好きになれない

木原あざみ

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好きになれない2

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「あ」

 最近の慣習通り、恵麻たちを送り届け、さて、自宅に帰ろうと思ったところで、日和は小さく声を上げて立ち止まった。

「やっべ、忘れた……」

 リュックの中身をひっくり返すまでもない。その忘れ物がどこにあるかも、明瞭に思い出すことができる。

 ――やってしまった。

 知らず日和は天を仰いだ。駅前だからだろうか、ネオンに照らされた空は少しばかり明るい。それでも小さな星を見つけることができた。現実逃避を決め込むように、一つ、二つ、と星を数える。それが十になったところで、日和は勢いよく頭を下げた。自転車のハンドルを握る指先に力を込めて、歩いてきた方向に足を向ける。
 スピードを上げる気にはなれなくて、自転車を押したまま自宅とは反対方向へ。吐き出した溜息は白い。

 ――こんな日は、とっとと家に帰って、寝たいのに。

 そのぼやきは、半分、自身に言い聞かせているようなものだった。
 もうすっかり暗い商店街のアーケードを通り、つぼみの前に自転車を横付けする。スタッフルームに面した窓からは、カーテンの隙間越しに光が漏れていた。
 まだ、いるんだ。半分ほっとして、日和は鍵のかかっていない戸を開けた。昼間でもないし不用心だと思うのだが、自分が言ったところで改善が見られるはずがない。なので、日和は「お疲れ様です」とだけ小声で告げて、中に入り込んだ。戸を閉めると、外気の冷たさが薄れる。静かに靴を脱いで、スタッフルームのドアを開けた。指先に変なふうに力が籠るのを自覚しながら覗いた先で、真木の顔が上がる。

「あれ、どうしたの」

 久しぶりに二人きりで聞く声に、胸が詰まる。思春期の子どものような感慨を誤魔化して、日和は小さく眉を下げた。

「凛音ちゃんに貰ったクッキー、忘れちゃって」

 机の脇に置いていたそれに手を伸ばして、リュックに入れる。相変わらず、やるべき仕事が多いのか。それとも、日和が手伝わなくなったからなのか。真木の机には茶封筒が積まれている。
 手伝いましょうか、との声を日和はぐっと呑み込んだ。二人きりにならないように策を巡らしていたのは、日和であり真木だ。

「あ、本当だ。よかった、取りに来てくれて」

 それでも、変わらない声が、寂しいのに嬉しい。すぐに帰つもりだったのに言葉を続けてしまっていた。

「朝イチで貰ったんで、リュックに入れておくと潰れちゃいそうで。机の上に置いてたんですけど。……って、それで持って帰るの忘れたら、意味がないですね」
「いや」

 苦笑するような調子で真木が首を傾げた。

「喜ぶと思うよ、凛音も。そうやって、ちゃんと大事にしてくれたら」
「だったらいいんですけど。俺、そういう気が利かなくて。俺もみんなに小さなお菓子くらい持ってきたらよかったのかなって」
「女の人は、土曜日のクリスマスパーティーのときに、小さなプレゼントを持って行ってたみたいだけど。まぁ、でもそれは、プレゼント交換をやるっていう名目だったらしいから。べつにいいんじゃないかな」

 クリスマスパーティーの単語に、日和は自分の表情がわずかに固まったのを自覚した。

「凛音は日和が笑って貰ってくれたら、それで十分嬉しいだろうし」
「あ、の」
「やっぱり、真面目だよな、日和は。なんていうか、いい子って感じで安心する」
「あの、真木さん」

 躊躇いがちに遮った日和に、真木は驚くふうでもなく「なに?」と続きを促した。あの日の告白は、本当にこの人の中でなかったことになっているのだろうなと思い知るのは、こういうときだ。

「その、クリスマスパーティーのことなんですけど」
「あぁ、塩見さん?」

 日和が思い切るより前に、その名前を真木がさらりと口にした。

「日和が気にするようなことじゃないよ。まぁ、あまり良いことでもないけど。言ってしまったものは仕方がないし、今後、気を付けてくれたら、それで」

 本当に。本当に、なんでもないことだと言うように、真木は封筒の一つを手に取って開ける。華奢でもなんでもない、自分を求めて触れてくることもない、男の指。

 ――なんで、俺は、この人がいいんだろう。触れられたいのも、触れたいのも、この人だと思うんだろう。

「聞かれたので、今日、凛音ちゃんたちには言ったんですけど」

 この人にとっては意味のないことだろうとわかっていながら、日和は弁明していた。

「違うんです。なんであの人がそんなことを言ったのかは知りませんけど、付き合ってなんて、ない」

 淡々と紙面を繰っていた指先の動きが止まって、顔が上がる。その瞳に、自分一人だけが映り込んでいるのは、あの夜以来かもしれなかった。
 あのときは、まだ暑くて。いや、違う。台風で、雨が酷くて、触れた腕も、冷たかった。

「知らないって、ことはないだろ」

 その瞳が、溜息を押し出すようにして、また逸れていく。

「おまえのことが好きなんじゃないの。かわいそうだろ」
「かわいそうって」
「あの子が凛音たちと会うことはもうないかもしれないけど、そう、女の子に恥をかかせなくても……」
「なんで」

 気が付いた時には声が出ていた。なんで。

「なんで、真木さんがそんなこと、言うんですか」

 かわいそう、ってなんだよ。俺があんたのことを好きだって言ったのは、三ヶ月前の話だ。この人にとっては「もう」なのかもしれない。でも、と日和は思う。俺にとったら、「まだ」だ。なにも変わってない。それなのに。

「俺が、好きでもなんでもないのに、塩見さんと付き合っていればよかったですか」

 腹が立つ、というよりは、悲しかった。

「いい子だと思うけど、塩見さん。綺麗な子だし。あぁいうお姉さんタイプの子には、案外、日和みたいな弟っぽい子が合うのかなって」

 真木の視線は手元に落ちたままだ。いつもと変わらない調子で紡がれる言葉は、子どもに言い聞かせているように響く。

「凛音から聞いたときは、そうだな。お似合いだとは思った、かな」

 いかにも他人事なそれに、ぷつりとなにかが切れた。

「なんだよ、それ」

 みっともなく感情に呑まれた声だった。真木が諦めたのか書類を机に戻して、日和に向き直る。見上げてくる瞳には諫める色しか見当たらない。それがたまらなかった。

「あの人に向ける優しさの半分くらい、俺に向けてくれてもよくないですか」
「なかったことにしようって言ったのは、お互い様だろ」

 かすかに苛立ったように、真木が溜息交じりに言った。また、視線が外れていく。それが、嫌で。どうしようもなく、嫌で。

「っ……、ふざけんなよ」

 あんたじゃないか、とも思った。あんたが、なかったことにしたんだろう。俺の、精一杯を。気づいたときには腕が伸びていた。椅子に押さえつけるように肩を掴む。表情は、全く変わらなかった。そうだ。変わるのは、影響されるのは、いつも自分だけだ。

「あんたじゃないですか。なかったことにしたのは」
「同意しただろ、おまえも」

 静かに見上げてくる瞳も、声も、特別な感情はなにも映し出していない。日和の口元が歪んだ。

「……俺、は」

 俺は、ちゃんと伝えたつもりだ。好きだと、そう言った。それを、なかったことにすると言ったのは真木だ。応えてくれなかったのは、真木だ。

「日和」

 宥めにかかるような、声だった。どこかぶっきらぼうなのに、柔らかく響くそれが、――いつしか、好きになったもののすべてだ。もっと、聞いていたいと願うようになったものだった。
 そして、できることなら、ずっと、近くで聞いていたいとも思っていた。期限付きで、もう会えなくなるなんて、嫌だった。

 ――だから、言ったつもりも、きっとあった、のに。

「っ……」

 小さな声が、腕のなかの世界で生まれる。キスをしている、と自覚したのは、触れた唇が乾燥していると知った瞬間だった。舐めたいと本能的に思って、そこで、我に返った。

「あ……、すみませ……」

 知らないうちに力が入っていた指先を、肩から離す。やっと零れた言葉は、変哲のない謝罪にしかならなかった。緊張なのか、なんなのか。心臓の音がやたらと反響している。その、情けない自分の顔を映し込んでいた瞳が、静かに瞬いた。

「べつにいい」

 感慨のない声だった。日和を責めることのない、淡々とした応え。それを許されたからだと思えるほど、呑気にはできていない。糾弾すらされないことが、こんなにやるせなく苦しいとは知らなかった。

「べつにって」
「たいしたことじゃない。だから、忘れろ」

 最後まで言わせることなく、真木は言い切った。話はそれで終わりだと全身で言い表すように、書類に手を伸ばす。紙面に眼を落したまま、立ち尽くしていた日和に声をかける。いつも通りの。

「気を付けて帰れよ」

 自分が反対を唱えることが、勝手だということはわかっていた。大人として、この施設の運営に携わる人間として、真木の対応が正しいのだろうということも、わかっていた。それでも。

「俺は、忘れたくない」

 それなのに、はっきりと口にしてしまっていた。止められなかった。なかったことにすると言われて、今回もまた忘れろと言われて、無理だと悟った。なかったことにすることも、忘れることも、自分にはできない。

「たしかに、塩見さんにはそういったことは言われました。でも、ちゃんと断ったんです。遊びでも、本気じゃなくてもいいっていうのは、無理だってわかったから」

 きっと、この人からしたら一寸の興味もないことだろうと知っている。それでも聞いてほしかった。

「あなたが好きだって、あなたじゃなきゃ駄目だって、思い知ったから。だから」
「日和が俺のことを好きだって、思うのはさ」

 日和のほうを向きもしないまま、言い聞かせるように彼が言う。

「俺がゲイだって知ってるからだよ。そうじゃなかったら、ただの友愛で終わってた。そういうものだよ」
「……違います」
「違わない。毛色が違うから、ちょっと物珍しかっただけだ。それは恋なんてものじゃない」
「っ、違う」
「大丈夫、違わない。すぐに忘れる。ただの一過性のものだ。塩見さんがそうじゃなかったって言うなら、それはそれで。すぐにまた、違う女の子を好きになる。それで、いつか消えてなくなる」

 零れ出さないように感情を必死で握りしめて、日和は俯いた。視線さえ、合わない。

「それだけだ」

 そんな言葉を聞きたかったわけじゃない。日和はすっと息を吐いた。

「答えを聞いてないです、俺は一度も」

 日和がそれでいいなら、なかったことにする。おまえのそれは恋じゃない。それはどちらも、この人の主体的な言葉でも感情でもない。せめて、真木自身の言葉を聞きたかった。終わらせるにしても、言葉が欲しかった。

「あなたの答えを、聞いてない」

 そうでなければ、自分では、止められないところに来ている。先ほど、無意識に口付けてしまったときに、ようやく気が付いた。もう、二人きりになることを求めるわけにはいかない。だから、これが最後だ。
 プライベートな感情をこの人にぶつけるのは、これで最後だ。だから。そんな祈るような気持ちが届いたのか、それとも、埒が明かないと踏んだだけか。真木の視線が手元から離れた。
 自分を見てくれて当たり前だと、夏までは思えていた瞳だった。

「はっきり言ったほうがいいなら、言うけど」

 呆れと苛立ちがかすかに混じったような声に、握りしめたままの拳に力が入る。良い答えが返ってくることはない。わかっていても、誤魔化しようもなく、緊張で震えた。
 そのことを、この人はわかっているのだろうか。この揺らぎも、不安も、それでも、と。残る微かな期待も。そのすべてを日和の勘違いだと、そう言うのだろうか。
 どんなときでも、生徒たちに対して、あるいは自分に対しても、誠実な言葉を吐くのだと信じていた唇がゆっくりと言葉を紡ぐ。

「おまえのそれは、信じられない」

 心臓を掴まれたみたいだった。日和の答えを待つように、真木はそれ以上はなにも言わなかった。

「そうですか」

 その言葉を口にするのが、精一杯だった。どうやって、家に帰りついたのか、日和はよく覚えていない。
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