3 / 34
1巻
1-3
しおりを挟む
そんな異様な雰囲気に、大広間に足を踏み入れたライナー先生が一瞬怯んだのが見えた。
けれど、私の姿を目にして温かみのある笑みを浮かべて近づいてくる。
「ご両親のお話をお伺いしました。お悔やみ申し上げます、メルティア様……こうお呼びしてはご無礼になるでしょうか。公爵閣下?」
「いいのよ、先生。メルティアと呼んで。もう先生は来てくれないかと思ったわ」
「亡きオルフェンス公爵閣下よりメルティア様の教育を任されているのですから、それを途中で放り出すようなことはいたしませんとも」
ケルル伯爵たちにオルフェンス公爵家の執務を任せていたら、真っ先にライナー先生は辞めさせられていただろう。傀儡でしかない私に余計な知恵を付けさせるのは面白くないだろうから。
現に、小説にはライナー先生の存在はない。
改めて、グライフスにすべてを任せてよかったと思う。
「私もお養父様とお母様が選んでくださったライナー先生が恋しかったわ」
「メルティア様にそう言っていただけて光栄でございます」
お母様を愛し私に甘い顔を見せていたお養父様が選んだだけあって、ライナー先生はよい先生だ。詳しい経歴は知らないけれど、これまでに何回か教わっただけでわかる。
生まれで蔑むことなく、文字の読み書きすらわからないレベルの私に丁寧にわかりやすく教えてくれた。だが、本来はもっと高度な教育ができる人なのだろう。
私にはもったいない先生だ。だから、ありがたく教育を受けよう。
この屋敷に留まらなければならない以上、せめてできる限りの知識を詰め込んでおきたい。
「ロイ、ライナー先生の荷物をお持ちしなさい」
「その子は……」
「気にしなくっていいわ、先生。ただの小姓だから」
ライナー先生は複雑そうな眼差しでロイを見つめる。
ロイが何者なのかということくらい、ご存じなのだろうけれど何も言わず、彼に荷物を預けた。ロイも無表情で受け取る。
向かう先は地階の勉強部屋だ。既に勉学の準備は整っている。
「本日はこちらの本を読めるようになるための、スペルの法則についてお話ししたいと思います」
「文字の読み書きは大体できるようになったわ。次の段階に進んでもらうことはできないかしら? それとも、教材を用意していないから難しい?」
「読み書きがもう? しかし、まだ要点しかお教えしておりませんが」
「言葉は話せるんだから、文字さえ覚えれば読めるようになるわよ。法則の細かいところはわからないかもしれないけれど、それは読む本の数を増やしていけばそのうち解決すると思っているわ」
この国の言葉は表音文字だ。話せれば、あとは二十八個のアルファベットを覚えることで大まかになら読めるし書けるようになる。
「確かに、メルティア様の仰る通りですね」
ロイもまた、文字の読み書きはできるようだ。私が公爵になって届くようになった膨大な量の手紙を朗読させたり、その返事の代筆をさせたりしてみたから知っている。
壁際に立たせたままのロイのほうを見ないように意識しながら、私は先生を見つめた。
「授業はどんどん進めてほしいの。だって私、オルフェンス公爵になってしまったんだもの。勉強しなくてはならないことがたくさんあるのよ」
「素晴らしい心がけでございます。ですが、メルティア様の理解の速度に合った勉学をするのが学習の一番の近道となるでしょう」
「ノートを作るわ、先生。それをチェックしてもらえるかしら? 私が理解できていない、と思ったら授業の速度を緩めてちょうだい。そうでなければ速めてちょうだい」
「それはよい方法ですね」
ライナー先生は少し驚いたように目を丸くしている。
口出ししすぎた? 焦っているように見えた? 私の思惑が露見した?
だとしても、ライナー先生はケルル伯爵たちとは立場が違うから問題にはならないはず。
それから、ライナー先生は様々な分野の質問を織り交ぜながら授業を進めていった。おそらく私の理解度を測っていたのだろう。
私はといえば、ノートを取りながら日本語でメモしたくなるのを堪えるのが何より大変だった。
慣れない文字で書き取りをしながら、欲しい知識を取捨選択していく。
けれど、私にとってのみ必要な授業であってはいけない。
後ろで聞いているだけできっと授業内容を完璧に理解しているであろうロイが、やがて公爵になる時に役に立てられる内容でなくては。でなければ、壁際に立たせている意味がなかった。
* * *
ライナー先生は壁際に立つ僕を憐れみの眼差しで見つめていた。先生ですら気づいていない。
僕のための授業をさせようとしているという、彼女の企みに。
つまり、僕が感じているより彼女の演技は巧みなのだろう。
あれほど、わかりやすいのに。
(義姉上の目的は一体、何だ?)
人の心を惑わせるという僕のこの顔立ちを近づけてみても、誘惑される様子はない。
悪役を演じてまで僕を助けようと茨の道を歩んでいる、彼女の目的が未だ、わからなかった。
第二章 子ども時代後編
最近、マルスに睨まれていると安心感を覚える私がいる。
マルスが激怒しているということは、つまり笑顔の仮面で感情を隠している貴族の親戚連中は、心の中でもにっこりしているだろうということだから。
「ロイ~、力が弱いわよ。これじゃ全然肩こりがよくならないわ」
「申し訳ありません、義姉上」
ロイに肩を揉ませながら、私は溜め息を吐いた。
あれから二年が経過している。私は十四歳に、ロイは十二歳になった。
精霊探しは暗礁に乗り上げて既に久しい。屋敷中の探せる限りの場所を探し尽くした親戚たちの中には、諦めて領地に戻った者も多かった。
だが、往生際の悪い者もそれなりにいる。
その中の一人は当然、ロイの叔父のベンヤミン・フォン・ケルル伯爵だ。
「メルティア、これなど君に似合うのではないかね」
応接間の机に、宝飾品の数々が広げられている。どれも煌びやかで、前世でも博物館くらいでしかお目にかかったことのない代物ばかりだ。
ケルル伯爵に差し出されたルビーらしき赤い石が豪奢に鏤められたネックレスを受け取り、私はほうっと熱い溜め息を零してみせた。
「本当? この素敵なネックレスが私に?」
「これなども君の美貌を引き立てる」
「この緑の大きな石、まさかエメラルド?」
「君の美しい緑の瞳の輝きには劣るがね。エメラルドに相違ない」
つゆ型にカットされた大粒のエメラルドを使ったイヤリングを耳元に宛がわれる。
首筋を晒す姿勢に本能的な危機感を覚えたけれど、にっこり笑った。
「おじさまほど素敵な紳士は初めて見るわ!」
ケルル伯爵のことを、私はおじさまと呼んでいる。
お養父様の娘なのだからと叔父と呼ぶように促されたのだ。
今日は朝からプレゼントがあるからと部屋に押し入られそうになり、なんとか応接間に場所を移してロイを一緒につれてきた。マルスとカインはついでだ。
ケルル伯爵と二人きりになるのは恐かった。
私は確かに美しい。鏡を見る度に、この顔が自分のものであることにびっくりする。
黄金の滝のような金の髪にエメラルドのような緑の瞳。
お母様によく似ているものの、お母様より美しく思えるのはケルル伯爵がエメラルドよりも美しいと評したこの瞳のおかげかもしれない。
私自身、うっとりしてしまうほど美しい瞳だ。
光の角度によって虹色に輝く深く透き通ったグリーン。
鏡越しにしか見られないのが惜しいくらい。
とはいえまだ十四歳でしかない私を見る、この男の眼差しは異常だ。小説では四年もの間この男を二階の客間に住まわせながら自制させ、均衡を保ち続けていたなんて信じられない。
まだ半分しか経っていないのに既に死にそうな思いをしている私は、小説の悪女な義姉の手腕をちょっぴり尊敬しそうになる。
「メルティア、実は君に相談したいことがあるのだよ」
「おじさまが私に? 珍しいこともあるものね」
「君が、君にとってもっとも警戒すべき政敵を優遇しているのではないかという声があがっているのだ。放置しておいては、君の身が危うくなるのではないかと皆が心配している。無論、私もだ」
そう言って、ケルル伯爵は私の後ろにいるロイをじっとりと見つめた。
つまり、私がロイを優遇しているように見えるということだろう。
実際、ロイの身に危険が及ばないようにあれこれ手を尽くしてきたのだ。いくら表向きは軽んじているように見せても限度がある。
遂にこの時が来てしまった。いずれ指摘されるだろうとは思っていた。
だから、とっくに答えは用意してある。
「おじさまたちから見ても、私ってロイを優遇しているように見えるわよね?」
「うむ。君の対応は手ぬるいように思うが、自覚があるのかね?」
鋭く斬り込むような視線、べったりと貼り付くような声だ。
ロイと私が手を結んだら、ケルル伯爵たちにとって大きな障害となるだろう。
そんなことはありえないのだと、安心させなくてはならない。
小説の知識を使う時が来た。
「これだけ優遇されているのに……おじさま、信じられるかしら? この子たち、私のことを恨んでいるのよ!」
「……ふむ」
「ロイは顔色が変わりにくいからわかりづらいけれど、子分を見るとわかりやすいわ。この子たち、怒っているの。全部私のせいだと思っているのよ。これだけ恵まれているのに、自分たちこそが世界で一番不幸だと勘違いしているの!」
「確かに、そのようだな」
「だから私ね、この子たちにその勘違いにふさわしいだけの、本当の不幸を味わわせてあげたいのよ!」
ケルル伯爵が目を瞠る。
それは、ケルル伯爵も抱いたことのある思いだったろう。
お養父様は長男であるという理由だけでオルフェンス公爵位を継ぎ、何不自由なく暮らしながらも何かが足りないと自分の不幸を嘆き続けてきた。
その姿を見て、弟であるというだけで公爵位を逃したケルル伯爵が覚えた憎悪。その嘆きに見合う不幸を与えよう――ケルル伯爵が考えたことである。その描写を、二年かけて思い出したのだ。
親戚連中の中心的な人物がケルル伯爵だった。この男の心を動かさなければならない。
逆に言えば、この男の心さえ動かせればいいのだ。
「ふむ……この状態はあくまで通過点にすぎない、ということかな」
「その通りよ、おじさま。私ね、成人して社交界にデビューする私の姿をロイに見せてあげたいの」
「ほう、それはそれは」
「ロイではなく、この私こそがオルフェンス公爵だとみんなに認められる、その瞬間を」
壁際でカインは息を呑み、マルスが真っ赤になって打ち震えている。
後ろにいるロイがどんな表情をしているかだけがわからない。
「確かに、ぬるま湯の中で忘れ去られていくほどの屈辱はない」
「私、この子たちを見た瞬間に嫌いになったわ。明日の食事にこと欠いてひもじい思いをしたこともないくせに、着る服も上掛けもなく寒い冬を乗りこえたこともないくせに、自分たちが一番可哀想だという顔をしているんだもの」
「まったく傲慢極まりないことだ。君が嫌悪を覚えるのも当然だ」
「だからおじさま、どうか邪魔をしないでね」
これは私の復讐なのだ、と――そう伝わることを願ってケルル伯爵を見すえた。
彼に感銘を与えられただろうか?
失敗していたら、苦渋の決断を下さなくてはならなくなる。小説の義姉がしていたように、ロイに屈辱的な虐待を与えなくてはならない。
それ以外に、ロイをこの屋敷に置きながら命を守るすべを思いつかなかった。
じっと私を見下ろしていたケルル伯爵が不意に私の手首を掴む。
「え? ――ひっ⁉」
手首を掴み引き寄せて、彼は私をその腕にかき抱いた。
「君はなんと聡明なのだろう。私は君ほど素晴らしい女性に会ったことがない!」
悲鳴を呑み込みきれない。だが、ケルル伯爵は気にした様子もなく私を抱く腕に力を込めた。
悍ましくて身体が反射的に強ばる。だが、ダメだ。
普段、私はケルル伯爵に心を許したように演技している。
それなのに抱かれたくらいで硬直していては、本心では嫌っていることが露見してしまう。
身体から力を抜かなくては。身を委ねなくてはならない。この骨張ってかさついた男の腕に抱かれて、心底安堵しているという演技をしないといけない、それなのに――
「勿論、私は君の邪魔などしない。するものか。私だけは何があろうと君の味方だ。きっと、私だけが君の本心を理解できるであろう……」
甘ったるい香水のにおいがケルル伯爵の体臭に混じって吐きそうだ。
気を紛らわすため、必死で唯一自由な目だけをぎょろぎょろと動かした。
まるで助けを求めるように。
だけど、この場の誰も私を助けられないし、助ける気のある人間もいるはずがなかった。
「おやおや」
不意にケルル伯爵が低い笑いを漏らす。
「見てご覧、メルティア。前公爵の愚劣なる息子が理不尽にも私たちを睨んでいる」
私はケルル伯爵の腕の中から首を巡らしてロイを見やった。
彼は珍しく感情を露わにしていた。唇を噛みしめ、拳を握って震えている。真っ白な頬に血が上り、紫色の瞳が朱に染まっていた。
その顔を見ているうちに、ケルル伯爵の腕の中にあっても身体から力が抜けていく。
「私が君を助けよう。メルティア。だから君も、私を助けてくれるだろう?」
頭を撫でられる。吐き気がしたけど、ロイの顔を見ていると耐えられた。
次の瞬間、応接間の扉が開く。
「公爵様! 大変です、グライフスが倒れました! 医師によると卒中とのことです。意識がなく危ない状態だそうです!」
私を抱く男が腹の中で笑ったのが、かすかな振動でわかった。
この男が邪魔なグライフスを排除したのだ。
私のせいで――私が、グライフスに仕事を任せたせいで。
恐ろしくて身体が震えそうになるのを堪え、微笑む。
「……おじさま、早速助けていただきたい状況になったわ。執務をお願いできるかしら?」
「君の頼みとあらば喜んで、メルティア」
ケルル伯爵に仕事を委ねるしかない。そうしなくては怪しまれてしまう場面だ。
名残惜しげに見えるよう慎重にケルル伯爵の腕から逃れ、私はソファから立った。
「グライフスの様子を見に行くわ。ついてきなさい――カイン、あなたもよ」
「は?」
私がカインに話しかけるのは初めてだったかもしれない。
ロイのためにあらゆる頭脳労働をこなし、やがて公爵家の暗部をすべて背負って死ぬ男。彼は今はまだ十二歳の、ロイと同い年のただの子どもだ。
面食らった表情をしているカインに、私は再度命じる。
「あなたの父親の危篤の知らせよ。ついてきなさい。命令よ」
「……わかりました」
ロイとマルスと目配せをし合った後、カインは頷いた。
グライフスの部屋に行くと、医師が診察していた。ミレッカー先生だ。
オルフェンス公爵家のお抱えの医師で、グライフスの暗殺に関与しているとは思えない。
――そう、おそらくこれは毒殺だろう。
まだ死んではいないものの、グライフスの青ざめた顔を見るに時間の問題のように感じる。
「助かるの?」
「……難しいかもしれません」
「どんなに高い薬を使っても構わないわ。それでも?」
「精霊の力があればあるいは……ですが公爵家の精霊は未だ継承されておりませんし、精霊の継承者である大貴族に協力を仰ぐのに必要なのは金銭ではなく伝手ですので、難しいかと」
伝手を持っているとしたら親戚たちの中でも最も高い爵位を持つケルル伯爵だろうけれど、彼がグライフスのためにそれを使ってくれることなどありえない。
「他にグライフスのためにできることはあるかしら?」
「苦しまないよう、麻酔薬を投与してやることくらいです」
「お金がかかってもいいから、薬は惜しまないで与えなさい。一切苦しまず旅立てるように」
「グライフスは公爵様にお気遣いいただき果報者でございますな」
ミレッカー先生が涙ぐみながら言う。
私は背後を見やった。ロイ、マルス、そしてカインが立っている。
カインは無表情だったが、顔面蒼白だった。
「カイン、父親についていてあげなさい」
「お気遣いは無用です」
「あなたたちの親子仲が最悪なのは知っているけれど、血の繋がった父親には変わりないでしょう。嫌いなら嫌いで、別れの悪態でもついておきなさい。言いたいことが山ほどあるでしょう……まあ、好きにすればいいけれど」
私のせいでグライフスは倒れた。だから、彼の恩に報いたい。
ロイを排斥することはできないので、それ以外で彼のためにできることがあるとすれば息子のことだ。
グライフスは息子のカインとも対立していたけれど、その息災を願ってもいただろう。
ロイだけでなく、私はカインのことも守らなくてはならないのだ。
青ざめた顔で立ち尽くすカインを置いて、私はグライフスの部屋を出る。
ロイたちは出てこなかったが、それを許した。
また甘いと言われるかもしれない。でも、ケルル伯爵のことは懐柔できたのだ。後はなんとでも言い訳できる。
部屋に戻るとメイドが昼食を用意したが、食欲が湧かなかった。
「身体を洗いたいわ。入浴の準備をして」
グライフスのところで病の穢れに触れたからだとでも思われるといい。
私が禊ぎで落としたいのは、ケルル伯爵のにおいだ。
身体を洗わせた後は、湯船に沈んでメイドたちを浴室から追い出した。
「……どうしよう。すごく恐いわ」
身体が震える。
この震えが止まらないと、勢いのまま屋敷を飛び出してしまいそうだ。
一刻も早く、一秒でも早くここから逃げたくてたまらない。
身体が温まれば震えも治まるだろうと思ったのに、湯船のお湯が冷めても震えが治まらなかった。メイドに身体を拭かせながら、逃げよう、と考える。だって震えが止まらない。
私もきっと殺される。多分、殺されるより酷い目にも遭う。
逃げ出すための準備なら、二年前に終わっている。
震えながら浴室を出ると、部屋にはロイが待っていた。
「義姉上、ありがとうございます」
「カインのことなら、グライフスの献身に報いるためだから、あなたにお礼を言われる筋合いなんてないわ」
「それと――」
ロイが私に近づいてきて、周りに聞こえないように声を潜める。整いすぎて人間味を失った美しい顔が私に寄せられた。
美貌には自分の顔で慣れている私ですら息を呑む。
「もうしばらく、お待ちください」
「……何を言っているのか意味がわからないわ」
「はい。ですが、後もうしばし」
「わからないと言っているでしょう! 気味が悪いわね」
ロイをはねつけて寝室に飛び込んだ。無性に腹が立って、ベッドのクッションを手当たり次第に投げつけても、腹の虫は治まらない。
震えは、いつの間にか止まっていた。
* * *
「どうなることかと思ったけれど、メルティア様も悪くないんじゃないかしら」
こんな声が屋敷から聞こえてくるようになったのは、いつからだったろうか。
厨房にロイ様の食事を取りに行こうと廊下を歩く俺の耳に届いた言葉。ほんの二年前なら半殺しにしてやるところだが、ロイ様に暴力の禁止を厳命されているからできない。
「そうね。少しきついけれど、お優しいわよね」
「そうそう。わたし、子どもが熱を出したと言ったら病気が伝染るから家に帰れと怒られて。クビにされるんじゃないかと不安だったのに、休んでいる間もお給金がもらえたのよ」
「グライフスさんのおかげじゃないの?」
「グライフスさんの采配なら前と変わらないはずでしょ? 休ませてくれても、お給金はもらえない」
「これってすごい話よね」
「わたしたちと同じ平民生まれだから、気持ちをわかってくれるんだわ」
「グライフスさんのことはお気の毒だけど、メルティア様がいれば安心ね」
あんな娼婦の肩を持つな、と叫びたかった。
オルフェンス公爵家の正統な継承者はロイ様だ。
あばずれの娘が公爵なんて言語道断。当初はそういう雰囲気が屋敷にはあった。
それなのに、いつの間にか屋敷は裏切者で溢れている。
「生まれは不安だけれど、お美しいし」
「血筋のことは、ベンヤミン様とご結婚されれば解決するわ。あの二人、いい感じなんでしょう?」
「抱き合っていたって聞いたわ」
「メルティア様はまだ十四歳だから、あと二年ね」
「本当なら、ロイ様とメルティア様が結婚すればよかったのだけれど」
冗談じゃない。あんな淫売とロイ様が結婚だなんて、ありえない!
ロイ様にふさわしいのはもっと高貴な、いわゆるお姫様、とかいうやつだろう。
「仕方ないわ。ロイ様はメルティア様を憎んでいるっていうし」
「あの方を様付けで呼んだら怒られるわよ」
「あ、そうだったわね。……お気の毒だけど、あの方は政争で負けたんだから仕方ないわ」
「何が! 仕方ない! だッ‼」
「キャッ」
思わず叫ぶと、たむろしていたメイドどもが蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
やってしまった。またロイ様に叱られる。
だが、できることなら斬り殺してやりたいのを堪えたのだから、最後には許してもらえるだろう。
「……おい、ロイ様の食事はどこだ」
厨房は、俺が入るとしんと静まりかえった。
以前に暴れたことがあるせいかもしれない。俺を見ると尻込みしやがる。
だが、ロイ様の食事に細工をしようとしやがったのだから自業自得だ。
指で示された食事のプレートを見て、苦々しい気持ちになる。
それは、ロイ様のために作られた食事などではなかった。
余りものの寄せ集め――残飯だ。
けれど、私の姿を目にして温かみのある笑みを浮かべて近づいてくる。
「ご両親のお話をお伺いしました。お悔やみ申し上げます、メルティア様……こうお呼びしてはご無礼になるでしょうか。公爵閣下?」
「いいのよ、先生。メルティアと呼んで。もう先生は来てくれないかと思ったわ」
「亡きオルフェンス公爵閣下よりメルティア様の教育を任されているのですから、それを途中で放り出すようなことはいたしませんとも」
ケルル伯爵たちにオルフェンス公爵家の執務を任せていたら、真っ先にライナー先生は辞めさせられていただろう。傀儡でしかない私に余計な知恵を付けさせるのは面白くないだろうから。
現に、小説にはライナー先生の存在はない。
改めて、グライフスにすべてを任せてよかったと思う。
「私もお養父様とお母様が選んでくださったライナー先生が恋しかったわ」
「メルティア様にそう言っていただけて光栄でございます」
お母様を愛し私に甘い顔を見せていたお養父様が選んだだけあって、ライナー先生はよい先生だ。詳しい経歴は知らないけれど、これまでに何回か教わっただけでわかる。
生まれで蔑むことなく、文字の読み書きすらわからないレベルの私に丁寧にわかりやすく教えてくれた。だが、本来はもっと高度な教育ができる人なのだろう。
私にはもったいない先生だ。だから、ありがたく教育を受けよう。
この屋敷に留まらなければならない以上、せめてできる限りの知識を詰め込んでおきたい。
「ロイ、ライナー先生の荷物をお持ちしなさい」
「その子は……」
「気にしなくっていいわ、先生。ただの小姓だから」
ライナー先生は複雑そうな眼差しでロイを見つめる。
ロイが何者なのかということくらい、ご存じなのだろうけれど何も言わず、彼に荷物を預けた。ロイも無表情で受け取る。
向かう先は地階の勉強部屋だ。既に勉学の準備は整っている。
「本日はこちらの本を読めるようになるための、スペルの法則についてお話ししたいと思います」
「文字の読み書きは大体できるようになったわ。次の段階に進んでもらうことはできないかしら? それとも、教材を用意していないから難しい?」
「読み書きがもう? しかし、まだ要点しかお教えしておりませんが」
「言葉は話せるんだから、文字さえ覚えれば読めるようになるわよ。法則の細かいところはわからないかもしれないけれど、それは読む本の数を増やしていけばそのうち解決すると思っているわ」
この国の言葉は表音文字だ。話せれば、あとは二十八個のアルファベットを覚えることで大まかになら読めるし書けるようになる。
「確かに、メルティア様の仰る通りですね」
ロイもまた、文字の読み書きはできるようだ。私が公爵になって届くようになった膨大な量の手紙を朗読させたり、その返事の代筆をさせたりしてみたから知っている。
壁際に立たせたままのロイのほうを見ないように意識しながら、私は先生を見つめた。
「授業はどんどん進めてほしいの。だって私、オルフェンス公爵になってしまったんだもの。勉強しなくてはならないことがたくさんあるのよ」
「素晴らしい心がけでございます。ですが、メルティア様の理解の速度に合った勉学をするのが学習の一番の近道となるでしょう」
「ノートを作るわ、先生。それをチェックしてもらえるかしら? 私が理解できていない、と思ったら授業の速度を緩めてちょうだい。そうでなければ速めてちょうだい」
「それはよい方法ですね」
ライナー先生は少し驚いたように目を丸くしている。
口出ししすぎた? 焦っているように見えた? 私の思惑が露見した?
だとしても、ライナー先生はケルル伯爵たちとは立場が違うから問題にはならないはず。
それから、ライナー先生は様々な分野の質問を織り交ぜながら授業を進めていった。おそらく私の理解度を測っていたのだろう。
私はといえば、ノートを取りながら日本語でメモしたくなるのを堪えるのが何より大変だった。
慣れない文字で書き取りをしながら、欲しい知識を取捨選択していく。
けれど、私にとってのみ必要な授業であってはいけない。
後ろで聞いているだけできっと授業内容を完璧に理解しているであろうロイが、やがて公爵になる時に役に立てられる内容でなくては。でなければ、壁際に立たせている意味がなかった。
* * *
ライナー先生は壁際に立つ僕を憐れみの眼差しで見つめていた。先生ですら気づいていない。
僕のための授業をさせようとしているという、彼女の企みに。
つまり、僕が感じているより彼女の演技は巧みなのだろう。
あれほど、わかりやすいのに。
(義姉上の目的は一体、何だ?)
人の心を惑わせるという僕のこの顔立ちを近づけてみても、誘惑される様子はない。
悪役を演じてまで僕を助けようと茨の道を歩んでいる、彼女の目的が未だ、わからなかった。
第二章 子ども時代後編
最近、マルスに睨まれていると安心感を覚える私がいる。
マルスが激怒しているということは、つまり笑顔の仮面で感情を隠している貴族の親戚連中は、心の中でもにっこりしているだろうということだから。
「ロイ~、力が弱いわよ。これじゃ全然肩こりがよくならないわ」
「申し訳ありません、義姉上」
ロイに肩を揉ませながら、私は溜め息を吐いた。
あれから二年が経過している。私は十四歳に、ロイは十二歳になった。
精霊探しは暗礁に乗り上げて既に久しい。屋敷中の探せる限りの場所を探し尽くした親戚たちの中には、諦めて領地に戻った者も多かった。
だが、往生際の悪い者もそれなりにいる。
その中の一人は当然、ロイの叔父のベンヤミン・フォン・ケルル伯爵だ。
「メルティア、これなど君に似合うのではないかね」
応接間の机に、宝飾品の数々が広げられている。どれも煌びやかで、前世でも博物館くらいでしかお目にかかったことのない代物ばかりだ。
ケルル伯爵に差し出されたルビーらしき赤い石が豪奢に鏤められたネックレスを受け取り、私はほうっと熱い溜め息を零してみせた。
「本当? この素敵なネックレスが私に?」
「これなども君の美貌を引き立てる」
「この緑の大きな石、まさかエメラルド?」
「君の美しい緑の瞳の輝きには劣るがね。エメラルドに相違ない」
つゆ型にカットされた大粒のエメラルドを使ったイヤリングを耳元に宛がわれる。
首筋を晒す姿勢に本能的な危機感を覚えたけれど、にっこり笑った。
「おじさまほど素敵な紳士は初めて見るわ!」
ケルル伯爵のことを、私はおじさまと呼んでいる。
お養父様の娘なのだからと叔父と呼ぶように促されたのだ。
今日は朝からプレゼントがあるからと部屋に押し入られそうになり、なんとか応接間に場所を移してロイを一緒につれてきた。マルスとカインはついでだ。
ケルル伯爵と二人きりになるのは恐かった。
私は確かに美しい。鏡を見る度に、この顔が自分のものであることにびっくりする。
黄金の滝のような金の髪にエメラルドのような緑の瞳。
お母様によく似ているものの、お母様より美しく思えるのはケルル伯爵がエメラルドよりも美しいと評したこの瞳のおかげかもしれない。
私自身、うっとりしてしまうほど美しい瞳だ。
光の角度によって虹色に輝く深く透き通ったグリーン。
鏡越しにしか見られないのが惜しいくらい。
とはいえまだ十四歳でしかない私を見る、この男の眼差しは異常だ。小説では四年もの間この男を二階の客間に住まわせながら自制させ、均衡を保ち続けていたなんて信じられない。
まだ半分しか経っていないのに既に死にそうな思いをしている私は、小説の悪女な義姉の手腕をちょっぴり尊敬しそうになる。
「メルティア、実は君に相談したいことがあるのだよ」
「おじさまが私に? 珍しいこともあるものね」
「君が、君にとってもっとも警戒すべき政敵を優遇しているのではないかという声があがっているのだ。放置しておいては、君の身が危うくなるのではないかと皆が心配している。無論、私もだ」
そう言って、ケルル伯爵は私の後ろにいるロイをじっとりと見つめた。
つまり、私がロイを優遇しているように見えるということだろう。
実際、ロイの身に危険が及ばないようにあれこれ手を尽くしてきたのだ。いくら表向きは軽んじているように見せても限度がある。
遂にこの時が来てしまった。いずれ指摘されるだろうとは思っていた。
だから、とっくに答えは用意してある。
「おじさまたちから見ても、私ってロイを優遇しているように見えるわよね?」
「うむ。君の対応は手ぬるいように思うが、自覚があるのかね?」
鋭く斬り込むような視線、べったりと貼り付くような声だ。
ロイと私が手を結んだら、ケルル伯爵たちにとって大きな障害となるだろう。
そんなことはありえないのだと、安心させなくてはならない。
小説の知識を使う時が来た。
「これだけ優遇されているのに……おじさま、信じられるかしら? この子たち、私のことを恨んでいるのよ!」
「……ふむ」
「ロイは顔色が変わりにくいからわかりづらいけれど、子分を見るとわかりやすいわ。この子たち、怒っているの。全部私のせいだと思っているのよ。これだけ恵まれているのに、自分たちこそが世界で一番不幸だと勘違いしているの!」
「確かに、そのようだな」
「だから私ね、この子たちにその勘違いにふさわしいだけの、本当の不幸を味わわせてあげたいのよ!」
ケルル伯爵が目を瞠る。
それは、ケルル伯爵も抱いたことのある思いだったろう。
お養父様は長男であるという理由だけでオルフェンス公爵位を継ぎ、何不自由なく暮らしながらも何かが足りないと自分の不幸を嘆き続けてきた。
その姿を見て、弟であるというだけで公爵位を逃したケルル伯爵が覚えた憎悪。その嘆きに見合う不幸を与えよう――ケルル伯爵が考えたことである。その描写を、二年かけて思い出したのだ。
親戚連中の中心的な人物がケルル伯爵だった。この男の心を動かさなければならない。
逆に言えば、この男の心さえ動かせればいいのだ。
「ふむ……この状態はあくまで通過点にすぎない、ということかな」
「その通りよ、おじさま。私ね、成人して社交界にデビューする私の姿をロイに見せてあげたいの」
「ほう、それはそれは」
「ロイではなく、この私こそがオルフェンス公爵だとみんなに認められる、その瞬間を」
壁際でカインは息を呑み、マルスが真っ赤になって打ち震えている。
後ろにいるロイがどんな表情をしているかだけがわからない。
「確かに、ぬるま湯の中で忘れ去られていくほどの屈辱はない」
「私、この子たちを見た瞬間に嫌いになったわ。明日の食事にこと欠いてひもじい思いをしたこともないくせに、着る服も上掛けもなく寒い冬を乗りこえたこともないくせに、自分たちが一番可哀想だという顔をしているんだもの」
「まったく傲慢極まりないことだ。君が嫌悪を覚えるのも当然だ」
「だからおじさま、どうか邪魔をしないでね」
これは私の復讐なのだ、と――そう伝わることを願ってケルル伯爵を見すえた。
彼に感銘を与えられただろうか?
失敗していたら、苦渋の決断を下さなくてはならなくなる。小説の義姉がしていたように、ロイに屈辱的な虐待を与えなくてはならない。
それ以外に、ロイをこの屋敷に置きながら命を守るすべを思いつかなかった。
じっと私を見下ろしていたケルル伯爵が不意に私の手首を掴む。
「え? ――ひっ⁉」
手首を掴み引き寄せて、彼は私をその腕にかき抱いた。
「君はなんと聡明なのだろう。私は君ほど素晴らしい女性に会ったことがない!」
悲鳴を呑み込みきれない。だが、ケルル伯爵は気にした様子もなく私を抱く腕に力を込めた。
悍ましくて身体が反射的に強ばる。だが、ダメだ。
普段、私はケルル伯爵に心を許したように演技している。
それなのに抱かれたくらいで硬直していては、本心では嫌っていることが露見してしまう。
身体から力を抜かなくては。身を委ねなくてはならない。この骨張ってかさついた男の腕に抱かれて、心底安堵しているという演技をしないといけない、それなのに――
「勿論、私は君の邪魔などしない。するものか。私だけは何があろうと君の味方だ。きっと、私だけが君の本心を理解できるであろう……」
甘ったるい香水のにおいがケルル伯爵の体臭に混じって吐きそうだ。
気を紛らわすため、必死で唯一自由な目だけをぎょろぎょろと動かした。
まるで助けを求めるように。
だけど、この場の誰も私を助けられないし、助ける気のある人間もいるはずがなかった。
「おやおや」
不意にケルル伯爵が低い笑いを漏らす。
「見てご覧、メルティア。前公爵の愚劣なる息子が理不尽にも私たちを睨んでいる」
私はケルル伯爵の腕の中から首を巡らしてロイを見やった。
彼は珍しく感情を露わにしていた。唇を噛みしめ、拳を握って震えている。真っ白な頬に血が上り、紫色の瞳が朱に染まっていた。
その顔を見ているうちに、ケルル伯爵の腕の中にあっても身体から力が抜けていく。
「私が君を助けよう。メルティア。だから君も、私を助けてくれるだろう?」
頭を撫でられる。吐き気がしたけど、ロイの顔を見ていると耐えられた。
次の瞬間、応接間の扉が開く。
「公爵様! 大変です、グライフスが倒れました! 医師によると卒中とのことです。意識がなく危ない状態だそうです!」
私を抱く男が腹の中で笑ったのが、かすかな振動でわかった。
この男が邪魔なグライフスを排除したのだ。
私のせいで――私が、グライフスに仕事を任せたせいで。
恐ろしくて身体が震えそうになるのを堪え、微笑む。
「……おじさま、早速助けていただきたい状況になったわ。執務をお願いできるかしら?」
「君の頼みとあらば喜んで、メルティア」
ケルル伯爵に仕事を委ねるしかない。そうしなくては怪しまれてしまう場面だ。
名残惜しげに見えるよう慎重にケルル伯爵の腕から逃れ、私はソファから立った。
「グライフスの様子を見に行くわ。ついてきなさい――カイン、あなたもよ」
「は?」
私がカインに話しかけるのは初めてだったかもしれない。
ロイのためにあらゆる頭脳労働をこなし、やがて公爵家の暗部をすべて背負って死ぬ男。彼は今はまだ十二歳の、ロイと同い年のただの子どもだ。
面食らった表情をしているカインに、私は再度命じる。
「あなたの父親の危篤の知らせよ。ついてきなさい。命令よ」
「……わかりました」
ロイとマルスと目配せをし合った後、カインは頷いた。
グライフスの部屋に行くと、医師が診察していた。ミレッカー先生だ。
オルフェンス公爵家のお抱えの医師で、グライフスの暗殺に関与しているとは思えない。
――そう、おそらくこれは毒殺だろう。
まだ死んではいないものの、グライフスの青ざめた顔を見るに時間の問題のように感じる。
「助かるの?」
「……難しいかもしれません」
「どんなに高い薬を使っても構わないわ。それでも?」
「精霊の力があればあるいは……ですが公爵家の精霊は未だ継承されておりませんし、精霊の継承者である大貴族に協力を仰ぐのに必要なのは金銭ではなく伝手ですので、難しいかと」
伝手を持っているとしたら親戚たちの中でも最も高い爵位を持つケルル伯爵だろうけれど、彼がグライフスのためにそれを使ってくれることなどありえない。
「他にグライフスのためにできることはあるかしら?」
「苦しまないよう、麻酔薬を投与してやることくらいです」
「お金がかかってもいいから、薬は惜しまないで与えなさい。一切苦しまず旅立てるように」
「グライフスは公爵様にお気遣いいただき果報者でございますな」
ミレッカー先生が涙ぐみながら言う。
私は背後を見やった。ロイ、マルス、そしてカインが立っている。
カインは無表情だったが、顔面蒼白だった。
「カイン、父親についていてあげなさい」
「お気遣いは無用です」
「あなたたちの親子仲が最悪なのは知っているけれど、血の繋がった父親には変わりないでしょう。嫌いなら嫌いで、別れの悪態でもついておきなさい。言いたいことが山ほどあるでしょう……まあ、好きにすればいいけれど」
私のせいでグライフスは倒れた。だから、彼の恩に報いたい。
ロイを排斥することはできないので、それ以外で彼のためにできることがあるとすれば息子のことだ。
グライフスは息子のカインとも対立していたけれど、その息災を願ってもいただろう。
ロイだけでなく、私はカインのことも守らなくてはならないのだ。
青ざめた顔で立ち尽くすカインを置いて、私はグライフスの部屋を出る。
ロイたちは出てこなかったが、それを許した。
また甘いと言われるかもしれない。でも、ケルル伯爵のことは懐柔できたのだ。後はなんとでも言い訳できる。
部屋に戻るとメイドが昼食を用意したが、食欲が湧かなかった。
「身体を洗いたいわ。入浴の準備をして」
グライフスのところで病の穢れに触れたからだとでも思われるといい。
私が禊ぎで落としたいのは、ケルル伯爵のにおいだ。
身体を洗わせた後は、湯船に沈んでメイドたちを浴室から追い出した。
「……どうしよう。すごく恐いわ」
身体が震える。
この震えが止まらないと、勢いのまま屋敷を飛び出してしまいそうだ。
一刻も早く、一秒でも早くここから逃げたくてたまらない。
身体が温まれば震えも治まるだろうと思ったのに、湯船のお湯が冷めても震えが治まらなかった。メイドに身体を拭かせながら、逃げよう、と考える。だって震えが止まらない。
私もきっと殺される。多分、殺されるより酷い目にも遭う。
逃げ出すための準備なら、二年前に終わっている。
震えながら浴室を出ると、部屋にはロイが待っていた。
「義姉上、ありがとうございます」
「カインのことなら、グライフスの献身に報いるためだから、あなたにお礼を言われる筋合いなんてないわ」
「それと――」
ロイが私に近づいてきて、周りに聞こえないように声を潜める。整いすぎて人間味を失った美しい顔が私に寄せられた。
美貌には自分の顔で慣れている私ですら息を呑む。
「もうしばらく、お待ちください」
「……何を言っているのか意味がわからないわ」
「はい。ですが、後もうしばし」
「わからないと言っているでしょう! 気味が悪いわね」
ロイをはねつけて寝室に飛び込んだ。無性に腹が立って、ベッドのクッションを手当たり次第に投げつけても、腹の虫は治まらない。
震えは、いつの間にか止まっていた。
* * *
「どうなることかと思ったけれど、メルティア様も悪くないんじゃないかしら」
こんな声が屋敷から聞こえてくるようになったのは、いつからだったろうか。
厨房にロイ様の食事を取りに行こうと廊下を歩く俺の耳に届いた言葉。ほんの二年前なら半殺しにしてやるところだが、ロイ様に暴力の禁止を厳命されているからできない。
「そうね。少しきついけれど、お優しいわよね」
「そうそう。わたし、子どもが熱を出したと言ったら病気が伝染るから家に帰れと怒られて。クビにされるんじゃないかと不安だったのに、休んでいる間もお給金がもらえたのよ」
「グライフスさんのおかげじゃないの?」
「グライフスさんの采配なら前と変わらないはずでしょ? 休ませてくれても、お給金はもらえない」
「これってすごい話よね」
「わたしたちと同じ平民生まれだから、気持ちをわかってくれるんだわ」
「グライフスさんのことはお気の毒だけど、メルティア様がいれば安心ね」
あんな娼婦の肩を持つな、と叫びたかった。
オルフェンス公爵家の正統な継承者はロイ様だ。
あばずれの娘が公爵なんて言語道断。当初はそういう雰囲気が屋敷にはあった。
それなのに、いつの間にか屋敷は裏切者で溢れている。
「生まれは不安だけれど、お美しいし」
「血筋のことは、ベンヤミン様とご結婚されれば解決するわ。あの二人、いい感じなんでしょう?」
「抱き合っていたって聞いたわ」
「メルティア様はまだ十四歳だから、あと二年ね」
「本当なら、ロイ様とメルティア様が結婚すればよかったのだけれど」
冗談じゃない。あんな淫売とロイ様が結婚だなんて、ありえない!
ロイ様にふさわしいのはもっと高貴な、いわゆるお姫様、とかいうやつだろう。
「仕方ないわ。ロイ様はメルティア様を憎んでいるっていうし」
「あの方を様付けで呼んだら怒られるわよ」
「あ、そうだったわね。……お気の毒だけど、あの方は政争で負けたんだから仕方ないわ」
「何が! 仕方ない! だッ‼」
「キャッ」
思わず叫ぶと、たむろしていたメイドどもが蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
やってしまった。またロイ様に叱られる。
だが、できることなら斬り殺してやりたいのを堪えたのだから、最後には許してもらえるだろう。
「……おい、ロイ様の食事はどこだ」
厨房は、俺が入るとしんと静まりかえった。
以前に暴れたことがあるせいかもしれない。俺を見ると尻込みしやがる。
だが、ロイ様の食事に細工をしようとしやがったのだから自業自得だ。
指で示された食事のプレートを見て、苦々しい気持ちになる。
それは、ロイ様のために作られた食事などではなかった。
余りものの寄せ集め――残飯だ。
2
お気に入りに追加
7,587
あなたにおすすめの小説
初夜に「俺がお前を抱く事は無い!」と叫んだら長年の婚約者だった新妻に「気持ち悪い」と言われた上に父にも予想外の事を言われた男とその浮気女の話
ラララキヲ
恋愛
長年の婚約者を欺いて平民女と浮気していた侯爵家長男。3年後の白い結婚での離婚を浮気女に約束して、新妻の寝室へと向かう。
初夜に「俺がお前を抱く事は無い!」と愛する夫から宣言された無様な女を嘲笑う為だけに。
しかし寝室に居た妻は……
希望通りの白い結婚と愛人との未来輝く生活の筈が……全てを周りに知られていた上に自分の父親である侯爵家当主から言われた言葉は──
一人の女性を蹴落として掴んだ彼らの未来は……──
<【ざまぁ編】【イリーナ編】【コザック第二の人生編(ザマァ有)】となりました>
◇テンプレ浮気クソ男女。
◇軽い触れ合い表現があるのでR15に
◇ふんわり世界観。ゆるふわ設定。
◇ご都合展開。矛盾は察して下さい…
◇なろうにも上げてます。
※HOTランキング入り(1位)!?[恋愛::3位]ありがとうございます!恐縮です!期待に添えればよいのですがッ!!(;><)
婚約者に消えろと言われたので湖に飛び込んだら、気づけば三年が経っていました。
束原ミヤコ
恋愛
公爵令嬢シャロンは、王太子オリバーの婚約者に選ばれてから、厳しい王妃教育に耐えていた。
だが、十六歳になり貴族学園に入学すると、オリバーはすでに子爵令嬢エミリアと浮気をしていた。
そしてある冬のこと。オリバーに「私の為に消えろ」というような意味のことを告げられる。
全てを諦めたシャロンは、精霊の湖と呼ばれている学園の裏庭にある湖に飛び込んだ。
気づくと、見知らぬ場所に寝かされていた。
そこにはかつて、病弱で体の小さかった辺境伯家の息子アダムがいた。
すっかり立派になったアダムは「あれから三年、君は目覚めなかった」と言った――。
最愛の側妃だけを愛する旦那様、あなたの愛は要りません
abang
恋愛
私の旦那様は七人の側妃を持つ、巷でも噂の好色王。
後宮はいつでも女の戦いが絶えない。
安心して眠ることもできない後宮に、他の妃の所にばかり通う皇帝である夫。
「どうして、この人を愛していたのかしら?」
ずっと静観していた皇后の心は冷めてしまいう。
それなのに皇帝は急に皇后に興味を向けて……!?
「あの人に興味はありません。勝手になさい!」
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
この度、双子の妹が私になりすまして旦那様と初夜を済ませてしまったので、 私は妹として生きる事になりました
秘密 (秘翠ミツキ)
恋愛
*レンタル配信されました。
レンタルだけの番外編ssもあるので、お読み頂けたら嬉しいです。
【伯爵令嬢のアンネリーゼは侯爵令息のオスカーと結婚をした。籍を入れたその夜、初夜を迎える筈だったが急激な睡魔に襲われて意識を手放してしまった。そして、朝目を覚ますと双子の妹であるアンナマリーが自分になり代わり旦那のオスカーと初夜を済ませてしまっていた。しかも両親は「見た目は同じなんだし、済ませてしまったなら仕方ないわ。アンネリーゼ、貴女は今日からアンナマリーとして過ごしなさい」と告げた。
そして妹として過ごす事になったアンネリーゼは妹の代わりに学院に通う事となり……更にそこで最悪な事態に見舞われて……?】
側妃、で御座いますか?承知いたしました、ただし条件があります。
とうや
恋愛
「私はシャーロットを妻にしようと思う。君は側妃になってくれ」
成婚の儀を迎える半年前。王太子セオドアは、15年も婚約者だったエマにそう言った。微笑んだままのエマ・シーグローブ公爵令嬢と、驚きの余り硬直する近衛騎士ケイレブ・シェパード。幼馴染だった3人の関係は、シャーロットという少女によって崩れた。
「側妃、で御座いますか?承知いたしました、ただし条件があります」
********************************************
ATTENTION
********************************************
*世界軸は『側近候補を外されて覚醒したら〜』あたりの、なんちゃってヨーロッパ風。魔法はあるけれど魔王もいないし神様も遠い存在。そんなご都合主義で設定うすうすの世界です。
*いつものような残酷な表現はありませんが、倫理観に難ありで軽い胸糞です。タグを良くご覧ください。
*R-15は保険です。
ヤケになってドレスを脱いだら、なんだかえらい事になりました
杜野秋人
恋愛
「そなたとの婚約、今この場をもって破棄してくれる!」
王族専用の壇上から、立太子間近と言われる第一王子が、声高にそう叫んだ。それを、第一王子の婚約者アレクシアは黙って聞いていた。
第一王子は次々と、アレクシアの不行跡や不品行をあげつらい、容姿をけなし、彼女を責める。傍らに呼び寄せたアレクシアの異母妹が訴えるままに、鵜呑みにして信じ込んだのだろう。
確かに婚約してからの5年間、第一王子とは一度も会わなかったし手紙や贈り物のやり取りもしなかった。だがそれは「させてもらえなかった」が正しい。全ては母が死んだ後に乗り込んできた後妻と、その娘である異母妹の仕組んだことで、父がそれを許可したからこそそんな事がまかり通ったのだということに、第一王子は気付かないらしい。
唯一の味方だと信じていた第一王子までも、アレクシアの味方ではなくなった。
もう味方はいない。
誰への義理もない。
ならば、もうどうにでもなればいい。
アレクシアはスッと背筋を伸ばした。
そうして彼女が次に取った行動に、第一王子は驚愕することになる⸺!
◆虐げられてるドアマットヒロインって、見たら分かるじゃんね?って作品が最近多いので便乗してみました(笑)。
◆虐待を窺わせる描写が少しだけあるのでR15で。
◆ざまぁは二段階。いわゆるおまいう系のざまぁを含みます。
◆全8話、最終話だけ少し長めです。
恋愛は後半で、メインディッシュはざまぁでどうぞ。
◆片手間で書いたんで、主要人物以外の固有名詞はありません。どこの国とも設定してないんで悪しからず。
◆この作品はアルファポリスのほか、小説家になろうでも公開します。
◆過去作のヒロインと本作主人公の名前が丸被りしてたので、名前を変更しています。(2024/09/03)
◆9/2、HOTランキング11→7位!ありがとうございます!
9/3、HOTランキング5位→3位!ありがとうございます!
過去1ヶ月以内にレジーナの小説・漫画を1話以上レンタルしている
と、レジーナのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にレジーナの小説・漫画を1話以上レンタルしている
と、レジーナのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。