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好きになれない3
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しおりを挟む「どこまで話したっけ。そうだ、それで、夏の大会が終わって、秋くらいかな。そいつに告白されて」
「え」
ローテーブルを挟む形で座って再開した途端だ。投下された爆弾に、日和は驚きの声を上げてしまった。
「いや。そいつは俺のこと、兄貴分としか思ってなかったと思うよ。俺からしても弟みたいなものだったし。本当の弟は、年も少し離れていて、外で遊んだりするのも嫌いだったから。俺の遊び相手にはならなくて。そういう意味では弟より相性が良かったのかも。――あれ。もしかして、おまえ、悠生と同い年なのか」
気が付かなきゃよかった、と、本筋の話よりもよほど嫌そうに真木が呟いた。
「悠生って、弟さんですか」
「そう。どこ行ったんだっけな。県外の公立大に進んだって兄貴が言ってたけど、忘れたな。まぁ、いいか」
「連絡を取ったりとか」
「しない、しない。もっぱら、俺に家のことを伝えてくるのは兄貴だな。というか、俺に連絡寄こすのが兄貴くらい」
姉の顔が自然と思い浮かぶ。年は離れているし、特別に仲が良いということもないが、それでも姉の今を知らないという事態に陥ることはないと思う。
それが当たり前だと思っていた。
「話を戻すけど。そいつの後ろに、三年や二年の一部がいるんだろうなって、すぐに分かった。様子も変だったし。言わされたんだろうなって」
「……立派ないじめじゃないですか」
「そうかもな。でも、俺がそのときに思ったのは、一つだけだったんだよな」
硬くなった日和の声とは正反対に、真木の声は変わらなかった。
「俺がここで断ったら、また、こいつが一人、面白おかしく責められるんじゃないかって」
「……」
「まぁ、俺はべつに、なにを言われても大丈夫だし、って」
何年も前の介入することの不可能な過去の話だ。わかっていても、日和は身体の芯が冷えていくようだった。
――女が好きな男の『好き』なんて、信じられるか。
そう吐き捨てられたのも、この部屋だった。
「そいつも、嫌いじゃなかったし」
淡々と真木は言った。そして思い出したように付け加える。
「でも、最後の最後。知ってたって言ったら、泣かれてさ。あれはちょっと堪えたかな」
「え……?」
「根が真面目な奴だったからさ。良心の呵責に耐えかねたんだろうね。もうやりたくないって言ったみたいで。それで、俺にも真面目な顔で違うんです、って言うから。――それが年明けくらいのころだったかな」
夏の終わりから、年明けまで。どんな気持ちだったんだろう。想像しようと思って、できなかった。
「馬鹿だよね。三年が卒業するまでの間、適当に相手してやったらよかったのに。俺が一番上になったら、また多少は変わっていたかもしれないんだし」
ふっと真木が笑った。目の前の自分ではない、どこか遠くを見ているような、それで。
「本当、馬鹿」
「……真木さん」
「誰もそんなことで傷つきゃしないのに、なんで泣くかなって」
そんなことはないでしょう。言葉が喉の奥で消えた。そんなこと、あるわけがない。傷つかない人間なんていない。いるとすれば、その傷跡にすら気が付こうとしていないだけだ。目を逸らしているだけだ。
「だから、代わりに、始末を付けただけ」
「代わりにって、」
「実際、俺はそうだったし。そいつみたいに、自分を殺して必死に縋りついてやりたいほど、やりたかったわけじゃないし」
自分は本当にゲイだから。だから、なにを言われてもいいというのか。真木に向けるべきでない苛立ちが増幅しそうで、日和は手のひらを握りしめた。
「それだけなのに、馬鹿だなって」
「なにをしたんですか?」
熱源を押し出すように問いかける。
「若気の至りということで、詳細は省くけど。ちょっとね。想像もしたくない修羅場ができあがっちゃって。なんであんなことになったかなぁと思わなくもないけど、まぁ、タイミングが悉く悪かったんだろうね」
なにをしたと言うよりは、偶発的になにかが起こったというだけだったのかもしれない。
彼の同級生は、恨まれていると思っていたようだけれど。真木の中では、誰の所為でもない出来事だったのだという気がした。
「そいつは泣くし、和は切れるし。切れたついでに部室のドア壊しやがったから、その音にビビったやつが教師まで呼んでくるし。それで大ごとになっちゃって」
なんでもないと言い聞かせるように、軽い調子で真木が笑う。
「どうする気だって教師に言われたから。じゃ、俺がバスケ部辞めます。ぜんぶ俺の所為です、って。それで終わるなら儲けものだって思ったし、一番丸く収まるかなって」
なんだか日和は虚しくなった。なんでなんだろう。なんで、そういうふうにしか考えないのだろう。
この人の言う「丸く」は、致命的に本人が円の中に入っていない。平均以上に恵まれているはずなのに、自分を軽んじて過分を求めない。
「本当にそれだけのことだったはずなのに、無駄に校内で目立っちゃってね。とは言え、それも我慢できないようなことじゃなかったんだけど」
不意に言葉が途切れたと思った瞬間。真木の瞳が困った風に瞬いた。
「だから、なんで、おまえがそういう顔するの」
その瞳に自分がどう映っているのか、日和には分からなかった。悔しい。悲しい。なんで、と思う焦燥。こんな感情は、この人と深く関わり合うまで知らなかった。
――自分のことでもない、それも人の過去の話で。
わかっていても、燻られる。
「昔の話だよ、ぜんぶ」
日和を宥めようとする、優しい声だった。終わりだと告げる声。
「俺が田舎に帰らないって言ったのも、それとはべつで、親と折り合いが悪いから、無理してまで帰ろうと思わないっていうだけで。これとはなにも関係ないよ」
「なんで」
「なんでって、俺が、『こう』だから。認めたくなかったんだろ。自分の息子が、普通のレールから外れていくところを」
ようやく絞り出した声はひどく硬い。真木は頑なな子どもに言い聞かせるように続ける。そんなふうに話せるようになるまでに、どれだけの時間がかかったのか、葛藤があったのか。日和はなにも知らない。
「それもわからなくもないしさ。お母さんの育て方が悪かったのかしらなんて。昭和のテレビドラマみたいなこと言われても、なんかごめんとしか言いようがないし。でも、生まれ持ったものだし、変えようもないし。兄貴も弟も普通だし。だったら、俺が一人で好き勝手していても問題ないだろって。それだけ」
だから大丈夫だと。彼は簡単に笑ってみせる。
「俺はそれで楽しくやってるし。繰り返しになるけど、それだけ」
「それだけって」
「だから前にも言っただろ。俺は楽なほうに逃げてるだけだって」
話の終わりを悟って、日和は言い募る言葉を呑んだ。どれだけ自分が言葉にしても、きっと響かない。
――でも、いい。
真木さんが、真木さんを大事にしないなら。その分、俺が大事にしたらいい。
子どものような決意だった。それくらいしかできないけれど、それくらいならできる。沈黙の中で、日和は握りしめていた指先から力を抜いた。そして、ふと問いかける。半分は、興味だった。
「どんな人、だったんですか」
「そうだな。ちょっと、おまえに似てたかな。もちろん、そんなに美形じゃなかったけど。割と整った顔してて、女の子たちからも人気があって。そんなナリのくせに、気が小さくて。でも、真面目で、馬鹿だったな。まぁ、でも」
真木が窓へと視線を向けた。藍色のカーテンが重くのしかかっている。
「かわいかったよ」
その声に日和は息を呑んだ。また指先にぎこちなく力が入る。日和に視線を戻しもしないまま、真木が立ち上がった。
「ごめん。ちょっと、煙草」
「中で吸ったらいいのに」
喉を吐いた声は、思っていたよりもいつも通りだった。自分でも意外で、けれどほっとした。
「やだよ。引っ越すときに金かかる」
「そんなに吸わないでしょ」
「たまに吸うよ。日和も吸うんだってね、そういや」
「似合いませんか」
「どうだろ。べつに、でも、いいんじゃない。似合っても、似合わなくても」
言葉遊びのような会話を終わらせて、真木がカーテンを引いた。外は、もう夜の最中だった。
入り込んできた外気の冷たさから逃れるように、日和は俯いた。煙草の匂い。あの朝、嗅いだものと同じ。
いつか。ふと思った。いつか、こんなふうに、淡々と自分のことを彼が語る日がくるのかもしれない。あの夜と同じ声で。かわいかったよ、と。でも、それだけだったけどね、と。
――寒い。
寒い、と思った。寒い。寒い。怖い。
だから、それは、ほぼ無意識な衝動だった。気が付いたときには、その背を抱き込んでいた。肩に顔を埋める。煙草と、夜の匂い。夜に攫われてしまいそうな儚さなんて、皆無だ。消えるとしたら、この人は、自分の意志でいなくなる。跡形もなく痕跡を消し去って。
吸いさしを日和から離すように空に向けて、真木がちらりと振り返った。
「おまえ、好きだね。背中にくっつくの。コアラか」
呆れたような、けれど、拒絶のない声だった。
「コアラって、背中にひっつくんですか」
「知らないけど。見たことないし」
「……そうですか」
「違った。ひよこだったな、日和は」
ぴよちゃん、と。はじめて会った日。衒いのない笑顔で呼んだのは、雪人だった。もう、一年。また、春がやってくる。
「それも、刷り込みが一段と強力な」
喉の奥で真木が笑った。だいぶ短くなった吸いさしからは細い紫煙がゆるゆると立ち上っている。
たまらくなって、囁く。押し殺した声で。そうやって殺さなければ、寂しさが溢れ出してしまいそうだった。
「好きです」
「そう」
「好きです」
「うん」
「好きなんです」
「……知ってるよ」
溜息交じりの声が、折れて受け止める。もっと深い確証が欲しくて、その頬に触れる。振り向かせれば、間近でその瞳が瞬いた。諫めるような調子で、ふっと笑む。指先が伸びて来て、日和の唇に触れる。そして。
「今日は、駄目」と言った。
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