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1巻

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 そんな異様な雰囲気に、大広間に足を踏み入れたライナー先生が一瞬ひるんだのが見えた。
 けれど、私の姿を目にして温かみのある笑みを浮かべて近づいてくる。

「ご両親のお話をお伺いしました。お悔やみ申し上げます、メルティア様……こうお呼びしてはご無礼になるでしょうか。公爵閣下?」
「いいのよ、先生。メルティアと呼んで。もう先生は来てくれないかと思ったわ」
「亡きオルフェンス公爵閣下よりメルティア様の教育を任されているのですから、それを途中で放り出すようなことはいたしませんとも」

 ケルル伯爵たちにオルフェンス公爵家の執務を任せていたら、真っ先にライナー先生は辞めさせられていただろう。傀儡かいらいでしかない私に余計な知恵を付けさせるのは面白くないだろうから。
 現に、小説にはライナー先生の存在はない。
 改めて、グライフスにすべてを任せてよかったと思う。

「私もお養父とうさまとお母様が選んでくださったライナー先生が恋しかったわ」
「メルティア様にそう言っていただけて光栄でございます」

 お母様を愛し私に甘い顔を見せていたお養父とうさまが選んだだけあって、ライナー先生はよい先生だ。詳しい経歴は知らないけれど、これまでに何回か教わっただけでわかる。
 生まれでさげすむことなく、文字の読み書きすらわからないレベルの私に丁寧にわかりやすく教えてくれた。だが、本来はもっと高度な教育ができる人なのだろう。
 私にはもったいない先生だ。だから、ありがたく教育を受けよう。
 この屋敷に留まらなければならない以上、せめてできる限りの知識をめ込んでおきたい。

「ロイ、ライナー先生の荷物をお持ちしなさい」
「その子は……」
「気にしなくっていいわ、先生。ただの小姓だから」

 ライナー先生は複雑そうな眼差まなざしでロイを見つめる。
 ロイが何者なのかということくらい、ご存じなのだろうけれど何も言わず、彼に荷物を預けた。ロイも無表情で受け取る。
 向かう先は地階の勉強部屋だ。すでに勉学の準備は整っている。

「本日はこちらの本を読めるようになるための、スペルの法則についてお話ししたいと思います」
「文字の読み書きは大体できるようになったわ。次の段階に進んでもらうことはできないかしら? それとも、教材を用意していないから難しい?」
「読み書きがもう? しかし、まだ要点しかお教えしておりませんが」
「言葉は話せるんだから、文字さえ覚えれば読めるようになるわよ。法則の細かいところはわからないかもしれないけれど、それは読む本の数を増やしていけばそのうち解決すると思っているわ」

 この国の言葉は表音文字だ。話せれば、あとは二十八個のアルファベットを覚えることで大まかになら読めるし書けるようになる。

「確かに、メルティア様のおっしゃとおりですね」

 ロイもまた、文字の読み書きはできるようだ。私が公爵になって届くようになった膨大な量の手紙を朗読させたり、その返事の代筆をさせたりしてみたから知っている。
 壁際に立たせたままのロイのほうを見ないように意識しながら、私は先生を見つめた。

「授業はどんどん進めてほしいの。だって私、オルフェンス公爵になってしまったんだもの。勉強しなくてはならないことがたくさんあるのよ」
「素晴らしい心がけでございます。ですが、メルティア様の理解の速度に合った勉学をするのが学習の一番の近道となるでしょう」
「ノートを作るわ、先生。それをチェックしてもらえるかしら? 私が理解できていない、と思ったら授業の速度を緩めてちょうだい。そうでなければ速めてちょうだい」
「それはよい方法ですね」

 ライナー先生は少し驚いたように目を丸くしている。
 口出ししすぎた? あせっているように見えた? 私の思惑おもわく露見ろけんした?
 だとしても、ライナー先生はケルル伯爵たちとは立場が違うから問題にはならないはず。
 それから、ライナー先生は様々な分野の質問を織り交ぜながら授業を進めていった。おそらく私の理解度を測っていたのだろう。
 私はといえば、ノートを取りながら日本語でメモしたくなるのをこらえるのが何より大変だった。
 慣れない文字で書き取りをしながら、欲しい知識を取捨選択していく。
 けれど、私にとってのみ必要な授業であってはいけない。
 後ろで聞いているだけできっと授業内容を完璧に理解しているであろうロイが、やがて公爵になる時に役に立てられる内容でなくては。でなければ、壁際に立たせている意味がなかった。


     * * *


 ライナー先生は壁際に立つ僕をあわれみの眼差まなざしで見つめていた。先生ですら気づいていない。
 僕のための授業をさせようとしているという、彼女のたくらみに。
 つまり、僕が感じているより彼女の演技はたくみなのだろう。
 あれほど、わかりやすいのに。

義姉あねうえの目的は一体、何だ?)

 人の心をまどわせるという僕のこの顔立ちを近づけてみても、誘惑される様子はない。
 悪役を演じてまで僕を助けようといばらの道を歩んでいる、彼女の目的が未だ、わからなかった。



   第二章 子ども時代後編


 最近、マルスににらまれていると安心感を覚える私がいる。
 マルスが激怒しているということは、つまり笑顔の仮面で感情を隠している貴族の親戚連中は、心の中でもにっこりしているだろうということだから。

「ロイ~、力が弱いわよ。これじゃ全然肩こりがよくならないわ」
「申し訳ありません、義姉あねうえ

 ロイに肩をませながら、私はいきいた。
 あれから二年が経過している。私は十四歳に、ロイは十二歳になった。
 精霊探しは暗礁あんしょうに乗り上げてすでに久しい。屋敷中の探せる限りの場所を探し尽くした親戚たちの中には、諦めて領地に戻った者も多かった。
 だが、往生際の悪い者もそれなりにいる。
 その中の一人は当然、ロイの叔父のベンヤミン・フォン・ケルル伯爵だ。

「メルティア、これなど君に似合うのではないかね」

 応接間の机に、宝飾品の数々が広げられている。どれもきらびやかで、前世でも博物館くらいでしかお目にかかったことのない代物しろものばかりだ。
 ケルル伯爵に差し出されたルビーらしき赤い石が豪奢ごうしゃちりばめられたネックレスを受け取り、私はほうっと熱いいきこぼしてみせた。

「本当? この素敵なネックレスが私に?」
「これなども君の美貌びぼうを引き立てる」
「この緑の大きな石、まさかエメラルド?」
「君の美しい緑の瞳の輝きには劣るがね。エメラルドに相違ない」

 つゆ型にカットされた大粒のエメラルドを使ったイヤリングを耳元にあてがわれる。
 首筋をさらす姿勢に本能的な危機感を覚えたけれど、にっこり笑った。

「おじさまほど素敵な紳士は初めて見るわ!」

 ケルル伯爵のことを、私はおじさまと呼んでいる。
 お養父とうさまの娘なのだからと叔父と呼ぶようにうながされたのだ。
 今日は朝からプレゼントがあるからと部屋に押し入られそうになり、なんとか応接間に場所を移してロイを一緒につれてきた。マルスとカインはついでだ。
 ケルル伯爵と二人きりになるのは恐かった。
 私は確かに美しい。鏡を見る度に、この顔が自分のものであることにびっくりする。
 黄金の滝のような金の髪にエメラルドのような緑の瞳。
 お母様によく似ているものの、お母様より美しく思えるのはケルル伯爵がエメラルドよりも美しいと評したこの瞳のおかげかもしれない。
 私自身、うっとりしてしまうほど美しい瞳だ。
 光の角度によって虹色に輝く深く透き通ったグリーン。
 鏡越しにしか見られないのが惜しいくらい。
 とはいえまだ十四歳でしかない私を見る、この男の眼差まなざしは異常だ。小説では四年もの間この男を二階の客間に住まわせながら自制させ、均衡を保ち続けていたなんて信じられない。
 まだ半分しか経っていないのにすでに死にそうな思いをしている私は、小説の悪女な義姉の手腕をちょっぴり尊敬しそうになる。

「メルティア、実は君に相談したいことがあるのだよ」
「おじさまが私に? 珍しいこともあるものね」
「君が、君にとってもっとも警戒すべき政敵を優遇しているのではないかという声があがっているのだ。放置しておいては、君の身があやうくなるのではないかと皆が心配している。無論、私もだ」

 そう言って、ケルル伯爵は私の後ろにいるロイをじっとりと見つめた。
 つまり、私がロイを優遇しているように見えるということだろう。
 実際、ロイの身に危険が及ばないようにあれこれ手を尽くしてきたのだ。いくら表向きは軽んじているように見せても限度がある。
 ついにこの時が来てしまった。いずれ指摘されるだろうとは思っていた。
 だから、とっくに答えは用意してある。

「おじさまたちから見ても、私ってロイを優遇しているように見えるわよね?」
「うむ。君の対応は手ぬるいように思うが、自覚があるのかね?」

 鋭く斬り込むような視線、べったりと貼り付くような声だ。
 ロイと私が手を結んだら、ケルル伯爵たちにとって大きな障害となるだろう。
 そんなことはありえないのだと、安心させなくてはならない。
 小説の知識を使う時が来た。

「これだけ優遇されているのに……おじさま、信じられるかしら? この子たち、私のことを恨んでいるのよ!」
「……ふむ」
「ロイは顔色が変わりにくいからわかりづらいけれど、子分を見るとわかりやすいわ。この子たち、怒っているの。全部私のせいだと思っているのよ。これだけ恵まれているのに、自分たちこそが世界で一番不幸だと勘違いしているの!」
「確かに、そのようだな」
「だから私ね、この子たちにその勘違いにふさわしいだけの、本当の不幸を味わわせてあげたいのよ!」

 ケルル伯爵が目をみはる。
 それは、ケルル伯爵も抱いたことのある思いだったろう。
 お養父とうさまは長男であるという理由だけでオルフェンス公爵位を継ぎ、何不自由なく暮らしながらも何かが足りないと自分の不幸をなげき続けてきた。
 その姿を見て、弟であるというだけで公爵位をのがしたケルル伯爵が覚えた憎悪。そのなげきに見合う不幸を与えよう――ケルル伯爵が考えたことである。その描写を、二年かけて思い出したのだ。
 親戚連中の中心的な人物がケルル伯爵だった。この男の心を動かさなければならない。
 逆に言えば、この男の心さえ動かせればいいのだ。

「ふむ……この状態はあくまで通過点にすぎない、ということかな」
「その通りよ、おじさま。私ね、成人して社交界にデビューする私の姿をロイに見せてあげたいの」
「ほう、それはそれは」
「ロイではなく、この私こそがオルフェンス公爵だとみんなに認められる、その瞬間を」

 壁際でカインは息を呑み、マルスが真っ赤になって打ち震えている。
 後ろにいるロイがどんな表情をしているかだけがわからない。

「確かに、ぬるま湯の中で忘れ去られていくほどの屈辱くつじょくはない」
「私、この子たちを見た瞬間に嫌いになったわ。明日の食事にこと欠いてひもじい思いをしたこともないくせに、着る服も上掛けもなく寒い冬を乗りこえたこともないくせに、自分たちが一番可哀想だという顔をしているんだもの」
「まったく傲慢ごうまん極まりないことだ。君が嫌悪を覚えるのも当然だ」
「だからおじさま、どうか邪魔をしないでね」

 これは私の復讐なのだ、と――そう伝わることを願ってケルル伯爵を見すえた。
 彼に感銘を与えられただろうか?
 失敗していたら、苦渋の決断を下さなくてはならなくなる。小説の義姉がしていたように、ロイに屈辱くつじょく的な虐待ぎゃくたいを与えなくてはならない。
 それ以外に、ロイをこの屋敷に置きながら命を守るすべを思いつかなかった。
 じっと私を見下ろしていたケルル伯爵が不意に私の手首を掴む。

「え? ――ひっ⁉」

 手首を掴み引き寄せて、彼は私をその腕にかき抱いた。

「君はなんと聡明なのだろう。私は君ほど素晴らしい女性に会ったことがない!」

 悲鳴を呑み込みきれない。だが、ケルル伯爵は気にした様子もなく私を抱く腕に力を込めた。
 おぞましくて身体が反射的にこわばる。だが、ダメだ。
 普段、私はケルル伯爵に心を許したように演技している。
 それなのに抱かれたくらいで硬直していては、本心では嫌っていることが露見ろけんしてしまう。
 身体から力を抜かなくては。身をゆだねなくてはならない。この骨張ってかさついた男の腕に抱かれて、心底安堵あんどしているという演技をしないといけない、それなのに――

勿論もちろん、私は君の邪魔などしない。するものか。私だけは何があろうと君の味方だ。きっと、私だけが君の本心を理解できるであろう……」

 甘ったるい香水のにおいがケルル伯爵の体臭に混じって吐きそうだ。
 気をまぎらわすため、必死で唯一自由な目だけをぎょろぎょろと動かした。
 まるで助けを求めるように。
 だけど、この場の誰も私を助けられないし、助ける気のある人間もいるはずがなかった。

「おやおや」

 不意にケルル伯爵が低い笑いを漏らす。

「見てご覧、メルティア。前公爵の愚劣なる息子が理不尽にも私たちをにらんでいる」

 私はケルル伯爵の腕の中から首を巡らしてロイを見やった。
 彼は珍しく感情をあらわにしていた。唇を噛みしめ、こぶしを握って震えている。真っ白な頬に血が上り、紫色の瞳が朱に染まっていた。
 その顔を見ているうちに、ケルル伯爵の腕の中にあっても身体から力が抜けていく。

「私が君を助けよう。メルティア。だから君も、私を助けてくれるだろう?」

 頭をでられる。吐き気がしたけど、ロイの顔を見ていると耐えられた。
 次の瞬間、応接間の扉が開く。

「公爵様! 大変です、グライフスが倒れました! 医師によると卒中とのことです。意識がなく危ない状態だそうです!」

 私を抱く男が腹の中で笑ったのが、かすかな振動でわかった。
 この男が邪魔なグライフスを排除したのだ。
 私のせいで――私が、グライフスに仕事を任せたせいで。
 恐ろしくて身体が震えそうになるのをこらえ、微笑ほほえむ。

「……おじさま、早速助けていただきたい状況になったわ。執務をお願いできるかしら?」
「君の頼みとあらば喜んで、メルティア」

 ケルル伯爵に仕事をゆだねるしかない。そうしなくては怪しまれてしまう場面だ。
 名残惜なごりおしげに見えるよう慎重にケルル伯爵の腕からのがれ、私はソファから立った。

「グライフスの様子を見に行くわ。ついてきなさい――カイン、あなたもよ」
「は?」

 私がカインに話しかけるのは初めてだったかもしれない。
 ロイのためにあらゆる頭脳労働をこなし、やがて公爵家の暗部をすべて背負って死ぬ男。彼は今はまだ十二歳の、ロイと同い年のただの子どもだ。
 面食らった表情をしているカインに、私は再度命じる。

「あなたの父親の危篤きとくの知らせよ。ついてきなさい。命令よ」
「……わかりました」

 ロイとマルスと目配せをし合った後、カインはうなずいた。


 グライフスの部屋に行くと、医師が診察していた。ミレッカー先生だ。
 オルフェンス公爵家のお抱えの医師で、グライフスの暗殺に関与しているとは思えない。
 ――そう、おそらくこれは毒殺だろう。
 まだ死んではいないものの、グライフスの青ざめた顔を見るに時間の問題のように感じる。

「助かるの?」
「……難しいかもしれません」
「どんなに高い薬を使っても構わないわ。それでも?」
「精霊の力があればあるいは……ですが公爵家の精霊は未だ継承されておりませんし、精霊の継承者である大貴族に協力をあおぐのに必要なのは金銭ではなく伝手つてですので、難しいかと」

 伝手つてを持っているとしたら親戚たちの中でも最も高い爵位を持つケルル伯爵だろうけれど、彼がグライフスのためにそれを使ってくれることなどありえない。

「他にグライフスのためにできることはあるかしら?」
「苦しまないよう、麻酔薬を投与してやることくらいです」
「お金がかかってもいいから、薬は惜しまないで与えなさい。一切苦しまず旅立てるように」
「グライフスは公爵様にお気遣いいただき果報者でございますな」

 ミレッカー先生が涙ぐみながら言う。
 私は背後を見やった。ロイ、マルス、そしてカインが立っている。
 カインは無表情だったが、顔面蒼白だった。

「カイン、父親についていてあげなさい」
「お気遣いは無用です」
「あなたたちの親子仲が最悪なのは知っているけれど、血の繋がった父親には変わりないでしょう。嫌いなら嫌いで、別れの悪態あくたいでもついておきなさい。言いたいことが山ほどあるでしょう……まあ、好きにすればいいけれど」

 私のせいでグライフスは倒れた。だから、彼の恩にむくいたい。
 ロイを排斥はいせきすることはできないので、それ以外で彼のためにできることがあるとすれば息子のことだ。
 グライフスは息子のカインとも対立していたけれど、その息災そくさいを願ってもいただろう。
 ロイだけでなく、私はカインのことも守らなくてはならないのだ。
 青ざめた顔で立ち尽くすカインを置いて、私はグライフスの部屋を出る。
 ロイたちは出てこなかったが、それを許した。
 また甘いと言われるかもしれない。でも、ケルル伯爵のことは懐柔かいじゅうできたのだ。後はなんとでも言い訳できる。
 部屋に戻るとメイドが昼食を用意したが、食欲が湧かなかった。

「身体を洗いたいわ。入浴の準備をして」

 グライフスのところで病のけがれに触れたからだとでも思われるといい。
 私がみそぎで落としたいのは、ケルル伯爵のにおいだ。
 身体を洗わせた後は、湯船に沈んでメイドたちを浴室から追い出した。

「……どうしよう。すごく恐いわ」

 身体が震える。
 この震えが止まらないと、勢いのまま屋敷を飛び出してしまいそうだ。
 一刻も早く、一秒でも早くここから逃げたくてたまらない。
 身体が温まれば震えも治まるだろうと思ったのに、湯船のお湯が冷めても震えが治まらなかった。メイドに身体を拭かせながら、逃げよう、と考える。だって震えが止まらない。
 私もきっと殺される。多分、殺されるよりひどい目にもう。
 逃げ出すための準備なら、二年前に終わっている。
 震えながら浴室を出ると、部屋にはロイが待っていた。

義姉あねうえ、ありがとうございます」
「カインのことなら、グライフスの献身にむくいるためだから、あなたにお礼を言われる筋合いなんてないわ」
「それと――」

 ロイが私に近づいてきて、周りに聞こえないように声をひそめる。整いすぎて人間味を失った美しい顔が私に寄せられた。
 美貌びぼうには自分の顔で慣れている私ですら息を呑む。

「もうしばらく、お待ちください」
「……何を言っているのか意味がわからないわ」
「はい。ですが、後もうしばし」
「わからないと言っているでしょう! 気味が悪いわね」

 ロイをはねつけて寝室に飛び込んだ。無性に腹が立って、ベッドのクッションを手当たり次第に投げつけても、腹の虫は治まらない。
 震えは、いつの間にか止まっていた。


     * * *


「どうなることかと思ったけれど、メルティア様も悪くないんじゃないかしら」

 こんな声が屋敷から聞こえてくるようになったのは、いつからだったろうか。
 厨房ちゅうぼうにロイ様の食事を取りに行こうと廊下を歩く俺の耳に届いた言葉。ほんの二年前なら半殺しにしてやるところだが、ロイ様に暴力の禁止を厳命されているからできない。

「そうね。少しきついけれど、お優しいわよね」
「そうそう。わたし、子どもが熱を出したと言ったら病気が伝染うつるから家に帰れと怒られて。クビにされるんじゃないかと不安だったのに、休んでいる間もお給金がもらえたのよ」
「グライフスさんのおかげじゃないの?」
「グライフスさんの采配さいはいなら前と変わらないはずでしょ? 休ませてくれても、お給金はもらえない」
「これってすごい話よね」
「わたしたちと同じ平民生まれだから、気持ちをわかってくれるんだわ」
「グライフスさんのことはお気の毒だけど、メルティア様がいれば安心ね」

 あんな娼婦の肩を持つな、と叫びたかった。
 オルフェンス公爵家の正統な継承者はロイ様だ。
 あばずれの娘が公爵なんて言語道断ごんごどうだん。当初はそういう雰囲気が屋敷にはあった。
 それなのに、いつの間にか屋敷は裏切者であふれている。

「生まれは不安だけれど、お美しいし」
「血筋のことは、ベンヤミン様とご結婚されれば解決するわ。あの二人、いい感じなんでしょう?」
「抱き合っていたって聞いたわ」
「メルティア様はまだ十四歳だから、あと二年ね」
「本当なら、ロイ様とメルティア様が結婚すればよかったのだけれど」

 冗談じゃない。あんな淫売とロイ様が結婚だなんて、ありえない!
 ロイ様にふさわしいのはもっと高貴な、いわゆるお姫様、とかいうやつだろう。

「仕方ないわ。ロイ様はメルティア様を憎んでいるっていうし」
「あの方を様付けで呼んだら怒られるわよ」
「あ、そうだったわね。……お気の毒だけど、あの方は政争で負けたんだから仕方ないわ」
「何が! 仕方ない! だッ‼」
「キャッ」

 思わず叫ぶと、たむろしていたメイドどもが蜘蛛くもの子を散らすように逃げていった。
 やってしまった。またロイ様にしかられる。
 だが、できることならころしてやりたいのをこらえたのだから、最後には許してもらえるだろう。

「……おい、ロイ様の食事はどこだ」

 厨房ちゅうぼうは、俺が入るとしんと静まりかえった。
 以前に暴れたことがあるせいかもしれない。俺を見ると尻込みしやがる。
 だが、ロイ様の食事に細工をしようとしやがったのだから自業自得だ。
 指で示された食事のプレートを見て、苦々しい気持ちになる。
 それは、ロイ様のために作られた食事などではなかった。
 余りものの寄せ集め――残飯だ。


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