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お隣さんの誤算②
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あれ、珍しい。
再びそんなふうに感じたのは、自室に鍵を差し込もうとしたときだった。隣の二〇二号室から、うっすらと明かりが漏れている。
――珍しいこともあるもんだな。
胸中で、そう繰り返す。眠ることが至福と言ってはばからない幼馴染みは、夜更かしとは縁遠く、二十三時には確実に布団に入っているはずだった。
まぁ、消し忘れただけかもしれないけど。ずぼらだから。いいかげんだから。言い聞かせてみたものの、どうにも気持ちが落ち着かない。キーケースを見つめたまま、立ち尽くすこと数秒。
慎吾は溜息ひとつで隣の部屋の前に移動した。そうして、ごはんをつくりに行くとき以外は使わないようにしようと決めていた合鍵で、開錠する。
やめたほうがいいとは、わかっていた。わかっていても、珍しいことが続くと、焦燥が募ってたまらなくなる。
俺の知らないところで、俺が関係してないところで、変わってんじゃねぇよ。動かされてんじゃねぇよ。そんなことを思ってしまう。
けれど、慎吾は、この感情は自己本位はなはだしく、理不尽なものだということもちゃんとわかっていた。極力態度にも出さないよう努めているつもりだ。
――なのに、あいつには通じないんだよなぁ。
誰もが自分のことを「いいやつ」だと言う。気分にムラがなくて、誰にでも優しいと、そう。自分でも意識してふるまっていたから、そういう意味では当然の評価なのかもしれない。それなのに、昔から幼馴染みにだけは通じない。真白は、簡単に慎吾の感情を読み取ってしまう。
「しろ? まだ起きてんの?」
一声かけて靴を脱ぐ。顔を上げた瞬間に座卓の前にいた真白と目が合って、え、と半ば本気で驚いてしまった。さらに珍しいことに、パソコンまで立ち上がっている。起きてたのか。
「あ、いや。電気ついてたから。珍しいなって」
心なしかびっくりした顔をしているようで、言い訳めいた台詞が口をつく。無言のままこちらを見つめていた真白が、溜息まじりにヘッドフォンを外した。ぱさりと黒髪が揺れる。
「萎えた」
ぽそりと呟いたのを最後に、カーペットの上に転がる。不貞腐れた子どものようにしか見えなかった。
「萎えたって、え、なに。珍しい。AV?」
三大欲求のバランス比率が睡眠欲に偏り切っている、あの真白が。興味が勝って、慎吾は隣に回り込んだ。
「俺の趣味じゃないけど」
「うわ、本気で珍しいの見てる。どういう心境の変化なの、ちょっと」
覗き込んだ画面から、寝転がったままの幼馴染みに視線を移す。その視線を受けて、真白が嫌そうに顔をしかめた。
「だから。俺の趣味じゃねぇって言ってんだろ」
「いや、だってこれ」
いわゆるエスエムものである。真白の趣味でないことは百も承知だ。だって、前にそう言っていた。仲間内で過激なものの鑑賞会が流行っていたころのことである。俺はもっと楽しそうなのがいいと言って早々にギブアップしていたことを、慎吾は覚えている。
真白らしいな、と思ったのだ。彼女ができたら、面倒くさいだなんだのと言いながらも、ちゃんと優しくするんだろうな、と。その相手は、自分ではないのだろうけれど。
「っつか、こういうときこそ見て見ぬふりしろよ、おまえ。得意だろうが」
億劫そうに上体を起こして、真白はパソコンの電源を落とした。ヘッドフォンから漏れていた高い声がぷつりと消える。
「いいじゃん、いまさらでしょ。いまさら」
ふつうはそうするだろうなと納得したものの、慎吾はへらりと笑ってみせた。引く気になれなかったのだ。その笑顔を一瞥した真白の指が、トントンと机の縁を叩く。
「なに、なんなの。そんな苛々して」
「……最近」
苛々としたそぶりも珍しいが、ここまでぶっきらぼうな調子も珍しい。「最近?」と促すと、渋々と真白が話し出した。
「前にも増して性欲がねぇんだよ。さすがにちょっとこれは男としてどうなんだと」
「え? でも、昔から本当にないよね、しろ」
「だから増してって言ってんだろ。増してって。その話してたら野々村が」
「野々村さんが?」
「なんだよ。だから、野々村が、そりゃ刺激が足りてねぇんだって、勝手にいろいろ落としてったんだよ。これでも見てみろって」
「それで、これですか」
そういう相談を、あの人にするんだ。俺にはなにも言わなかったくせに。兄弟、か。増幅した苛立ちに、慎吾は小さく笑った。その笑みをどう取ったのか、真白が吐き捨てる。
「というか、おまえのせいだ」
その視線は、暗いパソコンの画面を見つめたままだ。おまえのせいと言われて、慎吾は「なにがだよ」と言い返した。おまえのせいだ、とか、むしろ、俺が言ってやりたいくらいだ。
「だって、そうだろうが。おまえが盛った猿かなんかみたいにヤリまくってるから。……だから、それで、俺まで麻痺したんだよ」
「へぇ。それで、俺のせい」
「あんな声ばっかり聞かされるこっちの身にもなれって。頼むから」
なにも感じなくなった、と続いた台詞に、「そっか」と慎吾は頷いた。なるほど。それで、俺のせい。
「だから、そうだって言ってんだろ。わかったらちょっとは自重し……」
視線が絡んだ瞬間、中途半端に真白の声が途切れた。もしかすると、かなり苛立った顔をしていたのかもしれない。気づいたけれど、それだけだった。どうにもできない。取り繕えない。
いつも、そうだ。真白への好意を押し隠すだけでいつも自分は精一杯だった。でも、こぼれそうになる感情を必死になってせき止めていたのは、大切にしたかったからだ。
真白を傷つけたいと思ったことは、一度もなかったはずだった。
「ねぇ、しろ」
「なんだよ」
戸惑った様子を隠さない真白に、にこりと笑いかける。真白が、機嫌の悪い自分を苦手がっていることは知っていた。
たぶん面倒くさいのだろうと慎吾はその理由を推測している。普段めったなことではけんかをしないから、なおさら。
――でも、べつに、特別だからけんかしないってわけじゃないんだけど。
お互いにそれなり以上に沸点が高いことも一因だろうが、あたりまえの配慮として、把握済みの地雷を踏まないようにしているから、大きなけんかに発展しない、というだけのこと。特段に馬が合うからでも、特別だからでも、なんでもない。
だから、どうせこのくらいでは、真白はなんとも思わない。俺とは、違うから。
「俺がなんとかしてあげようか」
「なんとかって。してくれる気があるんなら、もうちょっと頻度下げてくれたらそれでいいよ」
「だから。もっと直接的になんとかしてあげよっかって」
「はぁ? なにが」
「俺、うまいらしいから。安心していいよ」
気障ったらしいキスをする前振りのように、おとがいに指をかけて、ほほえむ。
「俺が原因なんでしょ? お詫び代わりに解消してあげよっか。どうせ、俺はしろと違ってありあまってるし?」
予想外すぎたのか、真白はなにも言わなかった。ぽかんと固まった顔には、困惑がありありと広がっている。
なにしてるんだろうなぁと思いながらも、慎吾はやめなかった。指の腹で頬を撫でる。こんなに近くにいたのに、触れたのは随分とひさしぶりだった。
そのことを、真白は知っているのだろうか。
「慎吾」
そこでやっと真白が口を開いた。意図を図るようにこちらを見つめていた瞳が、ぎこちなく揺れる。
「……なんか、おまえ、怒ってる?」
どうにか絞り出したらしい問いかけに、こぼれたのは乾いた笑みだった。
「しろの中で、今の流れで俺が怒る要素あったんだ?」
「そういうわけでもないけど。でも、怒ってんじゃん」
こんな感情の波には、すぐ気がつくくせに。
八つ当たりだとわかっているのに、思ってしまった。俺の「好きだ」という感情にも、気がついてくれたらいいのになんて、そんなことを。
頬に触れていた手が首筋を這って肩を押しても、真白は動じなかった。重力に従って素直にカーペットに押し倒されたまま、慎吾を見上げてくる。
「ほら、怒ってる」
「怒ってないって」
「でも」
この体勢で、男とも平気でヤるってやつに押し倒されて、開口一番がそれか。信用を崩したくて、慎吾は唇を歪めた。
「じゃあ、俺としてみる?」
信用を崩したかった、と思ってはいた。けれど、どうせ真白は笑って一蹴すると思っていたのだ。冗談にしかならない、と。それなのに―― 。
「真白?」
そう、名前を呼ぶ。困惑ばかりだった瞳に、怯えたような色が混ざる。認識した瞬間に、頭が冷えた。
「あー……」唸るように目を閉じて、慎吾は真白から手を離した。そのまま立ち上がる。「ごめん」
そんな反応をされるとは、思っていなかったのだ。
「慎吾」
「ごめん、冗談」
「慎吾」
「やりすぎた」
本気だったと、気づかれた。その事実に、血の気が引いていた。まだ言うときじゃない。言うべきじゃない。ずっとそう思って、我慢していたはずだったのに。
真白にくるりと背を向けたまま、慎吾は努めていつもの調子で言い募った。
「ごめん。でも、ちょっと苛々してんのかも。迷惑かけたくないから、しばらく頭冷やすね」
靴を履いて、ドアノブに手をかける。「慎吾」ともう一度名前を呼ばれた。らしくない、ためらいがちな声で。けれど、足音は続かなかった。
そんな声を出させている事実に、自己嫌悪がぐるぐると渦巻き始める。
――なにやってんだろうな、俺。
勝手に苛々して、八つ当たりで怖がらせて。こんなことをしたかったわけじゃない、つもりだった。
「ひとりでできるってずっと言ってたよね、真白。悪いけど、しばらくひとりでやってて」
顔を見ないまま言い切って、外に出る。声はもう追ってこなかった。
再びそんなふうに感じたのは、自室に鍵を差し込もうとしたときだった。隣の二〇二号室から、うっすらと明かりが漏れている。
――珍しいこともあるもんだな。
胸中で、そう繰り返す。眠ることが至福と言ってはばからない幼馴染みは、夜更かしとは縁遠く、二十三時には確実に布団に入っているはずだった。
まぁ、消し忘れただけかもしれないけど。ずぼらだから。いいかげんだから。言い聞かせてみたものの、どうにも気持ちが落ち着かない。キーケースを見つめたまま、立ち尽くすこと数秒。
慎吾は溜息ひとつで隣の部屋の前に移動した。そうして、ごはんをつくりに行くとき以外は使わないようにしようと決めていた合鍵で、開錠する。
やめたほうがいいとは、わかっていた。わかっていても、珍しいことが続くと、焦燥が募ってたまらなくなる。
俺の知らないところで、俺が関係してないところで、変わってんじゃねぇよ。動かされてんじゃねぇよ。そんなことを思ってしまう。
けれど、慎吾は、この感情は自己本位はなはだしく、理不尽なものだということもちゃんとわかっていた。極力態度にも出さないよう努めているつもりだ。
――なのに、あいつには通じないんだよなぁ。
誰もが自分のことを「いいやつ」だと言う。気分にムラがなくて、誰にでも優しいと、そう。自分でも意識してふるまっていたから、そういう意味では当然の評価なのかもしれない。それなのに、昔から幼馴染みにだけは通じない。真白は、簡単に慎吾の感情を読み取ってしまう。
「しろ? まだ起きてんの?」
一声かけて靴を脱ぐ。顔を上げた瞬間に座卓の前にいた真白と目が合って、え、と半ば本気で驚いてしまった。さらに珍しいことに、パソコンまで立ち上がっている。起きてたのか。
「あ、いや。電気ついてたから。珍しいなって」
心なしかびっくりした顔をしているようで、言い訳めいた台詞が口をつく。無言のままこちらを見つめていた真白が、溜息まじりにヘッドフォンを外した。ぱさりと黒髪が揺れる。
「萎えた」
ぽそりと呟いたのを最後に、カーペットの上に転がる。不貞腐れた子どものようにしか見えなかった。
「萎えたって、え、なに。珍しい。AV?」
三大欲求のバランス比率が睡眠欲に偏り切っている、あの真白が。興味が勝って、慎吾は隣に回り込んだ。
「俺の趣味じゃないけど」
「うわ、本気で珍しいの見てる。どういう心境の変化なの、ちょっと」
覗き込んだ画面から、寝転がったままの幼馴染みに視線を移す。その視線を受けて、真白が嫌そうに顔をしかめた。
「だから。俺の趣味じゃねぇって言ってんだろ」
「いや、だってこれ」
いわゆるエスエムものである。真白の趣味でないことは百も承知だ。だって、前にそう言っていた。仲間内で過激なものの鑑賞会が流行っていたころのことである。俺はもっと楽しそうなのがいいと言って早々にギブアップしていたことを、慎吾は覚えている。
真白らしいな、と思ったのだ。彼女ができたら、面倒くさいだなんだのと言いながらも、ちゃんと優しくするんだろうな、と。その相手は、自分ではないのだろうけれど。
「っつか、こういうときこそ見て見ぬふりしろよ、おまえ。得意だろうが」
億劫そうに上体を起こして、真白はパソコンの電源を落とした。ヘッドフォンから漏れていた高い声がぷつりと消える。
「いいじゃん、いまさらでしょ。いまさら」
ふつうはそうするだろうなと納得したものの、慎吾はへらりと笑ってみせた。引く気になれなかったのだ。その笑顔を一瞥した真白の指が、トントンと机の縁を叩く。
「なに、なんなの。そんな苛々して」
「……最近」
苛々としたそぶりも珍しいが、ここまでぶっきらぼうな調子も珍しい。「最近?」と促すと、渋々と真白が話し出した。
「前にも増して性欲がねぇんだよ。さすがにちょっとこれは男としてどうなんだと」
「え? でも、昔から本当にないよね、しろ」
「だから増してって言ってんだろ。増してって。その話してたら野々村が」
「野々村さんが?」
「なんだよ。だから、野々村が、そりゃ刺激が足りてねぇんだって、勝手にいろいろ落としてったんだよ。これでも見てみろって」
「それで、これですか」
そういう相談を、あの人にするんだ。俺にはなにも言わなかったくせに。兄弟、か。増幅した苛立ちに、慎吾は小さく笑った。その笑みをどう取ったのか、真白が吐き捨てる。
「というか、おまえのせいだ」
その視線は、暗いパソコンの画面を見つめたままだ。おまえのせいと言われて、慎吾は「なにがだよ」と言い返した。おまえのせいだ、とか、むしろ、俺が言ってやりたいくらいだ。
「だって、そうだろうが。おまえが盛った猿かなんかみたいにヤリまくってるから。……だから、それで、俺まで麻痺したんだよ」
「へぇ。それで、俺のせい」
「あんな声ばっかり聞かされるこっちの身にもなれって。頼むから」
なにも感じなくなった、と続いた台詞に、「そっか」と慎吾は頷いた。なるほど。それで、俺のせい。
「だから、そうだって言ってんだろ。わかったらちょっとは自重し……」
視線が絡んだ瞬間、中途半端に真白の声が途切れた。もしかすると、かなり苛立った顔をしていたのかもしれない。気づいたけれど、それだけだった。どうにもできない。取り繕えない。
いつも、そうだ。真白への好意を押し隠すだけでいつも自分は精一杯だった。でも、こぼれそうになる感情を必死になってせき止めていたのは、大切にしたかったからだ。
真白を傷つけたいと思ったことは、一度もなかったはずだった。
「ねぇ、しろ」
「なんだよ」
戸惑った様子を隠さない真白に、にこりと笑いかける。真白が、機嫌の悪い自分を苦手がっていることは知っていた。
たぶん面倒くさいのだろうと慎吾はその理由を推測している。普段めったなことではけんかをしないから、なおさら。
――でも、べつに、特別だからけんかしないってわけじゃないんだけど。
お互いにそれなり以上に沸点が高いことも一因だろうが、あたりまえの配慮として、把握済みの地雷を踏まないようにしているから、大きなけんかに発展しない、というだけのこと。特段に馬が合うからでも、特別だからでも、なんでもない。
だから、どうせこのくらいでは、真白はなんとも思わない。俺とは、違うから。
「俺がなんとかしてあげようか」
「なんとかって。してくれる気があるんなら、もうちょっと頻度下げてくれたらそれでいいよ」
「だから。もっと直接的になんとかしてあげよっかって」
「はぁ? なにが」
「俺、うまいらしいから。安心していいよ」
気障ったらしいキスをする前振りのように、おとがいに指をかけて、ほほえむ。
「俺が原因なんでしょ? お詫び代わりに解消してあげよっか。どうせ、俺はしろと違ってありあまってるし?」
予想外すぎたのか、真白はなにも言わなかった。ぽかんと固まった顔には、困惑がありありと広がっている。
なにしてるんだろうなぁと思いながらも、慎吾はやめなかった。指の腹で頬を撫でる。こんなに近くにいたのに、触れたのは随分とひさしぶりだった。
そのことを、真白は知っているのだろうか。
「慎吾」
そこでやっと真白が口を開いた。意図を図るようにこちらを見つめていた瞳が、ぎこちなく揺れる。
「……なんか、おまえ、怒ってる?」
どうにか絞り出したらしい問いかけに、こぼれたのは乾いた笑みだった。
「しろの中で、今の流れで俺が怒る要素あったんだ?」
「そういうわけでもないけど。でも、怒ってんじゃん」
こんな感情の波には、すぐ気がつくくせに。
八つ当たりだとわかっているのに、思ってしまった。俺の「好きだ」という感情にも、気がついてくれたらいいのになんて、そんなことを。
頬に触れていた手が首筋を這って肩を押しても、真白は動じなかった。重力に従って素直にカーペットに押し倒されたまま、慎吾を見上げてくる。
「ほら、怒ってる」
「怒ってないって」
「でも」
この体勢で、男とも平気でヤるってやつに押し倒されて、開口一番がそれか。信用を崩したくて、慎吾は唇を歪めた。
「じゃあ、俺としてみる?」
信用を崩したかった、と思ってはいた。けれど、どうせ真白は笑って一蹴すると思っていたのだ。冗談にしかならない、と。それなのに―― 。
「真白?」
そう、名前を呼ぶ。困惑ばかりだった瞳に、怯えたような色が混ざる。認識した瞬間に、頭が冷えた。
「あー……」唸るように目を閉じて、慎吾は真白から手を離した。そのまま立ち上がる。「ごめん」
そんな反応をされるとは、思っていなかったのだ。
「慎吾」
「ごめん、冗談」
「慎吾」
「やりすぎた」
本気だったと、気づかれた。その事実に、血の気が引いていた。まだ言うときじゃない。言うべきじゃない。ずっとそう思って、我慢していたはずだったのに。
真白にくるりと背を向けたまま、慎吾は努めていつもの調子で言い募った。
「ごめん。でも、ちょっと苛々してんのかも。迷惑かけたくないから、しばらく頭冷やすね」
靴を履いて、ドアノブに手をかける。「慎吾」ともう一度名前を呼ばれた。らしくない、ためらいがちな声で。けれど、足音は続かなかった。
そんな声を出させている事実に、自己嫌悪がぐるぐると渦巻き始める。
――なにやってんだろうな、俺。
勝手に苛々して、八つ当たりで怖がらせて。こんなことをしたかったわけじゃない、つもりだった。
「ひとりでできるってずっと言ってたよね、真白。悪いけど、しばらくひとりでやってて」
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