夢の続きの話をしよう

木原あざみ

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第五話

31.

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 富原と別れたのは、22時を過ぎたくらいの時間だったのに、繁華街から少し距離のある居住地に着いたのは、日付が変わるまであと1時間と言う頃合いだった。

 学生アパートの正面玄関をくぐって、そのまま階段を上がる。2階の突き当りが、大学に進学した当初から借りている部屋だった。
 薄暗い蛍光灯が照らす廊下の先に、人影が留まっているのが目についた。

「……折原?」

 俺の部屋の前だった。訝しげに問いかけると、俯いていた黒い頭がぱっと華やいだ。

「折原」

 なにしてるんだと思ったのが表情に出ていたのだろう、折原がばつが悪そうに眉を下げた。

「いや、居なかったらすぐ帰るつもりだったんです、ホント。10分ほど前に来たところだし」
「そこじゃねぇよ。――っつうか、おまえ、俺に電話とかメールとかしてくれてた? 俺が気付いてなかったか?」
「いや、それも違くて。ちょっと、先輩の顔見たくなったって言うか、それだけで」

 へらっと頬を緩ませた折原の姿を一瞥して、溜息を吐いてしまった。

「おまえ、今、何月だと思ってんだよ」
「え?」
「なんでもねぇよ。ほら」

 入らねぇの、と。鍵を開けた室内に誘う。それは当たり前の行為であるはずなのに、折原は確かに驚いた顔をした。それも一瞬で、すぐに笑ったのだけれど。

「飲み会だったんですか? 今日は」
「あー……、富原と吞んでた。折原、ちょっと待って」

 確かこの辺りに入れっぱなしにしていたはずだ、と備え付きの靴箱の小物入れを漁る。

「ほら」

 出てきた目当てのものを、ぽんと折原の手の上に落とす。触れた指先は想像していた通り冷たくて、ほらみろと思う。
 10分前、って嘘だろ。っつうか、こんなあほな理由で風邪でも引いたらどうするつもりなんだ、おまえは。

「鍵。要らないんなら、良いけど」

 無反応の折原に、そう付け加えると、折原が慌てて首を振った。

「ちが、要ります! 要りますからね、俺! ちょっとびっくりしすぎて、心臓止まりかけたって言うか、反応鈍っただけで……」
「そんな驚くようなことかよ」
「驚くようなことですよ。だって」

 合鍵ですよ、先輩の家の。折原がまるでお守りに触れるみたいに、何の飾りもない銀色の鍵の表面をそっとなぞる。
 嬉しそうな、幸せそうな、そのくせ信じられないみたいな色を隠し切れていない顔に、俺は「そう言う意味じゃない」と言い刺したかった言葉を飲み込んでしまった。

 といっても、じゃあどういう意味なのかと言われれば、応えられなくて。
 まぁ確かに、いつでも来てください、俺がいなくても。って言ってるようなもんだもんな。
 大学に入ってから彼女が居たこともあるが、一度も渡そうだなんて考えてもみなかったものだ。

「やる。おまえに」

 なんの最後通告だ、と自嘲しながらもそう言ってしまったのは、不安そうな顔をしないでほしかったからなのかもしれない。

 俺と折原のこんな関係が続く未来を、俺が信じていない癖に。折原にはそんなことで悩んでなんて、欲しくなかった。
 俺のそんな醜い感情なんてつゆ知らず、折原は「大事にしますね」と小さく笑った。


「富原さん、どうでしたか。相変わらずです?」
「おー、相変わらず、相変わらず。あいつ、あの年であれだけ説教くさかったら、将来どんな頑固おやじになるのか見物だな」

 リモコンを操作して、暖房を起動させる。ぶん、と鈍い機械音がして、生ぬるい空気が排出され始めた。手を伸ばして確かめていると、折原が「そんな寒いですか?」と首を傾げた。

「先輩、寒いの、どっちかって言うと好きって言ってませんでしたっけ」
「おまえは適温って言葉を知らねぇのか」
「それもそうですね」

 簡単に納得して、折原は笑う。本当にこいつは、自分が譲りたくない事象を除けば、我を張らない。
 そしてその譲れないことも、決して多くはないし、おそらく理不尽なことでもない。
 良い男なんだろう、と思う。例えば、女の子に自信を持って紹介できるような。良い父親になるぞと評せるような。

「上がらないのか?」

 靴も脱がないまま、玄関框に立っている折原を促すと、折原が曖昧に首を振った。

「ホントにちょっと先輩の顔見たかったから、ってだけだったんで」
「明日、朝早いのか?」

 だとしたら尚更、それだけの理由でこんなところまでこないだろう。相談したいことでもあったのだろうかと再度問いかけると、折原が困ったように眉を掻いた。

「何か用事があったってわけじゃなかったんです。ホント」
「……そうか」

 本当なのだろうかと思ったけれど、折原の真意は俺には読み切れなかった。たとえ、何か話したいことがあったのだとしても、話さないと言うのなら、それはやはり話せないと判じたからなのだろう。
 そう思うと、今までいい先輩をしていたわけでもないのに、寂しいように感じてしまって、そんな自分がおかしかった。

「先輩」

 はっきりと呼ばれた名前に、変な風に落ちかけていた思考が急速に浮上した。
 そして困惑した色の強い折原の瞳が見下ろしてきていた。

「折原、」
「気になるんだったら、俺のお願い、聞いてもらってもいいですか」

 切り結んだような緊張は、けれどすぐに折原自身の柔らかい声音でなかったものにされてしまう。
 駄目だなと、確かに思った。これじゃまるで、折原に甘えてるみたいだ。そうして逃げてるみたいだ。

「ちょっとだけ、甘えてみてもいいですか」

 逆だ、と思ったのと、腕を掴んで引き寄せられたのがほぼ同時だった。寒い、冬の冷気と混じって、懐かしい匂いが、した。
 振りほどこうと思えば、簡単に外せてしまうような抱擁だった。どうしていいか分からず力の入った背中に暖かい手が触れる。

 ――、駄目だ。
 頭の中で、なにかがそう判じた。離れようと、掌に力を込めかけた瞬間。折原の手が背から離れていった。
 そして少し距離ができて、顔がはっきりと見えるようになる。
 なにを言えばいいのか、悩むのはきっと俺だけなんだろう。折原は、いつもの顔で笑っただけで。

「すっげぇ、充電もらった気分です、俺」
「……馬鹿じゃねぇの」

 喉がやたら乾いているような気分だった。そして出てきた言葉は、型通りのものでしかなくて。これが精いっぱいだなんて、馬鹿は間違いなく俺だと思った。
 なのに折原は、

「俺、馬鹿になりたかったんです」
「は?」
「先輩が考えるいろいろなことを笑って吹っ飛ばせるような馬鹿になりたかったんです」

 馬鹿だ馬鹿だと折原に言っていたのは、他ならぬ俺自身だった。
 でも、それは――。

「まだ、なれてないみたいですけど」

 名残惜しそうにして離れていった指先から目が離せなかった。

「ねぇ、先輩」

 顔なんて、見れるわけがなかった。
 折原が、どんな顔をして、それを言うのか。見れるわけがない。

「俺、先輩のこと、好きですよ」

 それは、なんの駄目押しだと。笑って交わすことが出来る俺なら、きっとこんなことになっていなかった。
 俺は、――、いったい、なにがしたいんだろう。
 いったい、なにを馬鹿なことを夢見ているんだろう。
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