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第三話
18.
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ゴール裏じゃないから、座ってても大丈夫そうだねと青いユニフォームを身に纏った栞が笑う。
「でも絶対、栞は始まった瞬間、立ち上がると思うな」
同じように日本代表のユニフォームを身に付けた万智ちゃんが首を傾げた。俺もそれには同意する。
栞は感情移入が激しいタイプだ。場の乗り方が巧いとも言えるけれど。
「っつか、物の見事にみんなユニ着てんな。タオルマフラーくらい買っとくべきだった? 俺ら」
苦笑気味に漏らした庄司に、栞が大きく肯定する。
「佐野も庄司もやる気なさすぎだと思います。っていうか、マフラーくらい持ってないの?」
観客席をぐるりと見回しても、目に映るのは青ばかりだ。
「見に行く予定なかったもん。持ってねぇ」
「佐野は見に行く予定がたとえあったとしても、買わなさそう」
「だな」
ざわざわと開演前の興奮に空気が揺れている。振られた話に、そうかもなとだけ返事をして、遥か下方のフィールドに視線を落とした。
光に照らされた明るい芝は、俺たちが学生の頃、駆けずり回っていたものとは、当然だが全然違うのだろう。
「あ、佐野。佐野。スタメン発表出てる」
スマホの画面を叩いて栞が残念そうに唇を尖らせた。
「折原くん、ベンチからだ」
「そういや、この間もスーパーサブ的な出方してたねぇ」
万智ちゃんの言葉に、1ヶ月ほど前。このメンバーで街角で見たスクリーンを思い出した。
折しも折原のA代表のデビュー戦だった。その初出場の試合で決めた逆転弾。
ずっとずっと、見ないようにしていたのに、気が付いたときには立ち止まってしまっていた。
「どうだろ、後半くらいから出てきてくれるかなぁ、ねぇ佐野」
「流れによるだろ」
「そりゃそうかもしんないけどさー、佐野、冷たいー」
スマホのリロードボタンを押しながら不貞腐れて見せる栞に、何回押してもスタメンは変わらねぇだろと庄司がからかっている。
そのやりとりをなんとはなしに見ていると、ふと視界にあるものがとまった。
「それ……」
漏れでた声に、栞は嬉しそうにユニフォームの裾を引っ張る。
濃い青い色地だから気がついていなかった。裾に、黒インクで書かれていたものは見覚えのあるもので。
「いいでしょ、これ。折原くんにこの間練習見に行ったとき、サインしてもらったんだ」
「え、あたしそれ聞いてなかった! どれどれ?」
「言ってなかったけ。実は今日代表戦観戦できると思ってテンションあがっちゃってさ、せっかくだと思って折原くんの番号の買っちゃったんだよねー」
「あーそれで、栞、いつのまに新しいユニ買ったんだろって思ってたんだ。……へぇ折原くんのサインかわいいねぇ、ハートついてる」
「そうそう、かわいいよね。でもなんでなんだろね、なんかこんなの書かれたら、もしかしてあたしに気ぃある!? みたいな誤解しちゃいそうだよね、女子は」
楽しそうに交わされる二人の話に割り込むつもりなんてなかったのに、勝手に声が滑り落ちていて。
きょとんと眼を瞬かせた栞と万智ちゃんに、俺は繰り返した。
「藍っての。あいつの名前。恋愛とかの愛とは漢字違うけど」
「愛と藍をかけてるってこと? ハートに?」
名前だからか、どっちにしてもかわいいね、それ。
納得したらしい両名に、「ある意味正解だけれどある意味違う」そう訂正しようかとも思ったけれど、長くなりそうだったので、割愛した。
誤解のままでおいておくのは、少し折原に可哀そうな気もしたけれど。
「なんだかんだ言ってよく知ってんね、おまえ。雑誌チェックしたりしてんの?」
手持無沙汰だったらしい庄司に話しかけられて、「してねぇよ」と小さく笑った。
むしろ折原がどこに載ってるか分からなくて、それを見たくなくて。サッカー雑誌からもスポーツ紙からも俺は遠ざかってたよ、もうずっと。
わっと盛り上がった観客に釣られるように視線を上げると、スタジアムの電子画面にベンチ入りメンバーの写真が流れ出していた。
一人、一人、移り変わっていくそれは、今の日本のトップクラスの選手ばかりだ。
「――じゃなくて」
「え、なに?」
「あれ、昔、俺らが悪ノリして作ったやつなんだよ。あいつが未だに使ってんのにはビビったけど」
俺たちが中等部の寮を出るときのバカ騒ぎの一つだった。プロになったらサインも書けなきゃ駄目なんだよなぁと、幼い夢の話をしていた。
思い出さないでおこうと決めたつもりなのに、このままならなさが、少しおかしい。
「それにあいつ、あんまり自分の名前好きじゃないらしいし。さすがに自分でハートのサインはつくんねぇだろ」
「あー女みたいだからだろ、あるよなそう言うの。どうせおまえら先輩がからかってたんだろ。あいちゃーんって」
「俺は言ってねぇよ、たぶん」
「でも深山ってふつうにメンバー仲良かったんだな、あんなバリバリの強豪なのに」
それは体罰も、無駄と思えるほどに厳しい上下関係も、露骨な競争意識もなかったと、そういうことなのだろうか。そんなことはないと簡単に結論は出たけれど、曖昧に首を振るだけに留めた。
苦しかったし、理不尽なこともあった。けれど、思い出すのはいつも楽しかった、充実した記憶のかけらで。
それは、仲が良かったということになるんだろう。
栞にもう始まるよと袖を引かれてフィールドに視線を落とすと、ちょうど選手たちの入場が開始になるところだった。
「ね、佐野」
「なに?」
「楽しみでしょ」
歓声にかき消されないようにと、耳元で叫ばれたそれは、ひどく断定的なもので。
栞に視線を合わせると、予想していたかのように、にっこりと笑った。
「楽しみでしょ、折原くん見るの」
サッカーをしている折原を見るのは好きだった。あのころは純粋にすごいとも思っていたし、当たり前の感情として悔しいとも思っていた。
けれど深山を離れてからはずっと目にしていなかった。だから、楽しみなのかと言われると、実は俺も分かっていない。
「……だな」
でも、そう頷いた。半分は、そうであってほしいと願いたいような気持だった。
聞こえていたのかいないのかは分からなかったけれど、満足そうに栞がフィールドに向き直ったからたぶん届いていたんだろう。
今の俺を見てほしいと。あのとき折原が言った理由も俺は本当は、たぶん分かっている。気づいている。
富原がいい加減顔を出せと何度も言ってくれている、その理由も。
「でも絶対、栞は始まった瞬間、立ち上がると思うな」
同じように日本代表のユニフォームを身に付けた万智ちゃんが首を傾げた。俺もそれには同意する。
栞は感情移入が激しいタイプだ。場の乗り方が巧いとも言えるけれど。
「っつか、物の見事にみんなユニ着てんな。タオルマフラーくらい買っとくべきだった? 俺ら」
苦笑気味に漏らした庄司に、栞が大きく肯定する。
「佐野も庄司もやる気なさすぎだと思います。っていうか、マフラーくらい持ってないの?」
観客席をぐるりと見回しても、目に映るのは青ばかりだ。
「見に行く予定なかったもん。持ってねぇ」
「佐野は見に行く予定がたとえあったとしても、買わなさそう」
「だな」
ざわざわと開演前の興奮に空気が揺れている。振られた話に、そうかもなとだけ返事をして、遥か下方のフィールドに視線を落とした。
光に照らされた明るい芝は、俺たちが学生の頃、駆けずり回っていたものとは、当然だが全然違うのだろう。
「あ、佐野。佐野。スタメン発表出てる」
スマホの画面を叩いて栞が残念そうに唇を尖らせた。
「折原くん、ベンチからだ」
「そういや、この間もスーパーサブ的な出方してたねぇ」
万智ちゃんの言葉に、1ヶ月ほど前。このメンバーで街角で見たスクリーンを思い出した。
折しも折原のA代表のデビュー戦だった。その初出場の試合で決めた逆転弾。
ずっとずっと、見ないようにしていたのに、気が付いたときには立ち止まってしまっていた。
「どうだろ、後半くらいから出てきてくれるかなぁ、ねぇ佐野」
「流れによるだろ」
「そりゃそうかもしんないけどさー、佐野、冷たいー」
スマホのリロードボタンを押しながら不貞腐れて見せる栞に、何回押してもスタメンは変わらねぇだろと庄司がからかっている。
そのやりとりをなんとはなしに見ていると、ふと視界にあるものがとまった。
「それ……」
漏れでた声に、栞は嬉しそうにユニフォームの裾を引っ張る。
濃い青い色地だから気がついていなかった。裾に、黒インクで書かれていたものは見覚えのあるもので。
「いいでしょ、これ。折原くんにこの間練習見に行ったとき、サインしてもらったんだ」
「え、あたしそれ聞いてなかった! どれどれ?」
「言ってなかったけ。実は今日代表戦観戦できると思ってテンションあがっちゃってさ、せっかくだと思って折原くんの番号の買っちゃったんだよねー」
「あーそれで、栞、いつのまに新しいユニ買ったんだろって思ってたんだ。……へぇ折原くんのサインかわいいねぇ、ハートついてる」
「そうそう、かわいいよね。でもなんでなんだろね、なんかこんなの書かれたら、もしかしてあたしに気ぃある!? みたいな誤解しちゃいそうだよね、女子は」
楽しそうに交わされる二人の話に割り込むつもりなんてなかったのに、勝手に声が滑り落ちていて。
きょとんと眼を瞬かせた栞と万智ちゃんに、俺は繰り返した。
「藍っての。あいつの名前。恋愛とかの愛とは漢字違うけど」
「愛と藍をかけてるってこと? ハートに?」
名前だからか、どっちにしてもかわいいね、それ。
納得したらしい両名に、「ある意味正解だけれどある意味違う」そう訂正しようかとも思ったけれど、長くなりそうだったので、割愛した。
誤解のままでおいておくのは、少し折原に可哀そうな気もしたけれど。
「なんだかんだ言ってよく知ってんね、おまえ。雑誌チェックしたりしてんの?」
手持無沙汰だったらしい庄司に話しかけられて、「してねぇよ」と小さく笑った。
むしろ折原がどこに載ってるか分からなくて、それを見たくなくて。サッカー雑誌からもスポーツ紙からも俺は遠ざかってたよ、もうずっと。
わっと盛り上がった観客に釣られるように視線を上げると、スタジアムの電子画面にベンチ入りメンバーの写真が流れ出していた。
一人、一人、移り変わっていくそれは、今の日本のトップクラスの選手ばかりだ。
「――じゃなくて」
「え、なに?」
「あれ、昔、俺らが悪ノリして作ったやつなんだよ。あいつが未だに使ってんのにはビビったけど」
俺たちが中等部の寮を出るときのバカ騒ぎの一つだった。プロになったらサインも書けなきゃ駄目なんだよなぁと、幼い夢の話をしていた。
思い出さないでおこうと決めたつもりなのに、このままならなさが、少しおかしい。
「それにあいつ、あんまり自分の名前好きじゃないらしいし。さすがに自分でハートのサインはつくんねぇだろ」
「あー女みたいだからだろ、あるよなそう言うの。どうせおまえら先輩がからかってたんだろ。あいちゃーんって」
「俺は言ってねぇよ、たぶん」
「でも深山ってふつうにメンバー仲良かったんだな、あんなバリバリの強豪なのに」
それは体罰も、無駄と思えるほどに厳しい上下関係も、露骨な競争意識もなかったと、そういうことなのだろうか。そんなことはないと簡単に結論は出たけれど、曖昧に首を振るだけに留めた。
苦しかったし、理不尽なこともあった。けれど、思い出すのはいつも楽しかった、充実した記憶のかけらで。
それは、仲が良かったということになるんだろう。
栞にもう始まるよと袖を引かれてフィールドに視線を落とすと、ちょうど選手たちの入場が開始になるところだった。
「ね、佐野」
「なに?」
「楽しみでしょ」
歓声にかき消されないようにと、耳元で叫ばれたそれは、ひどく断定的なもので。
栞に視線を合わせると、予想していたかのように、にっこりと笑った。
「楽しみでしょ、折原くん見るの」
サッカーをしている折原を見るのは好きだった。あのころは純粋にすごいとも思っていたし、当たり前の感情として悔しいとも思っていた。
けれど深山を離れてからはずっと目にしていなかった。だから、楽しみなのかと言われると、実は俺も分かっていない。
「……だな」
でも、そう頷いた。半分は、そうであってほしいと願いたいような気持だった。
聞こえていたのかいないのかは分からなかったけれど、満足そうに栞がフィールドに向き直ったからたぶん届いていたんだろう。
今の俺を見てほしいと。あのとき折原が言った理由も俺は本当は、たぶん分かっている。気づいている。
富原がいい加減顔を出せと何度も言ってくれている、その理由も。
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