好きになれない

木原あざみ

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「あんた、ちょっとは真面な顏になったじゃない」

 春休み以来、五ヶ月ぶりに帰省した弟を、まじまじと見つめているからなにかと思えば、そんなことを考えていたらしい。
 居間のテーブルで、生徒たちから届いた残暑見舞いを広げていた姉の美咲が眼を細める。
 五歳年上の姉は、昔から日和と違い、なんでもできる優等生タイプだった。それこそ学生時代は学級委員長から果ては生徒会まで。役職の付く仕事を精力的にこなしていた見本のような生徒。それでも年が離れているからか、のんびりとした弟の性格を批判することもなく、煩く口を出してくることもなかった。
 その姉が、「真面な顏」としみじみと口にする。この五ヶ月でどんな変化があったかだなんて、考えるまでもない。二人掛けのソファを占領して寝そべっていた日和は、スマートフォンから視線を上げないまま、ぼそりと答えた。

「まぁ、ちょっと」
「ちょっとって、なによ。彼女でもできた? だったら、お母さんに教えてあげなさいよ。お母さん、あんなに格好良く産んであげたのに、あの子は全くモテないって嘆いてたから」

 その母と父は付き合いの悪い息子は放って、二人で買い物に出かけている。

「煩い。というか、そもそもとして、モテたくもねぇもん、俺」
「はい、はい。それも顔が良いからこそ言える台詞よね。モテ飽きてるわけだ。お姉さまもあんたくらいの顔面偏差値が欲しかったわぁ」

 芝居がかった動作で肩を竦めて、美咲ははがきに眼を落とした。書いた生徒のことを考えているのか、優しい顏。

 ――あの人もきっと、こんな顔で見るんだろうな、届いたら。

 自然と連想してしまって、日和はぶるぶると頭を振った。その唐突な挙動に姉が瞳を瞬かせる。

「どうしたの、あんた」
「……なんでもねぇし」
「あっ、そう。それより、明日はおじいちゃんのところでしょう? また集まったらおじさんたちにも聞かれるわよー、大学のことも、教員採用試験のことも。面倒臭がらないで、いい話をしてあげなさいね」

 お盆の八月十五日。父方の祖父の家に集まるのは、日和たち親族の恒例行事だ。父の弟家族や姉一家も姿を見せるのだが、そのうちの八割が教職に就いているのだから、教師一族とは恐ろしい。
 その道を違えることなく中学校の教員になった姉は、就任一年目こそ理不尽な保護者対応で死にかけていたが、今はそれなりに教師という仕事を楽しんでいるようで。

「四月からボランティア始めたんだよ、俺」
「あんたが?」

 予想外だったのか、美咲が顔を上げた。「あれだけ私が言っても、ぜんぜん、その腰を上げなかったくせに!」

「いや、俺も最初は不本意だったんだけど。ゼミの先輩から押し付けられて、断れなくて」
「いかにもあんたらしいわ、その理由」
「はじめはそうだったんだけど。案外、そこが楽しくて。えぇと、民間のフリースクールなんだけど」

 親戚一同のずらりと並ぶ席で話す予行練習のつもりで話し出したのだが、一度口から出ると話が止まらない。まとまりのない弟の話を聞き終えると姉は、「へぇ」と感じ入った声を出した。

「あんたがねぇ、と思ったけど。頑張ってるみたいじゃない。おまけに、楽しんでいるみたいだし」
「……まぁ、みんないい人だから」
「智咲は、その人のことが好きなのね」

 なんの気もない相槌だとわかっているのに、妙な据わりの悪さを覚えてしまった。誤魔化して、唇を尖らせる。

「べつに、そういうわけじゃ」
「照れなくてもいいじゃない。姉としてはその人に逢ってお礼をしたいくらいよ。不肖の弟のやる気を引き出してくれたんだから。いったいどんな魔法を使ってくれたのかしら」

 魔法。姉の冗談を日和は口中で転がした。いや、でも、本当に魔法だったのかもしれない。
 好きだと認識したところで、関係が変わるわけでもなければ、世界が変わるわけでもない。妙な緊張を引きずりながらキャンプを終え、終了後のスタッフ会議も乗り越えれば、つぼみも夏休みに突入した。次に顔を合わせるのは、九月の第一週だ。

 ――変じゃなかったかな、俺。

 日和は、あの夜以降の自分の行動をたまにこうして振り返る。普通だったはずだ。きっと、おそらく。
 ただ、もしかすると、必要以上に距離を置いていたかもしれない。そう思うのは、恵麻たちに「ぴよちゃん」と言われるほど、自分は真木にくっついていたからだ。あれが異常だったのだと今ならわかるが、それが、つぼみでの自分の「普通」だったのだ。
 真木と二人で話せる機会を窺いもせず、会議が終わるなり、そそくさとつぼみを後にした自分はおかしかったかもしれない。

 ――って、言っても。どうしていいのかわかんないんだって、俺も。

 まるで恋をしたばかりの中学生だ。みっともないことも重々自覚しているが、どうにもならない。

 ――思えば、今まで受け身な恋愛しかしてこなかったからなぁ。

 言い寄られて、受け入れ。そして振られる。
 日和は、ただ受け入れていただけだ。その一連の流れを。
 言い訳のしようもない、受動的な恋愛。だから。
 自分が人を好きになったという実感を得たのは、本当に久しぶりだったのだ。

 ――そんなの、どうしろってんだよ。

 半ば八つ当たりのように心中で吐き捨てて、日和はスマートフォンに意識を戻した。惰性で続けているだけのゲームだ。

「――でも」
「え?」

 姉の声に意識が現実に引き戻される。幼いころ、夏休みの宿題を広げていた居間のテーブル。冷房の効いた空間。そこに座る、大人になった姉。

「なによ、聞いてなかったの? ボランティアができるのも、あと半年くらいだものね、って言ったのよ。期限が決まっているんだから、精一杯頑張りなさい」

 あと、半年。なにか重いものが不意に落ちてきた。姉は鼻歌交じりにはがきを捲っている。いや、でも、そうだ。そうだった、と日和は言い聞かせる。そもそも、塩見がこの春に自分にボランティアを依頼したのも、彼女が四年生になり教育実習に採用試験にと忙しくなったからだった。

 ――そうか。あそこに俺がいることができるのは、あと少しなのか。

 正職員として籍を置いている真木とは違う。就職後も携わっている羽山とも違う。

 ――この縁も、あと半年で消えるのか。

 認識した瞬間、ちくりと胸が痛む。馬鹿じゃないのかと日和は思った。なんで俺、ずっとつぼみにいることができるような気がしていたんだろう。スタッフだけではなく、生徒たちもずっとあそこにいることができるわけではないのに。
 ふと思い付いて、ゲームを止めて、ラインアプリを立ち上げる。連絡先の中に、真木の名前はある。急に休むようなことがあれば連絡して、と。初日にラインアドレスを交換したのだ。けれど、一度も使ったことはない。休んだこともなければ、他になにを送ればいいのかわからなかったからだ。
 元々が日和は連絡無精だが、真木の場合は線引きも難しい。友達ではない。ボランティア先の、一番正しい言い方をするならば、上司。年も四つ向こうのほうが上だ。

 ――残暑見舞いとか、ガラじゃねぇし。そもそも、お盆になにしてますかとか、わざわざラインで聞く意味がわからねぇし。

 連絡一つ取るか取らないか。こんなことで悩んでいる自分は、本当に女子中学生のようだ。日和は乱雑にラインの画面を閉じて、ゲームに戻した。当然のように、ゲームには全く集中できなかった。

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