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悪役令嬢編
24.分岐点(後編)
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背後で響いた石畳を踏む音に、自身の胸元に伸びそうになった手を下ろす。だが、体裁を整えて振り向くよりも早く、誰何がかかった。
「サイラス。なにをしている」
「殿下」
なぜ、ここに、と驚いたものの、オリヴィアの異変を察知したのだと思い直した。昔から、そういった情報の把握が早い人なのだ。
自分が連れて帰るまでを待たなかった理由は、自分に対する信用の枯渇なのだろうか。返事に迷い、ハロルドと彼に付き従う次兄から目を逸らす。
外に出るにあたって彼が呼び出したのだろうが、次兄からは呆れ切った気配が漂っていた。
そのサイラスの横をすり抜け、オリヴィアはハロルドにすり寄った。
「誤解ですわ、殿下。私、殿下を裏切るような真似は絶対に致しません」
「わかっている」
甘えた声の弁明をあっさりと受け入れ、改めてというふうに彼の視線が動く。
「サイラス。俺はおまえに聞いている」
問い質されても、変わらず言葉は出なかった。なぜという屈託が消えなかったからだ。
「余計なことをするなと言ったつもりだったが、おまえは理解せず、口先だけで『承知しました』と言ったわけか、この俺に」
苛立った声が、夜の街に響く。緘黙するサイラスを見かねたのだろう。兄が代わりに頭を下げた。
「サイラスが申し訳ございません」
「申し訳……ございません」
とっさに倣ったものの、不納得がにじんだことは自分でもわかっていた。その態度に、ハロルドが小さく息を吐く。
ひやりとした空気にはっとしたものの、「お嬢さま」という慌てたレオの声で霧散することになった。
「なによ、遅いじゃない」
おかげで面倒なことになったじゃない、と言わんばかりのオリヴィアの声音にめげず、レオは深々と安堵の息を漏らす。
触れてこそいなくとも、大切に思っているのだと明らかな態度だった。
――馬鹿馬鹿しい。
本当に、自分は、いったいなにをしているのだろう。オリヴィアたちから視線を外す。と、すぐ近くで「サイラス」と自分を呼ぶ声がした。
「留まるなよ」
「え……」
躊躇なく胸を押され、命に従った足が地面を離れる。派手な水音が立ち、サイラスは小川に座り込んだ状態でハロルドを見上げた。膝程度の水位しかないものの、ほとんど全身が濡れそぼっている。
「戻ってくるのは、その悪臭を落としてからにしろ」
「……承知しました」
湧き起こりそうになった感情を抑え、サイラスはそう返事をした。自分からさらりと視線を外し、ハロルドが兄に言いつける。
「ノット家の問題だというのなら、どうにかしておけ」
文字どおりの冷水を浴びたせいではなく、冷たい声音で心臓が竦む。ここまで来ると、もはや反射だ。この人のためになることであればなんでもすると思っているくせに、負の感情に直面すると、自分の中にいる小さな子どもが「嫌だ」と固まりそうになる。
サイラスは川底に付いた手のひらを握りしめた。オリヴィアとレオを伴い立ち去った背中を見つめ、知らず息を詰める。
「殿下がおまえに甘いからと言って、不貞を疑われてもしかたのない状況だぞ」
呆れの色の濃い諫める調子に、サイラスは無言で立ち上がった。怪我をするような間抜けはしていないが、水の入った靴が気持ちが悪い。
手を貸すそぶりを見せない兄の隣に自力で戻れば、兄がまたひとつ溜息を吐いた。
「おまけに、随分と荒れてもいたようだが」
「そんなことは……」
「適当な嘘ごまかしが通じるとでも? オリヴィア嬢の言動に振り回されてどうする。まったく、みっともない」
その言葉に、ぐっと唇を噛む。今の場面だけを切り取っても、殿下が甘いのはオリヴィアであって、自分ではないだろう。彼はオリヴィアの言しか信じようとしなかった。そう思って反発した心が、急速にしぼんだことをサイラスは自覚した。
自分はなにをいくつも年下の――殿下の婚約者と同等に張り合おうとしていたのだろう。
「申し訳ありません」
目を伏せたサイラスをもの言いたげにじっと見つめ、兄は口を開いた。やはり、呆れた風合いの強いそれで。
「近いうちに騎士団に来い」
発散させないからざわつくのだ、と。闇の精霊を癇癪持ちの幼子のように評す兄に、サイラスは素直に了承を示した。兄にとっては、闇の精霊も、自分も、似たようなものだと知っている。
価値があるうちは役に立つ、ノット家の持ち物。良いも悪いもない、ただの客観的な事実だ。
「サイラス。なにをしている」
「殿下」
なぜ、ここに、と驚いたものの、オリヴィアの異変を察知したのだと思い直した。昔から、そういった情報の把握が早い人なのだ。
自分が連れて帰るまでを待たなかった理由は、自分に対する信用の枯渇なのだろうか。返事に迷い、ハロルドと彼に付き従う次兄から目を逸らす。
外に出るにあたって彼が呼び出したのだろうが、次兄からは呆れ切った気配が漂っていた。
そのサイラスの横をすり抜け、オリヴィアはハロルドにすり寄った。
「誤解ですわ、殿下。私、殿下を裏切るような真似は絶対に致しません」
「わかっている」
甘えた声の弁明をあっさりと受け入れ、改めてというふうに彼の視線が動く。
「サイラス。俺はおまえに聞いている」
問い質されても、変わらず言葉は出なかった。なぜという屈託が消えなかったからだ。
「余計なことをするなと言ったつもりだったが、おまえは理解せず、口先だけで『承知しました』と言ったわけか、この俺に」
苛立った声が、夜の街に響く。緘黙するサイラスを見かねたのだろう。兄が代わりに頭を下げた。
「サイラスが申し訳ございません」
「申し訳……ございません」
とっさに倣ったものの、不納得がにじんだことは自分でもわかっていた。その態度に、ハロルドが小さく息を吐く。
ひやりとした空気にはっとしたものの、「お嬢さま」という慌てたレオの声で霧散することになった。
「なによ、遅いじゃない」
おかげで面倒なことになったじゃない、と言わんばかりのオリヴィアの声音にめげず、レオは深々と安堵の息を漏らす。
触れてこそいなくとも、大切に思っているのだと明らかな態度だった。
――馬鹿馬鹿しい。
本当に、自分は、いったいなにをしているのだろう。オリヴィアたちから視線を外す。と、すぐ近くで「サイラス」と自分を呼ぶ声がした。
「留まるなよ」
「え……」
躊躇なく胸を押され、命に従った足が地面を離れる。派手な水音が立ち、サイラスは小川に座り込んだ状態でハロルドを見上げた。膝程度の水位しかないものの、ほとんど全身が濡れそぼっている。
「戻ってくるのは、その悪臭を落としてからにしろ」
「……承知しました」
湧き起こりそうになった感情を抑え、サイラスはそう返事をした。自分からさらりと視線を外し、ハロルドが兄に言いつける。
「ノット家の問題だというのなら、どうにかしておけ」
文字どおりの冷水を浴びたせいではなく、冷たい声音で心臓が竦む。ここまで来ると、もはや反射だ。この人のためになることであればなんでもすると思っているくせに、負の感情に直面すると、自分の中にいる小さな子どもが「嫌だ」と固まりそうになる。
サイラスは川底に付いた手のひらを握りしめた。オリヴィアとレオを伴い立ち去った背中を見つめ、知らず息を詰める。
「殿下がおまえに甘いからと言って、不貞を疑われてもしかたのない状況だぞ」
呆れの色の濃い諫める調子に、サイラスは無言で立ち上がった。怪我をするような間抜けはしていないが、水の入った靴が気持ちが悪い。
手を貸すそぶりを見せない兄の隣に自力で戻れば、兄がまたひとつ溜息を吐いた。
「おまけに、随分と荒れてもいたようだが」
「そんなことは……」
「適当な嘘ごまかしが通じるとでも? オリヴィア嬢の言動に振り回されてどうする。まったく、みっともない」
その言葉に、ぐっと唇を噛む。今の場面だけを切り取っても、殿下が甘いのはオリヴィアであって、自分ではないだろう。彼はオリヴィアの言しか信じようとしなかった。そう思って反発した心が、急速にしぼんだことをサイラスは自覚した。
自分はなにをいくつも年下の――殿下の婚約者と同等に張り合おうとしていたのだろう。
「申し訳ありません」
目を伏せたサイラスをもの言いたげにじっと見つめ、兄は口を開いた。やはり、呆れた風合いの強いそれで。
「近いうちに騎士団に来い」
発散させないからざわつくのだ、と。闇の精霊を癇癪持ちの幼子のように評す兄に、サイラスは素直に了承を示した。兄にとっては、闇の精霊も、自分も、似たようなものだと知っている。
価値があるうちは役に立つ、ノット家の持ち物。良いも悪いもない、ただの客観的な事実だ。
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