上 下
18 / 34
2巻

2-1

しおりを挟む



   一章 オルフェンスの娘


 オルフェンス公爵領に帰ってきた私たちを出迎えたのは、ロイによってオルフェンス公爵家の管理を任された美しい少女だった。

「メルティア様にはロイ様と私の間に生まれた子の養母となっていただき、次世代のオルフェンス公爵として育てていただきたいのです」

 大人びた十七歳のオルフェンス一族の令嬢は、微笑ほほえみを浮かべてそう言った。
 オルフェンス公爵邸の執務室であるじの座にいるのは私なのに、その前に立っている彼女のほうが堂々としている。艶然えんぜんと笑う彼女は茶色のくせのない髪を後ろで一つにまとめていた。
 事務仕事がしやすいようにだろう、袖の短いドレスを身につけているけれど、仕草の優雅さや身についた堂々とした立ち居振る舞いは気品に満ちている。

「無礼だぞ、ヴェラ!」
「マルス様ったら、そういう演技は私の前では必要ありませんよ。あなたがロイ様に仕えたいのに拒まれて、仕方なくメルティア様に剣をささげたことくらい、私にはわかっているのですからね?」
「うぐ……っ!」

 図星をかれたからかマルスが言葉にまると、カインがこめかみを押さえた。

「ヴェラ様……私は公爵であるメルティア様に挨拶あいさつしたいと言うからあなたを紹介したのですよ? 笑えない冗談を言わせるためではありません」
「冗談ではなく、本心よ?」
「だったらなおのこと、たちが悪いです」

 カインは珍しく苛立いらだったように顔をゆがめた。
 私たちがオルフェンス公爵邸を不在にしている間、オルフェンスの全執務を取り扱っていた人物を紹介したい。そう言って、彼が私の執務室に連れてきたのがヴェラだ。

「メルティア様が長い眠りにいた後、あなた方――リス伯爵家に助けられたのは事実です。……ですが、それはあなたの放言を看過する理由にはならないのですよ」
「私たち、おさな馴染なじみじゃない? つれないわね、カイン」

 私が眠っている間、リス伯爵家がロイたちを助けていたのだという。私が前世で読んでいた小説とは違う展開だ。
 何しろ小説のロイはベンヤミンだけでなく、親戚たちにも殺されそうになっている。
 オルフェンスの家門を名乗る者たちと、小説のロイの間には深い溝があった。ヴェラとこそ個人的な交友があったけれど、彼女以外の親戚とは疎遠そえんという設定だったはずだ。

「この女の発言はオルフェンス公爵であるメルティア様に対する侮辱ぶじょくです。メルティア様、処分を下すべきです」

 微笑ほほえみかけるヴェラを黙殺してカインは私を見た。
 ヴェラ・フォン・リス。
 彼女は勿論もちろん、小説にも存在する。リス伯爵家の長女であり、私たちが王都シールズにいる間、オルフェンス公爵家の運営の一切を任されていた令嬢。今世でも私が眠っている六年間、ロイたちを助けてきたことですべてを任されるだけの信頼を勝ち得ている。
 だからマルスとカインの反応は意外だ。

「ヴェラはオルフェンスをまとめるために提案しただけでしょう? どうして怒っているの?」
「はあ!? 何言ってんだ、お前」
「メルティア様、何故なぜお怒りにならないのですか!?」

 確かに私が怒る理由はある。でも、マルスとカインのその反応の理由はわからない。

「怒るようなことではないと、まさかメルティア様にご理解いただけるだなんて驚きです」

 ヴェラが切れ長の目を丸くする。

「メルティア様はそもそもオルフェンス公爵位を狙っていなかったのですよね? メルティア様がオルフェンスの精霊を継承してしまったのは、事故のようなもの。命さえかかっていなければ、無償むしょうでロイ様に精霊をお返しするつもりがおありとのこと」
「ヴェラの言う通りよ」
「でしたらメルティア様の同意さえあれば、ロイ様に精霊をお返しすることはできなくとも、それが叶った時のように、すべてを元に戻すことはできますよね?」

 ヴェラの言葉に間違いはない。うなずいてみせると、彼女は安堵あんどした様子で胸に手を当てた。

「ロイ様が公爵となれば、公爵夫人となるはずだったのは私です。ですから私の子をメルティア様の養子にして、次期オルフェンス公爵として育てていただきたいのです」

 ちくりと胸が痛むのがそもそも筋違い。ヴェラの言う通り、私は本来オルフェンス公爵の地位に相応ふさわしい人物ではないどころか、ロイの伴侶の座すらおこがましい。
 小説にも、アリスというヒロインが現れなければロイと結婚するのはヴェラだったろう、と書かれている。

「オルフェンスの者たちがどんなにメルティア様に不満を抱いていても、ロイ様と私の血を引く子が次期公爵だとわかれば、不満を呑み込み付き従うことでしょう」
「勘違いもはなはだしいですよ、ヴェラ様」

 カインはイライラとしながら首を横に振った。

「ロイ様が公爵となったあかつきに公爵夫人としてめとるつもりだったのは、元よりメルティア様です。ロイ様がそのつもりでいるのを私たちが知ったのは、メルティア様が眠りにいた後のことでしたが」
「面白い冗談ね、カイン」

 ヴェラは馬鹿にするでもなく、困惑した様子で笑う。

「精霊を継承していないメルティア様では、公爵であるロイ様にとつぐなんてできないわ」

 彼女の言葉は正しい。

「たとえロイ様が強行したとて、オルフェンスの家門の誰もが認めないわ。精霊を継承していてさえ、メルティア様を認めない者たちがいるのよ?」
「だからヴェラ様のほうが公爵夫人として相応ふさわしいとでも?」
「公爵はメルティア様なのだから、夫人は難しいでしょう? 由緒正しいリス伯爵家の血筋を引く者として屈辱的ではあるけれど、正式な立場はあきらめて、ロイ様の愛妾あいしょうの座で我慢するつもりよ」

 ヴェラが悲しげに眉をひそめる。
 彼女は美しくほこり高きオルフェンス一族の娘。オルフェンス本家に最も近い己の血筋にほこりを抱いている。小説にそう描写されていたのだ。
 そんな彼女が正式な立場をあきらめ、表舞台から降りるという選択をした。
 彼女にとっては苦渋の選択だろう。
 それでも、それがオルフェンスにとって一番よい選択だからこそ、彼女は選んでみせたのだ。
 心臓の鼓動が嫌なリズムを刻み始めるけれど、ドレスをつかんで私は静かに黙殺した。
 夫が自分以外の女性と関係を持つのが嫌だなんていう私の個人的感情は、大した問題じゃない。

「それがオルフェンスを一つにまとめるための最善の選択なのですもの。私は耐えられます」

 ヴェラは痛々しい微笑ほほえみを浮かべて耐えている。
 彼女こそ、オルフェンスのかがみ。そしてオルフェンスの意志を反映する、鏡でもある。
 彼女が最善の選択だというのなら、本当にそうなのだろう。
 オルフェンスにとって、オルフェンス公爵家にとって――ロイとヴェラの子を次期公爵にすることが、きっと何よりも有益なのだ。

「公爵であるメルティアを認めない奴はオルフェンスから排除すればいいだけだ!」

 マルスが吐き捨てるように言った。ヴェラの提案の何かが彼にとって気に食わなかったらしい。

「メルティア! この女は、お前の血筋に問題があると言ったも同然なんだぞ! ……つまりは、お前の母親にッ!」

 痛いところを突く。
 言葉だけ受け取れば、そういうふうにも聞こえるだろう。私がヴェラのことを知らなかったら、そういう意味にしか受け取れなくて、彼女を嫌っていたかもしれない。

「でも、ヴェラは私のお母様を娼婦とおとしめているわけではないのよ。そうよね? ヴェラ」
勿論もちろんです! ひどい言いがかりです、マルス様ったら!」

 ヴェラはマルスをにらみつけ、訴えるように私をまっすぐ見つめた。

「私はただ、ほこり高きオルフェンスのため、ロイ様のために最善の道を模索しているだけです!」

 堂々と言い切り、胸を張る。
 そう、彼女はオルフェンスを愛しているだけ。
 自分こそがオルフェンスの母として誰よりも相応ふさわしいと信じているだけなのだ。
 オルフェンスに関する限りヴェラの感覚は常に正しい、と小説には描写されていた。

「ヴェラはマルスとは違うわ」
「……ッ!!」

 何かを言いかけたマルスは、こらえるように唇を噛みしめる。
 その反応からして、もしかすると、ロイがヴェラを愛妾あいしょうとするのに乗り気ではないのかもしれない。
 ロイは私と結婚するつもりでいた、とカインは言った。
 つまりロイはヴェラと結婚するつもりがない。
 ヴェラとの結びつきが増すと、リス伯爵家の力が強くなりすぎる? 
 ヴェラの提案がオルフェンス公爵家にとって利益になるのは間違いないが、ロイ個人にとってなんらかの不利益があるのかもしれなかった。

「ロイが乗り気じゃないなら、ヴェラの提案を呑むつもりなんてないわ。安心しなさい、マルス」
「そういう問題じゃないだろうが!」

 顔を真っ赤にして怒るマルスを見上げていた私は、彼がそうなる理由に気づく。

「ロイとヴェラがくっつくと、私に剣をささげてしまったあなたには不都合だものね?」
「なっ……!?」

 その指摘に、マルスはわかりやすく目を白黒させた。

「ロイの一番近くにいる人間が私じゃないと、あなたは困るわよね」
「なるほど、それでマルス様が先程から私に冷たいのですね」

 私はあきれた目で、ヴェラはなじるような眼差まなざしで、何も言えずに震えているマルスを見る。すると、カインがいきいて口を開いた。

「メルティア様、ヴェラ様を処罰するおつもりは?」
「ないわ。オルフェンスのための提案だもの」
「ご不快にはならなかったのですか?」

 彼も不服そうだ。ロイに忠義を尽くすカインがこの反応だということは、やはり何かあるのだろう。

「いい気持ちではないけれど、諫言かんげんの一種だと考えるわ」

 オルフェンスに関しては、ヴェラは『正解』だ。
 私という過失を指摘して、よりよい結果を招くために忠告してくれている。
 わざわざ目の前にある正しい道を迂回うかいして、回り道をする必要なんてどこにもない。

「頼むから仲良くしてちょうだい。オルフェンス内で争っている場合じゃないのよ」

 公爵就任式が控えている。
 これはお茶会と似て非なるもの。お茶会が練習なら、今度は本番だ。
 オルフェンス領内の貴族なら、マルスの言う通り私を認めない者は排除すればいいかもしれない。
 けれど公爵就任式には他領の高貴な貴族たちを招待しなければならなかった。
 私が公爵では、彼らは名代みょうだいを出すだけで終わらせてしまう可能性は高い。
 できるだけそれを防ぎ、高貴な家々出身で爵位を持つまたはそれに近い者たちをオルフェンス公爵就任式に招くことが、いてはロイの立場の強化に繋がる。
 小説に出てきた重要な力を持つ人物たち。彼ら自身が式に来てくれるために必要だというのなら、次期公爵の座をロイとヴェラの子に譲ると宣言することくらい、あまりに容易たやすい。

「メルティア様、今後は私を侍女としてお使いくださいませ」
「わかったわ。よろしくね、ヴェラ」

 オルフェンス公爵家だけではなく、シルヴェリア王国東部――オルフェンス領と呼ばれる地域全体を挙げて、公爵就任式の準備を行わなければならなかった。
 オルフェンス領と他領との関係を示す重要な式典だ。
 誰にもかえりみられない、権威のない領主となっても、私は構わない。
 けれど私の配偶者になるロイのために、この式典を成功させなくてはならないのだ。
 それには、ヴェラは誰よりも心強い味方となってくれるだろう。


   * * *


 一仕事終えて、休憩がてら温室の花の様子を見るために廊下を歩いていた私のところに、ロイがまっすぐに歩み寄ってきた。
 彼を見つけると自然と顔が微笑ほほえみの形になるのを不思議に思いながら、ねぎらいの言葉をかけようとする。
 けれど、ロイは顔をしかめていた。私は言葉を呑み込む。

「まさか彼女の提案を受け入れるおつもりではないでしょう?」
「ロイ――?」

 私の腕を、ロイは無遠慮につかむ。
 普段触れる時には、私の意思を確かめるように視線を合わせてくるのに。
 優しい間がないことが不可解だけれど、不快感はない。
 恐怖も嫌悪感もなく、ただロイの気持ちを知りたくてその菫色すみれいろの瞳を見つめていると、腕を引っ張られて壁際に立たされた。
 私を囲うようにロイが壁に手をつく。まるで彼と壁の間に閉じ込めるように。

「逃がしませんよ? メルティア」
「どうした、の?」

 耳元にささやくように低い声で名前を呼ばれ、少しくすぐったいなと思いながら、私は用件を尋ねた。
 間近で見上げるロイの表情は暗い。
 彼はさっき、ヴェラの提案を受け入れるつもりかと聞いてきた。

「ヴェラの提案のことなら、あなたが望まないのであれば受けるつもりはないわ」
「……本当はメルティアとヴェラを会わせることすら嫌だった」
「あなたが望むのなら、そうすればよかったのに」
「オルフェンスの貴族がオルフェンス公爵であるあなたに面会を求めているのに、会わせない権利は、僕にはない」

 ロイは独白するように言う。
 ヴェラが私に面会を求めているのに会わせない権利がロイにないなんて、どうしてだろう。
 やはり彼にはリス伯爵家に強く出られない理由があるのかもしれない。

「ヴェラを侍女になさったそうですね?」
「ええ。彼女は役に立ってくれるでしょうから」

 こういう時は小説の知識が心強い。彼女が必ずオルフェンスのためになると、私は知っている。

「オルフェンスの役には立つでしょうが、あなたにとって邪魔な存在では……ないのですか?」

 ロイがくしゃりと顔をゆがめる。苦しみにえる表情でさえ美しい。
 遠目に通りすがったメイドが手にしていたかごを落としたのが見えた。ハラハラと洗濯物が落ちていくのにも気づかないくらい、苦しむロイに見とれている。
 彼女から表情をかくすために、ロイの頭をそっと引き寄せて腕に囲う。苦しんでいる姿を欲望に満ちた目で見られるのは、誰だって嫌だろうから。
 抵抗はほとんどなく、ロイは私の腕の中に収まってくれる。
 顔を見慣れているせいか、精霊のおかげか、彼女たちのように恍惚こうこつ状態にならずに彼を心配できるのが嬉しかった。

「ロイが嫌なら今からでもヴェラを解雇するわ。だからそんな顔をしないで」
「……もしもヴェラの提案があなたにとって渡りに船だというのなら、僕に止める権利などない」
「渡りに船?」

 意外な単語だ。言葉の意味がつかめずに困惑する私に、ロイは低い声で言う。

「あなたに他に好きな男がいるのなら、オルフェンスの後継を作る義務をヴェラに任せ、他の男とげることもできるのです……そのためにヴェラを受け入れたのではありませんか?」

 その言葉に驚いて、思わず体を離してしまった。

「そんなわけないじゃない!?」
「僕以外の男との間に生まれた子を次期オルフェンス公爵にする権利さえ、あなたは持っているのですよ、メルティア」
「ロイ! 変な冗談を言わないで!」

 私がオルフェンス公爵になったのは、ロイが私を助けるために精霊を継承させたからだ。
 ロイをないがしろにすることなんて許されない。
 からかわれているのだろうと強い口調で言い返したのに、覗き込んだ彼の顔は悲哀に満ちていた。苦渋のにじんだ表情のまま、滔々とうとうと話し続ける。

「あなたと僕以外の男との間に生まれた子にオルフェンス公爵のくらいを継がせようとすれば、大きな反発が待っているでしょう。しかしヴェラに生ませた子を継目の当主にすると見せかければ、時間稼ぎができる。メルティアの代と次世代で念入りな根回しを行い、孫の代であなたの孫に精霊を継承させてしまえばどうとでもなる」


「あなたにそんな不安を抱かせているのなら、すぐにヴェラを遠ざけるわ!」
「不安、とは違います」

 菫色すみれいろの瞳は暗くかげり、まるで星も月もない夜空のよう。

「あなたは優しく高潔こうけつだから、僕をないがしろになどしないでしょう。それを僕は誰よりよく知っている」
「本当にそう思っているなら、どうしてそんな顔をするの?」
「馬鹿げた真似をしていると、我ながらあきれ果てているからでしょうか?」

 ロイはひたいを押さえて弱々しい笑みを浮かべた。

「僕があなたの周りに置いてしまった者たちは、あなたの命を守るという点では一定の信頼が置けますが――誰一人、僕の不利益になる情報をあなたに渡そうとしないでしょう」
「それでいいわ。あなたの情報を渡そうとする人なんて、私だって信用できない!」
「あなたがそう言ってくれても僕は、あなたに対して誠実でありたい」

 吐息といきのようなかすれた声で言う。

「だから僕は、僕にとって不利益な情報であっても、あなたに差し出す」
「そんなもの、いらないのに……!」
「必要なのです。誰よりも僕にとって。何故なぜなら僕は、あなたがオルフェンス公爵として認められる瞬間が見たいのです」

 それは奇妙に聞き覚えのある言葉だった。

「僕ではなく、メルティアこそがオルフェンス公爵に相応ふさわしいと、オルフェンスの家門を含めた万人に認められる、その瞬間を」

 ロイのその言葉は――
 いつかの私が、ベンヤミンに聞かせるために口にした、ロイを愚弄ぐろうする言葉をなぞっていた。

「ロイ、それはあなたを愚弄ぐろうする言葉よ……!?」
「あの男に味方だと思わせたまま僕を守るための、あなたの言葉だ」

 すべてを見透みすかすような目をして、ロイが私を見下ろしている。
 私は思わず胸を押さえた。そうすれば胸の奥にある感情を見透みすかされずに済むかもしれないと、淡い期待を抱きながら。
 でも、一体どんな感情を隠したかったのか、隠した自分でもわからない。

「それを聞きながら僕は、本当にその瞬間が来ればいいと思いました」
「憎々しげな目で、私のことをにらんでいたじゃない」

 忘れられるはずがない。ベンヤミンの腕に抱かれるおぞましさから助けをうために、一縷いちるの希望のように見つめていた、ロイの表情。
 顔を真っ赤にして目を赤紫色に染め、燃えるような憎悪を瞳に宿していた。

にらんでいたとしたら、あなたに触れるあの男を、です」
「そう、なの?」
「あなたをにらむ道理がないでしょう? あなたが決死の覚悟であの言葉をつむいでいたことに、僕は気づいていた――気づいていながら、あなたの強さに甘えていたのですから」
「確かにロイが気づいていなかったはずはない、わね」

 オルフェンス公爵になりたいだなんて思っていたはずがない。それは言い切れる。
 だから言葉の真偽を見抜く能力のあるロイならば、私がその場をしのぐために虚言を吐いたことに気づけただろう。

「その上で僕は夢を見ました……オルフェンスに君臨するあなたの姿を」
「でも、オルフェンスに君臨すべきはあなたなのよ、ロイ」
「オルフェンス公爵であるメルティアまでもがそうおっしゃるので、あなたが頂点に立つことを望んでいるのは僕だけなのでしょう」

 ロイの瞳が、ゆらりと揺らぐ。菫色すみれいろの瞳が熱くとろけた金を混ぜたように輝いた瞬間、不思議な圧迫感を覚える。後ずさりすると、冷たい壁が背中に触れた。

「どうか僕だけのために、すべての者に認められるオルフェンス公爵になってはいただけませんか? メルティア」
「そんなの、無茶だわ」
「オルフェンス公爵であるあなたに相応ふさわしい男である。そう皆に認められるために僕が必死の努力をしなければならないほど、至上高くに君臨していただきたいのです」
「ただでさえ生まれが問題だと言われているのに、無理よ」
「あなたにならきっとできると信じていますし、そのために僕があなたを支えます」

 ロイの望みならすべて叶ってほしいのに、おかしなことを望むから混乱する。

「ヴェラの愚かな提案の裏にあって、あなたが選べる選択肢。僕にとっては避けたい未来ですら、あなたが頂点に立つために必要ならば叶えてみせる」
「嫌よ! あなたをないがしろにするような未来なんて!」
「この件に関してはあなたが嫌がろうと僕は押し通す」

 ロイは一体何を言っているの? 私にオルフェンスの頂点に立ってほしいからって、彼以外の男と私が一緒になる未来へ導くというの?
 それがロイにとって有益ならば、いい。だが、彼の言う選択肢を採択すれば、ロイはただただオルフェンスのいただきから滑り落ちていくだけだ。

「あなたに他に好きな女性がいて、その女性と正式な夫婦になりたいから私との結婚は嫌だとか、そういう話ではないの!?」
「そのような女はいません」
「私と仮面夫婦になるのも嫌だとか、そういう話ならまだわかるのに!」
「僕は早くあなたと夫婦になりたいですよ」
「だったら……!」
「あなたがあなどられるのが耐えがたいのですよ、メルティア」

 あなどられていないとは言えなかった。
 ヴェラは間違いなく私をあなどっている。そうでなければあんな提案はできない。
 幸い、私は彼女をオルフェンスの正解だと知っているからその提案を呑むつもりでいる。
 私が冷酷非道な悪役令嬢だったら、ヴェラは命を落としていただろう。

「たとえ不利益をこうむろうと、僕はあなたの一番の味方でありたい」

 ロイは少し距離を取り、私の足許あしもとひざまずく。
 これは見慣れた構図だった。
 六年前、私はよくロイを自分の足許あしもとひざまずかせたから。
 私をまっすぐに見上げる眼差まなざしが、直視を躊躇ためらうほど強い。

「僕はオルフェンス公爵であるメルティアの、一の臣下です」
「私にはもったいない臣下だわ」
「まさか。まだまだあなたの右腕には足りません」
「いいから立ってちょうだい、ロイ。いたたまれないわ」

 立ち上がったロイを見上げるといきが零れた。

「……私に、あなたを出し抜くつもりがないからよかったものを。なんてことを考えるのよ」
「だから誰もがあなたを甘く見て、警戒すらしていません。その気になれば容易たやすく僕を擁立ようりつしたい者たちを出し抜いて、オルフェンス公爵家をまるごと奪うことができるでしょうに」
「やらないわよ!」
「メルティアにその気がなくても、あなたが現状に甘んじるつもりなら僕がたくらみます」
「あなたからオルフェンス公爵家を奪って私を頂点にえる計画を、あなた自身が主導するっていうわけ……!? 意味がわからないわ!!」

 抗議をしてもロイは揺るぎなく笑みを浮かべている。

「メルティア、あなたはオルフェンスに波風を立たせることを望んではいないのでしょうね? 僕を盛り立てることができるのならば、自身がないがしろにされても構わないと思っているでしょう?」
「そうだとしたら、なんだって言うのよ……!」

 ロイが何を言わんとしているのか恐ろしくなり思わず身構えると、彼はくすりと笑った。

「メルティアの気持ちを裏切るようで申し訳なく思います。ですが、あなたをないがしろにするオルフェンスならば、僕自身の手で滅ぼします」

 小説では身を守るために力を追い求めていたロイ。オルフェンスの貴族たちを信用していないまでも、分かちがたい利害関係で繋がっていた。切り捨てるだなんて考えもしなかったはずだ。
 それなのに今、私の目の前にいるロイは、明らかに小説の彼とは違うものを求めている。

「僕に波風を立てさせたくないなら、ないがしろにされて黙っていてはいけませんよ? メルティア」
「どういうおどしなのよ!?」
「あなたはどういうわけかヴェラを気に入ったようですが、彼女を僕から守りたいのであれば、あのまま増長させてはいけません」
「あなたたち、おさな馴染なじみでしょう!?」
「だからこそ余計に腹立たしい」

 苦み走った顔で、彼は歯をぎりりと食いしばった。

「メルティアならどう思います? おさな馴染なじみがあなたの権威に甘え、〝僕〟を愚弄ぐろうしたとしたら」


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが

ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。 定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

旦那様、離縁の申し出承りますわ

ブラウン
恋愛
「すまない、私はクララと生涯を共に生きていきたい。離縁してくれ」 大富豪 伯爵令嬢のケイトリン。 領地が災害に遭い、若くして侯爵当主なったロイドを幼少の頃より思いを寄せていたケイトリン。ロイド様を助けるため、性急な結婚を敢行。その為、旦那様は平民の女性に癒しを求めてしまった。この国はルメニエール信仰。一夫一妻。婚姻前の男女の行為禁止、婚姻中の不貞行為禁止の厳しい規律がある。旦那様は平民の女性と結婚したいがため、ケイトリンンに離縁を申し出てきた。 旦那様を愛しているがため、旦那様の領地のために、身を粉にして働いてきたケイトリン。 その後、階段から足を踏み外し、前世の記憶を思い出した私。 離縁に応じましょう!未練なし!どうぞ愛する方と結婚し末永くお幸せに! *女性軽視の言葉が一部あります(すみません)

この度、双子の妹が私になりすまして旦那様と初夜を済ませてしまったので、 私は妹として生きる事になりました

秘密 (秘翠ミツキ)
恋愛
*レンタル配信されました。 レンタルだけの番外編ssもあるので、お読み頂けたら嬉しいです。 【伯爵令嬢のアンネリーゼは侯爵令息のオスカーと結婚をした。籍を入れたその夜、初夜を迎える筈だったが急激な睡魔に襲われて意識を手放してしまった。そして、朝目を覚ますと双子の妹であるアンナマリーが自分になり代わり旦那のオスカーと初夜を済ませてしまっていた。しかも両親は「見た目は同じなんだし、済ませてしまったなら仕方ないわ。アンネリーゼ、貴女は今日からアンナマリーとして過ごしなさい」と告げた。 そして妹として過ごす事になったアンネリーゼは妹の代わりに学院に通う事となり……更にそこで最悪な事態に見舞われて……?】

最愛の側妃だけを愛する旦那様、あなたの愛は要りません

abang
恋愛
私の旦那様は七人の側妃を持つ、巷でも噂の好色王。 後宮はいつでも女の戦いが絶えない。 安心して眠ることもできない後宮に、他の妃の所にばかり通う皇帝である夫。 「どうして、この人を愛していたのかしら?」 ずっと静観していた皇后の心は冷めてしまいう。 それなのに皇帝は急に皇后に興味を向けて……!? 「あの人に興味はありません。勝手になさい!」

【完結】悪役令嬢は3歳?〜断罪されていたのは、幼女でした〜

白崎りか
恋愛
魔法学園の卒業式に招かれた保護者達は、突然、王太子の始めた蛮行に驚愕した。 舞台上で、大柄な男子生徒が幼い子供を押さえつけているのだ。 王太子は、それを見下ろし、子供に向って婚約破棄を告げた。 「ヒナコのノートを汚したな!」 「ちがうもん。ミア、お絵かきしてただけだもん!」 小説家になろう様でも投稿しています。

ここは私の邸です。そろそろ出て行ってくれます?

藍川みいな
恋愛
「マリッサ、すまないが婚約は破棄させてもらう。俺は、運命の人を見つけたんだ!」 9年間婚約していた、デリオル様に婚約を破棄されました。運命の人とは、私の義妹のロクサーヌのようです。 そもそもデリオル様に好意を持っていないので、婚約破棄はかまいませんが、あなたには莫大な慰謝料を請求させていただきますし、借金の全額返済もしていただきます。それに、あなたが選んだロクサーヌは、令嬢ではありません。 幼い頃に両親を亡くした私は、8歳で侯爵になった。この国では、爵位を継いだ者には18歳まで後見人が必要で、ロクサーヌの父で私の叔父ドナルドが後見人として侯爵代理になった。 叔父は私を冷遇し、自分が侯爵のように振る舞って来ましたが、もうすぐ私は18歳。全てを返していただきます! 設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にレジーナの小説・漫画を1話以上レンタルしている と、レジーナのすべての番外編を読むことができます。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。