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好きになれない3
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「なにを言ってるんですか、俺は……」
「だから。いつまでも子どもみたいなこと言うなって、言ってるんだ。おまえも、今がちょうど将来を見据えるいいタイミングだろ」
「子どもでいろって言ったのはあんただろ」
八つ当たりのような、駄々のようなそれに、真木が笑う。
「もう少し、って言っただろ。いつまでもそのままでいられないことくらい、誰だってわかる」
あのときから、ずっと、この人の中では終わりが見えていたのだろうか。日和が悩みながらも進めてきた時間は、この人にとっては終わりへのカウントダウンと大差なかったのだろうか。
暑いくらいだったはずなのに指先が冷たくて、握りしめる。
「それで、その期限がきたって話だ。さっきも言ったけど、ちょうどいい区切りだろ。おまえは地元に帰る。教師になる。まぁ、いい教師になると思うよ、おまえは。その顔があったら、母親受けもよさそうだしな」
日和が嫌がると知っていて、さらりと容貌のことを揶揄する。この人の拒絶は、どこまでも受動的だ。ずるい。日和が主体的に嫌いになればいいと思っている。見切りを付ければいいと勝手に考えている。
「俺はここにいる。今までどおり」
「真木さん」
「おまえは、ちゃんと先に進めばいい」
「……真木さん」
意識すらできないまま、祈るような声になっていた。届いてほしい。届いてほしい。知ってほしい。認めてほしい。
「好きです」
一度も好きだと言って貰ったことがない。たったの、いちども。
「俺は好きです」
藍色のカーテンがかすかに揺れていた。夏の夜の音がする。その動きを追うように真木の視線が逸れる。返ってきたのは、溜息交じりの声だった。
「もう、何回も聞いたよ、それは。一生分、聞いた。この一年で。だから、もういい」
「っ、なんで」
「おまえのそれは『恋』でもなんでもないから、忘れろって。また言われたいのか」
唇を嚙みしめる。泣き落とすわけにはいかない。同情をされたいわけでもない。けれど、このまま流されたくもなかった。
いっそのこと、すべてをなかったことにしてしまったほうが幸せなのだろうか。この人の言う通り。今まで一度も考えなかったと言えば、嘘になる。
姉に、あるいは母に。付き合っている人がいるなら連れて帰ってきなさいよ、と言われても、曖昧に濁すことしかできないとき。付き合っている誰かが女性であるという前提を強要されていると感じてしまったとき。
水原が当然のように、付き合い出したばかりの彼女の写真を見せてきたとき。おまえもいい加減に見せろよと強請られても断る以外に道がないとき。
けれど、それでも、捨てられなかった。楽かもしれないと考えたことはあっても、その天秤にかけて捨てようと思ったことは一度もない。
「俺は……」
言いたいことが身体中を巡っているみたいで、なにをどう言えばいいのかわからない。俺は。――あなたは。
急かすこともなく、真木は日和を見ていた。ただ、静かに。つぼみにいるときと、変わらないそれで。
――嘘なんて。
嘘なんて吐きません。そんな顔で平然と嘘を吐く。子どもはなにをしても守るくせに、俺のことは平然と傷つける。
それでも、好きだった。気が付いたときには、手放せなくなっていた。なにがよかったのかと問われても、口を吐くのはすべて後付けの理由になる。優しいところ、だとか。仕事に熱心なところ、だとか。なんでもできるように見えて、自分のことに関しては死ぬほど鈍感そうなところ、だとか。気が付けば視線が追って、隣にいたいと願うようになったことが理由のすべてかも知れない。
隣にいたい。できれば、これからも、ずっと。
優しくされたくないわけじゃない。でもそれ以上に優しくしたい。せめて俺だけでも誠実でいたい。
この気持ちが恋じゃなかったら、なんだと言うのだ。
「真木さんに、否定されるようなものじゃない」
否定されたからと言って変わるものでもない。これは俺の感情だ。この人と出逢って、ずっとずっと育ててきた俺の感情。
「なかったことにしようとしても、俺は……俺の気持ちは、変わらないし。俺はずっと好きだし、今までだって、好きだったし」
一度も視線を外さないまま言い切って、続ける。ほんの少し、迷ったけれど。
「真木さんだって、そうじゃないんですか」
でも、きっと、そうだ。そうでなければ、一時でも受け入れるわけがない、この人が。それに、――もし。もし、本当にその気がなかったら、もっと上手に振っていたはずだ。一番、最初に。深入りする前に。もっと、早く。
「おまえさ、実際、この半年か。どうだった? 少しも後悔しなかった? 誰にも言えない、女の子とやっていたみたいな普通のこともできない、親兄弟にも言えない。楽しいか」
日和の問いの答えだとは到底思えない台詞を、淡々と真木は口にした。
「一時だったら、その秘匿感もスパイスになるのかもしれないけどな。延々と続くとなったら、また別物だろ」
それこそ、そういう問題じゃないと言いたかった。そうじゃない。男同士だからどうだという話を日和はしていたのじゃない。日和と真木の話を、ずっとしていたつもりだ。つもりだった。
「あなたの隣はあたたかいのに、さみしい」
ぽつりと零れ落ちたそれは、ほとんど無意識だった。驚いたように、真木が日和を見る。ずっと視線は合っていたはずなのに、やっと目が合ったと思った。
「俺の好きばかりが溢れ返っていて、ずっと不安だった」
「……嫌いだった、わけじゃないよ」
やっと声に感情が混じったと思ったら、これだ。
「嫌いだった、わけじゃない」
それなら好きだと言ってほしかった。その言葉があったら、寂しくなんてないのに。寒くなんてないのに。
「さっきの質問ですけど」
頭はごちゃごちゃで、けれど酷いことを言いたくはなくて、小さく息を吐く。
「俺は、あなたとの付き合いに、女の子としてきたような付き合いを求めたつもりは一切ないし、秘密の恋愛に酔っていたつもりもない。ただ、一緒にいたくて、好きだから傍にいたくて。それだけで」
この家で夜を過ごすことが好きだった。直接的な触れ合いがなくても十分だった。自分は問題集を開いて、この人はずっと仕事をしていても。それでも幸せだった。
同じ夜を共有できるだけで十分だった。俺はなにも必要以上に求めていないつもりだ。けれど、そのささやかな幸せも、この人は過分だと言うのだろうか。
「べつに、みんなから祝福されたいとも思ってないし。あなたが許してくれるなら、それでよかった」
好きだったから。好きだから。一息に振り絞る。
「それで、よかったんです」
沈黙が苦しかった。虫の細い声と、通りを行く人の声がかすかに響いて、また遠くなる。心臓の音さえ聞こえそうな夜の中、吐息のような声が笑う。
「本当に、おまえは馬鹿だな」
いつもの軽口のはずなのに、泣いているように聞こえた。
「今なら、離してやるつもりだったのに」
「え……」
「俺がどれだけ必死で、大人として振舞ってやってたと思ってんだ」
瞳を瞬かせた日和に、真木が目を伏せたまま苦笑を零す。
「たかだが数年、先に生まれただけで、立派な人間なわけがないだろ。それなのに、おまえは会ったころからずっと俺のことを過大評価してくるから」
「そんなこと……」
「あるんだよ。今は、おまえは学生だから、俺がすごいふうに見えてるのかもしれないけど。働き出したら、あぁこんなものだったのかって思うようになるよ。わかるようになる」
俺が教師になって。担任を持つようになって。この人がつぼみにいた時間と同じ年数が経てば、この人に追いつくのだろうか。日和にはわからない。わからないけれど、もし、この人が、俺が追い付いたと感じてくれる日がきたとしたら。
「そうなったら、俺に甘えてくれますか」
そうなれば、世界は変わるのだろうか。この人との付き合い方が、変わるのだろうか。わからない可能性に縋りつくことの無意味さも理解しているのに。
「俺に本心で向き合ってくれますか」
いつだって聞きたかったのは、その言葉だけだった。指先がひっそりと震えていた。また沈黙が生まれる。
「自分で言うのもなんだけど。面倒だと思うよ、俺」
日和に言い聞かせるというよりかは、自嘲を多分に含んだ声だった。以前、羽山も言っていた。その声が不意に思い出された。
泣かせないと思うけど、泣かせるなよ。そうも言われた。
「知ってます」
「よく言われるんだけど、誠実でもなんでもないし」
「誠実だと思って、好きになったわけじゃないですよ」
だからと言って、誠実でないとも思わないけれど。
「どちらかと言わなくても、臆病だと思うし。諦めも早いしな」
「はい」
「未来のある誰かを自分の傍に引き留めておくのは、怖いと思うし」
真木の口から怖いという言葉を聞いたのは、はじめてだった。
「それが幸せになってほしい誰かなら、なおさら」
「幸せ……」
「いつか、見切りを付けられるのも怖いと思うし」
なんで、この人は過分を求めないのだろう。日和はずっと不思議に思っていた。なんで、と。なんで、そんなすべてを諦めた顔で。すべてを失うことが前提となっている顔で笑うのだろう、と。
「真木さん」
呼びかけに真木の顔が上がった。机上に置かれていた手に触れる。夏なのに、冷たかった。日和と同じ。
「身近な約束を積み重ねさせてください」
笑えているかどうかの自信はなかった。誠実でありたいとは、もうずっと願っているけれど。
「明日の朝、一緒に起きるでしょ。たまにはしっかり朝も食べて、いい天気だったら、どこかに出かけてもいい」
「勉強は」
「昼間やらなかったら、夜やります。大切な人のために多少の時間を割いても、落ちません」
歯の浮くような台詞を一息に告げる。一年前の自分だったら、すべてが考えられないことだった。流されるがままではなく、自分の意志で行動を決めることも。自分以上に大切な誰かができることも。
けれど、そのどれもが、愛おしかった。
「採用試験は受かるように頑張ります。ここに」
選択肢はいくらでもある。なにを重要視するかも人それぞれだ。日和にとって一番重要だったのは、大切にしたかったのは、この人のそばにいることだった。この人のそばで仕事をして、生きていきたい。
「四月からも、またこうして俺と逢って時間を過ごしてください。最初のうちは、へろへろになってるかもしれないし、文字通り、この部屋で寝るだけになるかもしれないけど」
「……想像が付くな、それは」
そこでやっと、真木の声が和らいだ。指先からじんわりとぬくもりが伝わってくる。眼の奥が熱くなった。
なぜだかわからないほど。うまくいかないから固執しているのではないかと不安になるほど、好きになっていた。欲しいと思っていた。
「そうこうしてるうちに、俺が隣にいるのが当たり前になる」
そうなればいいと思っている。そして、いつか。日和がずっと好きでいるのだと信じてほしい。甘えてほしい。
「ずっとそばにいるって、思えるようになる」
「それって、恋か?」
どこか呆れたような声に、けれど日和はほっとした。いつもの真木だ。べつに、いつもどおりでなくてもいいのだけれど。弱いところも、本当はいくらでも見せて欲しいのだけれど。
「恋なんて、ほとんど錯覚じゃないですか」
「今までの話、全部無駄にならないか、その理論」
「そうかもしれないですけど。真木さんだって、何度も言ってたじゃないですか。俺の思い込みだって」
おまえのそれは恋じゃない。何度言われたかわからない。それでも俺は刷り込みでもなんでもなく恋だったと思うし、この人も、そうだったとのだと思うし、そうなのだと信じている。
「というか、さっきも言いましたけど。真木さんも俺のことが好きでしょう」
断定してみせたくせに、緊張で声は震えそうだった。
違うとは真木は言わなかった。諦めたように視線が伏せられただけ。そういえば、と不意に思い出した。
会ったばかりのころだ。凛音が無邪気に言っていた。
――まきちゃんは嘘は吐かない、ねぇ。
たしかにこの人、俺のことを嫌いだって言ったこと、一度もないんだよな。
馬鹿だなと思った。不器用で、そのくせ、変に頑なで、まっすぐで。弱いのに、強い。嫌になるほど。
「俺のことが好きじゃなかったら、こんなことになってないでしょ」
「こんなことって、おまえね」
「嫌味です。言葉尻に引っかかるくらいなら最初から真木さんも言わないでください」
「……なんか急に図太くなったな、おまえ」
憮然とした声に、思わず笑ってしまった。
「開き直ったんです。それに」
「それに?」
「俺が振られても泣かないようになったら、弱音も吐いてくれるって、そう言ったでしょ」
いつか。あの日、泣きながら縋り付いた瞬間が、笑い話になる日まで。傍にいる。
「だから」
だから、好きになってほしい。好きだと認めてほしい。日和を求めてほしい。欲求なんていくらでも湧いてくる。この人に逢うまで、自分がこんなふうに欲を張ることも知らなかったけれど。真木にも手を伸ばしてほしかった。
諦めたりせずに。
「本当に、馬鹿で真面目だね、おまえは」
「……え」
戸惑いたくなるほど、優しい声だった。
「困る」
好きだと思った、柔らかい瞳が自分だけを映している。泣かないと決めた端から泣きそうになって、熱を呑み込む。
――これだった、と思った。
これだ。これが、欲しかった。つくりものの笑顔でも、強固な偽りでもない、自然な、ものが。
「かわいくて、本当に困る」
ここまで絆されるつもりはなかったのだと、彼は言った。
「だから。いつまでも子どもみたいなこと言うなって、言ってるんだ。おまえも、今がちょうど将来を見据えるいいタイミングだろ」
「子どもでいろって言ったのはあんただろ」
八つ当たりのような、駄々のようなそれに、真木が笑う。
「もう少し、って言っただろ。いつまでもそのままでいられないことくらい、誰だってわかる」
あのときから、ずっと、この人の中では終わりが見えていたのだろうか。日和が悩みながらも進めてきた時間は、この人にとっては終わりへのカウントダウンと大差なかったのだろうか。
暑いくらいだったはずなのに指先が冷たくて、握りしめる。
「それで、その期限がきたって話だ。さっきも言ったけど、ちょうどいい区切りだろ。おまえは地元に帰る。教師になる。まぁ、いい教師になると思うよ、おまえは。その顔があったら、母親受けもよさそうだしな」
日和が嫌がると知っていて、さらりと容貌のことを揶揄する。この人の拒絶は、どこまでも受動的だ。ずるい。日和が主体的に嫌いになればいいと思っている。見切りを付ければいいと勝手に考えている。
「俺はここにいる。今までどおり」
「真木さん」
「おまえは、ちゃんと先に進めばいい」
「……真木さん」
意識すらできないまま、祈るような声になっていた。届いてほしい。届いてほしい。知ってほしい。認めてほしい。
「好きです」
一度も好きだと言って貰ったことがない。たったの、いちども。
「俺は好きです」
藍色のカーテンがかすかに揺れていた。夏の夜の音がする。その動きを追うように真木の視線が逸れる。返ってきたのは、溜息交じりの声だった。
「もう、何回も聞いたよ、それは。一生分、聞いた。この一年で。だから、もういい」
「っ、なんで」
「おまえのそれは『恋』でもなんでもないから、忘れろって。また言われたいのか」
唇を嚙みしめる。泣き落とすわけにはいかない。同情をされたいわけでもない。けれど、このまま流されたくもなかった。
いっそのこと、すべてをなかったことにしてしまったほうが幸せなのだろうか。この人の言う通り。今まで一度も考えなかったと言えば、嘘になる。
姉に、あるいは母に。付き合っている人がいるなら連れて帰ってきなさいよ、と言われても、曖昧に濁すことしかできないとき。付き合っている誰かが女性であるという前提を強要されていると感じてしまったとき。
水原が当然のように、付き合い出したばかりの彼女の写真を見せてきたとき。おまえもいい加減に見せろよと強請られても断る以外に道がないとき。
けれど、それでも、捨てられなかった。楽かもしれないと考えたことはあっても、その天秤にかけて捨てようと思ったことは一度もない。
「俺は……」
言いたいことが身体中を巡っているみたいで、なにをどう言えばいいのかわからない。俺は。――あなたは。
急かすこともなく、真木は日和を見ていた。ただ、静かに。つぼみにいるときと、変わらないそれで。
――嘘なんて。
嘘なんて吐きません。そんな顔で平然と嘘を吐く。子どもはなにをしても守るくせに、俺のことは平然と傷つける。
それでも、好きだった。気が付いたときには、手放せなくなっていた。なにがよかったのかと問われても、口を吐くのはすべて後付けの理由になる。優しいところ、だとか。仕事に熱心なところ、だとか。なんでもできるように見えて、自分のことに関しては死ぬほど鈍感そうなところ、だとか。気が付けば視線が追って、隣にいたいと願うようになったことが理由のすべてかも知れない。
隣にいたい。できれば、これからも、ずっと。
優しくされたくないわけじゃない。でもそれ以上に優しくしたい。せめて俺だけでも誠実でいたい。
この気持ちが恋じゃなかったら、なんだと言うのだ。
「真木さんに、否定されるようなものじゃない」
否定されたからと言って変わるものでもない。これは俺の感情だ。この人と出逢って、ずっとずっと育ててきた俺の感情。
「なかったことにしようとしても、俺は……俺の気持ちは、変わらないし。俺はずっと好きだし、今までだって、好きだったし」
一度も視線を外さないまま言い切って、続ける。ほんの少し、迷ったけれど。
「真木さんだって、そうじゃないんですか」
でも、きっと、そうだ。そうでなければ、一時でも受け入れるわけがない、この人が。それに、――もし。もし、本当にその気がなかったら、もっと上手に振っていたはずだ。一番、最初に。深入りする前に。もっと、早く。
「おまえさ、実際、この半年か。どうだった? 少しも後悔しなかった? 誰にも言えない、女の子とやっていたみたいな普通のこともできない、親兄弟にも言えない。楽しいか」
日和の問いの答えだとは到底思えない台詞を、淡々と真木は口にした。
「一時だったら、その秘匿感もスパイスになるのかもしれないけどな。延々と続くとなったら、また別物だろ」
それこそ、そういう問題じゃないと言いたかった。そうじゃない。男同士だからどうだという話を日和はしていたのじゃない。日和と真木の話を、ずっとしていたつもりだ。つもりだった。
「あなたの隣はあたたかいのに、さみしい」
ぽつりと零れ落ちたそれは、ほとんど無意識だった。驚いたように、真木が日和を見る。ずっと視線は合っていたはずなのに、やっと目が合ったと思った。
「俺の好きばかりが溢れ返っていて、ずっと不安だった」
「……嫌いだった、わけじゃないよ」
やっと声に感情が混じったと思ったら、これだ。
「嫌いだった、わけじゃない」
それなら好きだと言ってほしかった。その言葉があったら、寂しくなんてないのに。寒くなんてないのに。
「さっきの質問ですけど」
頭はごちゃごちゃで、けれど酷いことを言いたくはなくて、小さく息を吐く。
「俺は、あなたとの付き合いに、女の子としてきたような付き合いを求めたつもりは一切ないし、秘密の恋愛に酔っていたつもりもない。ただ、一緒にいたくて、好きだから傍にいたくて。それだけで」
この家で夜を過ごすことが好きだった。直接的な触れ合いがなくても十分だった。自分は問題集を開いて、この人はずっと仕事をしていても。それでも幸せだった。
同じ夜を共有できるだけで十分だった。俺はなにも必要以上に求めていないつもりだ。けれど、そのささやかな幸せも、この人は過分だと言うのだろうか。
「べつに、みんなから祝福されたいとも思ってないし。あなたが許してくれるなら、それでよかった」
好きだったから。好きだから。一息に振り絞る。
「それで、よかったんです」
沈黙が苦しかった。虫の細い声と、通りを行く人の声がかすかに響いて、また遠くなる。心臓の音さえ聞こえそうな夜の中、吐息のような声が笑う。
「本当に、おまえは馬鹿だな」
いつもの軽口のはずなのに、泣いているように聞こえた。
「今なら、離してやるつもりだったのに」
「え……」
「俺がどれだけ必死で、大人として振舞ってやってたと思ってんだ」
瞳を瞬かせた日和に、真木が目を伏せたまま苦笑を零す。
「たかだが数年、先に生まれただけで、立派な人間なわけがないだろ。それなのに、おまえは会ったころからずっと俺のことを過大評価してくるから」
「そんなこと……」
「あるんだよ。今は、おまえは学生だから、俺がすごいふうに見えてるのかもしれないけど。働き出したら、あぁこんなものだったのかって思うようになるよ。わかるようになる」
俺が教師になって。担任を持つようになって。この人がつぼみにいた時間と同じ年数が経てば、この人に追いつくのだろうか。日和にはわからない。わからないけれど、もし、この人が、俺が追い付いたと感じてくれる日がきたとしたら。
「そうなったら、俺に甘えてくれますか」
そうなれば、世界は変わるのだろうか。この人との付き合い方が、変わるのだろうか。わからない可能性に縋りつくことの無意味さも理解しているのに。
「俺に本心で向き合ってくれますか」
いつだって聞きたかったのは、その言葉だけだった。指先がひっそりと震えていた。また沈黙が生まれる。
「自分で言うのもなんだけど。面倒だと思うよ、俺」
日和に言い聞かせるというよりかは、自嘲を多分に含んだ声だった。以前、羽山も言っていた。その声が不意に思い出された。
泣かせないと思うけど、泣かせるなよ。そうも言われた。
「知ってます」
「よく言われるんだけど、誠実でもなんでもないし」
「誠実だと思って、好きになったわけじゃないですよ」
だからと言って、誠実でないとも思わないけれど。
「どちらかと言わなくても、臆病だと思うし。諦めも早いしな」
「はい」
「未来のある誰かを自分の傍に引き留めておくのは、怖いと思うし」
真木の口から怖いという言葉を聞いたのは、はじめてだった。
「それが幸せになってほしい誰かなら、なおさら」
「幸せ……」
「いつか、見切りを付けられるのも怖いと思うし」
なんで、この人は過分を求めないのだろう。日和はずっと不思議に思っていた。なんで、と。なんで、そんなすべてを諦めた顔で。すべてを失うことが前提となっている顔で笑うのだろう、と。
「真木さん」
呼びかけに真木の顔が上がった。机上に置かれていた手に触れる。夏なのに、冷たかった。日和と同じ。
「身近な約束を積み重ねさせてください」
笑えているかどうかの自信はなかった。誠実でありたいとは、もうずっと願っているけれど。
「明日の朝、一緒に起きるでしょ。たまにはしっかり朝も食べて、いい天気だったら、どこかに出かけてもいい」
「勉強は」
「昼間やらなかったら、夜やります。大切な人のために多少の時間を割いても、落ちません」
歯の浮くような台詞を一息に告げる。一年前の自分だったら、すべてが考えられないことだった。流されるがままではなく、自分の意志で行動を決めることも。自分以上に大切な誰かができることも。
けれど、そのどれもが、愛おしかった。
「採用試験は受かるように頑張ります。ここに」
選択肢はいくらでもある。なにを重要視するかも人それぞれだ。日和にとって一番重要だったのは、大切にしたかったのは、この人のそばにいることだった。この人のそばで仕事をして、生きていきたい。
「四月からも、またこうして俺と逢って時間を過ごしてください。最初のうちは、へろへろになってるかもしれないし、文字通り、この部屋で寝るだけになるかもしれないけど」
「……想像が付くな、それは」
そこでやっと、真木の声が和らいだ。指先からじんわりとぬくもりが伝わってくる。眼の奥が熱くなった。
なぜだかわからないほど。うまくいかないから固執しているのではないかと不安になるほど、好きになっていた。欲しいと思っていた。
「そうこうしてるうちに、俺が隣にいるのが当たり前になる」
そうなればいいと思っている。そして、いつか。日和がずっと好きでいるのだと信じてほしい。甘えてほしい。
「ずっとそばにいるって、思えるようになる」
「それって、恋か?」
どこか呆れたような声に、けれど日和はほっとした。いつもの真木だ。べつに、いつもどおりでなくてもいいのだけれど。弱いところも、本当はいくらでも見せて欲しいのだけれど。
「恋なんて、ほとんど錯覚じゃないですか」
「今までの話、全部無駄にならないか、その理論」
「そうかもしれないですけど。真木さんだって、何度も言ってたじゃないですか。俺の思い込みだって」
おまえのそれは恋じゃない。何度言われたかわからない。それでも俺は刷り込みでもなんでもなく恋だったと思うし、この人も、そうだったとのだと思うし、そうなのだと信じている。
「というか、さっきも言いましたけど。真木さんも俺のことが好きでしょう」
断定してみせたくせに、緊張で声は震えそうだった。
違うとは真木は言わなかった。諦めたように視線が伏せられただけ。そういえば、と不意に思い出した。
会ったばかりのころだ。凛音が無邪気に言っていた。
――まきちゃんは嘘は吐かない、ねぇ。
たしかにこの人、俺のことを嫌いだって言ったこと、一度もないんだよな。
馬鹿だなと思った。不器用で、そのくせ、変に頑なで、まっすぐで。弱いのに、強い。嫌になるほど。
「俺のことが好きじゃなかったら、こんなことになってないでしょ」
「こんなことって、おまえね」
「嫌味です。言葉尻に引っかかるくらいなら最初から真木さんも言わないでください」
「……なんか急に図太くなったな、おまえ」
憮然とした声に、思わず笑ってしまった。
「開き直ったんです。それに」
「それに?」
「俺が振られても泣かないようになったら、弱音も吐いてくれるって、そう言ったでしょ」
いつか。あの日、泣きながら縋り付いた瞬間が、笑い話になる日まで。傍にいる。
「だから」
だから、好きになってほしい。好きだと認めてほしい。日和を求めてほしい。欲求なんていくらでも湧いてくる。この人に逢うまで、自分がこんなふうに欲を張ることも知らなかったけれど。真木にも手を伸ばしてほしかった。
諦めたりせずに。
「本当に、馬鹿で真面目だね、おまえは」
「……え」
戸惑いたくなるほど、優しい声だった。
「困る」
好きだと思った、柔らかい瞳が自分だけを映している。泣かないと決めた端から泣きそうになって、熱を呑み込む。
――これだった、と思った。
これだ。これが、欲しかった。つくりものの笑顔でも、強固な偽りでもない、自然な、ものが。
「かわいくて、本当に困る」
ここまで絆されるつもりはなかったのだと、彼は言った。
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