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好きになれない3
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大学進学で上京した土地に比べれば田舎である。ということをさておいても、教育実習先の中学校からの帰り道はいつも暗い。
自転車を自宅のガレージに止めて、身体を伸ばす。かわいい、かわいくない。楽しい、楽しくない。緊張する、しない。以前に体力的な限界が見えている。まだ一週間しか経っていないなんて信じられない。
――実習日誌書いて、指導案も書いて、……模擬授業も始まるから、そっちも確認して。日付変わる前に終わるのかな、全部。
自分の要領が悪いからこうなっているわけではないらしいことは、姉からの生ぬるい笑みで実証済みだ。溜息を呑み込んで、日和は実家のドアを開けた。
「おかえり。お疲れ様」
「ただいま。……って、あれ。今日、母さんいないんだっけ」
台所から聞こえてきた姉の声に、日和は朝の記憶をひっくり返した。夜は用事があると言っていたような、そうでないような。
「今日は友達とごはんに行くって言ってたじゃない。私も少し前に帰ってきたところなのよ。ついでに温めておいてあげるから、先にお風呂に入ってきたら?」
「そうする」
ありがとうと告げて、風呂場に向かう。「大変そうね」との含み笑いが飛んできて、日和は苦笑いで頷いた。
つぼみにはじめて行ったときも死ぬかと思ったけれど、ちょっと正直、桁が違う。あの一年の経験がなければ、もっと右往左往だったのだろうなぁとも感じているけれど。あそこで培った日々が今の力になっているのだとしたら、少し嬉しい。
「今日で一週間でしょう。ちょっとは慣れた?」
目の前に山と盛られたカレーライスが鎮座している。手を付ける前に量を減らそうかなぁと悩んでいると、弟と変わらない分量の皿とビールを手に姉が正面の席にやってきた。このくらいぺろりと平らげる元気がなければやっていけないのだろうか、もしかすると。
「日和さんのところの末っ子かって言われるのが地味に堪える」
「あはは」
教師一家の宿命かも知れないけれど。ぼやいた日和を、姉が明るく笑い飛ばした。
「仕方ないわよ、私もそうだったもの」
「おまけに、俺が中三のときの担任だった先生がまだいて」
「あ! 宮原先生でしょ、懐かしい」
「あの智咲くんがこんなに立派になってって、おばあちゃん面されるのが、正直しんどい」
頼りなかったのに、随分しっかりしたわねぇ、なんて言われても、笑うしかない。十年近く前の話なのだ。多少はマシになっていてしかるべきだろう。
溜息ごとカレーを呑み込む。
――あ、なんか、真木さんのカレー食べたくなってきた。
恵麻いわくの、有りものを適当に放り込むから味が安定しないけれど、ほかの料理よりは格段にマシ、とのあれだ。
「実際、この一年で、ぐっとしっかりしたもの。お正月に帰って来たときは元の木阿弥って思ったけど。持ち直したみたいで安心した」
「んー、うん」
曖昧に相槌を打ってスプーンを進める。懐かしい味ではあるのだが物足りない。
――俺、一週間でホームシックになってんの、もしかして。そもそもで言えば、ここがホームだったはずだけど。
思えば鍵を貰ってからの日和は、週の半分はあの家に入り浸っている。おまけに、仕事ではあるが火曜日は丸一日一緒ときた。
そう考えると、俺って、ヤバいくらい真木さんに依存してないか。沸き起こった疑念にそっと蓋をする。考えるのは、実習が終わってからにしよう。
「ところで。やっぱり彼女いるんでしょ、あんた」
「……なんで」
「疲れてるはずのあんたが、いそいそと真夜中に電話してるんだもの。彼女だと思うでしょ」
明解に告げられて、日和は言葉に詰まった。
「なんで知ってんだよ」
「だって、壁越しに聞こえるもの。さすがに、なにを言っているかまではわからないけど。あの部屋の壁が薄いの知らなかったの?」
「聞くなよ」
「聞きたくもないわよ、弟の甘い声なんて。似合わなくて笑っちゃうから」
そんな声は出していないと思うのだけれど。姉に口で勝てるはずもないので、黙って目の前のごはんに集中する。
「それにしても、あんたがねぇ」
完璧に酒のつまみだ。缶ビールを揺らしながら姉が笑う。
「彼女ができても相手もせずにほったらかしで。あっというまに振られるのがお決まりだったのに。二十一になって、ようやく大人になったのかしら」
「うるさい」
「それとも、面倒臭がりのあんたがマメになるくらい、本気になれる人と出会えたの?」
本気。格好悪い必死さが本気ゆえだと言われたらば、そうなのだろう。どうしてあれだけ必死に縋りつけたのか、自分でもわからないけれど。
ただ本当に必死だったのだ。離したくないと思った。あの人も応えてくれた。それだけだ。
「お母さんにくらい教えてあげなさいよ。夏にも言ったけど、あの人、気にしてるんだから」
本気になった相手が男だと言えば、この笑顔は凍り付くのだろう。それともぎこちなくでも笑顔を維持して、受け入れるよう努めてくれるのだろうか。
どちらも想像がしづらくて、日和は曖昧に笑った。
自転車を自宅のガレージに止めて、身体を伸ばす。かわいい、かわいくない。楽しい、楽しくない。緊張する、しない。以前に体力的な限界が見えている。まだ一週間しか経っていないなんて信じられない。
――実習日誌書いて、指導案も書いて、……模擬授業も始まるから、そっちも確認して。日付変わる前に終わるのかな、全部。
自分の要領が悪いからこうなっているわけではないらしいことは、姉からの生ぬるい笑みで実証済みだ。溜息を呑み込んで、日和は実家のドアを開けた。
「おかえり。お疲れ様」
「ただいま。……って、あれ。今日、母さんいないんだっけ」
台所から聞こえてきた姉の声に、日和は朝の記憶をひっくり返した。夜は用事があると言っていたような、そうでないような。
「今日は友達とごはんに行くって言ってたじゃない。私も少し前に帰ってきたところなのよ。ついでに温めておいてあげるから、先にお風呂に入ってきたら?」
「そうする」
ありがとうと告げて、風呂場に向かう。「大変そうね」との含み笑いが飛んできて、日和は苦笑いで頷いた。
つぼみにはじめて行ったときも死ぬかと思ったけれど、ちょっと正直、桁が違う。あの一年の経験がなければ、もっと右往左往だったのだろうなぁとも感じているけれど。あそこで培った日々が今の力になっているのだとしたら、少し嬉しい。
「今日で一週間でしょう。ちょっとは慣れた?」
目の前に山と盛られたカレーライスが鎮座している。手を付ける前に量を減らそうかなぁと悩んでいると、弟と変わらない分量の皿とビールを手に姉が正面の席にやってきた。このくらいぺろりと平らげる元気がなければやっていけないのだろうか、もしかすると。
「日和さんのところの末っ子かって言われるのが地味に堪える」
「あはは」
教師一家の宿命かも知れないけれど。ぼやいた日和を、姉が明るく笑い飛ばした。
「仕方ないわよ、私もそうだったもの」
「おまけに、俺が中三のときの担任だった先生がまだいて」
「あ! 宮原先生でしょ、懐かしい」
「あの智咲くんがこんなに立派になってって、おばあちゃん面されるのが、正直しんどい」
頼りなかったのに、随分しっかりしたわねぇ、なんて言われても、笑うしかない。十年近く前の話なのだ。多少はマシになっていてしかるべきだろう。
溜息ごとカレーを呑み込む。
――あ、なんか、真木さんのカレー食べたくなってきた。
恵麻いわくの、有りものを適当に放り込むから味が安定しないけれど、ほかの料理よりは格段にマシ、とのあれだ。
「実際、この一年で、ぐっとしっかりしたもの。お正月に帰って来たときは元の木阿弥って思ったけど。持ち直したみたいで安心した」
「んー、うん」
曖昧に相槌を打ってスプーンを進める。懐かしい味ではあるのだが物足りない。
――俺、一週間でホームシックになってんの、もしかして。そもそもで言えば、ここがホームだったはずだけど。
思えば鍵を貰ってからの日和は、週の半分はあの家に入り浸っている。おまけに、仕事ではあるが火曜日は丸一日一緒ときた。
そう考えると、俺って、ヤバいくらい真木さんに依存してないか。沸き起こった疑念にそっと蓋をする。考えるのは、実習が終わってからにしよう。
「ところで。やっぱり彼女いるんでしょ、あんた」
「……なんで」
「疲れてるはずのあんたが、いそいそと真夜中に電話してるんだもの。彼女だと思うでしょ」
明解に告げられて、日和は言葉に詰まった。
「なんで知ってんだよ」
「だって、壁越しに聞こえるもの。さすがに、なにを言っているかまではわからないけど。あの部屋の壁が薄いの知らなかったの?」
「聞くなよ」
「聞きたくもないわよ、弟の甘い声なんて。似合わなくて笑っちゃうから」
そんな声は出していないと思うのだけれど。姉に口で勝てるはずもないので、黙って目の前のごはんに集中する。
「それにしても、あんたがねぇ」
完璧に酒のつまみだ。缶ビールを揺らしながら姉が笑う。
「彼女ができても相手もせずにほったらかしで。あっというまに振られるのがお決まりだったのに。二十一になって、ようやく大人になったのかしら」
「うるさい」
「それとも、面倒臭がりのあんたがマメになるくらい、本気になれる人と出会えたの?」
本気。格好悪い必死さが本気ゆえだと言われたらば、そうなのだろう。どうしてあれだけ必死に縋りつけたのか、自分でもわからないけれど。
ただ本当に必死だったのだ。離したくないと思った。あの人も応えてくれた。それだけだ。
「お母さんにくらい教えてあげなさいよ。夏にも言ったけど、あの人、気にしてるんだから」
本気になった相手が男だと言えば、この笑顔は凍り付くのだろう。それともぎこちなくでも笑顔を維持して、受け入れるよう努めてくれるのだろうか。
どちらも想像がしづらくて、日和は曖昧に笑った。
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