南食堂ほっこりごはん-ここがきっと幸せの場所-

木原あざみ

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笑う門には福来る

24:時東悠 1月29日1時14分 ④

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「南さんも俺を捨てるの」
「誰もそんなこと言ってないだろ」

 自分の声は切羽詰まっていたのだろうか。応じる南の声が和らぐ。子どもを宥めるように。

「時東。なにか聞いてほしいなら、話くらい聞くから」
「聞いてほしいことなんてない」

 言葉尻に被せ、時東は吐き捨てた。

「聞いてほしいことなんてなにもない。南さんに俺の過去を知ってほしいなんて思わないし、俺のどうでもいい後悔を聞いてほしいとも思わない。ただ、今の俺を見て。今の俺の隣にいて。それだけで」

 なにを言っているのだろう。頭のどこかに残る冷静な部分はたしかにそう言っているのに、言葉が止まることはなかった。

「本当にそれだけでいいのに」
「時東」
「俺は過去の救済なんて、求めてない」

 止まることのない言葉があふれ続ける。みっともないことは自覚していて、とてもではないが顔を上げることはできなかった。握りしめたままの手の甲が白い。
 ここで距離を取り直されたのは、そう遠い日の話ではない。この人がそれを求めるのなら、と。その距離に従おうと決めたのも、遠い日の話ではない。それなのに。

「南さんとは違う」

 そうだ。この人とは違う。この人は、俺とまったく違う。なのに、なんで、こんなにも惹かれるのだろう。自分のものにしたいと思うのだろう。諦めることはできなかった。蓋をしたつもりで、こうして勝手に顔を出す。
 沈黙を何時間にも感じた。けれど、なにをどう取り繕えばいいのかも、わからなかった。

「寝ろ」

 呆れたような、それでいて優しい声だった。

「明日には東京に戻るんだろ。早く寝ろ」

 呪縛が解けたように、ぱっと顔を上げる。いつもと変わらない顔のまま、南は時東を見ていた。
 はじめて逢ったころから変わらない、どこか不機嫌そうで、気難しそうで、それなのにたまらなく優しくて、いつだって時東を受け入れてくれる瞳。
 そのことにほっとして、同時に勝手に傷ついた。この人は変わらない。俺くらいがなにかを言ったところで、伝えたところで、変わらない。
 その「変わらない」ことに安堵していたことも事実のはずなのに、なぜか今は苦しかった。

「寝て、全部忘れろ」
「全部って」
「嫌な夢も、怖い夢も、朝起きたら全部なくなる」

 笑おうとした時東を無視し、淡々と声が続く。

「覚えていても、段々、薄らいでいく」

 それは、なんの話なのだろうとふと思った。まるで、時東がどんな夢を見たのか承知しているみたいだった。そんなこと、あるわけがないのに。

「しょうもないこと話して、笑って、飯食って、そうこうしてるあいだに、また生きていける」

 あぁ、と一拍遅れて気づく。これは、南自身の話だったのか。

「南さんも、そうやって生きてきたの」
「そうだ。誰だって、そうだ」

 でも、と思った。でも、あんたの隣にはあの人がいたんだろう。あんたが立ち直るまでのあいだ、ずっといたんだろう。あんたのことを大事に思っていて、あんたも大事に思っている人が。
 俺にはいなかった。
 俺には、誰もいなかった。

「じゃあ、俺の傍にいて」

 情緒不安定なガキだと思われてもいい。そう思っているあいだは、きっとこの人は俺を捨てない。時東はそう思った。情の深い人だから、絶対にこの人は、俺が縋っているうちは、俺を捨てられない。

「そのあいだ、ずっと、俺の傍にいて」

 だが、本心だった。ずっと、ずっと。時東が隠し続けていた、本音。
 驚いた顔で南が自分を見つめていることに気がついて、はっとする。時東はようやく我に返った。なにを言い募っていたのだろう、自分は。なにをこんなに必死に。

「嘘。嘘、ごめんなさい」

 きっと笑えていない。確信はあったものの、そう言うことしかできなかった。もう嫌だ。この人の前で自分を保つことができない。この五年、ずっと保っていたはずの「時東はるか」が死んでいく。解放なんて綺麗なものじゃない。それは恐ろしいことだった。赦しがたいことだった。

「南さんこそ、忘れて。明日も早いんでしょう」

 明日は休むという話を聞いたことは、口にしてから思い出した。けれど、もうなんでもいい。とりあえず、受け流してくれたら、それでもいい。

「忘れねぇよ」

 それなのに、なんで、そんなことを言うんだ。舌打ちをしたくなった。忘れろと言ったばかりの声で、そんなことを。

「忘れない」

 矛盾を感じさせることのない声が言い切る。

「おまえが捨てたことも、俺が知ってることは覚えてる。だから、安心しておまえは忘れたらいい」

 取り繕いきれないまま、時東はただその声を聞いた。

「それで、もし、いつか。……いつか、思い出してもいいと思えるものがあったら、そこだけを大事にしろ」

 いつか。いつか、そんな日が来るのだろうか。来るはずはないと思っていたし、来なくていいと諦めていた。今もそれは変わらないのに、なんで。
 なんで。その先の感情の答えを出すことはできなかった。静かな声が、かつて自分が言ったのだろう言葉を紡ぐ。

「おまえの歌で、おまえは食っていくんだろう」

 そうだけど、違う。俺は、三人で食っていきたかったんだ。あのふたりと、俺で。でも。

「……うん」
「おまえはそうやって、五年間、踏ん張って来たんじゃないのか」

 俺の五年なんて、なにも知らないくせに。そうも思うのに、たまらなかった。感情が、流れ落ちていく。

「うん」

 子どものような声で頷く。どうしたらいいのかわからなかった。言葉もない。ただ、その体温に触れたかった。触れることを許されたかった。けれど、そうではないから必死に拳を握り込んで、もう一度、頷く。

「うん」

 好きだと思い知った。好きだ。好きだ。好きだ、あなたが。もう、なにも誤魔化せないほどに。そのすべてを込めて、囁く。それが精一杯だった。

「ありがとう」
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