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1巻
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母親の棺の存在など忘れたかのように大広間の壮麗な内装をうっとりと眺めながら、自分は何をやっているのだろうと呆れる。
彼らは私への警戒を解いた。私のことを、愚かな娼婦だと思っただろうから。
そんなふうに思わせて、どうする気?
この屋敷から逃げ出すなら、こんな不愉快な演技をする必要なんて少しもないのに。
――小説の中のメルティアがロイにした仕打ちを思い出したのは、運がいいのか悪いのか。
「じゃあ、あの女の遺体を礼拝堂に運ばなくてもいいってことねっ!」
手を打つ私。視界の端で、カインがマルスを全力で抑え込んでいるのが見えた。
ケルル伯爵が灰色の目を細めて言う。
「あの女?」
「前妻の女がついさっき亡くなったの」
「フィリーナが?」
「そう! 正妻だというから礼拝堂に運ばせようと思ったのだけれど、遡って結婚しなかったことになっているのなら、お養父様とお母様の眠る場所に他の女を連れていかなくてもいいってことでしょうっ?」
弾む声。嬉しそうに見えるだろうか。
何を言っているんだろう。何をやっているんだろう。
ロイが私を見ていた。きっと私は憎まれるに違いない。
「なるほど、フィリーナには憐れなことだが、確かに公爵家の人間として扱う義務はなくなったな」
「そんなことが許されるわけがあるか‼」
騒いでくれたマルスのおかげで、小説の展開を再現しやすい。
きっとこれは、ロイがメルティアを憎悪するきっかけとなったエピソード。
そして、おそらく……これこそがロイとメルティアが手を結ぶことは絶対にないだろうと、一族郎党どもが心底安堵した出来事に違いないから。
「だったら、条件次第で許してあげてもいいわよ? ねえロイ」
「条件?」
「――あなたが三回回ってワンと言えたら、あなたのお母様を公爵家の礼拝堂に眠らせることを考えてあげてもいいわ」
「お、おまえーッ‼」
マルスはグライフスに羽交い締めにされて黙らされた。
グライフスの顔はロイを侮辱できる喜悦に歪んでいる。彼の信頼を得ることもきっとできただろう。
逃げ出すなら小指のつま先ほども必要のないシロモノなのに。
「うるさいわねえ。外野は黙ってて。ねえロイ? あなたはどうする?」
ロイは無表情だ。きっと腸は煮えくりかえっているのだろう。
それを感じさせない鉄面皮のまま、彼は父親の棺を一瞥して立ち上がる。
きっと、最愛の母親のための苦渋の決断だ。
我が物顔でオルフェンス公爵家の大広間にのさばっていたケルル伯爵をはじめとした貴族たちは、物見の姿勢を取っている。誰一人、自分たちの親戚の子であるロイを庇おうとしない。
ロイはのろのろとその場で三回回った。
「ワン」
「あは」
確か、小説ではここに挿絵があった。ロイの義理の姉の、醜悪な笑顔の絵。
それを忠実に再現するよう努力する。マルスは頭から煙を出しそうだったし、カインは暴れこそしないものの私を暗い目で見すえていた。
ロイの表情だけが読めない。とはいえ小説を読んでいるから想像はできる。
きっと、内心は屈辱に塗れているだろう。
「んーっ。はい、考えてあげたわっ! きゃははは! あの女の亡骸は適当に教会にでも持っていって」
すぐに怒号があがるかと思ったのに、少年たちは、私の悪辣極まりない冗談をにわかには理解できなかったらしく茫然としていた。
今ロイたちを屋敷から追い出せば、公爵にはなれなくても生き延びられるだろうか?
いや、きっとそうはならない。ケルル伯爵はきっとロイを殺害するだろう。後顧の憂いを断つために。
私はさりげなさを装って言う。
「あんたたち、今日から家なし子? 可哀想だから、私の召使いとしてならここに置いてあげるわ」
「ぎ、ぎ、ぎぃーっ‼」
暴れ出したマルスをグライフスを始めとした大人が三人がかりで押さえつけている。
カインは項垂れて震え、ロイは――
その顔を見る勇気はなくて、私は顔を逸らしてその場から立ち去った。
* * *
フィリーナ様のご遺体が運び込まれた教会を遠くから見ながら、マルスは煩く唸り続けていた。
集まって来た野次馬どもの好奇の視線に晒されるフィリーナ様があまりに痛ましい。
だが、ロイ様まで衆目に晒すわけにはいかず、オレたちは見守ることしかできないのだ。
「あの、女! あの女、あの女~ッ! 殺してやるッ!」
「マルス、軽挙はやめてください」
「腰抜けカインめ! 臆したか⁉」
「ロイ様のためにこそ、やめろと忠告しているんです! わからないんですか⁉ わからないんでしょうねえ! この筋肉馬鹿が‼」
「誰が筋肉馬鹿だ! 弱いくせに生意気なんだよッ!」
「二人とも、黙れ」
ロイ様に命じられると血の気の多いマルスがぴたりと口を閉ざす。
マルスは獰猛なけだものだ。
それなのに、どんな激昂の最中でもロイ様に命じられれば忠犬のごとく従う。
ロイ様には猛獣使いの素質があるに違いない。
「カイン、おまえの見解が聞きたい」
「はいっ」
ロイ様がオレをご指名くださった。マルスに比べれば誰だって聞くべき意見を出せるだろうけれど、それでも嬉しく思いながら口を開く。
……舌に乗せる言葉は苦々しくて、すぐに意気消沈してしまったが。
「あの女の存在は至極不愉快ですが……あの女がいるうちは、ケルル伯爵に殺されることはないかと思います」
「義姉上を防波堤にするのか」
「義理とはいえあんな女を姉と呼ぶ必要はないです、ロイ様!」
「その点だけはマルスに賛成です」
ロイ様は小首を傾げたものの「それで、この先どうするべきだと思う」と話を変えた。
「一刻も早くオルフェンス公爵家の精霊を継承するべきです」
「口伝は途切れた……自力で探すしかないか」
「もしかしたら父は何かを知っているかもしれませんが……オレたちには決して教えないでしょう。申し訳ありません」
「おまえが謝ることはない」
「いいえ、オレが謝るべきことです」
母は乳母でありながら、ロイ様の信頼を裏切り悍ましい行為に及び、ロイ様に返り討ちにされた。父はそれを逆恨みし、本来仕えるべきロイ様を憎悪している。
信じがたい愚劣さだ。彼らの血が自分の身体の中に流れていると思うと吐き気がする。
オレにとって化け物とはロイ様を襲った母であり、それを庇う父だ。
だが、もしもロイ様こそが化け物だというのならオレも化け物になりたい。
あの悍ましい両親と、別の生き物になりたかった……
「猶予はどれくらいある?」
ロイ様は気にした様子もなく話を続ける。
オレは気を引き締めた。オレの懺悔にロイ様を付き合わせている暇なんてない。
「あの女が婚姻できる年齢になるまで。……四年ほど、でしょうか? ですがこれは希望的観測で、もっと短くなってもおかしくありません」
「誰が精霊を見つけてもおかしくねえからな」
オルフェンス公爵家の精霊がこの屋敷にいることは間違いないのだ。くまなく探せば、マルスの言う通りやがて誰かに見つけられてしまうだろう。
ロイ様が淡々と言った。
「ヤツら、僕が邪魔な存在だと気づいて、さっさと殺しておこうと考えることもありうる」
「俺が絶対に守ります‼ 命をかけて‼」
弾かれたようにマルスが叫ぶ。
マルスは十五歳。だが、こいつに剣を持たせたら、大人でもそうそう敵わない。
剣の師に天賦の才を見出されたものの、その強さと気性の激しさから来る危うさに、主を持つまでは修業をするなと戒められて旅をしていたヤツだ。
そして、この屋敷に辿り着いた。
ロイ様という主を得て、心服したがゆえに離れられなくなって修業を中断しているのは、まったく馬鹿げているものの……こいつの存在があったからこそ、今日までロイ様を守れた。色々と、鼻につくが目を瞑るべきだろう。
「マルス、おまえの忠心はありがたいが、やりすぎると屋敷を追い出されてしまう。そうなると精霊を探せない」
「うっ、そ、そうですか」
「義姉上に対しても、手をあげるなよ」
「ですが!」
「母上を想ってくれているのはわかるが、僕の邪魔はするな」
「ううっ。はい」
「それに義姉上はおそらく……いや、何でもない」
ロイ様は何を言いさしたのだろう?
気になったけれど、口にするのはお辛いかもしれないと思って疑問を呑み込んだ。
容姿が美しいだけに毒々しく悍ましい、あの女。
マルスとは違う意味であの女の存在は有用だ。使い道を誤れば毒薬だが。
「ン? 今、教会の裏から誰か出てきたぞ」
その時、唐突にマルスが言った。
こいつが言うなら間違いないだろう。何しろこいつは獣じみた超常的な感覚を持ち合わせている。
「マルスがそう言うのなら、司祭とかではなさそうですね」
その者の様子に違和感を覚えた、という意味だ。
ロイ様が頷くのを確認して、オレたちは教会にこっそりと近づいていく。
教会裏の墓地で背を丸めて掌の中を眺めていたのは、やけに小さな人影だった。
「よかった。崖下に放り込まれた後だったら探すのが大変だもん……」
「おい! そこで何をしている?」
「キャッ⁉」
「……女?」
しかも、オレたちとそう年齢の変わらない子どものように見える。
だが、オルフェンス家門の人間にも見えない。外套のフードを目深に被っていて顔は見えないが、その服装は平民のものだ。
「教会で何をしていた?」
「別に、何も!」
ロイ様の表情を窺うと、僅かに眉を顰めておられるのがわかった。
この方は他者の言葉を聞くことで、その言葉の嘘と真を聞き分けることができるのだ。耳で聞くものにおかしな言い方ではあるものの、魔眼の一種らしい。
つまり、この顔を隠した少女は嘘を吐いている。
「ううん、何もじゃ嘘になっちゃうか。えっとね、そのうちわたしのものになる予定のものを、早めに受け取りにきただけよ!」
「……本当のことを言っているようだ」
ロイ様が、むしろ嘘を吐かれた時よりも警戒を滲ませた表情で言った。
「それにしても、本当にちっちゃい! ボロボロだし! かわいそ可愛い~っ!」
「……あ?」
「やだあ。マルスの顔こわーい」
この少女はオレたちのことを知っているようだ。
まあ、腹の立つことにこの町の人間なら誰でもオレたちの不遇を知っているだろうし、ロイ様の顔を見ればすぐに誰だか察するに違いない。
少女はロイ様のほうに向き直ると、わざとらしく咳払いした。
「ロイ様、ごめんね! わたしたち、まだ会えないの」
「は?」
「わたしが持っていたほうが有用だから、早めにこれを取りにきただけなの! その時になったら、ヒロインであるわたしが助けてあげるから待っていてね!」
わけのわからない言葉にオレたちが呆気にとられる中、少女はそそくさとその場を後にする。
ロイ様はその後ろ姿を胡散臭げに見すえていたが、マルスに追うよう命じることはなかった。
だが、すぐに追わせるべきだったと後悔することになる。
教会に忍び込み、フィリーナ様のご遺体が納められた質素な棺桶を確認し、ロイ様が息を呑んだ。
「……母上の指輪が、ない」
すぐに盗まれたのだと理解する。それに、誰が盗んだのかも。
「あの女⁉ すぐに追います!」
「待て、マルス。自分のものだと言わんばかりのあの言葉が気に掛かる。今は捨て置け」
「ですが、ロイ様‼」
「僕たちには、力がない」
「今はまだ、ということですね?」
オレが付け加えると、ロイ様が「そうだ」と頷いた。
「木でできた、ただの指輪……そのはずだ。力を得てから取り返せばいい」
オレも見たことがある。フィリーナ様の華奢な指に嵌まる、素朴な指輪。
没落した実家から持ってきた、ほとんど唯一の装飾品があれだったはずだ。母の形見だと言って。
あの少女が『有用』だと言っていたのが気になるが、もしも本当に何らかの力を持つのであれば後々も探しやすいだろう。
「クソ、クソッ! どいつもこいつも、フィリーナ様をバカにしやがって……!」
率直に怒りを表すマルスを見て、ロイ様がかすかに微笑んだ。
こういう単純なバカが傍にいることで、あまり感情を表に出さないロイ様のお心が慰められていることがあるのだろうか。
だとしたら、せいぜい役に立ってもらおうか。オレは、オレのやり方でロイ様のお役に立ってみせる。
そう誓った。
* * *
亡骸を教会に送ってあげただけでも感謝してほしいくらいだった。小説の中の義姉ならば、ロイの母親の亡骸を屋敷裏の崖から捨てさせるのだから。
その行為自体、小説のメルティアとしては、死体用の穴に放り込む程度の感覚だったのかもしれない。貧民街で生まれ育った少女らしい感性と言えばそうだ。
だけど、それを見るロイにどんな衝撃を与えるかわかっていてそこまでの蛮行はできなかった。
そうまでしなくとも、十分に憎まれていることはマルスを見ればよくわかる。
「あらあ、ロイ。使用人のお仕着せがよく似合うわ」
「お褒めいただき光栄です」
似合いすぎて頭がくらくらした。
身体にぴったりと合ったシャツにタイ、サスペンダーに半ズボン、白い靴下、ピカピカの革靴。
こんなものを着せたのは、小説でもそういう格好をさせられていたからだ。
できる限り小説に沿ったほうがロイの身の安全を確保できるだろう。
お養父様とお母様の葬儀を終えて、私は晴れてオルフェンス公爵家の当主として君臨していた。とはいえ実務はすべて丸投げしている。丸投げ先はグライフスだ。
ケルル伯爵や他の親戚たちは率先して仕事をやりたがったけれど、彼らに執務を任せるのは不安だった。明らかに欲の皮の突っ張った人間しかいないのだ。
小説では義姉が当主として君臨した四年間で、オルフェンス公爵領の経営はひどく傾いたと書かれていた。だが、彼らを見ていると、義姉の放蕩だけが原因ではなかったのかもしれないと思う。
幸い、グライフスはロイを憎んでいること以外はまともな男だし、執務も任せられる。
そのせいでグライフスとケルル伯爵たちとの間で対立が深まりつつあるみたい。
彼らの間で板挟みにされるのは勿論私で、胃が痛い。
……一体、いつまでこんな思いをしなければならないのか。
「これを僕に着せるために、メイドが僕の身体中に触れましたが、義姉上の指示ですか?」
「はあ⁉」
勢いよく振り返ると、動揺するメイドと目が合った。
二十代後半の女だ。ロイや私にとっては母親でもおかしくない年齢の女。
ぞっと怖気だつ。マルスとカインは一体どこにいるのか。
おそらく精霊を探しているのだろうけれど、まずは主人を守れと言いたい。
そして、頭のおかしい女を排除するにも工夫しなければ。
「あなた、この子に気があるの?」
「ち、違います。そんな不気味な子の言葉を信じるのですか?」
「信じる、信じないじゃないわ。あなたが私を裏切っているかいないかの話なのよ? あなたがその子に気があるんなら、その子に協力したい気持ちになるんじゃないかしら。私を裏切って、公爵位をその子に与えたいと考えているんじゃないかしら!」
「そんなことは決して! 決してありえません‼」
「信じられないわ。いつ寝首を掻かれるかわからない。あなたはクビよ! ――連れていきなさい」
「メルティア様! 公爵閣下! お許しください! お許しを――」
引きずられていく性犯罪者を見送って、溜め息を吐く。
子どもに手を出したからではなく、私を裏切ったから処罰する。そういうことにしておかなくてはならない。ロイを守っていると思われてはならないのだから。
一体、私は何をしているのだろう……
こんな場所にいたら、敵を作るばかりでいずれ殺されてしまうのに。
ロイと私以外の人員が全員出払ったタイミングで、ロイが口を開いた。
「義姉上、ありがとうございます」
「はあ? 何そのお礼。意味がわからない。頭がおかしいの? 私はあなたの味方を排除したのよ?」
私がロイを庇っているように感じたのだろうか。
それは事実だけれど、そう思われないよう心を砕いているのだ。お礼を言うなんてやめてほしい。
「ねえ。あなた、逃げ出さないの?」
「逃げる、ですか。他に行き場がありませんので」
「王都に小さな屋敷があるらしいわ。あなたの母親の持参金の一つよ。お母様の恋敵の持ち物なんて私はいらないから、あなたにあげてもいいわ」
そういう論調でグライフスを説得できるだろう。
王都なら人目がたくさんある。ロイたちなら暗殺の危険も少なくできるんじゃないだろうか。なんなら、この子たちが身を守るための資金をこっそり屋敷に仕込んでおいてもいい。
「そこで細々と暮らしたらどうかしら? 生活費がないっていうのなら、多少なら恵んであげてもいいわ」
ロイの身の安全さえ確保できれば、私もここから逃げられる。
どうせ精霊は簡単には見つからない。
精霊の隠し場所には魔法がかけられていて、そこに隠し通路があると知る者以外には見つからないようになっている。一子相伝の口伝が途絶えた場合、見つける方法はただ一つ。
精霊に認められ、招かれること。
小説で、ヒロインの光の王女が認められて光の精霊を見出したように。
この屋敷に詰めかけている親戚連中が精霊に認められるはずがない。
だから、しばらく放置しておいても大丈夫だろう。ロイが成人するまでは保つと思う。
でも、万が一ということがある。誰もがそう思っていた。どこかに手がかりがあるかもしれない。誰かが糸口を握っているかもしれない。そんな期待と不安で、誰もがこの屋敷から離れられないでいる。
そんなことは絶対にないのに。
小説のロイが精霊の在り処を見つけられたのは、生まれて間もない赤子の頃、おくるみに包まれ父親の腕に抱かれて、精霊の在り処に連れていかれた記憶を思い出したからだ。
叔父たちに命を狙われ、死体袋に入れられ棺桶に閉じ込められ――包まれた感覚、閉所の暗闇、死の気配が、ロイにとってもっとも愛情深かった頃の父親の記憶を残酷に喚起した。
「ねえ、出ていきなさいよ。ここは私の家なんだから! 悔しかったら、成人した後で権利の申し立てでもすればいいのよ」
万が一、精霊が手に入らなくても、ロイが正当な権利を主張して裁判を起こせば公爵位を取り返せるだろう。私とロイでは、明らかにロイに正当性がある。
ただし、誰かが精霊を継承していなければの話だ。
「この屋敷を離れたくありません。ここは、僕にとっても家なので」
ロイが目を伏せる。睫毛の長さに腹が立った。
精霊探しを諦められないという意味だろう。
私は当然、精霊の在り処を知っている。オルフェンス公爵家の礼拝堂の祭壇の下、隠し通路の先の隠し部屋に、精霊の書が安置されている。
ロイに精霊の在り処を教えたらどうなるだろうか?
おそらく即座に精霊を継承し、私から公爵位を奪い返そうとするだろう。
でも、それだけはさせられない。
精霊の継承は肉体に負担のかかる儀式だ。
平時の場合では、成人男性が一年以上の時間をかけて精霊を継承する。
けれど、ロイにはそんな猶予はない。
精霊の継承が始まれば派手なエフェクトが発生して周囲に知られてしまう。欲に塗れた親戚連中は、彼を殺して精霊を横取りしようと殺到するだろう。小説ではそうなったのだから、まず間違いない。
ロイは身を守るためにも、短時間で精霊を継承し、精霊を扱えるようにならなければならない。十歳の成長しきっていない器にはあまる力を得るために、その身を犠牲にするしかないのだ。
小説の中の十四歳のロイの肉体ですら、精霊の継承に耐えきれずに後遺症を背負った。
私の忠告なんて聞くはずのないこの子どもに、そんな話を打ち明けられはしない。
「気づいていないの? みんな、あなたのことが嫌いなのよ。親戚のはずなのに、あなたのことを死ぬほど邪魔に思ってる」
彼らはそれぞれ理由があってオルフェンス公爵家に群がっている。野心があったり、お養父様に恨みがあったり、オルフェンス公爵家との因縁であったり、金のためであったり、色々だ。
酷いことを言っているとは思うけれど、これが現実なのだから正しく認識してもらわなければならない。この危機を。そして、どうか回避してほしい。
「このままだとあなた、殺されるわよ」
「義姉上、心配してくださるんですか?」
「そんなわけないでしょ! 馬鹿なんじゃないのって言ってるのよ‼」
ダメだ。暖簾に腕押しになっている。
小首を傾げるロイに上目遣いに見つめられ、頭の芯がじんと痺れた。
彼の仕草の一つ一つが、私を惑わせようとしているとしか思えない。
馬鹿げた話だ。グライフスと同じようなことを思っている。
誘惑されているんだろうか? そのせいで、私はロイを捨て置いて逃げられないの?
前世の時からの推しだから? 一番幸せになってほしい男キャラだったから?
――いや、それ以前に、ほんの十歳の子どもだからだ。
放りだせば死ぬとわかっているのに、しかもそうなった原因は私がここへ来たせいなのに、そう簡単に見捨てて逃げ出せない。
「――メルティア様、ライナー卿がお越しです」
「先生が? すぐにお迎えに行くわ! ――ロイ、ついてきなさい」
ちょうどよいタイミングで現れたメイドの先触れを受けて、ロイを問い詰めるのは一旦おしまいにした。
玄関大広間には精霊探しで疲れた親戚たちがたむろしている。
彼らに見せびらかすようにロイを引き連れていく。
女主人となった娼婦の娘にひれ伏す、惨めな前公爵の息子。
その零落した姿を、親戚たちは面白がるように眺めている。
彼らは私への警戒を解いた。私のことを、愚かな娼婦だと思っただろうから。
そんなふうに思わせて、どうする気?
この屋敷から逃げ出すなら、こんな不愉快な演技をする必要なんて少しもないのに。
――小説の中のメルティアがロイにした仕打ちを思い出したのは、運がいいのか悪いのか。
「じゃあ、あの女の遺体を礼拝堂に運ばなくてもいいってことねっ!」
手を打つ私。視界の端で、カインがマルスを全力で抑え込んでいるのが見えた。
ケルル伯爵が灰色の目を細めて言う。
「あの女?」
「前妻の女がついさっき亡くなったの」
「フィリーナが?」
「そう! 正妻だというから礼拝堂に運ばせようと思ったのだけれど、遡って結婚しなかったことになっているのなら、お養父様とお母様の眠る場所に他の女を連れていかなくてもいいってことでしょうっ?」
弾む声。嬉しそうに見えるだろうか。
何を言っているんだろう。何をやっているんだろう。
ロイが私を見ていた。きっと私は憎まれるに違いない。
「なるほど、フィリーナには憐れなことだが、確かに公爵家の人間として扱う義務はなくなったな」
「そんなことが許されるわけがあるか‼」
騒いでくれたマルスのおかげで、小説の展開を再現しやすい。
きっとこれは、ロイがメルティアを憎悪するきっかけとなったエピソード。
そして、おそらく……これこそがロイとメルティアが手を結ぶことは絶対にないだろうと、一族郎党どもが心底安堵した出来事に違いないから。
「だったら、条件次第で許してあげてもいいわよ? ねえロイ」
「条件?」
「――あなたが三回回ってワンと言えたら、あなたのお母様を公爵家の礼拝堂に眠らせることを考えてあげてもいいわ」
「お、おまえーッ‼」
マルスはグライフスに羽交い締めにされて黙らされた。
グライフスの顔はロイを侮辱できる喜悦に歪んでいる。彼の信頼を得ることもきっとできただろう。
逃げ出すなら小指のつま先ほども必要のないシロモノなのに。
「うるさいわねえ。外野は黙ってて。ねえロイ? あなたはどうする?」
ロイは無表情だ。きっと腸は煮えくりかえっているのだろう。
それを感じさせない鉄面皮のまま、彼は父親の棺を一瞥して立ち上がる。
きっと、最愛の母親のための苦渋の決断だ。
我が物顔でオルフェンス公爵家の大広間にのさばっていたケルル伯爵をはじめとした貴族たちは、物見の姿勢を取っている。誰一人、自分たちの親戚の子であるロイを庇おうとしない。
ロイはのろのろとその場で三回回った。
「ワン」
「あは」
確か、小説ではここに挿絵があった。ロイの義理の姉の、醜悪な笑顔の絵。
それを忠実に再現するよう努力する。マルスは頭から煙を出しそうだったし、カインは暴れこそしないものの私を暗い目で見すえていた。
ロイの表情だけが読めない。とはいえ小説を読んでいるから想像はできる。
きっと、内心は屈辱に塗れているだろう。
「んーっ。はい、考えてあげたわっ! きゃははは! あの女の亡骸は適当に教会にでも持っていって」
すぐに怒号があがるかと思ったのに、少年たちは、私の悪辣極まりない冗談をにわかには理解できなかったらしく茫然としていた。
今ロイたちを屋敷から追い出せば、公爵にはなれなくても生き延びられるだろうか?
いや、きっとそうはならない。ケルル伯爵はきっとロイを殺害するだろう。後顧の憂いを断つために。
私はさりげなさを装って言う。
「あんたたち、今日から家なし子? 可哀想だから、私の召使いとしてならここに置いてあげるわ」
「ぎ、ぎ、ぎぃーっ‼」
暴れ出したマルスをグライフスを始めとした大人が三人がかりで押さえつけている。
カインは項垂れて震え、ロイは――
その顔を見る勇気はなくて、私は顔を逸らしてその場から立ち去った。
* * *
フィリーナ様のご遺体が運び込まれた教会を遠くから見ながら、マルスは煩く唸り続けていた。
集まって来た野次馬どもの好奇の視線に晒されるフィリーナ様があまりに痛ましい。
だが、ロイ様まで衆目に晒すわけにはいかず、オレたちは見守ることしかできないのだ。
「あの、女! あの女、あの女~ッ! 殺してやるッ!」
「マルス、軽挙はやめてください」
「腰抜けカインめ! 臆したか⁉」
「ロイ様のためにこそ、やめろと忠告しているんです! わからないんですか⁉ わからないんでしょうねえ! この筋肉馬鹿が‼」
「誰が筋肉馬鹿だ! 弱いくせに生意気なんだよッ!」
「二人とも、黙れ」
ロイ様に命じられると血の気の多いマルスがぴたりと口を閉ざす。
マルスは獰猛なけだものだ。
それなのに、どんな激昂の最中でもロイ様に命じられれば忠犬のごとく従う。
ロイ様には猛獣使いの素質があるに違いない。
「カイン、おまえの見解が聞きたい」
「はいっ」
ロイ様がオレをご指名くださった。マルスに比べれば誰だって聞くべき意見を出せるだろうけれど、それでも嬉しく思いながら口を開く。
……舌に乗せる言葉は苦々しくて、すぐに意気消沈してしまったが。
「あの女の存在は至極不愉快ですが……あの女がいるうちは、ケルル伯爵に殺されることはないかと思います」
「義姉上を防波堤にするのか」
「義理とはいえあんな女を姉と呼ぶ必要はないです、ロイ様!」
「その点だけはマルスに賛成です」
ロイ様は小首を傾げたものの「それで、この先どうするべきだと思う」と話を変えた。
「一刻も早くオルフェンス公爵家の精霊を継承するべきです」
「口伝は途切れた……自力で探すしかないか」
「もしかしたら父は何かを知っているかもしれませんが……オレたちには決して教えないでしょう。申し訳ありません」
「おまえが謝ることはない」
「いいえ、オレが謝るべきことです」
母は乳母でありながら、ロイ様の信頼を裏切り悍ましい行為に及び、ロイ様に返り討ちにされた。父はそれを逆恨みし、本来仕えるべきロイ様を憎悪している。
信じがたい愚劣さだ。彼らの血が自分の身体の中に流れていると思うと吐き気がする。
オレにとって化け物とはロイ様を襲った母であり、それを庇う父だ。
だが、もしもロイ様こそが化け物だというのならオレも化け物になりたい。
あの悍ましい両親と、別の生き物になりたかった……
「猶予はどれくらいある?」
ロイ様は気にした様子もなく話を続ける。
オレは気を引き締めた。オレの懺悔にロイ様を付き合わせている暇なんてない。
「あの女が婚姻できる年齢になるまで。……四年ほど、でしょうか? ですがこれは希望的観測で、もっと短くなってもおかしくありません」
「誰が精霊を見つけてもおかしくねえからな」
オルフェンス公爵家の精霊がこの屋敷にいることは間違いないのだ。くまなく探せば、マルスの言う通りやがて誰かに見つけられてしまうだろう。
ロイ様が淡々と言った。
「ヤツら、僕が邪魔な存在だと気づいて、さっさと殺しておこうと考えることもありうる」
「俺が絶対に守ります‼ 命をかけて‼」
弾かれたようにマルスが叫ぶ。
マルスは十五歳。だが、こいつに剣を持たせたら、大人でもそうそう敵わない。
剣の師に天賦の才を見出されたものの、その強さと気性の激しさから来る危うさに、主を持つまでは修業をするなと戒められて旅をしていたヤツだ。
そして、この屋敷に辿り着いた。
ロイ様という主を得て、心服したがゆえに離れられなくなって修業を中断しているのは、まったく馬鹿げているものの……こいつの存在があったからこそ、今日までロイ様を守れた。色々と、鼻につくが目を瞑るべきだろう。
「マルス、おまえの忠心はありがたいが、やりすぎると屋敷を追い出されてしまう。そうなると精霊を探せない」
「うっ、そ、そうですか」
「義姉上に対しても、手をあげるなよ」
「ですが!」
「母上を想ってくれているのはわかるが、僕の邪魔はするな」
「ううっ。はい」
「それに義姉上はおそらく……いや、何でもない」
ロイ様は何を言いさしたのだろう?
気になったけれど、口にするのはお辛いかもしれないと思って疑問を呑み込んだ。
容姿が美しいだけに毒々しく悍ましい、あの女。
マルスとは違う意味であの女の存在は有用だ。使い道を誤れば毒薬だが。
「ン? 今、教会の裏から誰か出てきたぞ」
その時、唐突にマルスが言った。
こいつが言うなら間違いないだろう。何しろこいつは獣じみた超常的な感覚を持ち合わせている。
「マルスがそう言うのなら、司祭とかではなさそうですね」
その者の様子に違和感を覚えた、という意味だ。
ロイ様が頷くのを確認して、オレたちは教会にこっそりと近づいていく。
教会裏の墓地で背を丸めて掌の中を眺めていたのは、やけに小さな人影だった。
「よかった。崖下に放り込まれた後だったら探すのが大変だもん……」
「おい! そこで何をしている?」
「キャッ⁉」
「……女?」
しかも、オレたちとそう年齢の変わらない子どものように見える。
だが、オルフェンス家門の人間にも見えない。外套のフードを目深に被っていて顔は見えないが、その服装は平民のものだ。
「教会で何をしていた?」
「別に、何も!」
ロイ様の表情を窺うと、僅かに眉を顰めておられるのがわかった。
この方は他者の言葉を聞くことで、その言葉の嘘と真を聞き分けることができるのだ。耳で聞くものにおかしな言い方ではあるものの、魔眼の一種らしい。
つまり、この顔を隠した少女は嘘を吐いている。
「ううん、何もじゃ嘘になっちゃうか。えっとね、そのうちわたしのものになる予定のものを、早めに受け取りにきただけよ!」
「……本当のことを言っているようだ」
ロイ様が、むしろ嘘を吐かれた時よりも警戒を滲ませた表情で言った。
「それにしても、本当にちっちゃい! ボロボロだし! かわいそ可愛い~っ!」
「……あ?」
「やだあ。マルスの顔こわーい」
この少女はオレたちのことを知っているようだ。
まあ、腹の立つことにこの町の人間なら誰でもオレたちの不遇を知っているだろうし、ロイ様の顔を見ればすぐに誰だか察するに違いない。
少女はロイ様のほうに向き直ると、わざとらしく咳払いした。
「ロイ様、ごめんね! わたしたち、まだ会えないの」
「は?」
「わたしが持っていたほうが有用だから、早めにこれを取りにきただけなの! その時になったら、ヒロインであるわたしが助けてあげるから待っていてね!」
わけのわからない言葉にオレたちが呆気にとられる中、少女はそそくさとその場を後にする。
ロイ様はその後ろ姿を胡散臭げに見すえていたが、マルスに追うよう命じることはなかった。
だが、すぐに追わせるべきだったと後悔することになる。
教会に忍び込み、フィリーナ様のご遺体が納められた質素な棺桶を確認し、ロイ様が息を呑んだ。
「……母上の指輪が、ない」
すぐに盗まれたのだと理解する。それに、誰が盗んだのかも。
「あの女⁉ すぐに追います!」
「待て、マルス。自分のものだと言わんばかりのあの言葉が気に掛かる。今は捨て置け」
「ですが、ロイ様‼」
「僕たちには、力がない」
「今はまだ、ということですね?」
オレが付け加えると、ロイ様が「そうだ」と頷いた。
「木でできた、ただの指輪……そのはずだ。力を得てから取り返せばいい」
オレも見たことがある。フィリーナ様の華奢な指に嵌まる、素朴な指輪。
没落した実家から持ってきた、ほとんど唯一の装飾品があれだったはずだ。母の形見だと言って。
あの少女が『有用』だと言っていたのが気になるが、もしも本当に何らかの力を持つのであれば後々も探しやすいだろう。
「クソ、クソッ! どいつもこいつも、フィリーナ様をバカにしやがって……!」
率直に怒りを表すマルスを見て、ロイ様がかすかに微笑んだ。
こういう単純なバカが傍にいることで、あまり感情を表に出さないロイ様のお心が慰められていることがあるのだろうか。
だとしたら、せいぜい役に立ってもらおうか。オレは、オレのやり方でロイ様のお役に立ってみせる。
そう誓った。
* * *
亡骸を教会に送ってあげただけでも感謝してほしいくらいだった。小説の中の義姉ならば、ロイの母親の亡骸を屋敷裏の崖から捨てさせるのだから。
その行為自体、小説のメルティアとしては、死体用の穴に放り込む程度の感覚だったのかもしれない。貧民街で生まれ育った少女らしい感性と言えばそうだ。
だけど、それを見るロイにどんな衝撃を与えるかわかっていてそこまでの蛮行はできなかった。
そうまでしなくとも、十分に憎まれていることはマルスを見ればよくわかる。
「あらあ、ロイ。使用人のお仕着せがよく似合うわ」
「お褒めいただき光栄です」
似合いすぎて頭がくらくらした。
身体にぴったりと合ったシャツにタイ、サスペンダーに半ズボン、白い靴下、ピカピカの革靴。
こんなものを着せたのは、小説でもそういう格好をさせられていたからだ。
できる限り小説に沿ったほうがロイの身の安全を確保できるだろう。
お養父様とお母様の葬儀を終えて、私は晴れてオルフェンス公爵家の当主として君臨していた。とはいえ実務はすべて丸投げしている。丸投げ先はグライフスだ。
ケルル伯爵や他の親戚たちは率先して仕事をやりたがったけれど、彼らに執務を任せるのは不安だった。明らかに欲の皮の突っ張った人間しかいないのだ。
小説では義姉が当主として君臨した四年間で、オルフェンス公爵領の経営はひどく傾いたと書かれていた。だが、彼らを見ていると、義姉の放蕩だけが原因ではなかったのかもしれないと思う。
幸い、グライフスはロイを憎んでいること以外はまともな男だし、執務も任せられる。
そのせいでグライフスとケルル伯爵たちとの間で対立が深まりつつあるみたい。
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「これを僕に着せるために、メイドが僕の身体中に触れましたが、義姉上の指示ですか?」
「はあ⁉」
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「あなた、この子に気があるの?」
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「信じる、信じないじゃないわ。あなたが私を裏切っているかいないかの話なのよ? あなたがその子に気があるんなら、その子に協力したい気持ちになるんじゃないかしら。私を裏切って、公爵位をその子に与えたいと考えているんじゃないかしら!」
「そんなことは決して! 決してありえません‼」
「信じられないわ。いつ寝首を掻かれるかわからない。あなたはクビよ! ――連れていきなさい」
「メルティア様! 公爵閣下! お許しください! お許しを――」
引きずられていく性犯罪者を見送って、溜め息を吐く。
子どもに手を出したからではなく、私を裏切ったから処罰する。そういうことにしておかなくてはならない。ロイを守っていると思われてはならないのだから。
一体、私は何をしているのだろう……
こんな場所にいたら、敵を作るばかりでいずれ殺されてしまうのに。
ロイと私以外の人員が全員出払ったタイミングで、ロイが口を開いた。
「義姉上、ありがとうございます」
「はあ? 何そのお礼。意味がわからない。頭がおかしいの? 私はあなたの味方を排除したのよ?」
私がロイを庇っているように感じたのだろうか。
それは事実だけれど、そう思われないよう心を砕いているのだ。お礼を言うなんてやめてほしい。
「ねえ。あなた、逃げ出さないの?」
「逃げる、ですか。他に行き場がありませんので」
「王都に小さな屋敷があるらしいわ。あなたの母親の持参金の一つよ。お母様の恋敵の持ち物なんて私はいらないから、あなたにあげてもいいわ」
そういう論調でグライフスを説得できるだろう。
王都なら人目がたくさんある。ロイたちなら暗殺の危険も少なくできるんじゃないだろうか。なんなら、この子たちが身を守るための資金をこっそり屋敷に仕込んでおいてもいい。
「そこで細々と暮らしたらどうかしら? 生活費がないっていうのなら、多少なら恵んであげてもいいわ」
ロイの身の安全さえ確保できれば、私もここから逃げられる。
どうせ精霊は簡単には見つからない。
精霊の隠し場所には魔法がかけられていて、そこに隠し通路があると知る者以外には見つからないようになっている。一子相伝の口伝が途絶えた場合、見つける方法はただ一つ。
精霊に認められ、招かれること。
小説で、ヒロインの光の王女が認められて光の精霊を見出したように。
この屋敷に詰めかけている親戚連中が精霊に認められるはずがない。
だから、しばらく放置しておいても大丈夫だろう。ロイが成人するまでは保つと思う。
でも、万が一ということがある。誰もがそう思っていた。どこかに手がかりがあるかもしれない。誰かが糸口を握っているかもしれない。そんな期待と不安で、誰もがこの屋敷から離れられないでいる。
そんなことは絶対にないのに。
小説のロイが精霊の在り処を見つけられたのは、生まれて間もない赤子の頃、おくるみに包まれ父親の腕に抱かれて、精霊の在り処に連れていかれた記憶を思い出したからだ。
叔父たちに命を狙われ、死体袋に入れられ棺桶に閉じ込められ――包まれた感覚、閉所の暗闇、死の気配が、ロイにとってもっとも愛情深かった頃の父親の記憶を残酷に喚起した。
「ねえ、出ていきなさいよ。ここは私の家なんだから! 悔しかったら、成人した後で権利の申し立てでもすればいいのよ」
万が一、精霊が手に入らなくても、ロイが正当な権利を主張して裁判を起こせば公爵位を取り返せるだろう。私とロイでは、明らかにロイに正当性がある。
ただし、誰かが精霊を継承していなければの話だ。
「この屋敷を離れたくありません。ここは、僕にとっても家なので」
ロイが目を伏せる。睫毛の長さに腹が立った。
精霊探しを諦められないという意味だろう。
私は当然、精霊の在り処を知っている。オルフェンス公爵家の礼拝堂の祭壇の下、隠し通路の先の隠し部屋に、精霊の書が安置されている。
ロイに精霊の在り処を教えたらどうなるだろうか?
おそらく即座に精霊を継承し、私から公爵位を奪い返そうとするだろう。
でも、それだけはさせられない。
精霊の継承は肉体に負担のかかる儀式だ。
平時の場合では、成人男性が一年以上の時間をかけて精霊を継承する。
けれど、ロイにはそんな猶予はない。
精霊の継承が始まれば派手なエフェクトが発生して周囲に知られてしまう。欲に塗れた親戚連中は、彼を殺して精霊を横取りしようと殺到するだろう。小説ではそうなったのだから、まず間違いない。
ロイは身を守るためにも、短時間で精霊を継承し、精霊を扱えるようにならなければならない。十歳の成長しきっていない器にはあまる力を得るために、その身を犠牲にするしかないのだ。
小説の中の十四歳のロイの肉体ですら、精霊の継承に耐えきれずに後遺症を背負った。
私の忠告なんて聞くはずのないこの子どもに、そんな話を打ち明けられはしない。
「気づいていないの? みんな、あなたのことが嫌いなのよ。親戚のはずなのに、あなたのことを死ぬほど邪魔に思ってる」
彼らはそれぞれ理由があってオルフェンス公爵家に群がっている。野心があったり、お養父様に恨みがあったり、オルフェンス公爵家との因縁であったり、金のためであったり、色々だ。
酷いことを言っているとは思うけれど、これが現実なのだから正しく認識してもらわなければならない。この危機を。そして、どうか回避してほしい。
「このままだとあなた、殺されるわよ」
「義姉上、心配してくださるんですか?」
「そんなわけないでしょ! 馬鹿なんじゃないのって言ってるのよ‼」
ダメだ。暖簾に腕押しになっている。
小首を傾げるロイに上目遣いに見つめられ、頭の芯がじんと痺れた。
彼の仕草の一つ一つが、私を惑わせようとしているとしか思えない。
馬鹿げた話だ。グライフスと同じようなことを思っている。
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前世の時からの推しだから? 一番幸せになってほしい男キャラだったから?
――いや、それ以前に、ほんの十歳の子どもだからだ。
放りだせば死ぬとわかっているのに、しかもそうなった原因は私がここへ来たせいなのに、そう簡単に見捨てて逃げ出せない。
「――メルティア様、ライナー卿がお越しです」
「先生が? すぐにお迎えに行くわ! ――ロイ、ついてきなさい」
ちょうどよいタイミングで現れたメイドの先触れを受けて、ロイを問い詰めるのは一旦おしまいにした。
玄関大広間には精霊探しで疲れた親戚たちがたむろしている。
彼らに見せびらかすようにロイを引き連れていく。
女主人となった娼婦の娘にひれ伏す、惨めな前公爵の息子。
その零落した姿を、親戚たちは面白がるように眺めている。
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