何枚かの木切れを割ってだめにしながらも、一枚一枚着実に仕上げていく。
やがて完成したものを見下ろして苦笑した。
「転生してから五年も経ったのに、こんなことは覚えてるんだもんなあ」
こちらの世界の数字が一から十三まで彫られた長方形の板。それらを四種類の模様を使って、四組用意した。
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