夢の続きの話をしよう

木原あざみ

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第三話

14.

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 寮の入り口で俺を降ろしてから、いつも折原は自転車を置き場所まで返しに行っていた。
 常の俺なら、折原が戻ってくるのを待たないで、さっさと寮内に入ってしまうのだが、今日は玄関に設置してある外灯の下で足を止めて待っていた。

 だからだろう、コンビニ袋を片手に戻ってきた折原が、眼を瞬かせた。けれどすぐに喜色に変えて、駆け寄ってくる足を速める。
 その姿に、これから言おうと思っていたことに、罪悪感を刺激される。
 けれど、言わないわけにもいかないだろう、と近づいてきた折原に、考えていた台詞を静かに吐き出した。


「おまえ、あんまり勘違いされそうなことばっか言うなよ」

 唐突な話の切り出し方だったにもかかわらず、折原はさらりと笑った。

「でも俺、別になにも嘘とか言ってないっすよ」

 自分は間違っていないのだと、ごり押ししてくるときのこいつは、なんというか性質が悪い。
 普段の折原の最優先は自惚れではなく俺だった。俺がしたいと言えば笑顔で頷くし、やりたくないと言えば結局俺の言い分を呑む。だがそれはあくまでも、折原にとって譲れる範囲のものでのことでしかない。
 折原は、自分が絶対退かないと決めていることとなると、てこでも動かないのだ。

 中等部にまだ十二歳だった折原が入学して以来、かれこれ四年の付き合いだ。折原の性格くらい、嫌でも分かるし、知っている。

「そう返すってことは俺が言いたいこと、分かってんだろ」
「なにがですか?」

 笑顔で重ねてくるのに、結局、折れたのは俺だった。「なんでもねぇよ」と無理やり濁して、避けるように足元に視線を落とした。
 夜になっても、この辺りはひどく蒸していた。寮の個室にはそれぞれクーラーが設置されているわけではなかったから、いつも夜は窓を開け放っている。練習で疲れ切ってしまっていれば、暑いと思いながらも、あっという間に眠りの世界に引きずり込まれてしまうのだけれど。

 それでも、酷暑が過ぎると寝苦しくなる夜もある。暑いと、何を考えていても思考がまとまらなくなってしまう時があるようにも思う。

 大方、その熱にやられたんだろう、木の棒に残っていた氷の塊が足元に落下してしまった。すぐに、蟻が集り始めていて、コンクリートの上に道が出来始めていた。
 あぁ、もったいねぇな、と思った。

 ――そう、もったいない。

 折原だったら、もっと、ずっと上に行けるのに。
 折原の内にある屈託が、いつかそれを妨げてしまいそうで、怖かった。

 外灯に引き寄せられた蛾が、電光に当たる音が小さく響く。喋っていたら聞こえないような雑音が耳につくのは、この言い表せない空気の重みの所為なのか。

 ふと、手の甲を伝う水滴が気になった。早く中に入って洗いたいと眉をしかめたまま、雫を舐め上げる。
 それは本当に、それだけで、何の他意もなかったのだけれど。


「……なに」

 問いかけたのは、視線を感じたように思ったからだった。あとは強いているなら、会話の切り口を掴んで、この空気を終わらせてしまいたい。だから、返ってきた言葉は、俺にとって完璧に予想外だった。

「や、なんか……」

 珍しく言い淀んだ折原に、ほんの少し興味が湧いた。
 それが俗にいう藪を突くというやつだったとは、後になって気が付いたのだけれど。「だからなに」と問い直した自分の声音が、問い詰めるみたいだと思わないでもなかったが、折原はそんなことで萎縮する性質じゃない。

 富原辺りには、佐野は言葉尻がきついと苦言を呈されたこともあったし、自分でも愛想が良い様ではないと自覚している。
 だから、俺は後輩に懐かれるタイプでは、元来ないのだ。それなのに折原だけが、いつからか気が付けば「先輩」「先輩」とまとわりつくようになっていた。

「なんつうか、先輩の舐め方エロいなって」

 視線を明後日の方向に泳がしながら応じた折原に、俺はたっぷり五秒は絶句した。
 そしてこの瞬間、藪を理解したのだった。聞かなきゃよかった。

 心境を察知したらしい折原が「すいません、ついうっかり」と言い訳にもなってないことを口にするのを後目に、面倒くさくなってきてそのまま背を向けた。
 そしてその際、視界に入ってきた白いビニール袋に、げっと顔が引きつった。
 すっかり忘れていたが、これはかなり中身がヤバいんじゃないだろうか。

「おまえ溜まってんなら、適当に処理しとけよな。そのうち猿にでも興奮できるようになるぞ」

 最後に投げつけたのは、冗談にしてしまいたかったからだ。そのすべてを。

 ――それなのに。

 玄関の引き戸を掴もうとした指先が、寸で止まった。

「おまえな、後ろから急に人の腕とるな」

 振り返った先で、一段低いところにいる折原を見下ろした。中等部を卒業する時はまだ俺の方が高かった。
 なのに、高等部で一年ぶりに再会した時、折原は生意気にもやたらとでかくなってしまっていて、身長も僅かにだが抜かされていた。
 生意気、と笑った俺に、「成長期ですから」と折原が満面の笑みで答えていた。俺も成長期なんだよと呆れながら、あぁでもこいつはもっとでかくなるんだろうなと、大きな掌を見ながら思ったのを覚えている。
 だから、こんな風に折原を見下ろすのは、ひどく久しぶりだった。

「しないっすよ」

 真剣な顔をしていたのを、僅かに崩して折原が笑った。でもそれは、なぜだか作り損ねた泣き笑いみたいな顔に見えた。
 折原が、そんな顔をするはずがないのに。

「先輩以外に、しない」

 俺の腕をつかんだまま、石段を上ってすぐ目の前に折原が立った。そして小さく自嘲する。

「たぶん、できないんだと思う。俺はもう先輩じゃないと」

 なにが、とは聞きたくなかった。
 聞けるわけもない。

 なにか言わないと駄目だ、この空気を変えないといけない。危険信号みたいに何かが俺に必死に伝えてきている。

 それなのに、何も言えなかった。俺は、ただ呑まれたように折原を見上げることしか出来なかった。

 ごめん、と。小さく折原が呟いたときには、もう後の祭りだった。

 ほんの一瞬、唇に掠めたように触れただけのそれは、でもやっぱり唇で。

 キスとは言えないような、触れただけのそれは、でも確かにキスだった。
 それは、俺が折原と触れ合ってしまった初めての記憶だった。
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