好きになれない

木原あざみ

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 夢を見ていると、日和は思った。
 あまりよく知らない人たちと長時間を過ごすのは疲れる。その人たちが好きだとか嫌いだとかそういった次元の話ではなく、気疲れで神経をどっぷりとやられるのだ。日和には自分が内向的だという自覚がある。年を重ねて誤魔化す術を多少は身に付けたところで、人見知りの本質は変わらない。
 疲れた。それなのに、充足感もたしかにある。いつもよりも、あの人と多くの話をできたからなのかもしれない。
 けれど、芯の冴えた頭とは別次元で身体は休息を欲していて、ベッドに飛び込んだ。
 そうしてあっというまに眠りに落ちたはずだったのに、自分はなぜかまた「つぼみ」の室内にぽつねんと立っていた。
 いつもの賑やかな生徒の声はしない。夢の中の日和も不思議に思ったのか、きょろきょろと視線をさ迷わせて誰かを探している。生徒ではない、探しているのはきっとあの人だ。
 ぴよちゃんって、いつもまきちゃんのことを探してるよね。
 いつだったか、そう言ったのは恵麻だ。まだ中学生だからといって女の子は侮れない。そして、気の毒になるほど、機微に敏い。


「日和くん?」

 聞き慣れた声が耳に飛び込んできて、自分の顔がさも安心したかのように綻ぶ。夢の中とは言え、あんな顔をいつもしているのかと思うと居た堪れない。けれど、日和の意識は夢の中の日和とはどこか違うところにあり、ただ見ているだけだ。夢の中の自分の行動の制御権を握っていない。

「真木さん」

 応じた声に滲む安堵は、顔と同じくらいあからさまだ。居た堪れないを通り越した、叫びたいような恥ずかしさが生じる。ひよこと言われても、なんら否定できなくなりそうだ。

 ――だって、なんか探したくなるんだよ、いつも。

 理由のない「なにか」。刷り込みと評されても致し方ないそれに、日和の脳裏にセキュリティベースと言う心理用語がちらついた。安全基地。主に幼児が養育者である母親に感じるもの。危機を感じると愛着対象者に縋りつき、安堵を得る。

 ――いや、ない、ない。ちょっとそれはさすがにヤバいって。

 夢の中の自分はそんな葛藤も露知らず、呑気に笑っている。羨ましい限りだ。

「どうしたの。今日は」

 つぼみは休みだよ、と続けられて、そう言う設定なのかと得心する。

「え、と。……その」

 まるで好きな子を前にした小学生男子だ。もじもじとしている様子が我ながら気持ちが悪い。けれど、それを向けられている張本人は急かすでも嫌な顔をするでもなく、ただ続きを待ってくれている。
 あぁ、と腑に落ちた。そのスタンスが落ち着くのだ。元来がゆっくりな性格の日和は、幼いころから思考を纏めるのにも人より時間がかかった。悩んでいる間に、自分の本意ではない方向に決めつけられて話が進んでいくことも多々あった。
 良かれと思っていたのかもしれないが、勝手に結論付けていくリーダーシップを気取った女生徒には、恐怖心に似た苦手意識を持つようにもなった。

 ――だから、俺、塩見さんが苦手なんだよなぁ。美人だとは思うけど。気の強い美人とか、怖いだけだし。

 つぼみのボランティアも、その延長で押し付けられたのだ。……それに関しては、今となっては感謝をしているけれど。

「真木さんの顔を見たくなって」
「俺の顔?」

 だから、それだって。その顔なんだって。無性に、そう訴えたくなった。夢の中の自分の発言もどうかと思うが、その、――年下の男を相手に警戒するのもどうかと思うが、無防備に見上げてくる顔。手を伸ばしたいような、触れたいような。よくわからない衝動が疼いて、指先がぶれる。

「そんなもの見に来て、どうするの」
「俺だって、分からないですよ、でも」

 混乱そのものを言葉にしただけのような台詞だ。「でも?」と真木の唇がゆっくりと動く。それを視線で追いながら、ふと気が付いた。この人は案外と整った静かな顔をしているのだな、と。
 微かに伏せられた瞳が持ち上げられて、日和を射る。理由もわからないまま、胸が鳴って、あ、ヤバい、と思った。これは、起きなければまずい。この夢はよろしくない。そうわかっているのに、夢の中の自分は馬鹿みたいに真木を見つめている。吞まれたように。

「日和くんは、俺に会いたかったんだ?」

 揶揄うような声。会いたかった。違う、違う。そうじゃない。というか、寝る直前まで一緒にいたじゃないか。必死で言い聞かせているのに、夢の中の日和の視線は、目の前の生き物に釘付けになっている。開いた襟ぐりから覗く鎖骨がなんだかやたらと艶めかしくて、頭が真っ白になった。

 ――いや、そんなわけないだろ!

 この人は男で、この人はゲイかもしれないが、俺は違う。でも、と渦巻く思考の海で、また次の疑念が浮き上がる。
 この人はゲイだ。ということは、この人をそういう目で見る男がいてもおかしくはない。
 でも、それはなんだか、ひどく――。

「日和くんは、俺のことが好きなんだ?」



「――――ッ」

 心臓が、まだバクバクと高鳴っている。がばりとベッドから飛び起きて、胸を押さえたところで日和は我に返った。カーテンの隙間からはまだ光が零れておらず、部屋の中は真っ暗だ。夢。そう、夢だ。

「……って、マジかよ、これ」

 ゆっくりと息を吐き出して、己の呼吸と心を整える。そして気が付いた違和感に、日和はげんなりと唸って顔を覆った。
 ヤバい、鬱だ。絶望的ななにかに襲われながら、日和は気持ちの悪い下半身を見下ろした。夢精とか。中学生だったころはしたこともあったかもしれないけど。でも、それ以降してなかったし。誰へともない言い訳を呟きながら、のろのろと洗面所に向かう。

 ――なにをやってんだ、俺。

 折角、今日は休みなのに。日がな一日のんびり自堕落に過ごそうと思っていたのに。軽く汚れを落として、洗濯機に放り込む。水音がなんだか間抜けだ。この三日分の洗濯物も一緒に朝になったら回してしまおう。
 薄暗い部屋で鏡に映る自分は、信じられない、というよりかは、信じたくない、という顔をしていて。それがより日和の絶望を誘ったのだった。


 火曜日。本日の天気、曇り。時刻、九時四十五分。全くのいつも通りで、ドア一枚隔てたつぼみの中からは、まだ賑やかな声は響いていない。こちらも全くのいつもどおりだ。いつも以上にゆっくりとした所作で自転車を止め、日和はドアに手をかけたところで、息を詰めた。
 緊張、する。

 ――いや、緊張というか、勝手に気まずいというか。顔を見づらいというか。

 おまけに、説明なんてできるはずのない理由で、だ。変な態度を取るわけにはいかない。落ち着け、俺。いつもどおりだ。いつもどおり。呪文のように繰り返して、最後にもう一度深呼吸。よし、と気合を入れてドアを引こうとした瞬間、内側からそれが勢いよく開いて。思わず、日和は悲鳴を上げた。

「日和くん?」
「ま、真木さん……」

 真木もそこまで叫ばれるとは思っていなかったのか、瞳を瞬かせている。

「いや、一向に入ってこないから。どうしたのかなと思って」
「見えてたんですか……」

 なにそれ、恥ずかしい。消え入りそうな声で呟いた日和に、真木は後ろをちらりと視線で刺した。スタッフルーム。

「それは、まぁ、目前で勇気がくじけた子を見過ごすわけにはいかないし。見えるようにしてるけど」

 ですよね、と。正しく勇気がくじけた子どもであった日和は、肩から力を抜いた。大丈夫。いつもどおりだ。

「すみません、ちょっと、ぼーっとしてました」
「それならいいけど。お疲れ? あ、あと、このあいだは土曜日なのにありがとうね」

 それ以上を追求することもなくあっさりと退いて、中に戻って行く。もう一呼吸だけ静かに吐いて、日和ものっそりと靴を脱いで、その後に続いた。このあたりの対人距離の取り方はさすがだとしか言いようがない。

 ――まぁ、それだけではないと思うけど。だから、ここの子たちは安心するんだろうなぁ。

 大人の態度がぶれることが、どれほど影響を与えるのか。この人はよくよく知っているのだろう。

「こちらこそ、お世話になりまして。えぇと、あの」
「いいよ、いいよ。俺のほうこそ、早く家に戻れる理由をつくってくれて助かったから」

 言外をいとも簡単に読み取って、真木が請け負う。パソコン周りに広がっている書類は、本来であれば土曜日の夜に戻ってきてやりたかった仕事なのだろうか。

「っていっても、和が戻ってきたのが、日付変わってからどころか二時近くてさ。結局、起こされたんだけどね」
「それは……大変でしたね」
「おかげさまで。酔っぱらいほど面倒なものはねぇなと改めて実感した。人が朝も早いって言ってんのに、付き合えって聞かねぇし」

 愚痴めいたそれは、なんだか距離が詰まったように響く。唇の端がひっそりと綻びそうになって、日和はそっと俯いた。

 ――それにしても、仲、良いんだな。本当に。

 子どものころから続いている友人なんて、日和にはいない。だから、その親しい距離感がよくわからなくて、もやりとするのだ。夢見を引きずっているのか、「嫉妬」なんて言葉が湧き出しそうで、日和は必死に押し込んだ。

「それで、今日から残ってくれるのでよかったんだっけ? 勉強会」
「あ、はい。もちろん。……えぇと、俺はそのつもりです」
「了解、ありがとう。あとでちょっと打合せしようか」

 はい、ともう一度頷いて、鞄を置く。そうだ、ここは、あの夢とは違う。健全で、そして温かな落ち着く場所。それなのに、あんな眼で見てしまった自分は、ちょっとおかしいのかもしれない。
 過ってしまった考えを振り切って、日和は日課と化している掃除をしようと、和室に向かう。ドアが開いて、元気な凛音の声がした。続いて、兄の紺の声。今日は二人一緒だ。そのことにほっと安堵しながら、日和は「おはよう」と声を出した。少し前の自分なら考えられないような、張りのある声になっていた。
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