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好きになれない3
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「おはようございます」
傘を閉じて玄関わきの傘立てに入れる。予備の傘の他に入っている傘は四本。
――あ。
見覚えのあるピンクの傘の柄にあった名前のシールに、日和は目元を笑ませた。凛音だ。
教育実習を終えて、日和がつぼみに参加したときも凛音は姿を見せていなかったから、会うのは実に一ヵ月ぶりだ。
「おはよう」
和室に顔を出すと、珍しく暁斗まで恵麻と雪人、凛音たち女の子と一緒に机周りに集まっていた。久しぶりに凛音が顔を出したのが嬉しかったのだろう。
「ぴよちゃん、おはよう」
久しぶりだねと言っていいのか駄目なのか。判断に悩んだけれど、「今日は雨だね」と無難な言葉を日和は選んだ。どこかほっとしたように凛音が笑う。ぎこちなくても笑おうという気力があるのなら十分だ。去年の今頃に比べれば随分と伸びた髪の毛を、今日は高いところで一つにくくっている。
「おかげで、髪型がちっとも決まらなかったの」
「そう? かわいいよ」
「ぴよちゃんに言われても、素直に喜べない」
純粋に心から褒めたつもりだったのだが、恨みがましい瞳で見上げられて、日和は頭上に疑問符を飛ばした。
「なんで?」
「なんでってー……」
何故だか今度は拗ねさせてしまった。情緒が不安定なのか。それとも自分の発言によほどの不備があったのか。立ったまま固まっていると、背後の襖ががらりと開いた。
「日和みたいになんでも揃ってるやつから言われたら、むくれたくもなるよな」
真木の声は笑っていたが理不尽だ。真実を探るべく凛音に視線を向ければ、むすっと頬を膨らませている。図星だったのか。
「というか、まきちゃんだって直毛じゃない。梅雨の湿気に苦労したことなんてないでしょ」
「凛音と違って気にしてないからな。凛音だって、俺が鏡ばっかり見てたら嫌だろ」
「……それはそうかも」
八つ当たりの矛先が真木に逸れたと思ったときには収束し始めていた。まだ頬はむくれているが険はない。その凛音の隣でけろりと雪人が笑う。
「小山内さんも嫌だな。ぴよちゃんならいいけど」
「こら。ついでみたいにしてディスるな。小山内くんもかわいい顏してるだろ」
「いいですよ、真木さん。そんなに無理にフォローして頂かなくても。日和さんが別次元なんです、大丈夫です、わかってます」
玄関先から届いた声に、日和はそうだったと思い出した。そうだった。今日はもう一人スタッフがいるのだった。雨の音が強まって、またすぐにくぐもった音に変わる。
「ごめん、ごめん、小山内さん。嘘、冗談」
慌てて顔の前で両手を振っている雪人の姿は、彼からは見えていないだろうが、明るい笑い声が返ってきた。
「ごめんね、雨の中」
廊下に戻る真木の背中越しに、雨に濡れたスーパーのビニール袋が二つ見えた。思わず首を傾げると、恵麻が察し良く口を開く。
「そっか。先週、小山内さんお休みだったもんね。あのね、ぴよちゃん。最近の火曜日のおひるごはん担当は小山内さんなの」
「え……」
なんとも言えないショックに、呆然と呟く。
「真木さん。俺には一回もごはん作れるとか聞かなかったくせに」
「気にするところ、そこなんだ。ぴよちゃん」
笑って、恵麻が廊下へと声を張り上げた。
「まきちゃーん。ぴよちゃんがショック受けてるけど。教えてあげてなかったの?」
「教えるって」
呆れた声が返ってくる。
「直接、日和に関係ないだろ」
そりゃ関係ないけど。内心で不貞腐れていると、「まきちゃんは年々、ぴよちゃんの扱いが雑になってるねぇ」と訳知り顔で凛音が頷いている。ご機嫌は治ったらしい。
台所の方からは和気あいあいとした声が聞こえていて、面白くない。無論、顔には出さないけれど。
「掃除しよ」
ついでに、この心もきれいさっぱりさせてしまいたいと思いながら、日和はふらりと踵を返した。
「久しぶりだね、ぴよちゃんのお掃除タイム。手伝ってあげようか」
「いいの?」
「うん」
もしかして先程のお詫びのつもりなのだろうか。凛音の提案を無碍にするのも気が引けて、「じゃあ、一緒にしようか」と笑いかける。隣に並ぶと、身長も去年の今頃に比べて伸びているのがよくわかった。
――一年経てば、この年頃の子は見違えるよな。
喜ばしいことではあるが、どこかもの悲しい。
子どもを持つ親になれば、誰しもがこんな感覚に陥るのだろうか。いや、親でなくとも、教師になって学級担任を持つようになれば、三月の末には同じような感慨を得るのかもしれない。
廊下の突き当りに洗面所があり、その隣に台所がある。だから、そこで雑巾を探していれば、隣の気配は伝わってくるわけで。
「ねぇ、まきちゃん。まきちゃんはぴよちゃんがお料理できないって知ってたの?」
洗った雑巾の水気を絞りながら、凛音が問いかける。恵麻との会話が気になっていたらしい。
「できるの? おまえ」
「できませんけど」
正直に告げてから、日和は付け足す。
「最低限はできます」
「まぁ、一人暮らしだもんな。最低限もできなかったら問題だ」
おざなりな返答に、日和は無言で凛音から渡された雑巾を絞った。必要以上にかたく絞ってしまった気がしないでもないが問題ない。
「ぴよちゃん、大丈夫だよ。小山内さんのおひるごはん、まきちゃんが作るより美味しいよ」
「いや……」
そういう心配をしていたわけではないとの否定が、小山内の声でかき消える。
「真木さんのも美味しいですよ。僕、地元がもっと西なんで、こっちの味も知れて嬉しいです」
「そういや、小山内くん、広島だっけ。あんまり方言でないよね」
「敬語だと出ないですね。でも発音がちょっと訛ってませんか」
「ちょっとはね。でも、かわいいよ。なんだっけ。広島弁って、女の子が使ったらかわいい方言なんだっけ」
「そういえばそんなランキングありましたね。よく知ってますね」
「恵麻が言ってた」
「なるほどー。恵麻ちゃんか」
「日和?」
口を挟まない日和を不審に思ったのか、呼びかけられた。きょとんと見上げてくる凛音の瞳に我に返る。
「……え? いや、はい」
「採用試験の準備で疲れてるんだったら、休んでもいいよ。大丈夫か」
「大丈夫、です」
「じゃ、掃除終わったら、勉強よろしく。凛音もな」
ぴよちゃん、と袖を引かれて、日和は腰を屈めた。やばい。俺、今、絶対、無だった。
「なに? 凛音ちゃん」
「んー、やっぱり、なんでもない。あたし、お勉強部屋の机を拭いてくるね。ついでに、そのままお勉強の準備する」
「あ……うん。ありがとう。じゃ、俺が向こうの和室をやるね。恵麻ちゃんたちにも声かけておくから」
掃除をしたら、心もきれいになるとか言ったのは、誰だ。俺か。まったくすっきりなんてしないじゃないか。自分自身に辟易しながら机を磨く。
――この場所に、私的な感情を持ち込むようじゃ末期だ。
重々にわかっていたつもりだった。自己嫌悪を呑み込んで気持ちを整える。それができなければ、来るなと言われてもなにも言えなくなってしまう。
一日中、今日は雨が降っていた。しとしとと降り続けた雨は、夕闇に染まるころになっても変わらないままだ。
つぼみの軒先で凛音がピンク色の傘を広げる。雪人と恵麻はスクーリング授業を受けに先に帰ってしまったので、五時からの学習会に参加したのは凛音だけだったのだ。その凛音も、四月に中学三年生になったからと夜の学習会に参加を決めたばかりだ。
「じゃあねー、まきちゃん。お疲れ様」
「また明日。雨だから気を付けて帰れよ」
「駅までぴよちゃんが送ってくれるから大丈夫」
玄関まで見送りに来てくれた真木に頭を下げて、凛音に続く。今日は日和も歩きだ。
まだ一人で帰るのは少し怖い、という凛音に合わせて、彼女が一人になるときは誰かしらが駅まで付きそうようにしている。
――まぁ、どうせ、俺の帰り道と一緒だし。
女の子一人で暗いところのある道を帰らせるのも心配だし。そんなわけで、今週も日和はつぼみに居残ることなく、夜の学習会を終えた生徒と帰りを共にしていた。
つぼみのことや兄のことを話す凛音の声と、傘に当たる雨音とを聞きながら、最近はずっとこうだなと考える。
夜に、二人で、あのスタッフルームで仕事を手伝っている時間も好きだった。けれど、最近はめっきりと減ってしまっている。
去年に比べて、つぼみの雰囲気は少し変わった。生徒も多少なりとも入れ替わるし、スタッフも変わる。真木のオンとオフがはっきりとしているのは今に始まったことではないし、ボランティア活動中に特別に接してほしいなんて思ってはいない。ただ。
なんだか、俺の居場所がなくなっているようで、不満だ、なんて。死んでも言えないというか、言わないけれど。
このまま、あっさりと、あの人の中から俺が消えてしまいそうで、少し怖い。傘を打つ雨の音は、ずっと止まなかった。
傘を閉じて玄関わきの傘立てに入れる。予備の傘の他に入っている傘は四本。
――あ。
見覚えのあるピンクの傘の柄にあった名前のシールに、日和は目元を笑ませた。凛音だ。
教育実習を終えて、日和がつぼみに参加したときも凛音は姿を見せていなかったから、会うのは実に一ヵ月ぶりだ。
「おはよう」
和室に顔を出すと、珍しく暁斗まで恵麻と雪人、凛音たち女の子と一緒に机周りに集まっていた。久しぶりに凛音が顔を出したのが嬉しかったのだろう。
「ぴよちゃん、おはよう」
久しぶりだねと言っていいのか駄目なのか。判断に悩んだけれど、「今日は雨だね」と無難な言葉を日和は選んだ。どこかほっとしたように凛音が笑う。ぎこちなくても笑おうという気力があるのなら十分だ。去年の今頃に比べれば随分と伸びた髪の毛を、今日は高いところで一つにくくっている。
「おかげで、髪型がちっとも決まらなかったの」
「そう? かわいいよ」
「ぴよちゃんに言われても、素直に喜べない」
純粋に心から褒めたつもりだったのだが、恨みがましい瞳で見上げられて、日和は頭上に疑問符を飛ばした。
「なんで?」
「なんでってー……」
何故だか今度は拗ねさせてしまった。情緒が不安定なのか。それとも自分の発言によほどの不備があったのか。立ったまま固まっていると、背後の襖ががらりと開いた。
「日和みたいになんでも揃ってるやつから言われたら、むくれたくもなるよな」
真木の声は笑っていたが理不尽だ。真実を探るべく凛音に視線を向ければ、むすっと頬を膨らませている。図星だったのか。
「というか、まきちゃんだって直毛じゃない。梅雨の湿気に苦労したことなんてないでしょ」
「凛音と違って気にしてないからな。凛音だって、俺が鏡ばっかり見てたら嫌だろ」
「……それはそうかも」
八つ当たりの矛先が真木に逸れたと思ったときには収束し始めていた。まだ頬はむくれているが険はない。その凛音の隣でけろりと雪人が笑う。
「小山内さんも嫌だな。ぴよちゃんならいいけど」
「こら。ついでみたいにしてディスるな。小山内くんもかわいい顏してるだろ」
「いいですよ、真木さん。そんなに無理にフォローして頂かなくても。日和さんが別次元なんです、大丈夫です、わかってます」
玄関先から届いた声に、日和はそうだったと思い出した。そうだった。今日はもう一人スタッフがいるのだった。雨の音が強まって、またすぐにくぐもった音に変わる。
「ごめん、ごめん、小山内さん。嘘、冗談」
慌てて顔の前で両手を振っている雪人の姿は、彼からは見えていないだろうが、明るい笑い声が返ってきた。
「ごめんね、雨の中」
廊下に戻る真木の背中越しに、雨に濡れたスーパーのビニール袋が二つ見えた。思わず首を傾げると、恵麻が察し良く口を開く。
「そっか。先週、小山内さんお休みだったもんね。あのね、ぴよちゃん。最近の火曜日のおひるごはん担当は小山内さんなの」
「え……」
なんとも言えないショックに、呆然と呟く。
「真木さん。俺には一回もごはん作れるとか聞かなかったくせに」
「気にするところ、そこなんだ。ぴよちゃん」
笑って、恵麻が廊下へと声を張り上げた。
「まきちゃーん。ぴよちゃんがショック受けてるけど。教えてあげてなかったの?」
「教えるって」
呆れた声が返ってくる。
「直接、日和に関係ないだろ」
そりゃ関係ないけど。内心で不貞腐れていると、「まきちゃんは年々、ぴよちゃんの扱いが雑になってるねぇ」と訳知り顔で凛音が頷いている。ご機嫌は治ったらしい。
台所の方からは和気あいあいとした声が聞こえていて、面白くない。無論、顔には出さないけれど。
「掃除しよ」
ついでに、この心もきれいさっぱりさせてしまいたいと思いながら、日和はふらりと踵を返した。
「久しぶりだね、ぴよちゃんのお掃除タイム。手伝ってあげようか」
「いいの?」
「うん」
もしかして先程のお詫びのつもりなのだろうか。凛音の提案を無碍にするのも気が引けて、「じゃあ、一緒にしようか」と笑いかける。隣に並ぶと、身長も去年の今頃に比べて伸びているのがよくわかった。
――一年経てば、この年頃の子は見違えるよな。
喜ばしいことではあるが、どこかもの悲しい。
子どもを持つ親になれば、誰しもがこんな感覚に陥るのだろうか。いや、親でなくとも、教師になって学級担任を持つようになれば、三月の末には同じような感慨を得るのかもしれない。
廊下の突き当りに洗面所があり、その隣に台所がある。だから、そこで雑巾を探していれば、隣の気配は伝わってくるわけで。
「ねぇ、まきちゃん。まきちゃんはぴよちゃんがお料理できないって知ってたの?」
洗った雑巾の水気を絞りながら、凛音が問いかける。恵麻との会話が気になっていたらしい。
「できるの? おまえ」
「できませんけど」
正直に告げてから、日和は付け足す。
「最低限はできます」
「まぁ、一人暮らしだもんな。最低限もできなかったら問題だ」
おざなりな返答に、日和は無言で凛音から渡された雑巾を絞った。必要以上にかたく絞ってしまった気がしないでもないが問題ない。
「ぴよちゃん、大丈夫だよ。小山内さんのおひるごはん、まきちゃんが作るより美味しいよ」
「いや……」
そういう心配をしていたわけではないとの否定が、小山内の声でかき消える。
「真木さんのも美味しいですよ。僕、地元がもっと西なんで、こっちの味も知れて嬉しいです」
「そういや、小山内くん、広島だっけ。あんまり方言でないよね」
「敬語だと出ないですね。でも発音がちょっと訛ってませんか」
「ちょっとはね。でも、かわいいよ。なんだっけ。広島弁って、女の子が使ったらかわいい方言なんだっけ」
「そういえばそんなランキングありましたね。よく知ってますね」
「恵麻が言ってた」
「なるほどー。恵麻ちゃんか」
「日和?」
口を挟まない日和を不審に思ったのか、呼びかけられた。きょとんと見上げてくる凛音の瞳に我に返る。
「……え? いや、はい」
「採用試験の準備で疲れてるんだったら、休んでもいいよ。大丈夫か」
「大丈夫、です」
「じゃ、掃除終わったら、勉強よろしく。凛音もな」
ぴよちゃん、と袖を引かれて、日和は腰を屈めた。やばい。俺、今、絶対、無だった。
「なに? 凛音ちゃん」
「んー、やっぱり、なんでもない。あたし、お勉強部屋の机を拭いてくるね。ついでに、そのままお勉強の準備する」
「あ……うん。ありがとう。じゃ、俺が向こうの和室をやるね。恵麻ちゃんたちにも声かけておくから」
掃除をしたら、心もきれいになるとか言ったのは、誰だ。俺か。まったくすっきりなんてしないじゃないか。自分自身に辟易しながら机を磨く。
――この場所に、私的な感情を持ち込むようじゃ末期だ。
重々にわかっていたつもりだった。自己嫌悪を呑み込んで気持ちを整える。それができなければ、来るなと言われてもなにも言えなくなってしまう。
一日中、今日は雨が降っていた。しとしとと降り続けた雨は、夕闇に染まるころになっても変わらないままだ。
つぼみの軒先で凛音がピンク色の傘を広げる。雪人と恵麻はスクーリング授業を受けに先に帰ってしまったので、五時からの学習会に参加したのは凛音だけだったのだ。その凛音も、四月に中学三年生になったからと夜の学習会に参加を決めたばかりだ。
「じゃあねー、まきちゃん。お疲れ様」
「また明日。雨だから気を付けて帰れよ」
「駅までぴよちゃんが送ってくれるから大丈夫」
玄関まで見送りに来てくれた真木に頭を下げて、凛音に続く。今日は日和も歩きだ。
まだ一人で帰るのは少し怖い、という凛音に合わせて、彼女が一人になるときは誰かしらが駅まで付きそうようにしている。
――まぁ、どうせ、俺の帰り道と一緒だし。
女の子一人で暗いところのある道を帰らせるのも心配だし。そんなわけで、今週も日和はつぼみに居残ることなく、夜の学習会を終えた生徒と帰りを共にしていた。
つぼみのことや兄のことを話す凛音の声と、傘に当たる雨音とを聞きながら、最近はずっとこうだなと考える。
夜に、二人で、あのスタッフルームで仕事を手伝っている時間も好きだった。けれど、最近はめっきりと減ってしまっている。
去年に比べて、つぼみの雰囲気は少し変わった。生徒も多少なりとも入れ替わるし、スタッフも変わる。真木のオンとオフがはっきりとしているのは今に始まったことではないし、ボランティア活動中に特別に接してほしいなんて思ってはいない。ただ。
なんだか、俺の居場所がなくなっているようで、不満だ、なんて。死んでも言えないというか、言わないけれど。
このまま、あっさりと、あの人の中から俺が消えてしまいそうで、少し怖い。傘を打つ雨の音は、ずっと止まなかった。
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