夢の続きの話をしよう

木原あざみ

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第八話

50.

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「最近、作倉の面倒を見ているんだって?」

 私立は恵まれている、と思うのは、日が沈んでからでもグラウンドで練習が出来ると言うところかもしれない。八時を回って、グラウンドの整備と片付けに入った生徒たちを視界に収めたまま、曖昧に俺は頷いた。やる気はなさそうだが、生徒の一群からは離れたところに作倉の姿がある。

 ――時枝さまさまだな。最近は、部活に無理やり引っ張り出してるみたいだし。

「どう言う風の吹きまわしだ、一体」
「あいつの担任に泣きつかれたんですよ。留年させるわけにはいかないって。なんでせめて授業に出ろとケツ叩いてるだけです。部活の方は、時枝がかなり頑張って連れて来てるみたいですけどね」
「それも助かるが。次はあいつのガス抜きをしてやらないといかなくなるな」
「まぁ、大丈夫じゃないですか」

 作倉と違って、部内に友人もいる。部活態度も申し分ない。確かにストレスは溜まるだろうが、抜く相手はいくらでもいるだろう。

「なんだ。時枝もおまえが面倒見てくれるつもりだったのか」
「はい?」

 思わず声を裏返らせてしまった俺の反応に、監督は小さく肩を震わせている。

「冗談だ。これ以上、時間外労働を強制するわけにはいかんからな」
「……」
「おまえは時枝みたいなタイプは扱いが上手いんじゃないかと期待したのも事実だが」
「大丈夫です。作倉の学習面に関しては任せてもらっても。OBの善意ボランティアの学習支援だとでも思っておいてください」 

 どんなタイプの生徒だろうと、上手く扱えると思ったことはない。今も昔も。

「どうせ、寂しい独り身なんで。家に帰ったからってすることもないですしね」
「こっちの仕事ばかりさせとるからだなぁ。おまえならその気になれば彼女の一人や二人できるだろうに」
「二人もできたら問題でしょう」

 まるで親戚のような言い様だ。苦笑で流そうとした俺に、監督は案外と真面目な調子で続ける。

「親御さんも安心されるだろう。早々に孫の顔でも見せてやれば」
「気が早いですよ、監督。まだ俺の周りは全然ですし。それにウチは姉がもう一人産んでるんで。母は娘の子の方が気兼ねがないって嬉しそうに構ってますよ」

 あんたがもし結婚したとしても、産むのはあんたじゃないからねぇ、と。俺が結婚することもいつか子どもをつくることも。一切疑っていない顔で笑っていた。
 当たり前。目の前にあるべき普通。その道を俺は歩んできたつもりだ。

「そういうものかもしれんな。そうだ、佐野」
「はい」 
「聞いとるかもしれんが、折原が土曜に時間が空くらしくてな。約束通り覗きに来てくれると言っていたんだが。作倉はどうだ?」

 数日前のやりとりが脳裡を過って、ゆっくり首を振った。

「効果は期待できないかもしれませんね」

 おまけに、いつのまにか片付けの輪からその姿が消えていることに気が付いてしまった。
 ――またそんな小学生相手みたいな注意をしなきゃなんねぇのか、俺が。

「あんまり、良い印象がないようです。その、選手としてどうこうと言う以前に」

 濁して告げたそれは、けれど正確に伝わったらしい。「あぁ」と監督が僅かに眉を下げた。

「俺は、あいつは人間性も含めて一流の選手だと思うんだがな」

 俺もそう思います、と言う代わりに善処します、と請け負う。来なくても良いのにと思うのは果たしてどちらに対してだろう、と思いながら。


『佐野は飲み会どうする?』

 未読のままになっていた通知を確認して、俺はあぁ、そう言えばと天を仰いだ。すっかり忘れていた。いつの間にか出来上がっていた深山時代のメンバーのグループラインだ。と言っても、年に一度か二度、飲み会を開くときくらいしか活発に稼働してはいないのだが。

『悪い、忘れてた』

 盆の時期と年始年末。個々で連絡を取り合うことはあっても、全員で飲もうとなるのはそのくらいで。中途半端な時期に声がかかるとすれば、普段は近場に居ない人間が戻ってきたか、あるいは転勤などで離れるときか。
 ――今回は折原が戻ってきたから、なんだろうけど。

『新年度で仕事忙しくて。欠席します、ごめん』

 部活動を見て、雑務をこなして、そしてなんでだか分からないが寮にまで行って、やる気の更々ない作倉の勉強を見て。家に帰ってきたら十一時だ。忙しいのは、嘘じゃない。

「……ん?」

 グループラインではない方に届いたメッセージに無意識に小さな声が漏れた。珍しいとまでは言わないが、用事がなければ連絡はしてこないだろう、相手。

『仕事、大変なのか?』
『ちょっといろいろ立て込んでて』

 時間なんて作るものだと言われればそれまでで、行く気がないだけだろうと。非難されている気分になるのはなんでなのだろう。昔取ったなんとやら、と言うほど、富原に叱られてはいなかったはずなのに。
 と言うことは、俺が言い訳だと思っているんだろう。

『仕事もあるのは分かるが、たまには先輩らしいことをしてやれば良いだろう。折角、戻って来てるんだ』

 そうだな、と打つより先に続きが来た。

『おまえはもうすでに会っているとは思うが』
『俺もあいつがクラブに顔を出した時に会ったが。相変わらずみたいだな』

 その相変わらずは、俺にかかっているのだろうな、と分かった。溜息交じりにさっと文字を打つ。確認もしないでそのまま送信すると、すぐに既読マークが付いた。

『あいつも折角の飲み会の場で、俺の顔を見たくないだろ』

「うわ、……なんだよ。いきなり」

 急に手の内で着信を伝えて振動したスマートフォンを危うく取り落としそうになりながら、通話を取る。機械ごしの声は、至っていつも通りの調子だったけれど。

「いや、まどろっこしくなってきてな。おまえは今、家か?」
「家だけど」
「そうか。なら良い。佐野、おまえ、折原と会ったんだよな?」
「まぁ、会ったと言うか、顔を見たと言うか」

 たまたま俺が居る状態の深山に顔を出しにきただけだと言うか。ただの偶然のようなものだと言いつくろうのを咎めるように富原が続ける。

「話したんだよな」
「多少は、まぁ」
「それで一体、何をどうしたらさっきの話になるんだ」
「さっきのって」
「おまえの顔を見たくもないだろうと言う、あれだ」

 そう言えば、言われていたなぁ、と。詮無いことを思い出した。笑顔でにこやかで人当たりは良いけど、キャプテン怒ると怖いよな。あの笑顔のままでぐいぐい押してくるから。いっそ怒った顔をされるか怒鳴られた方がマシだよと。そんな風によく評されていた。

「いや、……」
「おまえがあいつに恨まれていると思うような言動をとったらしい事実はさておくとして」

 呆れきった溜息に、どこまで知られていたんだったかなと現実から逃げるように、そんなことを考える。付き合っているんじゃないのか、と問われた。昔も、今も、と。俺は答えなかった。
 逃げてやるなとも確かに言われた。あぁ、でも、そうだ。そして、結局、それに応えることも俺はしてはいない。

「おまえは、あいつがそんなことをわざわざ考えて戻ってくるような男だと思っているのか」

 そうではない。そうではなくて、ただ。――ただ。

「悪いことをしたなと、そう思ってるだけだ」 

 できることならば、テレビ越し以外でその顔を見たくはなかったとは思う、けれど。

「合わせる顔がないと思ったのも、事実ではあるか」

 抱いていた疑念を苦笑に変えて、なんでもない声を出す。

「それと、忙しいのも事実は事実。俺らの頃にはいなかったタイプの部員がいて、練習の後、今ちょっと寮で勉強も見てて」

 富原にだったら、普通を取り繕えるのに。気が付かれていたら意味はないかもしれないが、それでも、俺でいられる。あいつの前だとそれさえもできない。ぐだぐだに崩れていきそうになる。

「連日、家に戻ったらこの時間で。だから、飲み会はちょっと難しいかな。今のキャプテンもそいつに振り回されてて、あんまり放っとくのも可哀想だし」
「俺は学生時代、おまえにそんな面倒を看てもらった覚えはないんだが」
「そりゃ、おまえは俺がそんなことしなくてもいつも完璧だったろ」
「折原もおまえがいなくても問題なかったと思うが、おまえは何かと構っていただろう」
「じゃあ、それが間違いだったんだな」

 一息に言いきって、小さく笑う。あの日、言わせなかったからじゃない。あの日、手を伸ばしたからじゃない。きっと、出逢ったら俺は同じことを繰り返す。今、こうして繰り返しているように。
 だったら、初めから、何もなければ良かった。ずっとブラウン管を隔てていれば良かった。同じグラウンドに立たなければ良かった。――出逢わなければ、良かった。

「俺さぁ、もう一回、この年で深山の後輩に関わるようになるとは思わなかったけど。俺みたいなヤツがいたら、止めてやろうとは思うよ。取り返しの付かなくなる前に」

 あの瞬間だったらば、取り返しが付いたのかどうかは分からない。でも、もし俺が戻れたらそうする。つまり、そう言うことだ。

「ヤりたい盛りの若いうちに寮に詰め込むのは駄目だな。勘違いが加速する。それで、どうにもならなくなる。何の意味もないのにな」
「佐野」
「俺は一応、教師だから。建前上はなんとでも言うよ。LGBTだとか、……まぁ、所謂ところの性的少数者が、差別なく暮らせる世界が素晴らしいって。恥ずべきことでもなんでもないって」

 倫理的に言うならば、そうあるべきなのだろうとは思う。

「でも、実際はそうじゃないだろ」

 ある意味で、作倉の反応は、普通だ。それを表に出すかどうかと言うだけで。胃が痛くなるような沈黙の後、静かな富原の声が響いた。

「おまえは、あいつが恥ずかしいと。そう言いたいのか」
「違う。そうじゃない。そうじゃない、けど」
「……けど?」
「でも、些細なことでも、どんなものでも、ハードルも波風も立たない方が良いだろ。あいつなら上手く交わせるとか、なんとでもできるとか、そう言う次元じゃなくて。そんなことわざわざ口にしなければ、それでしなくて良い思いをするくらいなら」

 当てつけだったのだろうか、と思ったことは何度もある。俺だけの所為だとは己惚れてはいないけれど、でも、と。普通であるべきだと。それが正しいと。その方向に進んで欲しいと言ったのは俺で。
 俺の望む普通なんて求めてなどいないのだと、カメラの前で。
 だから、終わったのだと思った。本当に。あいつの中で切り捨てられたのだと思った。それで良かったのだと、安堵した。

「要らない苦労なんてして欲しくないし、笑っていて欲しい。明るい場所に居て欲しい。幸せであって欲しい」

 同時に感じた喪失感はなかったことにして。連絡も何も取らなかった。三年経って、テレビで一選手として映るあいつの顔をやっと平常心で見ることができるようになって。

「なぁ、富原」

 それなのに、またこうしてあの頃の感情に引きずられていく。それは、俺が結局、何も終わらせられなかったからなのだろうか。最後の最後になって、言葉にすることすら拒んだから。

「俺がそう思うのは、そんなに変か。間違っているか」

 そして。嫌いになればいい。忘れればいい。そう思っていたはずなのに、そして、……そうなったと思ったのに。俺はなんで自分の正当性を必死に主張しているのだろう。

「俺はそれが分からない」
「また分からないで通すつもりか」

 黙って俺の言い分に耳を傾けていた富原は、呆れを隠さない声で溜息を吐いた。 

「変わらないな、おまえは。高校生だったころからも、三年前からも」

 分からなくなった、と俺は三年前も富原に言った。突き放して終わりにすべきなのに、分からなくなった、と。そんな終わらせ方だけがすべてではないだろうと富原は諭すように言ったけれど、俺は選ばなかった。

「何年経っても、おまえがそこから、……過保護で独りよがりな母親じみた立ち位置から抜け出せないと言うなら、それはそれでいい。結局それが正しいと思うなら、おまえの中ではそうなんだろう。だったら、その代わり」
「……その代わり?」
「ちゃんと、あいつにもそれを分からせてやれ」

 優しいとすら思うような声で富原が続けた。突き放すように。

「それが、おまえの言うところの、おまえができる最後なんだろう?」
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