夢の続きの話をしよう

木原あざみ

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第十四話

79.

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 雨が降っていた。
 カーテンを引いた先の空は、重苦しい鉛色だ。

 ――まぁ、でも、昨日は降らなかったんだから、なによりだよな。

 結局、直接、足を運べはしなかったが、代表戦は引き分けに終わった。テレビで観戦すること自体が久しぶりだったのだが、見始めてしまえば、いつの間にか引き込まれてしまった。
 さすがに、折原や富原と言った、昔から知っている人間が選手としてピッチに立っている姿を見たところで、取り立てて何の感慨も湧かない。けれど、これが生徒だったらどうだろうと考えてしまったのは、間違いなく監督とした話の影響だ。
 そんな年齢に到達したと言うことも一因かもしれないけれど。
 スマートフォンに新たな通知が来ていないことを確認して、小さく息を吐く。
 どこか行きたいところとか、したいことってありますか。そう尋ねられたのは、数日前のことだった。
 次に戻ってくるのは、また少し先になると思うので、と続いたそれは、だから俺に合わせると。そう言うことだったのだろうが。

 ――と言うか、そもそもとして。目立つだろ。おまえは、どこにいたって。

 そんなことを真っ先に思ってしまった。ある意味で、昔とは違う、一番大きな要因だ。 
 家で良いと言ったのは、つまり、そんなわけだった。

 ――まぁ、話すにしても、周りに人がいない方が良いし。

 言い聞かせるようにして、呟く。何を話すかどうかは、しっかりと決めているわけではないけれど。それはさておいたとしても。
 このままと言うわけにはいかないなと思うのも事実で。
 たぶん、俺が何も言わなかったとしても、そのまま何事もなかったかのように流れていくのだろうと思う。それは、俺が何度もしてきたことだし、ある意味で言えば、折原もそれで良しとしてくれていたことだ。

 ――でも。

 でも、と思うのは、そのままだと、いつか行き詰るだろうとも思うからだ。
 あのころから、何年が経ったのか。あるいは、再会してから。あるいは、かたちを変えて付き合い出してから。
 変わらないままの関係なんてないと言うことも、十分に思い知った。 


 このマンションに来るのは、これで二度目だ。合鍵を持っているとはいえ、中に家主が居ることが分かり切っているのに、使う必要性も感じない。なので、躊躇いなくエントランスでベルを鳴らして、開いたドアから中に入る。
 変な感じだな、と思った。
 微かな緊張を誤魔化すように、考える。そう言えば、こんな風に訪ねたことはなかった。深山にいた頃は、そんな必要がなかったし、三年前も、俺は一度も折原のプライベートに踏み込もうとしていなかった。
 今になって思えば、深く関わることを恐れていたのかもしれない。

「すみません、迎えに行けなくて」

 開口一番そう謝られて、「いや」と首を振ってからふと思った。
 俺は、学生時代、そんなに先輩面して折原をこき使っていただろうか、と。

 ――使ってたのかもしれない。俺に自覚がないだけで。

「前にも来て場所も分かってたから。それより、悪かったな」
「え?」
「昨日、結局、観に行けなかったから」

 俺が言わなければ、折原が知る由はなかったとは思うが、それとこれとは話が別だ。
 用意してもらった席も無駄にしてしまったわけなので、そう言った意味でも申し訳ないと思う。

「あぁ、全然」

 気を使ってと言うよりかは、本当にどうでも良さそうに折原は笑い飛ばした。

「そんなに気を使って貰わなくても大丈夫ですよ、本当に」
「いや……」

 どう言おうかと悩んだのだが、結局そのままを口にした。

「折角だし、観たかったは、観たかったから」
「そうですか?」
「おまえの出る試合、生で観れることって、なかなかないから。ただ、監督が……」
「あぁ、ぎっくり腰でしたっけ。腰痛が悪化したんでしたっけ。そう考えると、年ですよね。あの人も」

 なんで知っているのかとの疑問が顔に出ていたのか、折原が補足する。

「結構、代表戦とかで俺が出てると、未だにメールもらったりするんで。その流れで聞いてました。すみません」

 あの人、マメですよね、と折原はあっさりと笑っているが、俺には真似のできない芸当だなと思った。たぶん、折原だけではなく、そうやって卒業した部員のこともきちんと気にかけているのだろう。

 ――でも、深く関わる、指導をしていく、ってそう言うことなんだろうな。

 教師と言う道を選んでおいて、何を今更と思われるだろうが、俺はそこまでの熱い思いを抱いていたわけじゃない。最低限、職業として教えようと思っていただけだ。サッカー部の顧問も、監督に義理があったから受けただけだ。若手の教員が運動部の顧問に駆り出されるのは仕方ない現実だったし、だったら、まだ、なじみのあるところの方が良いとの打算もあったけれど、それだけで。

「どうかしました?」
「――え?」
「いや、なんか、悩んでる風だったんで。サッカー部のことですか。指導する側に回ることに抵抗でも?」
「おまえ」

 思わず、まじまじとその顔を見つめてしまった。

「なんで、そんな何もかも知ってんの」

 俺はその話を折原にした記憶はない。となれば、出所は監督なのだろうけれど。

「春にほら、行ったじゃないですか、深山に。そのときにちらっと。それで、この間、なんだったかな……忘れたんですけど、話した時にもそんなことを監督が言ってたので。なんだ、あの人、諦めてなかったのかと」
「だから、なんでそう言う話になるんだよ」
「そんな嫌そうな声を出さなくても。世間話の一環程度にしか聞いてないですって。まぁ、やるやらないは先輩の自由だとは思いますけど」

 そう言えば、そもそもとして、今年になって会うより前から、俺が深山に戻ってきたことも知ってた風だったもんな、と思うことにした。
 監督は、良くも悪くも、卒業して何年経っても変わらず仲が良いとしか思ってはいないだろう。そんなものなのだろうとも思った。

 ――男が二人並んでて、だからって、それを見て、すぐにゲイだのなんだのと思う方が、きっと少数派だ。

「いや、そんなにそこを悩んでたわけでもないんだけど」

 悩もうが悩むまいが、俺が深山に残ることに変わりはない。この距離が変わることもない。

 ――って、それだとまるで、俺が仕事も全部辞めて変えて、着いて行きたいって思ってるみたいじゃねぇか。

 それはさすがにない。重すぎる。浮かびかけたそれに蓋をして、「なんでもない」と口にする。実際、なんでもないことなのだ。折原は俺がこの現状でも寂しいと思うことすらないと考えていたみたいだし。

「……先輩?」

 訝しげに呼びかけられて、考えている間に、やたらと凝視してしまっていたらしいことに気が付いた。

「いや、……悪い。なんでもない」
「そうですか?」
「うん」

 本当になんでもないで押し通そうとして、――やめた。時間の無駄だ。

「なぁ」
「あの」

 予想外に言葉が重なって、顔を見合わせる。「どうぞ」と当たり前のように先を譲られてしまって、躊躇したものの話すことにした。結局、聞いてみないとどうにもならないのだと理解している。

 ――考えても分からないで、済ませていいものじゃないから、なぁ。

「いや、おまえさ。俺に言いたいこととかってある?」
「言いたいこと、ですか」
「そう。なんというか、良く分からないし」

 分からないと言い切ってしまうのも逃避なのかもしれないが、それ以外に表現のしようがないのだから仕方がない。

「分からないと言うか、……うん、やっぱり、そうだな。良く分からない」
「分からないと言うのは、あれですか。このあいだの話ですか」

 そう言うだけの自覚はあるわけだとも思ったが、そもそもとして「その話はまた今度」と正に言い逃げしたのは折原だ。

「まぁ、それも含めて」

 富原は分からなくもないだなんて言っていたが、俺にはさっぱり分からなかった。

 ――昔から、富原との共通点の方がよっぽど多いもんな、もともと。

 付き合いだけで言えば、俺とよりも古いわけだし。俺がいないところで何を話していたとしても、それもべつに良いのだけども。

「なにか、言いたいこととかあったかなと思って」
「あー……、はい、そうですね」 
「とくにないなら、俺から言っても良いんだけど」

 らしくない濁しように、小さく息を吐く。そんなに言いにくいようなことなのだろうか。
 俺には分からないと思うのは、ある意味では変化だったのかもしれないとも思った。なんでだろうとも感じたし、不思議だとも不満だとも思ったけれど。
 昔はそれこそ、折原のことはなんでも分かるような気がしていた。そんなことがあるわけがないのに、そう信じていた。そして、今も未来もすべて、より良いものを指し示してやれるような気さえしていた。

 ――あの当時の俺は一体、折原の何のつもりだったのだろう。

 そのことに気づくまでにかかった時間が十年だとすれば笑えないとも思うけれど。

「と言うか、そもそもとしてで言いたいことと言うか、確認したいこともあったんだけど」

 確認ですか、と折原が語尾を繰り返す。その顔は、昔の面影はもちろんあるけれど、ずっと大人びていて、ずっとずっと良い男になっていると思う。
 見た目だけの話ではなくて、中身も、すべてが。

 ――それなのに、俺を好きだって言う、奇特なやつ。

 馬鹿だなとは思う。これは本当に、心の底から。

「おまえって、俺がおまえのことちゃんと好きって、分かってる?」

 折原が俺をどう思っているのかは分からないけれど、でも、きっと、折原が思っているよりもずっと、俺は折原が好きだ。
 戸惑っているのか、悩んでいるのか。何も言わない折原に畳みかける。

「それこそ、おまえがどう思ってるのか知らないけど。普通に、おまえのいるところは遠いとも思うし、逢いたいとも思うし、寂しいとも思うよ」
「……あの」
「だから、逢えたら嬉しいとも思うし、滅多にない機会なんだったら、できるだけ……多少、無理しても時間はつくりたいと思う。でも、これって普通だと思うんだけど」

 いや、でも、そのはずだ。そんなにおかしいことは言っていないと思う。「付き合っている」と言うのならば。

「どう思う?」

 半ば一方的に捲し立てた自覚はあったが、我に返ったらその瞬間に何も言えなくなる気がしたので、言い切る。

「いや、あの。……はい」

 観念したように頷いたかと思ったら、顔を手で隠されてしまった。

「でも、先輩。ちょっと、待って。お願いだから」
「なんだよ」

 基本的に折原はあまり感情を大きく動かさないし、話すときは人の目を見る。だから、その姿はあまり見たことがないと言えば、見たことがないもので。

「いや、その、なんと言うか……恥ずかしい」
「――自分がどう言う台詞を今まで口にしてきたか思い出してから言えよ、それ」

 今の一瞬で、俺がどれだけ緊張したと思ってるんだ、こいつ。
 力の抜けた呆れ切った声で応じてしまったが、仕方がないと思いたい。冷静に省みたら恥ずかしいに決まってんだろうが。でも、それでも、と思って口にしたつもりだったのだけれど。

「先輩が、普段、そう言うことを全く言わないからじゃないですか」

 拗ねたように言われてしまうと、返す言葉がない。

「悪かった」
「そこで、素直に謝られるのも、慣れなくて落ち着かないと言えば落ち着かないんですが」

 調子を整えるように小さく息を吐いたかと思えば、顔が上がる。そこにあったのは、いつも通りのそれで。苦笑一つで元通りだ。安心するようなつまらないような気分のまま待っていると、答えではなく質問が飛んできた。

「でも、どうして急にそう言うことを言ってくれたんですか?」
「どうしてって、おまえがそう思ってないんじゃないかって思ったからだけど」

 可愛くない。昔はもう少し、扱いやすかったのに。

 ――いや、扱いやすくさせてくれていただけなのかもしれないけれど。

「まぁ、……そうですね」

 困った風に眦を下げるあの笑い方で笑って、結局あっさりと肯定する。

「いや、でも、そうだな。分かってましたよ、たぶん」
「たぶん?」
「前にも言ったかもしれないですけど。なんだかんだ言っても先輩は義理堅いから。だから、変わらないといけないと思ってくれてるのかもしれないなとも思いましたけど。それだけじゃないなとも分かってました」

 その言葉に、少しほっとした。伝わっていなかったわけではないのかと。でも、だとすれば、なんだとも思う。

 ――変わって欲しくなかったのだろうか。

「でも、そうですね。だから、ちょっと困っていたと言うか。困ると言うと語弊があるかもしれないですけど」
「困るって、変わることが、か?」

 変化が怖いというタイプでもないだろう。どちらかと言わなくとも、折原はそうじゃない。いつだって、前を向いて進んでいく。変わっていく。
 それに引きずられて、引っ張り上げられて、俺も変わり始めていたのかもしれないけれど。

「おまえはそんなこと気にするようなタイプでもないだろ」
「そう思いますか」
「俺はそう思うけど」
「そうですか」
「うん」

 少なくとも、俺の知っている折原はそうだ。才能に胡坐をかくこともなく邁進していく。どこまでも。ついていくことができないと悟ったのはいつだっただろう。同じ世界を見ることもないと知ったのは、いつだっただろう。
 こんな風に、違う角度からまた交われるとは思ってもいなかった。それを教えてくれたのも折原だし、だからこそ間違えないように大事にしたいとも思っていて。

「でも、違うなら教えてほしい。悪いけど、何も言われなかったら、俺は気づかないから」
「先輩は」

 しばらくの沈黙のあと、折原が口を開いた。「何と言うか、ずるいですよね」

「ずるいと言うと、あれですけど。そうやって、結局、受け入れようとしてくれるから。だからつけ込まれるんですよ、俺に。今も昔も」

 話がどこに転がったのだろう、と思ったけれど、口を挟むのはやめた。

 ――でも、とは思ったけれど。

 俺は、おまえにつけ込まれたと感じたことなんて、一度もない。

「昔は、べつにそれでも良かったんです。だって、先輩は、先輩だったでしょ。俺がなにか言ったところで、嫌だったら一蹴したじゃないですか」
「今はそうじゃないって?」

 今も昔も、俺は自分がしたいようにを押し通しているとしか思っていなかったのだが。折原の認識は違ったのだろうか。ここまできて迷うように言い淀んで、そして笑う。どこか諦めたように。

「今の先輩は怖いです」
「……怖い?」
「俺に簡単に押し流されそうで、それが」
「じゃあ、なんだよ。おまえは俺がおまえを受け入れないで、ずっと突っぱねてたら良かったのか?」

 そうであれば、安心して「好きだ」と言えていたとそう言いたいのか。俺が受け入れない前提で、叶わない恋愛を楽しみ続けていたかったのか。
 そんな訳はないと分かっているのに、思考は止まらなかった。

「今みたいに変化することを望んでなかったのか?」

 それとも、折原が望むような変化になっていないから、なのだろうか。

「そう言うわけでもないんですけど。なんて言ったら良いのかな。怒らせるつもりもなかったんですけど、……だって、あのころと今は違うじゃないですか」
「それはそうだろ。俺とおまえは同じところには立ってないし、同じこともしてないし、ずっと一緒にいるわけでもない。年だってずっと取った。あのころみたいなガキでもない」

 なんだか、昔、折原に言われたことをそのまま返してるみたいだ。あのとき、折原も今の俺のように苛立っていたのだろうか。昔から折原は俺と違って、感情的に声を荒げたりするようなことは滅多になかったけれど。

「そうじゃなくて」

 だから、その声に苛立ちが微かに滲んでいることに少し驚いた。本人も気が付いたのか、取り繕って言い直す。

 ――べつに、そのままぶつけてくれたら良いのに。

「先輩の言うことは分かりますよ。でも、そうじゃなくて」
「そうじゃなくて?」
「あのころは、先輩は俺に押し負けなかったでしょう。でも、今は違う」

 言われたことの意味がすぐに咀嚼できなくて、折原を見る。その反応も分かっていたのか、浮かんだのは仕方ないなと言わんばかりの笑みで。

「その気になったら、俺は先輩が嫌だって言っても、無理やりにだって、なんでもできますよってことです」

 ――いや、いや。それはないだろ。

 瞬時に否定が浮かぶ。確かに、あの当時と比べれば体格の差もできたのかもしれない。認めたくはないけれど、力の差もあるのかもしれない。でも、そう言う表面的なことではなく、「ない」だろうと思う。

「ないだろ、それは」

 それなのに折原は、呆れたように言い足した。

「これは俺が悪いのかもしれないですけど。先輩は、基本的に、俺が絶対に先輩の言うことなら聞くと思ってるでしょう」

 それも以前に言われたような気がする。

「そんなこともあるわけないだろ」

 学生だったころならいざ知らず、そんな影響力があるはずもない。そもそもとして、と思う。そもそもとして、確かにあのころも折原は強く主張することはなかったけれど、それは折原がどうでもいいと思っていたことに関してくらいだろう。
 そうじゃないことは、俺が何を言ったって、変えなかった。

「それに、そうじゃなくて。おまえはそう言うことしないだろって言ってんの。そもそもそんなこと言い出したら、ほとんどの男が女と付き合えなくならないか」
「その例えで言うなら、女の人はきちんと自衛もしますし、警戒しますよね。……あの、例えの言葉尻に乗っただけなんで、気を悪くしないでくださいね?」
「……分かった」
「いや、だから、――そう言うこと、分かってますかって聞きたかったんですけど。分かってないですよね」

 そう言うこと。
 そう言う風に見ていると言うこと。

「想像したこともないんじゃないかと思って。先輩は俺がずっと『先輩』だって思ってるだろうって言いましたけど、そうですよ。そう思ってなかったら、我慢できない」
「我慢って」
「先輩はいつも俺がどれだけ我慢してるかしらないでしょう、と言うことです」

 どう応じれば良いのか、分からなかった。けれど、折原は苦笑しただけで続ける。なんでもないことのように。

「考えたことありますか。俺が……、昔からあんたが何の気なしに近くに来るたびに、どれだけ触れたいって思ってたか。その声で俺じゃない誰かに話しかけるだけで、どれだけ嫉妬してたか」

 嫉妬って。俺がおまえに対してするならまだしも、おまえが俺の周囲にするような理由は何一つもないだろう。そう思うのに、それが当たり前なのに、折原が本当にそう思っているらしいことも分かってしまった。

「しらないでしょう、何も」

 俺は知らなくて当たり前なのだと思っているような声だった。

「俺が、どれだけあなたを俺だけのものにしたいと思っているかなんて」

 何を言っているんだと思って、その顔を見て。馬鹿だと思った。これも何度目になるのか、分からないけれど。

 ――なんで、なんでも持ってるくせに。なんでも、誰でも、選べるくせに。何年も何年も、俺が良いって言うんだろう。

 折原が何をどう言おうが、俺は俺自身にそんな価値があるとは思えない。人間ができているとも思わない。でも、それでも、俺が良いと言うなら。
 幸せにしてやらないわけにはいかないだろう。俺の精一杯で。この先のすべてをかけてだって。
 そう思ったら、考えるよりも前に言葉が零れ落ちていた。

「するなよ」
「……え?」
「するなよ、我慢なんて」

 戸惑いに揺れる顔に、手が伸びた。触れたいと思うのも、全部、俺の意思だ。それ以外にない。

「欲しがれよ、俺は欲しい」

 瞳が伏せられて、上がる。頬に触れた指先をゆっくりと大きな手のひらが掴んで降ろす。けれど、その手は離れなかった。
 熱を孕んだ瞳が、まっすぐに射る。折原だと思って、安堵する。そして不安だったのだと再認する。ずっと自分を見ているのが当たり前だと思っていたものが、逸れそうになっているのが怖かったのだと。

「そう言うこと、言わないでくださいって言いませんでしたっけ、俺」
「そうだったか?」
「言いましたよ。我慢してるとも、言いましたよね」
「だから、するなって言ってるんだ」

 折原がそうしようと、そうしなければならないと思う理由が、いつか終わるものだからだと言うのなら。その必要はないのだと。少なくとも、俺からはもう終わりを告げるつもりはないのだと、何度でも言ってやりたい。折原が、ずっと、好きだと言っていてくれていたように。

「おまえがもう良いって言うまで、面倒看てやるから」
「言いません」

 いやにはっきりとした声だった。耳元に直接注ぎ込まれるように響くそれに抱き込まれていることを、遅れて知る。

「一生、言いませんから」

 またそうやって大袈裟なことを、と。笑おうかと思ってできなかった。その声に、匂いに、体温に。その存在に、安心して満たされる。
 俺は、折原にとってのそう言う存在になれているのだろうか。

「だから、傍にいて下さい、ずっと」

 なんでだろう、と思った。昔から、折原の声は祈るように響く。それを叶えることができるのは俺一人だと言われているみたいで。

「いるって言ってるだろ」

 もっとしっかりと言ってやりたかったのに、そのつもりだったのに、喉から出た声はどこか擦れていた。

「好きなんだよ、おまえが思ってるよりも、たぶん、ずっと」

 だから、離れようと思っていた時期があった。このままでは、自分ではコントロールできなくなると分かっていたから。堕ちていくだけだと思っていたから。
 それでも良いと思えるようになったのは、折原がずっと待ってくれていたからだ。

「安心したら良い、だから」
「先輩」

 熱のこもった声が「先輩」と呼ぶ。昔から、この声だけは変わらない。

「先輩」
「だからなんだって」
「好きです」
「……知ってる」

 有り難いことに、そのことを疑ったことはない。俺なんかを好きで良いのだろうかと思ったことは何度もあるけれど。

「でも、だから、――先輩が、こうして俺と居てくれることが、選んでくれたことが嬉しくて」
「うん」
「だから。十分、幸せをもらったら、先輩が離れたいと思ったときは、引き留めるわけにはいかないと思ってたんですけど。これでも、一応。でも」

 そんなことを考えていたことを、初めて知った。馬鹿じゃないのか、人にあれだけ覚悟を決めろだの、一緒に居て立ち向かって欲しいだなんだのと言っておいて。

 ――おまえが、その調子だから、あいつは弱音の一つも吐けないんじゃないのか。

 いい加減にそのくらい分かってやれと言わんばかりだった富原の呆れ顔と、どこか一線を引いた調子だった折原の挙動とが、脳裏に飛来する。

 ――せめて、散々、傷付けただろう分くらい、大事にしてやりたかったんだけどな。

 されるがままだった腕を持ち上げて、その背を抱きしめる。昔とは違う。けれど、変わらない。あの日、あの車内で、こうやって抱きしめ返してやっていれば、寂しい思いをさせずに済んだのだろうか。過った悔恨に蓋をして力を籠める。過去は変わらないけれど、先は変えることができる。
 そう思うようになったのも、折原が手を伸ばしていてくれたからだ。

「……折原」
「もう、きっと無理だ」 

 苦しそうにも響く声に、囁き返す。

「無理で良い」

 無理で良い。それ以外の何をも、俺はきっと求めていない。

「無理で良いから」

 抱きしめられて骨が軋みそうだと言う感覚も、折原に出逢って知ったことの一つだった。

「おまえは、何も我慢しなくて良い」

 思えば、昔から。俺の前でだけ、違う顔を見せてくれることが嬉しかった。素の表情を知っていることに、優越感に似た喜びも持っていた。
 馬鹿みたいに、先輩以外は何もいらないと言っていた子どもが、俺もずっと好きだったのだ。

「先輩」

 その声に導かれるように顔を上げた瞬間、唇が塞がれていた。すべてを持っていかれるような、キス。そこからは、もうすべてがなし崩しだった。

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