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好きになれない3
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小さなロビーは誰もおらず、がらんとしている。受付の前を抜けて靴を履き替えると、日和はそのまま外へ出た。冷たい空気に首を竦める。
こんな寒いところで、わざわざ話さないといけないようなことってあるのかよ。そんなことを思う。わざわざ、二人じゃなきゃ話せないようなことってなんだよ。
嫉妬、というよりは、やるせなさに近かった。
羽山がなにも言わなければ、すべてが知らないうちに完結させられていたのだろうな、とわかるから。自分には、あの人はなにも言わないのだろうという確信。
そして、それを責めることができないと思う、自分の弱さ。
溜息を吐いて、建物の裏側へと足を進める。声が聞こえたのは、角を曲がろうとしたそのときだった。反射的に踏み出しかけた足が止まる。
「おまえ、こんなところで『先生』してたんだな」
旧友との再会を懐かしんでというには棘のある声だった。思わず、むっと眉間に皺が寄る。
知らないが、想像は付く。知り合いと言いたくないような知り合い。帰りたくもないというところ。
――つまり、そういうこと、なんだろうけど。
「うちの生徒からおまえの名前を聞いて驚いたよ。知ってるか? 地元じゃ、おまえ、死んだみたいに思われてるぞ」
「さすがに死んだら噂になるだろ。あんな場所だ」
いつもと変わらない淡々とした調子で真木が言う。日和からは背中しか見えなかったけれど、その顔もきっといつもどおりなのだろうなと思った。そういう人だ。
たしかにな、と相手が笑う。
「なんでもすぐに広まる町だからな」
「それで? 死んだと思ってたような相手に、なんの用だ?」
「なぁ、おまえさ。その『死んだ』って、俺らに殺されたとでも思ってんの?」
死んだという言葉に、背筋がひやりとした。死ぬとか、殺されたとか。言葉のあやでも聞きたくなかった。誰でもそうだと思う。
「なにをいまさら」
それなのに、その声も、身に纏う空気も、なにも変わらない。
「おまえ、本当になにしに来たんだ? 弁解しに来たわけはないよな。俺に昔の悪行を吹聴するなとでも釘を刺しに来たのか。まぁ、そんなことできるわけも……」
「やっぱり、そうか」
小馬鹿にしたように、男の声のトーンが跳ね上がる。
「俺のことを陥れるつもりだったんだろう」
「……冗談のつもりだったんだけど」
溜息交じりの声は、困惑を隠していない。
「俺がおまえを陥れるって、なに。意味がわからないんだけど」
出ていったほうがいいのだろうか。迷ったが、諦める。俺が首を突っ込んだほうが邪魔だって、絶対に言われる。
「俺が県立高校にいるって知って、仕返しするにはちょうどいいと思ったんじゃないのか?」
「俺、そんなに陰湿なこと、した記憶ないんだけどな」
されたことはあっても、と注釈の付きそうなそれだ。
――高校の部活で揉めたっていうのは、たぶん本当の話なんだろうけど。あの人、言い訳の一つもしないで辞めたらしいよ、部活。
「そもそも、どう仕返ししろって言うんだよ。おまえの学校に匿名で苦情でも入れろってか」
「おまえの親父、県教委にいるだろうが。白々しい」
面倒臭そうな人だなと、日和は心の底から真木に同情した。なにを言っても自分が思ったようにしか受け入れないタイプだ。たまにいるよなぁ、こういう人。
「言いたいことは、だいたいわかった」
聞き分けのない子どもを宥める調子に、似たようなことを考えているらしいとほっとする。できることならば、早々に切り上げて欲しいとも思うけれど。
「安心しろ。そんなことをする気は一切ないから」
「どうだかな。おまえは昔からそうだ。どうでもいいって顔で、一番美味しいところを攫ってく」
「何年前の話だよ、それも」
さすがにうんざりしたのか、声に嫌そうな感情が乗る。
「あのな。俺は、こうして、おまえが来なかったら、おまえのことなんて思い出さなかったよ。でも、それも、なかったことにして、忘れたままでいてやるから、もう帰れ」
「もう、帰れ?」
偉そうにと言わんばかりだ。喧嘩って、こうやって起こるんだなぁと、天を仰ぎたくなった。あと十秒。十秒待って、状況に変化がなければ、あとで真木になにを言われてもいいから、首を突っ込もう。決めた矢先に、男が地雷を踏み抜いた。
「おまえこそいいのかよ、そんな態度で。おまえのところの面倒な生徒、今は俺が受け持ってるんだけど。来年もまた新しいのが来るんだろ?」
これは駄目だ。真木が感情的に怒ったところなんて、見たこともないけれど。
「真木さん」
用事があって呼びに来た体を装って声をかける。
「あの、羽山さんが……」
「羽山?」
名前の選択を間違えたかもしれない。真木よりも先に違う声に反応を示されて悟る。
「羽山って、あいつか。この年でまだつるんでんのかよ、気持ち悪い」
「気持ち悪いって」
言い様に声が尖ってしまった。気色ばみかけた日和を、ちらりと振り返って制する。その視線は、面倒事が増えるから余計なことを言うなと告げていて。日和は不承不承で呑み込んだ。
真木の対応が正しい。わかってはいるのだ。その場その場の感情で、行動を起こしたりはしない。日和とは違う。
「また、年下を飼い慣らしてんだな」
鼻先で笑って、男が日和を見た。この人に、学人は懐いているのか。来てくれたと嬉しそうにしていたのか。それを生徒に対する裏切りだと思ってしまうのは、おかしいのだろうか。
「きみ、こいつのところで働いてるの? だったら、気を付けたほうがいいよ。こいつ、節操のない男好きのゲイだから。高校のときも――」
なにを言っているのか後半は、ほとんど耳に入らなかった。真木の言う通り、面倒なことになるだけだとわかっていた。感情で行動を決めるのも、自分だけだと思い知っていた。
それでも、頭に血が上った。だからこれも勝手な自分の感情だとわかってもいたのだけれど。一歩を踏み出しかけた瞬間。行く手にすっと腕が伸びてきた。
「日和、いい」
静かな声だった。いつもどおり。負の感情すべてを呑み込んでならしたような。その声に、溢れかけていた熱が引いていく。
本当は、この人のほうが、ずっと怒りたいはずなのに。そう思った瞬間、怒りよりも悲しみが強くなってしまった。
ふっと隣で真木が笑った。
「お望み通り、うちのパパに泣きついてやろうか? なんだかんだ言っても、俺は三人兄弟の末っ子でね。男好きのゲイでもかわいがられてるんだ」
威嚇しているわけでもない淡々とした声。けれど、取り巻く空気は大きく変わっていた。相手が小さく息を呑む。
「県立城西高校には、このご時世になってもLGBTに理解がないどころか、偏見を助長させるような暴言を吐く教師がいるが、教育的な影響としてどうなのか、ってな。LGBTの子どもを進学させることにも不安が募る。その教師の名前は――」
結果として、よどみない声を男が最後まで聞くことはなかった。
よくわからない弁明を残して逃げるように去った姿は、腹立たしいを通り越して、滑稽だ。
――なんだったんだ、あれ。
怒りも引き留めもせず見送った真木に、日和は視線を向けた。その視線に応じたのは軽口だった。
「おまえって、案外、こういうときに頭に血が上るタイプなんだね」
「……俺も知らなかったです」
というか、あんたじゃなかったら、こんなところまで見に来ないし、揉めてるところに口を挟もうとも思わねぇよ。そんな面倒なこと、誰もしない。
「べつにいいけど。女の子と一緒にいるときは気を付けろよ。そもそもとして、私の為に戦ってみたいなこと言うやつは選ぶなよ。私の為に頭を下げてくれてありがとうって言える子を探せ」
「なんの話なんですか、それ」
逃しようのない感情を持て余したまま、吐き捨てる。それなのに、当事者であるはずの真木は平然としていて。
「小心者なんだよ、あいつ。昔から。だから、気にしなくていい」
「はぁ」
「たぶん、学人から俺の名前を聞いて、それで、俺も自分のことを知っているのかもしれない。恨んでいるのかもしれない。なにかしてくるのかもしれない、とか」
「……はぁ」
「そんなことばかりぐるぐる考えて、疲れて、ぷつんと来て、よくわからなくなったんだろ」
相手を哀れむ色さえ滲むそれに、日和はなにをどう聞けばいいのかわからなくなってしまった。
もっと、怒ってもいいはずなのに。自分はなにを言われても構わないと思っているみたいで、日和はそれが嫌なのに。
「日和?」
訝しむ声に、日和はぎこちなく笑った。けれど、言うべき言葉は出てこなくて、どうでもいいようなことを口にして誤魔化した。
「真木さんって末っ子だったんですね」
「いや、真ん中。上もしっかりしてるし、下もそれなりの大学に入ったらしいし。おかげで、俺は体よく放置してもらってるけど」
「お父さん、教育委員会の関係なんですか」
「いや。県庁に勤めてるのは事実だけど。今、どこの課にいるのかなんて、俺が知るか。もう五年は会ってない。けど、まぁ、あいつが言うんだから、今はそうなんだろ」
堅い、まぁ、たしかに堅い仕事だなと日和は思った。水原が言っていた通りの。いや、けれど、それよりも。
「全部、はったり……」
「嘘も方便」
にっと真木が口元だけで笑う。力みもなにもないそれに、日和もなんだか力が抜けた。俺が心配することなんて、なに一つないんだ。
「俺、真木さんのそういうところ、好きです」
「あ、そう。ありがとう」
「でも、べつに弱腰でも好きですよ」
「うん」
「負けてもいいし、なんなら、泣いてもいいんですよ」
「泣くのはいつもおまえだろ」
「そういうことじゃなくて。というか、はぐらかさないでくださいよ」
調子に乗ったふうに見せかけて、その実、精一杯の「頼ってください」だったのに。無碍に切り捨てられて、日和は唇を尖らせた。たかが、四つさ。されど、四つさ。
その日和の頭に、真木がぽんと手を置いた。仕方ないなというふうに。
「じゃあ、まぁ、おまえが大人になったらな。俺に振られても泣かないくらい」
「え……」
「ほら、すぐにそういう顔する」
固まった日和の頭をわしゃわしゃとかき混ぜて、気が済んだ手が離れて行く。
「まだまだだな」
逆光で、顔がはっきりと見えなかった。
「だから」
諦めたような、愛しさを詰めたような声だけが頭の中で反響する。
「子どもでいろよ、もうしばらく」
それが、どういう意味なのかわからなかった。戸惑ったままの日和に、真木が続ける。
「なにも考えずに愛されるのは、子どもの特権だろ」
それは、本当に、どういう意味だったのか。日和が深く考え出すより先に、真木が背を向けた。中から漏れ聞こえた笑い声が耳を突く。恵麻と、――もう一人は、凛音だろうか。
振り返ることなく体育館へと戻って行く後姿を見つめて、日和はふるふると首を振った。固まっていた足が、ぎこちなく砂利を踏む。
空は青く、落ちてくる日差しは、どこか春の面影を見せている。けれど、頬を弄る風は冷たく、寒い。
――寒い。
こんな寒いところで、わざわざ話さないといけないようなことってあるのかよ。そんなことを思う。わざわざ、二人じゃなきゃ話せないようなことってなんだよ。
嫉妬、というよりは、やるせなさに近かった。
羽山がなにも言わなければ、すべてが知らないうちに完結させられていたのだろうな、とわかるから。自分には、あの人はなにも言わないのだろうという確信。
そして、それを責めることができないと思う、自分の弱さ。
溜息を吐いて、建物の裏側へと足を進める。声が聞こえたのは、角を曲がろうとしたそのときだった。反射的に踏み出しかけた足が止まる。
「おまえ、こんなところで『先生』してたんだな」
旧友との再会を懐かしんでというには棘のある声だった。思わず、むっと眉間に皺が寄る。
知らないが、想像は付く。知り合いと言いたくないような知り合い。帰りたくもないというところ。
――つまり、そういうこと、なんだろうけど。
「うちの生徒からおまえの名前を聞いて驚いたよ。知ってるか? 地元じゃ、おまえ、死んだみたいに思われてるぞ」
「さすがに死んだら噂になるだろ。あんな場所だ」
いつもと変わらない淡々とした調子で真木が言う。日和からは背中しか見えなかったけれど、その顔もきっといつもどおりなのだろうなと思った。そういう人だ。
たしかにな、と相手が笑う。
「なんでもすぐに広まる町だからな」
「それで? 死んだと思ってたような相手に、なんの用だ?」
「なぁ、おまえさ。その『死んだ』って、俺らに殺されたとでも思ってんの?」
死んだという言葉に、背筋がひやりとした。死ぬとか、殺されたとか。言葉のあやでも聞きたくなかった。誰でもそうだと思う。
「なにをいまさら」
それなのに、その声も、身に纏う空気も、なにも変わらない。
「おまえ、本当になにしに来たんだ? 弁解しに来たわけはないよな。俺に昔の悪行を吹聴するなとでも釘を刺しに来たのか。まぁ、そんなことできるわけも……」
「やっぱり、そうか」
小馬鹿にしたように、男の声のトーンが跳ね上がる。
「俺のことを陥れるつもりだったんだろう」
「……冗談のつもりだったんだけど」
溜息交じりの声は、困惑を隠していない。
「俺がおまえを陥れるって、なに。意味がわからないんだけど」
出ていったほうがいいのだろうか。迷ったが、諦める。俺が首を突っ込んだほうが邪魔だって、絶対に言われる。
「俺が県立高校にいるって知って、仕返しするにはちょうどいいと思ったんじゃないのか?」
「俺、そんなに陰湿なこと、した記憶ないんだけどな」
されたことはあっても、と注釈の付きそうなそれだ。
――高校の部活で揉めたっていうのは、たぶん本当の話なんだろうけど。あの人、言い訳の一つもしないで辞めたらしいよ、部活。
「そもそも、どう仕返ししろって言うんだよ。おまえの学校に匿名で苦情でも入れろってか」
「おまえの親父、県教委にいるだろうが。白々しい」
面倒臭そうな人だなと、日和は心の底から真木に同情した。なにを言っても自分が思ったようにしか受け入れないタイプだ。たまにいるよなぁ、こういう人。
「言いたいことは、だいたいわかった」
聞き分けのない子どもを宥める調子に、似たようなことを考えているらしいとほっとする。できることならば、早々に切り上げて欲しいとも思うけれど。
「安心しろ。そんなことをする気は一切ないから」
「どうだかな。おまえは昔からそうだ。どうでもいいって顔で、一番美味しいところを攫ってく」
「何年前の話だよ、それも」
さすがにうんざりしたのか、声に嫌そうな感情が乗る。
「あのな。俺は、こうして、おまえが来なかったら、おまえのことなんて思い出さなかったよ。でも、それも、なかったことにして、忘れたままでいてやるから、もう帰れ」
「もう、帰れ?」
偉そうにと言わんばかりだ。喧嘩って、こうやって起こるんだなぁと、天を仰ぎたくなった。あと十秒。十秒待って、状況に変化がなければ、あとで真木になにを言われてもいいから、首を突っ込もう。決めた矢先に、男が地雷を踏み抜いた。
「おまえこそいいのかよ、そんな態度で。おまえのところの面倒な生徒、今は俺が受け持ってるんだけど。来年もまた新しいのが来るんだろ?」
これは駄目だ。真木が感情的に怒ったところなんて、見たこともないけれど。
「真木さん」
用事があって呼びに来た体を装って声をかける。
「あの、羽山さんが……」
「羽山?」
名前の選択を間違えたかもしれない。真木よりも先に違う声に反応を示されて悟る。
「羽山って、あいつか。この年でまだつるんでんのかよ、気持ち悪い」
「気持ち悪いって」
言い様に声が尖ってしまった。気色ばみかけた日和を、ちらりと振り返って制する。その視線は、面倒事が増えるから余計なことを言うなと告げていて。日和は不承不承で呑み込んだ。
真木の対応が正しい。わかってはいるのだ。その場その場の感情で、行動を起こしたりはしない。日和とは違う。
「また、年下を飼い慣らしてんだな」
鼻先で笑って、男が日和を見た。この人に、学人は懐いているのか。来てくれたと嬉しそうにしていたのか。それを生徒に対する裏切りだと思ってしまうのは、おかしいのだろうか。
「きみ、こいつのところで働いてるの? だったら、気を付けたほうがいいよ。こいつ、節操のない男好きのゲイだから。高校のときも――」
なにを言っているのか後半は、ほとんど耳に入らなかった。真木の言う通り、面倒なことになるだけだとわかっていた。感情で行動を決めるのも、自分だけだと思い知っていた。
それでも、頭に血が上った。だからこれも勝手な自分の感情だとわかってもいたのだけれど。一歩を踏み出しかけた瞬間。行く手にすっと腕が伸びてきた。
「日和、いい」
静かな声だった。いつもどおり。負の感情すべてを呑み込んでならしたような。その声に、溢れかけていた熱が引いていく。
本当は、この人のほうが、ずっと怒りたいはずなのに。そう思った瞬間、怒りよりも悲しみが強くなってしまった。
ふっと隣で真木が笑った。
「お望み通り、うちのパパに泣きついてやろうか? なんだかんだ言っても、俺は三人兄弟の末っ子でね。男好きのゲイでもかわいがられてるんだ」
威嚇しているわけでもない淡々とした声。けれど、取り巻く空気は大きく変わっていた。相手が小さく息を呑む。
「県立城西高校には、このご時世になってもLGBTに理解がないどころか、偏見を助長させるような暴言を吐く教師がいるが、教育的な影響としてどうなのか、ってな。LGBTの子どもを進学させることにも不安が募る。その教師の名前は――」
結果として、よどみない声を男が最後まで聞くことはなかった。
よくわからない弁明を残して逃げるように去った姿は、腹立たしいを通り越して、滑稽だ。
――なんだったんだ、あれ。
怒りも引き留めもせず見送った真木に、日和は視線を向けた。その視線に応じたのは軽口だった。
「おまえって、案外、こういうときに頭に血が上るタイプなんだね」
「……俺も知らなかったです」
というか、あんたじゃなかったら、こんなところまで見に来ないし、揉めてるところに口を挟もうとも思わねぇよ。そんな面倒なこと、誰もしない。
「べつにいいけど。女の子と一緒にいるときは気を付けろよ。そもそもとして、私の為に戦ってみたいなこと言うやつは選ぶなよ。私の為に頭を下げてくれてありがとうって言える子を探せ」
「なんの話なんですか、それ」
逃しようのない感情を持て余したまま、吐き捨てる。それなのに、当事者であるはずの真木は平然としていて。
「小心者なんだよ、あいつ。昔から。だから、気にしなくていい」
「はぁ」
「たぶん、学人から俺の名前を聞いて、それで、俺も自分のことを知っているのかもしれない。恨んでいるのかもしれない。なにかしてくるのかもしれない、とか」
「……はぁ」
「そんなことばかりぐるぐる考えて、疲れて、ぷつんと来て、よくわからなくなったんだろ」
相手を哀れむ色さえ滲むそれに、日和はなにをどう聞けばいいのかわからなくなってしまった。
もっと、怒ってもいいはずなのに。自分はなにを言われても構わないと思っているみたいで、日和はそれが嫌なのに。
「日和?」
訝しむ声に、日和はぎこちなく笑った。けれど、言うべき言葉は出てこなくて、どうでもいいようなことを口にして誤魔化した。
「真木さんって末っ子だったんですね」
「いや、真ん中。上もしっかりしてるし、下もそれなりの大学に入ったらしいし。おかげで、俺は体よく放置してもらってるけど」
「お父さん、教育委員会の関係なんですか」
「いや。県庁に勤めてるのは事実だけど。今、どこの課にいるのかなんて、俺が知るか。もう五年は会ってない。けど、まぁ、あいつが言うんだから、今はそうなんだろ」
堅い、まぁ、たしかに堅い仕事だなと日和は思った。水原が言っていた通りの。いや、けれど、それよりも。
「全部、はったり……」
「嘘も方便」
にっと真木が口元だけで笑う。力みもなにもないそれに、日和もなんだか力が抜けた。俺が心配することなんて、なに一つないんだ。
「俺、真木さんのそういうところ、好きです」
「あ、そう。ありがとう」
「でも、べつに弱腰でも好きですよ」
「うん」
「負けてもいいし、なんなら、泣いてもいいんですよ」
「泣くのはいつもおまえだろ」
「そういうことじゃなくて。というか、はぐらかさないでくださいよ」
調子に乗ったふうに見せかけて、その実、精一杯の「頼ってください」だったのに。無碍に切り捨てられて、日和は唇を尖らせた。たかが、四つさ。されど、四つさ。
その日和の頭に、真木がぽんと手を置いた。仕方ないなというふうに。
「じゃあ、まぁ、おまえが大人になったらな。俺に振られても泣かないくらい」
「え……」
「ほら、すぐにそういう顔する」
固まった日和の頭をわしゃわしゃとかき混ぜて、気が済んだ手が離れて行く。
「まだまだだな」
逆光で、顔がはっきりと見えなかった。
「だから」
諦めたような、愛しさを詰めたような声だけが頭の中で反響する。
「子どもでいろよ、もうしばらく」
それが、どういう意味なのかわからなかった。戸惑ったままの日和に、真木が続ける。
「なにも考えずに愛されるのは、子どもの特権だろ」
それは、本当に、どういう意味だったのか。日和が深く考え出すより先に、真木が背を向けた。中から漏れ聞こえた笑い声が耳を突く。恵麻と、――もう一人は、凛音だろうか。
振り返ることなく体育館へと戻って行く後姿を見つめて、日和はふるふると首を振った。固まっていた足が、ぎこちなく砂利を踏む。
空は青く、落ちてくる日差しは、どこか春の面影を見せている。けれど、頬を弄る風は冷たく、寒い。
――寒い。
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