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第十三話
76.
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「と言っても、明日の昼には、合宿に合流するんですけどね」
机の前に落ち着くなり、そんなことを告げられて、なんだか不安になってきた。
「おまえ、それ、こんなとこに居て良いの、逆に」
「いや、そりゃ、居れるなら居たいに決まってるじゃないですか。メールした時点では、今日、寄れるかどうかの確証がなかったんです。だから、今日も、まぁ、居なければ居ないで諦めようかとは思っていたんですけど」
でも、会えたので良かったです、と。衒いなく口にした折原に、俺はふと首を傾げた。
「時間が空いたって分かったときに連絡くれたら、用事で出ていても時間はつくったのに」
仕事の後に、どこかに寄って、だとか。そう言うことは滅多にないけれど。どちらにしても、いつ帰ってくるのか言ってくれていれば、その期間くらい、よほどのことじゃなきゃ他のことは置いておける。
「あー……、いや、押しかけて来ておいて言うことじゃないとは思うんですけど。そこまで迷惑をかけるつもりはなかったんですよ」
「迷惑って」
「急に戻ってくることになったのも、俺側の都合なんで。先輩の日常にあまりお邪魔するつもりもなかったと言うか」
かえって気を使わせてすみません、と謝られてしまった。
「いや、別に、そう言うわけじゃ」
ない、と言うか、折原は会えるのなら会いたいと。俺もそう思っているとは考えないのだろうか。
――そう考えると、確かに今まで歓迎したことってなかったような。
思い至ったそれに、いやでもと内心で反論する。そのころと今では関係も違うはずだ。
「明日も仕事ですよね。遅くならないうちに帰りますから」
「泊まってかないのか」
まだ十時を過ぎたばかりだから、帰ろうと思えば帰れる時間ではあると思うけれど。
ごく自然と沸いた問いだったのだが、折原はひっそりと眉を下げた。
「だって、先輩、明日も朝から学校でしょ。さすがにそこまでは」
迷惑はかけませんと、そう言うことらしい。
迷惑。
「先輩」
「はい?」
「いや、おまえにとって、俺は『先輩』なんだろうなと思って」
どの口でそんな嫌味を言っているのかと。口にしてから気付いたが、出てしまったものは消えない。
「まぁ、そうですね」
少しも動じていない顔で、折原がさらりと微笑む。
「やっぱり、先輩は先輩ですし、そこは変わらないですよね」
「……そう」
「大事にしたいと思うのも、優しくしたいだとか、尊重したいだとか、そう思うのも、もちろん好きだからですけど、その根底には先輩って言うのはあるかなとは思うので」
先輩と言うものは、そんなにえらいものなのだろうか。あるいは、結局、折原にとっての俺との関係性はあの当時から変わっていないのか。それとも、地続きなだけなのか。
「いつまで?」
「いつまでって、まぁ、どうでしょうね。俺にとっての先輩は、先輩ですから。前にも言ったと思いますけど、たぶん、ずっと」
俺にとって、折原が、変わらず後輩であるように。
「折原」
「はい」
「そう言うのさ、止めない?」
「そう言うのって……」
「だから、そう言うの」
自分でこんな風に思うのもなんだが、その、すべての優先権が俺にある、と言うようなところ。
自分を無意識のうちに下に置いているような、――俺の所為なのかもしれないけれど、自分が好かれていなくても、特別に思われていなくても、当たり前と思っているようなところ。
――似合わないだろ。
そう思う。似合わないし、似合って良いはずもない。
「すぐにはあれかもしれないけど、変わるんだし」
先輩、後輩と言う関係を脱しようとしたのは、共通の認識のはずだった。相変わらずの、どこか困ったような顔で笑って、折原が首を傾げた。
「先輩からそう言うことを言われるとは思わなかったな」
「なんで?」
俺が、おまえのことをそこまで好きじゃないと思うから?
あるいは、俺が先のことを考えたりしないと思うから、か。
「いや、……その、なんだろう。気を悪くしないで欲しいんですけど。先輩は変化をあまり好まないタイプかなと思ってたので」
ずっと、一緒にいたいと最初に言ったのはおまえじゃなかったのか、とは言えなかった。
「そうかも、な」
「これも前にも言ったかも知れないですけど、もし先輩が冨原さんが言ったことを気にして、こう言うことを言ってくれてるのなら、本当に大丈夫ですよ」
にこ、と微笑んだ顔は、何の他意もなさそうに見えた。そして実際そうなのだろう。
「それだけじゃないけど、どうなんだろうな」
「あの人、なんだかんだ言っても先輩に甘いじゃないですか、それこそ昔からずっと」
それこそ確かに昔からずっと、折原は同じようなことを言っていた。
昔から、か。
「だから、そう言うことを言ってくれているだけだと思いますよ」
あのころから変わらず、保護者然とした態度でたしなめていると言いたいのを濁しているらしいことも分かった。でも、分からない。
三年前、あのころから変われていないのは俺だけだと思っていた。折原は昔の自分ではなく今の自分を見て欲しいと言った。脱却しなければならないと感じた。
いつまでも、あの日々のままでいられるわけがないのだから、と。
それなのに、ここにきて、折原は今のままで良いと言う。まるで変質を恐れているかのように、変わらなくて良いと言う。
最初、俺はそれが折原が俺に好かれている自信がないからなのかもしれないと考えていた。俺がそう言うことを言ったり示したりしなかったことに起因しているのではないだろうか、と。
けれど、そうではないのかもしれない、とふと思いついてしまった。
「そうかもな」
もう一度、同じ言葉で同意を示した俺に、折原はどこかほっとしたように破顔した。
「会いたいわけでもないですけど、富原さんには、明日、会いますから。俺から心配してもらわなくて大丈夫ですって言っておきます」
「いいよ、余計なこと言わなくて」
「俺が言いたいだけです。心配してもらわなくても、十分幸せなので大丈夫です、って」
軽口に言わなくていいと釘を刺して、溜息の代わりに小さく笑う。
折原が好きだったのは、あくまであの当時の俺であって、今の俺ではないのかもしれない。
どんな俺でも、と言うのは、そのことを、あるいは折原自身も認めたくなくて、言葉にしているだけなのかもしれない。
「あいつも出るの? 試合」
「十中八九そうだと思いますよ。個人的には富原さんの方が慣れてるので嬉しいですけどね」
富原がA代表に名前が挙がるようになったのはここ一年ほどの話だが、代表に定着していたゴールキーパーが怪我で長期離脱した背景もあり、最近はスタメンで出場する機会が増えている。
時間はそうやって、流れているはずなのに。
「そう言う話、聞かないんですか。富原さんから」
「あんまり聞かないし、あいつも言わないな。少し前……って言っても二ヵ月くらい前か、に深山に顔は出してくれてたけど」
「富原さんだったら、俺よりずっと上手く話してたでしょ、いろいろ」
実があるのかないのか分からない会話を交わしているあいだに、時間は経っていたらしい。本当に顔を見に寄らせてもらっただけなので、と笑顔のまま折原が暇を告げる。
「チケット貰おうと思えば貰えますけど。見に来ます? 試合」
「見に来て欲しいの?」
試すような言い方をしてしまったと思ったが、折原は変わらなかった。
「見てもらってると思うと嬉しいですけど。同じだけ緊張もしますね」
そんなことあるわけないだろうと思うことを折原はさも当然と口にする。いつものことだ。
「夜遅くなりますし、無理にとは言いませんから」
「……行く」
「ん? はい?」
「だから、行く。おまえが帰ってきてる短い時間くらい、どうとでも都合できる」
「先輩」
推し量るように見つめてくる瞳は困惑の色が強かった。
「あの、なにか……怒ってます?」
察するに、そう言った顔をしていたか、していなくとも何かしらが滲み出ていたか。小さく息を吐いて、切り替える。
「久しぶりに逢って、怒るもなにもないだろ」
「迷惑だったかな、とは」
そう思わせているのは俺かもしれない。と一応は考えていたはずの殊勝さが吹き飛んだ。
「折原」
なんだかそれこそ学生だったころ。後輩を叱責するかのような調子になってしまった。無性に腹が立ってきたのだ。
「おまえは、俺がおまえに遠慮して迷惑も受け入れてるとでも思ってるのか」
そんな良い人ではなかったはずだ。少なくとも、折原の前での俺は。
「そうは思わないですけど」
「けど?」
「なんだかんだと言って、先輩は義理堅いから。……その、俺に負い目を感じていると、どうかな、とは」
「負い目」
繰り返した平坦な声に、折原が困ったような顔で笑う。いつもの顔だ。いつもの。
――昔も、こんな笑い方だったか、こいつ。
いや、昔は、……本当に昔。学生だったころは、そうじゃなかった。少なくとも、中等部にいた当時は違った。高等部に在学していたころはどうだっただろうか、と思って愕然とした。
俺か。俺と、密に関わり合うようになってからか。
「負い目って言う表現があれだったら、罪悪感とかでも良いんですけど」
どっちも意味は一緒だろうとも言う気になれなかった。その沈黙をどう取ったのか、阿るように折原が続ける。
「いや、あの……責めているとか、そう言うわけではなくて。どちらかと言うと、それを踏まえた上で、あまり気を使わないで欲しいと言いたかったと言うか」
「折原」
顔を上げて呼びかける。昔は、こんな風に上向かなくても目は合った。もっと昔は、俺よりも低かった。
「たとえば俺が、おまえに逢いたいと思っていたと言ったとしても、おまえのなかでは気を使った発言になるわけか」
「そう言うわけでは……」
戸惑う、と言うよりかは、真意が分からないと言う声だった。俺の所為なのかもしれないとも思ったし、やっぱり腹が立つとも思ったし、触れたい、とも思った。
これも、罪悪感だとでも言うのだろうか、こいつは。
「逢いたかった」
「え……」
「普通に逢いたいとも思ったし、寂しいとも思った。それはおかしいのか」
伸ばしかけた指先が届く前に、折原が取った。拒むように。眉間に皺を寄せたまま、つい睨むように見上げてしまった。
「嬉しいです」
とってつけたような台詞に、皺が深くなる。やばいと思ったのか、宥める調子が強くなる。
「嬉しいんです、けど」
いっそ似非臭いまでの爽やかな笑顔が浮かぶ。
「こう言うのは、また今度にしましょう」
「また、今度」
「そう。また今度」
なんだ、また今度って。憮然としているうちにするりと手が離れていく。
「チケットは送りますから。だから、今日はもう寝てください」
「寝ろって」
「明日も朝は早いでしょう? 俺も早いので」
正論のようなことを一息に言いきった、「そうですよね」と言わんばかりの笑みに、気が付けば押し切られていた。
「ちゃんと鍵かけてチェーンもかけてくださいよ、そのくらいの習慣つけてくださいね」
なんだかよく分からない台詞に、結局のところ何が言いたかったんだ、あいつは、と。思えるようになったのは、ドアが閉まってからだった。
……なんだ、あいつは。
何が言いたかったのか、何がしたかったのかはいまひとつ分からない。分からないが、拒まれたらしいと言うことは分かった。
なんだ、あれは。
思えば今まで俺が折原の言動を遮ったことは多々あれど、逆は今まで一度もなかった。
それがこんなに衝撃だと言うことは、今まで本当に折原の好意に甘えていたと言うことと同義なのだろうけれど。
「なんなんだ、あいつは」
正しく置いて行かれた心境で吐き捨てたつもりの声は、頼りないように響いて。それが心境を如実に表しているようで。
溜息ごと感情を呑み込む。どうしたら良いか分からない、だなんて。ここに来てまた思い悩むことになるとは思わなかった。
机の前に落ち着くなり、そんなことを告げられて、なんだか不安になってきた。
「おまえ、それ、こんなとこに居て良いの、逆に」
「いや、そりゃ、居れるなら居たいに決まってるじゃないですか。メールした時点では、今日、寄れるかどうかの確証がなかったんです。だから、今日も、まぁ、居なければ居ないで諦めようかとは思っていたんですけど」
でも、会えたので良かったです、と。衒いなく口にした折原に、俺はふと首を傾げた。
「時間が空いたって分かったときに連絡くれたら、用事で出ていても時間はつくったのに」
仕事の後に、どこかに寄って、だとか。そう言うことは滅多にないけれど。どちらにしても、いつ帰ってくるのか言ってくれていれば、その期間くらい、よほどのことじゃなきゃ他のことは置いておける。
「あー……、いや、押しかけて来ておいて言うことじゃないとは思うんですけど。そこまで迷惑をかけるつもりはなかったんですよ」
「迷惑って」
「急に戻ってくることになったのも、俺側の都合なんで。先輩の日常にあまりお邪魔するつもりもなかったと言うか」
かえって気を使わせてすみません、と謝られてしまった。
「いや、別に、そう言うわけじゃ」
ない、と言うか、折原は会えるのなら会いたいと。俺もそう思っているとは考えないのだろうか。
――そう考えると、確かに今まで歓迎したことってなかったような。
思い至ったそれに、いやでもと内心で反論する。そのころと今では関係も違うはずだ。
「明日も仕事ですよね。遅くならないうちに帰りますから」
「泊まってかないのか」
まだ十時を過ぎたばかりだから、帰ろうと思えば帰れる時間ではあると思うけれど。
ごく自然と沸いた問いだったのだが、折原はひっそりと眉を下げた。
「だって、先輩、明日も朝から学校でしょ。さすがにそこまでは」
迷惑はかけませんと、そう言うことらしい。
迷惑。
「先輩」
「はい?」
「いや、おまえにとって、俺は『先輩』なんだろうなと思って」
どの口でそんな嫌味を言っているのかと。口にしてから気付いたが、出てしまったものは消えない。
「まぁ、そうですね」
少しも動じていない顔で、折原がさらりと微笑む。
「やっぱり、先輩は先輩ですし、そこは変わらないですよね」
「……そう」
「大事にしたいと思うのも、優しくしたいだとか、尊重したいだとか、そう思うのも、もちろん好きだからですけど、その根底には先輩って言うのはあるかなとは思うので」
先輩と言うものは、そんなにえらいものなのだろうか。あるいは、結局、折原にとっての俺との関係性はあの当時から変わっていないのか。それとも、地続きなだけなのか。
「いつまで?」
「いつまでって、まぁ、どうでしょうね。俺にとっての先輩は、先輩ですから。前にも言ったと思いますけど、たぶん、ずっと」
俺にとって、折原が、変わらず後輩であるように。
「折原」
「はい」
「そう言うのさ、止めない?」
「そう言うのって……」
「だから、そう言うの」
自分でこんな風に思うのもなんだが、その、すべての優先権が俺にある、と言うようなところ。
自分を無意識のうちに下に置いているような、――俺の所為なのかもしれないけれど、自分が好かれていなくても、特別に思われていなくても、当たり前と思っているようなところ。
――似合わないだろ。
そう思う。似合わないし、似合って良いはずもない。
「すぐにはあれかもしれないけど、変わるんだし」
先輩、後輩と言う関係を脱しようとしたのは、共通の認識のはずだった。相変わらずの、どこか困ったような顔で笑って、折原が首を傾げた。
「先輩からそう言うことを言われるとは思わなかったな」
「なんで?」
俺が、おまえのことをそこまで好きじゃないと思うから?
あるいは、俺が先のことを考えたりしないと思うから、か。
「いや、……その、なんだろう。気を悪くしないで欲しいんですけど。先輩は変化をあまり好まないタイプかなと思ってたので」
ずっと、一緒にいたいと最初に言ったのはおまえじゃなかったのか、とは言えなかった。
「そうかも、な」
「これも前にも言ったかも知れないですけど、もし先輩が冨原さんが言ったことを気にして、こう言うことを言ってくれてるのなら、本当に大丈夫ですよ」
にこ、と微笑んだ顔は、何の他意もなさそうに見えた。そして実際そうなのだろう。
「それだけじゃないけど、どうなんだろうな」
「あの人、なんだかんだ言っても先輩に甘いじゃないですか、それこそ昔からずっと」
それこそ確かに昔からずっと、折原は同じようなことを言っていた。
昔から、か。
「だから、そう言うことを言ってくれているだけだと思いますよ」
あのころから変わらず、保護者然とした態度でたしなめていると言いたいのを濁しているらしいことも分かった。でも、分からない。
三年前、あのころから変われていないのは俺だけだと思っていた。折原は昔の自分ではなく今の自分を見て欲しいと言った。脱却しなければならないと感じた。
いつまでも、あの日々のままでいられるわけがないのだから、と。
それなのに、ここにきて、折原は今のままで良いと言う。まるで変質を恐れているかのように、変わらなくて良いと言う。
最初、俺はそれが折原が俺に好かれている自信がないからなのかもしれないと考えていた。俺がそう言うことを言ったり示したりしなかったことに起因しているのではないだろうか、と。
けれど、そうではないのかもしれない、とふと思いついてしまった。
「そうかもな」
もう一度、同じ言葉で同意を示した俺に、折原はどこかほっとしたように破顔した。
「会いたいわけでもないですけど、富原さんには、明日、会いますから。俺から心配してもらわなくて大丈夫ですって言っておきます」
「いいよ、余計なこと言わなくて」
「俺が言いたいだけです。心配してもらわなくても、十分幸せなので大丈夫です、って」
軽口に言わなくていいと釘を刺して、溜息の代わりに小さく笑う。
折原が好きだったのは、あくまであの当時の俺であって、今の俺ではないのかもしれない。
どんな俺でも、と言うのは、そのことを、あるいは折原自身も認めたくなくて、言葉にしているだけなのかもしれない。
「あいつも出るの? 試合」
「十中八九そうだと思いますよ。個人的には富原さんの方が慣れてるので嬉しいですけどね」
富原がA代表に名前が挙がるようになったのはここ一年ほどの話だが、代表に定着していたゴールキーパーが怪我で長期離脱した背景もあり、最近はスタメンで出場する機会が増えている。
時間はそうやって、流れているはずなのに。
「そう言う話、聞かないんですか。富原さんから」
「あんまり聞かないし、あいつも言わないな。少し前……って言っても二ヵ月くらい前か、に深山に顔は出してくれてたけど」
「富原さんだったら、俺よりずっと上手く話してたでしょ、いろいろ」
実があるのかないのか分からない会話を交わしているあいだに、時間は経っていたらしい。本当に顔を見に寄らせてもらっただけなので、と笑顔のまま折原が暇を告げる。
「チケット貰おうと思えば貰えますけど。見に来ます? 試合」
「見に来て欲しいの?」
試すような言い方をしてしまったと思ったが、折原は変わらなかった。
「見てもらってると思うと嬉しいですけど。同じだけ緊張もしますね」
そんなことあるわけないだろうと思うことを折原はさも当然と口にする。いつものことだ。
「夜遅くなりますし、無理にとは言いませんから」
「……行く」
「ん? はい?」
「だから、行く。おまえが帰ってきてる短い時間くらい、どうとでも都合できる」
「先輩」
推し量るように見つめてくる瞳は困惑の色が強かった。
「あの、なにか……怒ってます?」
察するに、そう言った顔をしていたか、していなくとも何かしらが滲み出ていたか。小さく息を吐いて、切り替える。
「久しぶりに逢って、怒るもなにもないだろ」
「迷惑だったかな、とは」
そう思わせているのは俺かもしれない。と一応は考えていたはずの殊勝さが吹き飛んだ。
「折原」
なんだかそれこそ学生だったころ。後輩を叱責するかのような調子になってしまった。無性に腹が立ってきたのだ。
「おまえは、俺がおまえに遠慮して迷惑も受け入れてるとでも思ってるのか」
そんな良い人ではなかったはずだ。少なくとも、折原の前での俺は。
「そうは思わないですけど」
「けど?」
「なんだかんだと言って、先輩は義理堅いから。……その、俺に負い目を感じていると、どうかな、とは」
「負い目」
繰り返した平坦な声に、折原が困ったような顔で笑う。いつもの顔だ。いつもの。
――昔も、こんな笑い方だったか、こいつ。
いや、昔は、……本当に昔。学生だったころは、そうじゃなかった。少なくとも、中等部にいた当時は違った。高等部に在学していたころはどうだっただろうか、と思って愕然とした。
俺か。俺と、密に関わり合うようになってからか。
「負い目って言う表現があれだったら、罪悪感とかでも良いんですけど」
どっちも意味は一緒だろうとも言う気になれなかった。その沈黙をどう取ったのか、阿るように折原が続ける。
「いや、あの……責めているとか、そう言うわけではなくて。どちらかと言うと、それを踏まえた上で、あまり気を使わないで欲しいと言いたかったと言うか」
「折原」
顔を上げて呼びかける。昔は、こんな風に上向かなくても目は合った。もっと昔は、俺よりも低かった。
「たとえば俺が、おまえに逢いたいと思っていたと言ったとしても、おまえのなかでは気を使った発言になるわけか」
「そう言うわけでは……」
戸惑う、と言うよりかは、真意が分からないと言う声だった。俺の所為なのかもしれないとも思ったし、やっぱり腹が立つとも思ったし、触れたい、とも思った。
これも、罪悪感だとでも言うのだろうか、こいつは。
「逢いたかった」
「え……」
「普通に逢いたいとも思ったし、寂しいとも思った。それはおかしいのか」
伸ばしかけた指先が届く前に、折原が取った。拒むように。眉間に皺を寄せたまま、つい睨むように見上げてしまった。
「嬉しいです」
とってつけたような台詞に、皺が深くなる。やばいと思ったのか、宥める調子が強くなる。
「嬉しいんです、けど」
いっそ似非臭いまでの爽やかな笑顔が浮かぶ。
「こう言うのは、また今度にしましょう」
「また、今度」
「そう。また今度」
なんだ、また今度って。憮然としているうちにするりと手が離れていく。
「チケットは送りますから。だから、今日はもう寝てください」
「寝ろって」
「明日も朝は早いでしょう? 俺も早いので」
正論のようなことを一息に言いきった、「そうですよね」と言わんばかりの笑みに、気が付けば押し切られていた。
「ちゃんと鍵かけてチェーンもかけてくださいよ、そのくらいの習慣つけてくださいね」
なんだかよく分からない台詞に、結局のところ何が言いたかったんだ、あいつは、と。思えるようになったのは、ドアが閉まってからだった。
……なんだ、あいつは。
何が言いたかったのか、何がしたかったのかはいまひとつ分からない。分からないが、拒まれたらしいと言うことは分かった。
なんだ、あれは。
思えば今まで俺が折原の言動を遮ったことは多々あれど、逆は今まで一度もなかった。
それがこんなに衝撃だと言うことは、今まで本当に折原の好意に甘えていたと言うことと同義なのだろうけれど。
「なんなんだ、あいつは」
正しく置いて行かれた心境で吐き捨てたつもりの声は、頼りないように響いて。それが心境を如実に表しているようで。
溜息ごと感情を呑み込む。どうしたら良いか分からない、だなんて。ここに来てまた思い悩むことになるとは思わなかった。
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