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   第一章 子ども時代 前編


「――奥様が離れで亡くなられました」
「は? お母様はお養父とうさまと新婚旅行に行ったはずでしょう?」

 夜中にたたき起こされて混乱しながら言い返すと、見慣れないメイドは首を振った。

「私が申しあげた奥様というのは、オルフェンス公爵閣下の正妻であらせられるフィリーナ様のことでございます」
「せ、正妻? ……なんの冗談よ。お養父とうさまは独身ではなかったの⁉」


     * * *


 大学の始業式の帰り道、車にかれ、私が生まれ変わったこの世界は悲惨ひさんだった。
 文明レベルは前世で言うところの中世で、そもそもの生活が苦しい。
 その上、私の母は歌姫という、この国の最下層に位置する存在だったのだ。
 歌姫――身体を売らなくても生計を立てられる娼婦。
 それでも私が生まれている以上、母ですら身体を売らないわけにはいかなかったのだ。
 だから死にものぐるいで活路を探した。
 幼い私が立てる計略に、少女のように無垢むくな母は喜んで協力してくれる。彼女が貴族の男と恋人になった時には胸をろした。
 貴族の男――オルフェンス公爵は知識も教養もない母を愛してくれている。
 むしろ、そこを愛してくれているように思う。母は無邪気で無垢むくで、娘としてのひいき目をなしにしても壮絶に美しい。たとえ追い出されることになったとしても、引き際さえ間違えなければ愛人年金くらいはもらえるだろう。
 ……なんていうのは、甘い考えだったらしい。
 まさか、オルフェンス公爵に実は正妻がいて、しかもその正妻が病人で、子どもと一緒に離れに閉じ込められていただなんて夢にも考えなかった!

「……悪夢だわ」

 私は幸せになりたかったけれど、そのために誰かの不幸を願ったわけじゃない。
 それなのに、私が案内された離れの一室には地獄が現出していた。
 本邸とは隔絶した粗末な内装の黴臭かびくさい部屋のベッドに、静かに横たわる女性がいる。
 その周りにはべるのは、女性の死をなげく者たち。
 私の存在に気づくと、ベッドの前で項垂うなだれていた赤髪の少年がくるりと振り返って私をにらみつけた。憎悪に満ちた目だ。

「貴様! 娼婦の娘が何の権利があってここへ来た⁉」
「マルス、落ち着いてください!」
「落ち着いていられるか⁉ フィリーナ様はこいつらのせいでッ!」

 赤髪の少年は私に飛びかからんばかりだった。それを、そばの水色の髪の少年が押し留めている。
 私をここへ連れてきたメイドによると、正妻には一人息子がいるらしい。
 この二人は、その息子ではなさそうだ。
 もう一人、死者のかたわらにはべる黒髪の少年がいた。

「おまえたち、静かにしろ」

 その少年の声はさほど大きくはない。
 けれど、従わなくてはと思わせる何かがあった。
 命じられたわけでもない私まで息をめてしまう。
 二人の少年は勿論もちろんぴたりと口を閉ざし、つかみ合いをやめる。

「あなたが僕の義姉あねうえになった方ですか?」

 その落ち着き払った声を聞いた瞬間の衝撃は筆舌に尽くしがたかった。
 胸が高鳴り、ぞくりと鳥肌が立つ。
 少年が顔を上げた。恐ろしく整った端整な顔立ちに、吸い込まれそうな紫水晶の目がまっている。見覚えなんかないはずなのに、彼を知っているような奇妙な感覚に襲われた。
 会ったことがあるなら、こんなに綺麗な子を忘れるはずがないのに。

「初めまして、義姉あねうえ。僕はロイ・フォン・オルフェンスと言います」

 そう言って彼が浮かべた微笑ほほえみを見ると、頭の芯がしびれるような感覚を受ける。けれど、それ以前に彼の名乗った名前に衝撃を受けて、すぐに強烈な陶酔感から抜け出せた。

「……ロイ?」
「はい、義姉あねうえ
「うそ……」
「何か不審な点でもあるでしょうか?」

 ない。見覚えがある理由に気がついただけだ。私は彼を挿絵さしえという形で見たことがある。
 前世、彼を小説で読んだことがあるのだと、気づいたのだ。
 というか、推しだった。たぶん、間違いない。
 オルフェンスという姓を聞いた時点で気づくべきだったのかもしれない。
 ――でも、この世界に生まれ変わって十二年。生きるだけで精一杯だったのだ。

義姉あねうえ?」

 彼が顔を覗き込むように首をかしげたので、私は驚いてのけぞる。
 魔性の美貌びぼうと描写されるその容色は、幼い今も有効らしい。
 視線をらしながら、嘘でも本当でもないことを言う。

「義弟がいると知らなかったから驚いたのよ……正妻がいることも知らなかったし」
「嘘だ! おまえたちがフィリーナ様をこの寂しい場所に追いやったんだ!」

 声を荒らげるのは赤髪の少年。先程マルスと呼ばれていた。
 彼のことも小説で読んだ覚えがある。
 やがてロイの第一の騎士として忠誠を誓う、剣聖マルスだろう。
 そうなると、もう一人の少年の正体にも薄々予想がつく。
 ロイのためにすべての闇を背負って死ぬ男、カイン。

「違うわ。私たちは何もしていない。お母様だって知らなかったはずだわ」
「悪女め! けがらわしい娼婦めが! おまえらなんて地獄へ落ちろ!」
「……聞く耳を持たない人に何を言っても仕方ないわね」

 わめき叫ぶマルスに、舌打ちをこらえる。
 ロイが明確に排斥はいせきされるようになったのは、お母様と私がここへやってきてからなのだろう。
 でも私たちは本当に知らなかったし――それは間違いなくお養父とうさまの望みだったはず。
 おそらくこの世界は前世で好んで読んだ『光の王女』という小説の世界だ。
 市井しせいで生まれ育った少女アリスが、光の精霊を継承したことで見出されて、王女として貴族社会にデビューするロマンス小説である。
 光の精霊とは、本来は玉座にく者が継承するべき存在。
 王の精霊を継承したアリスを巡って、数々の男たちが様々な理由で相争う。
 そのうちの一人がロイ・フォン・オルフェンス。彼はオルフェンス家の一人息子として生まれながら父親に愛されず冷遇され、悪役である義理の姉にすべてを奪われしいたげられる。
 やがて死にものぐるいですべてを奪い返すものの、癒えることのない傷を心と身体に抱え続ける美しき青年公爵。
 その悪役の義姉こそが、どうやら私らしい。
 ロイの過去編にちらりと出てきて、ロイに目一杯トラウマを植え付けた後にむごたらしく死ぬキャラクターだった。

「……メルティアお嬢様、奥様の亡骸なきがらをいかがいたしましょう」
「いかがって。普通はどうするものなのか知らないわ、私」

 ロイたちの味方らしきメイドに聞かれるが、そう答えるしかない。
 私がかつていた貧民街では死者は専用の穴に放り込んでおき、定期的に共同墓地に埋め直した。
 死者が多すぎる時には燃やしてしまう。火葬というよりはゴミ処理に近い扱いだ。
 母親の亡骸なきがらにそんな扱いをすれば、ロイの憎悪は更に深まるだろう。
 ……あんなに好きだった小説の、あんなに好きだったキャラと出会った時にはもう嫌われているだなんて、運が悪すぎて叫びだしそう。
 申し訳なくて、気まずくて、ロイの顔を見られない。
『光の王女』は変わった小説で、エンディングが分岐し男キャラごとに一冊ずつ刊行されていた。
 大学に入学したらロイエンディングの小説を読もうと楽しみにしていたのに、ついに読まずに人生を終えてしまったようだ。
 義理の姉以外だったら誰に生まれ変わってもよかったのに、よりによってこの姉になるとは、ついていないにもほどがある。

「通常であれば、オルフェンス公爵夫人であらせられるフィリーナ様のご遺体は、公爵家の礼拝堂に運ばれるべきでしょう」
「だったら、そうすればいいじゃない」
「よろしいのですか?」

 メイドが嬉しそうに言った瞬間、横やりが入った。

「そんなことが許されてなるものか!」
「グライフス? 御霊前で騒々しいわ」
「メルティアお嬢様、心配いたしました。このようなけがれた場所にいてはなりません。さあ、本邸へお戻りを」

 部屋に飛び込んできたのは、グライフス・ドナートだった。
 代々オルフェンス公爵家につかえている家宰かさいだ。
 奇妙なことに、真っ先に主人をいさめるべき立場だろうこの家宰かさいは、娼婦まがいのお母様とオルフェンス公爵との婚姻を後押ししている。
 私のこともまるで本物の公爵令嬢のように丁重に扱ってくれた。
 おかしな男、お人好しなのだろうかと思っていたけれど、小説の内容と照らし合わせると薄々事情がわかってくる。

「グライフス、オルフェンス公爵夫人の居室をけがれた場所などと言うのは、いかがなものかと思うわ」
「その女はもはや公爵夫人などではございません! 前妻。いや、前妻というのもおぞましい! 化け物を産んだ罪人ッ!」

 グライフスの暴言に、水色の髪の少年が舌打ちした。

「……馬鹿親父。つかえるべき相手もわからなくなりましたか」
「カタリナを殺したその化け物につかえる? おまえこそ早く目を覚ますのだな。その化け物は母親の敵だぞ!」
「母さんの自業自得です!」
「おまえの母さんはその化け物に誘惑されたんだ! まどわされ、操られたッ! なんとおぞましい、恐ろしい生き物か!」

 十二年も前に読んだ小説の内容を思い出せたのは、幸運だったのか。むしろ不幸かも。
 ロイの両親は政略結婚だった。それ自体は普通のこと、貴族なのだ。
 だから普通の子どもが生まれれば、そこそこ幸せな家庭になっただろう。
 けれど、誕生したロイは常軌を逸した膨大な魔力を持っていた。その魔力は周囲の人間をくるわせる。
 彼は、その魔力と美貌びぼう魅了みりょうされた女や男に襲われた。
 当然、ロイは身を守るために戦い――やがて私の目の前で言い争っているグライフスの妻、カインの母親であるカタリナがロイの手によって殺されてしまったのだ。
 グライフスについてはカインの過去の話として覚えている。
 妻を愛していたグライフスは、妻を殺したロイを憎悪した。
 ロイを憎んでいるからこそ、彼は私に好意的なのだろう。

「メルティアお嬢様、すぐにその化け物から離れてください。それともまさか、すでに心をまどわされておいでですか?」
まどわされてはいないけれど、状況に混乱しているわ。あらかじめ教えておいてほしかったわね」
「申し訳ございません。ないものとして扱え、との旦那様のご命令がありましたので……」

 オルフェンス公爵家を継承したお養父とうさまは凡庸な男だった。
 ほとんど娼婦と変わらない私のお母様に首ったけになって、求婚してしまうくらい。
 平凡な幸せだけを望む愚かな普通の男……だから、息子の卓越した能力は手に余った。お養父とうさまはロイを忌諱きいしたのだ。
 その結果が、これだった。

「とりあえず、遺体は礼拝堂へ運びなさい」
「メルティアお嬢様⁉ なりませんっ、そのような――!」
「気持ちはわかるけど、こういうのは淡々と合法的に処理したほうが後々問題にならなくていいんじゃないかしら? 書類の上では正妻なのでしょう?」
「確かに、そうではありますが……」
「グライフス、悔しい気持ちはわかるわ。私も、お母様というものがありながら他の女を正妻として扱わなくてはならないなんてとても悔しい」

 思ってもいないことを言ってグライフスの心に寄り添う。この修羅場しゅらばをとにかく平穏に乗り切りたかった。

「でも、余所よそから見て不当に見えるような扱いをしたら、悪く言われるのは私のお母様なのよ。この子たちみたいに、お母様が嫉妬しっとしたみたいに言うに違いないんだわ」
「そうかもしれません……しかし、しかし……」
「もう何もできない死んだ人間を転がしておく場所がどこだって、別にいいじゃない」

 ぎり、と誰かが歯を食いしばるような音が聞こえた。
 感情を隠せないマルスあたりだろう。私がなんとかご遺体をオルフェンス公爵家の礼拝堂に置こうとしている努力はきっと少しも伝わっていない。
 ああもう、逃げ出したくてたまらない。というか、逃げると決めた。
 お母様が新婚旅行から帰ってきたら荷物と金目のものをまとめて逃げだそう。
 お養父とうさまには悪女にだまされたとでも思って諦めてもらいたい。
 ロイはヒロインを取り巻く男たちの中で一番の推しだったから、近くでその活躍を見てみたい気持ちはある。けれど、それはあくまで娯楽としてであって、命あっての物種というやつだ。
 何よりも大事なのは、人生。確か、ロイの過去編は地獄だったはず。約束された地獄から一目散に逃げなくてはならない。
 だってそうしないと、私は殺されてしまう。
 さっきから何度も思い出そうとして細部まではできずにいるのだけれど、あの小説の中で私が死ぬのは間違いない。
 なんでこんなに大事なことを思い出せないんだろう。自分の死因なのに。
 でも、仕方ない。十二年以上前に読んだ小説だし、しかも私なんか過去編にしか出てこないし、悪役だし、死んでるし。
 だからこそ、三十六計逃げるにかずというわけだ。
 この国から出るのもいいかもしれない。
 そうすれば、『光の王女』のストーリーからは間違いなくのがれられる。
 過去編で覚えているのは、悪役の義姉がロイを差し置いて公爵位を受け継ぎ、やがてロイが奪い返すこと。
 ……うん? どうして愛人の娘でしかない私が公爵位を受け継ぐことになるの?
 オルフェンス公爵であるお養父とうさまと一滴の血も繋がっていない私が、どうして――

「グライフス様! 大変です‼」

 その時、部屋に駆け込んできた真っ青な顔の使用人が家宰かさいであるグライフスに近づいた。
 主人のいないこの屋敷の実質的な支配者はグライフスというわけだ。

「どうしたのだ」
「ケルル伯爵、ブシュケッター子爵、リス男爵……その他オルフェンス公爵家のご親族の方々がおいでです」
何故なぜだ⁉ どこからこの女の死が漏れたのだ?」
「いえ、違います。奥様の……いえ、その方の死が原因ではなく……!」

 使用人はごくりと生唾なまつばを飲む。
 一瞬、その視線がちらりと私の上を通ったのがひどく不吉だった。

「旦那様と、クラリス様が……お亡くなりになったのです」

 馬車の事故で――と続く使用人の言葉は、ほとんど頭に入らなかった。
 お養父とうさまと、お母様が亡くなった……
 言われてみれば、私はその事実をとっくの昔から知っていた。
 しかも、……本当は事故死ではなかったはず。
 事故死に見せかけた、他殺だ。

「今後についての協議のために、ご親族の皆々様方が応接間にてお待ちです」

 気づくと、私は駆け出していた。
 ひつぎは玄関広間に安置されていた。ご丁寧に、顔の部分の窓が開いている。

「お母様ッ‼」

 顔は綺麗なものだったが、血の気のない顔を見ればその死は見間違いようがない。
 ひつぎに突っ伏して泣く。
 最高の母親ではなかったけれど、私にとってはいい母だった。
 前世の記憶を持つ私はきっと異様な赤子だっただろう。それなのに、この母は無邪気に私を愛してくれた。無知なだけだったのかもしれないが、私はその無垢むくな愛に救われていた。
 どうして今まで小説について思い出せなかったのだろう。
 もっと早く思い出していれば、ここにいてはお母様に危険が及ぶと気づいたはずだ。
 泣いて、泣いて、泣いていた――けれど、泣きながら聞き耳を立てている自分に、うんざりする。
 なんて薄気味悪い子どもなんだろうと我ながら思う。
 だからこそ、身も心も子どものように純粋で美しい母が恋しい。

「久しいな、グライフス」

 権力の香りに誘われて集まってきたオルフェンス公爵家の一族の者たちは、母親の亡骸なきがらすがって泣く十二歳の少女の存在など無視して話を始めている。

「ベンヤミン様、お久しゅうございます。新年のご挨拶あいさつ以来かと」
「うむ。まさか兄上がこのような悲劇を迎えることになろうとは、まったく人生とはわからないものだ。公爵位を継承し、輝かしい人生を送るはずだった兄上が事故死とは」

 ベンヤミン、という男のねこで声に、何故なぜか全身が総毛立った。
 彼は兄上、と口にした。ということは、オルフェンス公爵の弟?
 私はこの屋敷に来てまだ半年だ。この家のことはほとんどわからない。
 小説の内容を思い出そうとしても、できなかった。
 過去編なんて一回しか読んでいないし、モブの人名なんて覚えていない。
 でも、いたような気がする。……あまりいい人物ではなかったような。そもそも過去編には、マルスとカイン以外、ほとんどロイの敵しか出てこない。

「兄上が亡くなってしまった以上は、オルフェンス公爵家の行く末について話さなければならないだろう。グライフス、話を聞いているかね? 兄上がフィリーナとの婚姻を過去に遡及そきゅうしてなかったことにした、という話だ」
「なんと――! それはつまり、ベンヤミン様がオルフェンス公爵家の爵位を継承されるということでございましょうか?」

 グライフスの声が警戒心に満ちる。
 おやと思った。
 この家宰かさいはロイを憎んでいる。だからオルフェンス公爵が亡き今、ロイを後継者として認めたくないに違いない。
 それなのに、対抗馬として出てきたオルフェンス公爵の弟のほうを一層警戒しているようだ。
 ……グライフスが警戒する相手。つまりは、お養父とうさまの敵。

「いや、いや。そうではない。兄上は新しい妻と正式な婚姻を結んだ。そして、その娘を籍に入れている。つまり、公爵位の第一の継承権は妻の娘にあるということになる」
「……血の繋がりはございませんが」
「公爵位の継承にとって血の繋がりは重要ではない。そうではないかね? もし血の繋がりを重要視するのであれば、伴侶としてオルフェンスの者を迎えてもらえばいい」
「ベンヤミン様はそれでよろしいのですか?」
「無論。それが公爵たる兄上の決めたことなれば」

 べったりと貼り付くどす黒いコールタールのような声だ。
 貼り付くのは声だけでなく、視線もだった。
 私の上に無数の視線が降り注いでいるのが、顔を上げなくてもわかる。ああ、と内心いきく。ああ嫌だ、思い出した。
 ロイの邪悪な義姉、メルティア・フォン・オルフェンスの最悪な死に方を、思い出してしまった。
 ――この男によって、なぶごろしにされるのだ。
 メルティアが十六歳の成人を迎えたのを契機に、その身柄を野心のある男たちが狙い、奪い合う。
 この義姉はおのれを狙うケダモノの数を誇りさえし、傲慢ごうまん極まりない態度で振る舞った。
 しかし最後にはロイに公爵位継承のあかしを奪われ、すべてを失う。
 用済みになった義姉はただの美しいだけの女になった。ただただ美しく、傲慢ごうまん驕慢きょうまんなだけに、屈服させがいのあるサンドバッグ。
 メルティアを篭絡ろうらくするために金や時間をかけたにもかかわらず何も手に入れられなかった欲深い男たちは、そのさを晴らすために彼女をなぶごろしにしたのだ。
 その筆頭がこの男――ベンヤミン・フォン・ケルル。

「メルティア嬢……いえ、美しき公爵閣下。どうか悲しみをこらえて我ら朋輩にご挨拶あいさつさせていただけませんかな?」

 逃げ出したい。けれど私が逃げたら、ロイはどうなるだろう?
 私はこの世界で十二年間生きてきた。
 貴族社会のことは知らないものの、この世界のことを何も知らないわけじゃない。
 オルフェンス公爵の座は、ロイにこそふさわしいのはわかる。
 だからその座を狙う者にとって、ロイは敵だ。邪魔なロイを、彼らはどうする?
 この国の古い貴族にとって爵位の継承とは、本来、その家の精霊を受け継ぐことを意味する。つまり、精霊を継承する機会を与えないよう、ロイを遠くへ追いやるのが正解だ。
 お養父とうさまが死に、一子相伝の口伝くでんが途切れて精霊のがわからなくなった現在、オルフェンス邸に出入りできる者には平等に真の公爵位を継承する機会が与えられていると言える。
 誰も私が公爵家の精霊のを見つけるとは思っていないため、警戒しない。
 でも、前公爵の息子であるロイは違う。実際、小説のロイは屋敷に四年も留まって精霊を見つけ出し、公爵位の正統な継承者として返り咲いた。

「メルティア嬢?」
「……ちょっと待って。恥ずかしいの。子どものように泣いてしまったんだもの」

 催促さいそくの言葉に甘えるような声で答える。
 十二歳にして男にびるやり方を知っているだなんて我ながらぞっとしてしまうけれど、どんな手でも使わなければ生き延びることさえできないだろう。
 考える時間が欲しかった。
 逃げたい。逃げたいけれど――私が逃げたら、どうなる?
 小説では、ロイは十歳から十四歳までの四年間、公爵位を継いだ残忍な義姉に苦しめられ続けた。
 逆に言えば四年間は命の危険にさらされることなく生きられたのだ。
 この屋敷の中で、精霊のを探し求めながら。
 親族の者たちは反対しなかったのか? ……おそらく、義姉にいじめられるロイの姿がよほどに面白いショーだったのだろう。
 そのショーがなくなって、屋敷から追い出されるだけならまだいい。公爵になれなければ小説とは違ってしまうとはいえ、きっとロイの能力があればどこでも生きていける。
 ……それよりもありえそうな可能性がある。
 ロイは殺されるかもしれない。私が逃げたら。
 ゆっくり、できる限り優美に見えるように顔を上げていく。
 最近は授業を受け始めていたので、貴族の目から見ても見苦しくはないはずだ。

「あんまり見ないでちょうだい。今の私はきっと可愛くないから」
「そんなことはありませんぞ!」
「おお……なんとお美しい」
「母親そっくり。いや、それ以上だ……!」

 男たちのねばつくような欲深い眼差まなざしが注がれることこそがほまれとばかりに微笑ほほえむ。
 彼らが私への警戒心を完全に捨てたのをひしひしと感じる。彼らの目に映る私は、無力で傲慢ごうまんな幼い娼婦だろう。
 心がてついて、震え出してしまいそうになるのをこらえながら、微笑ほほえみ続けた。

「皆さん、お話を聞かせてくれる? 信じられないようなお話が聞こえた気がしているのだけれど」
「信じられないのも無理はない。君はこのオルフェンス公爵家の継承者となったのだよ」
「まあ、本当に?」
「本当だとも。これからこのオルフェンス公爵家は君のものだ」
「素敵……」


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