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笑う門には福来る
24:時東悠 1月29日1時14分 ①
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深い暗闇に、時東はひとり立っていた。
泥沼に沈んだように、足はぴくりとも動かない。いや、だが、仮に動いたとしても、右に行けばいいのか、左に行けばいいのか。なにかもわからなかった。
途方に暮れていると、少し先にぼんやりとした灯りが浮かび上がった。長方形のかたちにうっすらと光っている。ああ、扉だ。時東は思った。
では、扉だとすれば、どこに繋がるものなのだろう。
悩んでいるうちに、今度は扉の前に小さな影が浮かぶ。その影を認識し、時東ははっと息を呑んだ。
――ごめん。ごめんね、悠。でも、だって、寂しかったんだもん。
甘えを含んだ舌足らずな声。
幼い顔は泣いているのか、それとも、笑っているのか。皆目見当がつかなかった。
はじめてしっかりと付き合った相手だった。バンド活動が第一になっていたかもしれない。けれど、同じバンドに所属していた相手もそれは同じだったはずで、だから、その範疇で大事にしていたつもりだった。好きだったつもりだった。
言葉もなにも出なかった。立ち尽くしていると、今度は背の高い少年が現れた。うつむく少女の肩をそっと抱き寄せる。
何年も親友だと思っていた彼の瞳が、自分を糾弾する色に染まっていく。
――俺は、おまえがずっと嫌いだった。嫌いだったよ。おまえはなんでもできるもんな。なんでもひとりでできるもんな。でも、なぁ、おまえ、わかってたか? おまえがメインに立つその後ろで、俺がどれだけ苦労してたか。なにを思ってたか。おまえ、少しでもわかってたか?
だって、と心の中で叫ぶ。だって、おまえはそれが楽しいって言ってたじゃないか。それを信用した俺が駄目だったのか。おまえの表面を丸呑みして、本音に気が付かなかったから駄目だったのか。
固まったままの時東に、彼は繰り返す。
――わかろうと思ったか?
――思わなかっただろう。想像もしなかっただろう。おまえの陰に隠れる俺の気持ちなんて。
――おまえがかわいいのは自分だけなんだよ。自分がかわいいだけで、自分が一番で、俺たちはおまけの引き立て役だ。
そんなことはない。大事だった。大事だったから、『親友』だったんだろう。一緒にバンド名を決めたとき、自分たちは笑っていたはずだ。それさえも時東の思い込みだったのだろうか。ふたりは時東と対峙している。身を寄せ合ったまま。
――おまえの傍にいると疲れる。残る人間なんていねぇよ。
――ねぇ、だから。だから、その人も離れていこうとしてるんじゃないの。
少女の指が時東の背後を指す。心臓がドクンと大きく波打つ。少女は笑っている。ぎこちなく振り返ろうとした瞬間、眼が覚めた。
恐ろしいほどに、心臓がバクバクと音を立てている。まだ、夜の最中だ。けれど、前も後ろもわからないような、あの漆黒ではない。
自身の指先も、そこから伝わる布団の冷たい感触も、きちんとわかっている。闇に慣れた目が、畳の目や障子といった見慣れた部屋の光景をたどったところで、時東は小さく息を吐いた。
壁時計の時を刻む音が静かな空間に響いている。過去に停滞することも、戻ることもなく。ただ、一定のリズムで先に進んでいく。
「夢だ」
言い聞かせるために発した声は、喉にへばりついたなにかを無理やり吐き出すような、みっともないものだった。
枕元に置いていたスマートフォンで確認した時間は、午前一時。東京にいたころは、あたりまえに起きていた時間だった。
この家にいると、不思議と健康的な時間に寝起きをしてしまう。時間を華やかに消化するあの街と違い、ここの夜が静かだからだろうか。
ゆったりとした流れに身を置くうち、自分もその流れの一部だと信じてしまいそうになった。
そうやってぬるま湯に浸かろうとしていたから、あんな夢を見たのだろうか。もう二度といらないと思ったはずの感情に、手を伸ばしそうになったから。過去が罰しにきたのだろうか。
溜息を呑み込んで、時東は起き上がった。カーディガンを羽織って、襖に手を掛ける。薄暗い階段をゆっくりと降りて、一階に着いた瞬間。廊下の奥から見えた灯りに、緊張で張りつめていた力が抜けた気がした。
[24:時東悠 1月29日1時14分]
泥沼に沈んだように、足はぴくりとも動かない。いや、だが、仮に動いたとしても、右に行けばいいのか、左に行けばいいのか。なにかもわからなかった。
途方に暮れていると、少し先にぼんやりとした灯りが浮かび上がった。長方形のかたちにうっすらと光っている。ああ、扉だ。時東は思った。
では、扉だとすれば、どこに繋がるものなのだろう。
悩んでいるうちに、今度は扉の前に小さな影が浮かぶ。その影を認識し、時東ははっと息を呑んだ。
――ごめん。ごめんね、悠。でも、だって、寂しかったんだもん。
甘えを含んだ舌足らずな声。
幼い顔は泣いているのか、それとも、笑っているのか。皆目見当がつかなかった。
はじめてしっかりと付き合った相手だった。バンド活動が第一になっていたかもしれない。けれど、同じバンドに所属していた相手もそれは同じだったはずで、だから、その範疇で大事にしていたつもりだった。好きだったつもりだった。
言葉もなにも出なかった。立ち尽くしていると、今度は背の高い少年が現れた。うつむく少女の肩をそっと抱き寄せる。
何年も親友だと思っていた彼の瞳が、自分を糾弾する色に染まっていく。
――俺は、おまえがずっと嫌いだった。嫌いだったよ。おまえはなんでもできるもんな。なんでもひとりでできるもんな。でも、なぁ、おまえ、わかってたか? おまえがメインに立つその後ろで、俺がどれだけ苦労してたか。なにを思ってたか。おまえ、少しでもわかってたか?
だって、と心の中で叫ぶ。だって、おまえはそれが楽しいって言ってたじゃないか。それを信用した俺が駄目だったのか。おまえの表面を丸呑みして、本音に気が付かなかったから駄目だったのか。
固まったままの時東に、彼は繰り返す。
――わかろうと思ったか?
――思わなかっただろう。想像もしなかっただろう。おまえの陰に隠れる俺の気持ちなんて。
――おまえがかわいいのは自分だけなんだよ。自分がかわいいだけで、自分が一番で、俺たちはおまけの引き立て役だ。
そんなことはない。大事だった。大事だったから、『親友』だったんだろう。一緒にバンド名を決めたとき、自分たちは笑っていたはずだ。それさえも時東の思い込みだったのだろうか。ふたりは時東と対峙している。身を寄せ合ったまま。
――おまえの傍にいると疲れる。残る人間なんていねぇよ。
――ねぇ、だから。だから、その人も離れていこうとしてるんじゃないの。
少女の指が時東の背後を指す。心臓がドクンと大きく波打つ。少女は笑っている。ぎこちなく振り返ろうとした瞬間、眼が覚めた。
恐ろしいほどに、心臓がバクバクと音を立てている。まだ、夜の最中だ。けれど、前も後ろもわからないような、あの漆黒ではない。
自身の指先も、そこから伝わる布団の冷たい感触も、きちんとわかっている。闇に慣れた目が、畳の目や障子といった見慣れた部屋の光景をたどったところで、時東は小さく息を吐いた。
壁時計の時を刻む音が静かな空間に響いている。過去に停滞することも、戻ることもなく。ただ、一定のリズムで先に進んでいく。
「夢だ」
言い聞かせるために発した声は、喉にへばりついたなにかを無理やり吐き出すような、みっともないものだった。
枕元に置いていたスマートフォンで確認した時間は、午前一時。東京にいたころは、あたりまえに起きていた時間だった。
この家にいると、不思議と健康的な時間に寝起きをしてしまう。時間を華やかに消化するあの街と違い、ここの夜が静かだからだろうか。
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そうやってぬるま湯に浸かろうとしていたから、あんな夢を見たのだろうか。もう二度といらないと思ったはずの感情に、手を伸ばしそうになったから。過去が罰しにきたのだろうか。
溜息を呑み込んで、時東は起き上がった。カーディガンを羽織って、襖に手を掛ける。薄暗い階段をゆっくりと降りて、一階に着いた瞬間。廊下の奥から見えた灯りに、緊張で張りつめていた力が抜けた気がした。
[24:時東悠 1月29日1時14分]
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